ロックが駆け抜けた時代
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第七章 ファンクの時代、そして終焉
1960年代、ゴスペルをルーツとして生まれたソウルは黒人と白人の融和を象徴する音楽であった。しかし60年代の終わりに差し掛かると人種対立は一層激化、ソウルの勢いは急速に衰えていった。替わってブラック・ミュージックの主流に躍り出たのはよりハードでリズムを強調した音楽、ファンクであった。 その中心人物として黒人社会のオピニオン・リーダーとなったのはジェームズ・ブラウンである。 ジョージア州の貧しい家庭に生まれ育ったジェームズ・ブラウン、その音楽的ルーツはやはりゴスペルにあったが、ほかの人々と違い彼はゴスペルの中にある熱狂的な要素だけを取りだし、独自の形に発展させていった。その音楽は黒人らしさを表わすファンキーという俗語からファンクと名付けられた。
ジェームズ・ブラウン 彼はビジネスの世界にも進出して、自らの出版社、レストラン・チェーン、さらにラジオ局まで所有したが、音楽的な影響力はさらに強烈であった。 1967年に発表された「コールド・スウェット」、彼はこの曲でそれまでメロディー楽器として使われていた管楽器をビートを刻むために使った。 彼のユニークな音楽性は複数のリズムが同時に演奏されるポリ・リズムにも表われていた。しかし、この完璧な音楽性を支えていたのはブラウンの強い独裁体制であった。 1969年の終わりごろにはバンドとブラウンの間の対立は深刻なものになっていた。メンバーは要求が通らなければ明日は演奏しないと宣言する事態にまで発展するが、この勝負はブラウンに軍配があがった。 彼はそれまでのバンドのメンバーを全員解雇して新しいメンバーを急遽呼び寄せたのである。 その中にブーツィー・コリンズというその後のファンク・ミュージックを支える若者がいた。コリンズのベースはバンドに新しいアイデアを持ち込み、それがブラウンの音楽を変えていった。
ブーツィー・コリンズ 新しいバンドは焦点をリズムに絞った。そしてそのリズムが観客に魔法をかけたのである。 強烈なリズムで70年代のブラック・ミュージックを決定づけたジェームズ・ブラウン。そんな彼の後を追うようにもう一人のファンク・スターがウエスト・コーストから現われることになる。 サンフランシスコは当時、サイケデリック・サウンドのメッカだった。DJの仕事をやっていたスライ・ストーンはサイケデリック・サウンドとリズム&ブルースを融合した新しい音楽を作り始めた。そして1968年に最初のヒット「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」を出すことに成功する。
スライ・ストーン 彼等のサウンドで特に注目を集めたのはベーシスト、ラリー・グラハムの斬新な演奏法であった。ある日、彼はベースの弦を叩いて跳ねるような音を出した。それが現在ファンク・ベース奏法の定番となっているチョッパー奏法の始まりである。
ラリー・グラハム スライ&ザ・ファミリーストーンは1968年から4年間に渡りヒット曲を連発した。特徴的だったのは彼等のレコードが黒人よりもむしろ白人の間でもてはやされたことである。しかしスライの自信に満ちた音楽は益々過酷になる現実の前に挫折を余儀なくされた。1971年に発表されたアルバム「暴動」はそれまでの彼からは考えられない暗く重いサウンドに溢れていた。このアルバムを頂点に彼の音楽は急速にその輝きを失っていくのである。 しかし混乱した時代の中からマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」、スティービー・ワンダーの「汚れた街」、カーティス・メイフィールドの「フレディーズ・デッド」など、新たなメッセージを持った音楽が次々と生み出されていった。 荒廃を続けるアメリカ社会、ジェームズ・ブラウンはそれに見切りをつけるかのように社会批判の歌をやめ、リズムだけを一層強調するようになった。 1971年になるとベーシストのブーツィー・コリンズは自分のバンドで音楽活動をするためにブラウンのバンドを去る。しかし失敗し、途方に暮れていた彼のもとにファンカデリックというバンドから誘いがかかった。 ファンカデリックはジョージ・クリントンに率いられたファンク・バンドで、もう一つのバンド、パーラメントと合わせてPファンクと総称される。その破天荒で演劇的なステージは黒人の若者に大いに人気があった。
ジョージ・クリントン ジョージ・クリントンは50年代半ばにコーラス・グループを結成しモータウンにも在籍したが、この頃はまったく泣かず飛ばずの状態であった。やがてクリントンは思わぬところからインスピレーションを受けることになる。 大音量で演奏する白人のストリート・バンドを見て、他の黒人グループとの差別化を計るために大音量アンプをステージに持ち込んだ。アンプの次は衣装をバスローブに変えてみた。こうしてステージは注目を集めるようになった。 コリンズが加わったことでアイデア先行気味だったPファンクにより強力なリズムが生まれた。コリンズはジェームズ・ブラウンのリズムをメンバーに伝え、彼等はそのファンキーなリズムを消化していった。しかし、音楽も衣装もユニークすぎてアングラ好きの連中には受けたが、一般の人々には理解されなかった。 70年代の半ばになるとファンクは完全にブラック・ミュージックの中心に位置するようになった。そしてクール&ザ・ギャング、アース・ウィンド&ファイアー、オハイオ・プレイヤーズなど数多くのバンドが生まれファンクの基本に様々な要素を加えていったのである。
クール&ザ・ギャング しかし全てが順調だったわけではない。ここでもやはり人種対立があり、ブラック・ミュージックへの反感は強まっていった。白人のラジオ局を狙ってポップな曲を歌うバンドもあったが、扉はなかなか開かれなかった。ラジオ局はますます保守的になってファンクは多くの人の耳には届かなかった。 やがてCBSレコードはダンス音楽の市場を開拓するためにメジャーのレコード会社としては初めて黒人のプロデューサーを起用した。二人組のプロデューサー、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフはフィラデルフィアの町から数々のヒット曲を送り出すことになる。のちにフィリー・ソウルを呼ばれる音楽である。 彼等の音楽の特徴は調和のとれたメロディーとオーケストラを使った華麗なアレンジにあった。 そしてオージェイズやハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツなど、ギャンブル&ハフの作る音楽はディスコ・ブームと結び付いて大きな成功を納めることになる。
オージェイズ ニューヨークのゲイ・クラブから始まったディスコ。最初のうちはマイナーな音楽として軽視されていたが、レコードの売り上げは急速に伸び始め、ドナ・サマーなどいくつかのヒットも生まれるようになった。
ドナ・サマー そして1977年、ディスコを一躍ポップ・ミュージックの主流に押し上げる出来事が起こった。ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットである。 週末のディスコを唯一の楽しみとする若者を描いたこの映画は当時のポップ・カルチャーに決定的な影響を与えた。ビー・ジーズのテーマ曲は売れに売れ、2枚組のサウンドトラック盤もレコード史上最高の売り上げを記録した。 ![]()
この時期、ポップス界はディスコ一色で、ロッド・スチュワートなど古いタイプのロック・スターまでもがディスコ・ビートを取り入れるようになった。 ディスコの嵐が吹き荒れる中、Pファンクはその音楽性を崩すことなく、よりスケール・アップしたステージを見せるようになる。 1970年代の終わりに近づくとPファンクのステージはそのスケールの頂点を極め、時には一つのステージに50人のメンバーが立つことさえあった。 しかし太古の恐竜がそうであったようにあまりにも巨大化しすぎたPファンクは自らの重みで自滅の道を歩み始めた。時代の振り子はもっとシンプルなものを求める方向に動いていたのである。
そして終焉 1970年代後半、形骸化したロックにセックス・ピストルズなどのシンプルで攻撃的なパンクが鋭い警鐘を打ち鳴らした。 しかし1980年代に入るとパンクの影響力は急速に弱まっていった。その一方で保守的なロックは益々巨大な産業へと成長していき、スタジアムに何万人もの人を集めて行われるコンサートのその主役はほとんどの場合白人のロック・スターであった。 巨大産業として確立したロックはそれと引き替えに人々の心をリアルに反映する力を失っていくことになったのである。
50年代、商業音楽として誕生したロック・ミュージックは、60年代、ブルースと接近して巨大なエネルギーを持つ。70年代、革新的で芸術的な音楽にまで進化を遂げた後、80年代、再び商業音楽に吸収されていった。 60年代後半から70年代前半のロックは時代の流れの中で、いくつもの偶然が重なり合って生まれた、もう二度と体験することのできない奇跡の賜物だったのかもしれない。 まさに「兵(つわもの)どもが夢の跡」である。
第七章 終わり
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