国の名勝指定・衆楽園
日本庭園の沿革と衆楽園衆楽園表門と観光案内板

元来、庭園の文化は飛鳥奈良時代中国入って来たが、元々自然の景色を愛する 心情の強い民族なので、自然の景色を取り入れた観賞本位の(視覚)庭が造られ特に「平安時代」には大陸の文化の影響が薄らぎ優艶華麗な美的理念に重きをおいた純日本的庭園造りへと移行した。(北陸の藤原氏による毛越寺等その名残)
「鎌倉時代」には、地形を複雑にし、誇張的となり平安時代の優艶華麗な傾向に反動して特に禅宗に影響を受け“しおれの美”“老の美”“無の美”があもんぜられるようになり、淡々とした枯れた味をもつ石を作庭材料として使用されるようになった
津山衆楽LCが寄贈した門柱「桃山・江戸時代初期」には、回遊式庭園や茶庭の趣をもった大和的絵巻物式の展開を目指した庭が多くなった。衆楽園も正にその一つの例である。

衆楽園(旧津山藩別邸庭園)


1.現況の概略
庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占める。別邸跡の古い建物郡は残存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒・清涼軒)が建つ。
池は中島と中島に掛かる橋によって、大まかに三つの水面に分かれる。北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出し、余芳閣の2階からは、このような奥行き
のある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができる。桜満開の衆楽園
これに対して、中央から南の池は、池を巡る道づたいに広々とした水面の風景を楽しめる。 推定面積:28,663u

2.歴史的経緯
衆楽園は、江戸時代初期(明暦年間に森長継藩主によって築造された回遊式の大名庭園。元禄11年(1698)に松平氏が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」と命名された。

1.建設者 二代 森 長継(忠政外孫)
2.施工者 小堀遠州の弟子(遠州は1600年頃の大名で幕府の庭師、茶もよくした京都に墓あり)
3.様式 仙洞御所を模して作庭され、大池泉回遊式
4.作庭時期 明暦3年(1657)八百屋お七出火の時
5.規模 現在の3倍の約24,000坪・後楽園は衆楽園より約50年後、兼六園は70年後であり、偕楽園は186年後の作庭である。裏石高は25万4千5百石の実力と長継公の文化性先見性を窺うことができる。
6.目的 隠居所・御対面所
7.見所 枝垂れ桜、睡蓮、錦鯉、表門、裏門、余芳閣、風月軒、清涼軒、衆楽茶屋、ことじ灯篭、山口誓子碑、曲水














 ☆江戸末期までは北に渓流や滝があり、西には能楽堂、隠居所、矢場、馬場、があった。当時中国山脈を借景   としており大変見応えあったものと思われる。


3.衆楽園関係略年表(抜粋)
:慶長 8年(1603) 森忠政が信濃川中島から美作18万6500石で入封。翌年、鶴山城築城を開始する。
明暦 3年(1657) 森長継が「御対面所」を築造(現在の迎賓館・余名閣など)
元禄10年(1697) 森長成の死去後、衆利が跡を継ぐが、森氏断絶・改易。
元禄11年(1698) j松平宣富(長矩)が津山城及び作州のうち10万石を得る。
元禄15年(1702) 長矩が御対面所で家臣を謁見。以後同様の謁見記事あり。
宝永 1年(1704) 能を上演する。
享保19年(1734) 大修理を行う。
寛保 3年(1743) 堀の普請。
天保 3年(1832) 西御所が完成、松平済孝が隠居後居住。
天保 7年(1836) 籾山村民50人盆踊り上覧する。
文久 3年(1863) 西御所の修復、隠居した松平済民が明治3年迄居住。年1度の芝居興行を一般公開する。
明治 2年(1869) 藩籍奉還。これより衆楽園は松平家から松平慶倫が藩知事を務め津山藩に引き渡される。
明治 3年(1870) 庭園を衆楽園と名付ける。風月軒と睡蓮睡蓮と毛繕いの鴨睡蓮
明治 3年(1870) 3月2日、曲水の宴(衆楽雅藻)が催される。
明治 4年(1871) 廃藩置県により津山県が設置されるが、同年中に北条県となる。
明治 5年(1872) 松平家から北条県に衆楽園を引き渡す。
明治 6年(1873) 北条県により偕楽園と改称する。
明治 9年(1876) 北条県から岡山県に移管する。
明治15年(1882) 偕楽園を廃園する。
明治17年(1884) 各種の修復を実施して、津山公園として開園する。
明治30年(1897) 迎賓館を建設。
大正14年(1925) 岡山県から津山町に移管、衆楽園と改称迎賓館・余芳閣余芳閣と桜
昭和31年(1956) 7月4日津山市指定文化財
昭和45年(1970) 既存の迎賓館を撤去し、対鶴楼の二階部分を移築。
昭和51年(1976) 余芳閣解体改築。
平成 3年(1991) 余芳閣屋根葺き替え。
平成 9年(1997) 茶屋、便所(家事焼失)新築する。
平成12年(2000) 風月軒改修する。
平成13年(2001) :迎賓館屋根葺き替えをする。
平成14年(2002) 岡山県北部(旧美作国)を代表する大名庭園として芸術上、観賞上の価値が極めて高く、江戸時代の天保2年(1831)に描かれた絵図(津山郷土博物館蔵)の様子がほぼそのまま現在に伝えられており、庭園史における学術上も価値が高い。
平成14年6月21日、国の文化審議会は
「衆楽園」を国の名勝指定にするよう文部科学大臣に答申した。県内では12カ所目の名勝指定、大名庭園としては特別名勝でもある「後楽園」に次いで2番目である。

平成161020日の台風23号災害で東北部区域の樹木約50本が根から倒れたり、幹が折れたりして景観を損ねていました。津山市が文化庁の現状変更承認を得て、植樹の準備を進めていることを知り、アカマツ、イロハモミジ、ツツジ、シラカシ、ヤブツバキ、ナツツバキ、ローバイ、739本を20周年記念事業の一環として寄贈いたしました。同じく台風被害にあった開園時間案内板の茅葺き屋根を葺き替えをして、1012日寄贈いたしました。名勝にふさわしい庭園の復活と、 ここを訪れる市民や観光客へ観賞と憩いの場に供することができました。津山衆楽ライオンズクラブは1987年結成以来、国の名勝・衆楽園の施設充実や環境整備に努めています

また当クラブは年1回早朝例会に併せて、園内の清掃奉仕作業を実施しています。

08.10.30-衆楽園観光案内板茅葺屋葺き替えして津山市へ寄贈

衆楽園北東部(台風による倒木)植樹(アカマツ・ロウバイ他39本)を津山衆楽ライオンズクラブが行った 報告アルバム

08.10.23-衆楽観光案内板茅葺屋根葺き替え工事

国の名勝・名園「衆楽園」の四季PHOTO

国の名勝指定・衆楽園と津山衆楽ライオンズクラブ奉仕活動のアルバム
森氏二代藩主・長継公が京都から作庭師を招いて、仙洞御所を模して造営された。中国山地を借景とし、南北に長い池に、四つの島を配した近世池泉廻遊式の大名庭園で、同じ様式の後楽園よりも古く、国の名勝に指定されている。池を生みに見立てて灯篭や石組みを少なくし、できるだけ自然にさりげなく見せている。島の形といい、松の枝ぶりといい、いかにも京風の洗練された優美さを感じさせる。

国指定名勝・衆楽園の観光案内板茅葺屋根の葺き替えし津山市に寄贈
  (贈呈式:平成20年10月30日)


国の指定名勝[衆楽園]は当クラブの名称発祥地で環境整備・美化に協力できればと1987年の設立以来、太陽エネルギー灯、自然石水飲み場・手洗い場、灯籠型照明灯、観光案内板、木製ベンチ、徽軫(ことじ)灯籠、木製分別ごみ箱、スチール製清掃用具物置、表門(門柱・門扉・潜り戸)、裏門(数寄屋門・両袖付)と開園案内板茅葺き屋根、20周年記念事業として風倒木区域への植樹など数々のアクティビティを実施してきた。  
 今年度は、1991年に寄贈した「観光案内板の茅葺屋根」の老朽化が進んでいるため、葺き替えして津山市に寄贈した。 
観光案内板の前で行われた贈呈式には、クラブメンバーや津山市職員 20人が出席。忠政会長が「今後も衆楽園を訪れる市民と観光客の観賞と憩いの場にして行きたい」と挨拶。桑山市長は「市民の心を支える名所を整備して頂いて大変嬉しい。多くの観光客に訪れてもらいたい」と謝辞を述べ、出席者が除幕式を行った。

ことじ燈篭と枝垂れ桜