1999年12月分の感想へ
2000年1月分の感想へ


301
12/23
『生命の宝庫・熱帯雨林』井上民二
NHKライブラリー
☆☆☆

井上民二氏は1998年に飛行機事故で亡くなった生態学者で、氏への自費出版追悼文集を読む機会がたまたまあり、著書を読んでみようという気になった(「NHK人間大学」用原稿である)。
まず、巻頭に取材班や氏自らが撮った(追悼文集によると氏は写真の名手でもあるらしい)熱帯雨林や虫・植物の写真が何枚もあり、熱帯のイメージを教えてくれる。熱帯といっても、日本の山奥くらいのイメージしかなかったが、とんでもない。高さ70メートルの木が立ち並ぶ圧倒的スケールの存在だというところがまずショックだ。そこでは温帯と比べて強い日光のため、最上部だけでなく、林床までもまんべんなく植物が葉を茂らせている。そこでは温帯の数倍の種類の昆虫・植物が生息する。井上氏はこの生物多様性こそが熱帯雨林を保護する理由だと述べる。ここでは氷河期による生物の全滅ということもなく、数億年前そのままの生物がまだ残っているのだ。井上氏の言によれば、

生命が陸上にあがって展開した生命の歴史としての価値

ということである。また、そのための方法として、単なる感情論でなく

熱帯林を急激に減少させているのは人間の経済行為であるので、これに対処するためには具体的な社会政策として実行しないかぎり机上の空論で終わってしまう。

と現実の資本主義社会を踏まえた思考をしているのは鋭いといえよう。
また、生物多様性ではイチジクが花に(花弁は内巻きで、外見は果実と区別がつかない!)ただ一種のアリのみが通れる穴を開け、それに加えて外側には蜜を出す(花以外のところからも蜜を出す植物はいくつもあるらしい)ことでアリを護衛兵として飼っているのだ。それらを始めとする多様性は、まさに「生命の宝庫」である。
花粉を虫たちに運ばせるシステムを「空の宅急便」と表現するネーミングセンスもなかなか。








302
12/23
『逆境ナイン(2)』島本和彦
徳間書店
☆☆☆

不屈が赤点による出場停止を免れたと思ったら、他のメンバー6人が赤点で出場停止。急遽「七人の侍」ばりにメンバーを集めることになる。そして不屈には女難(?)が。女を振り切って宿敵・日の出商業との対決を向かえる。
部員集めでは王、長嶋を始めとする冗談のようなキャラが連続して登場し、笑える。なかでも猫と犬とライダー(フルフェイスヘルメット顔!)の校内レースが最高。無意味に燃える。









303
12/23
『マンガ夜話vol.6』
キネマ旬報社
☆☆

NHK「BSマンガ夜話」を単行本化したものテーマはそれぞれ『SLUM DANK』『幽★遊★白書』『北斗の拳』である。いずれもジャンプ黄金期の長期連載マンガ。それぞれの絵の変遷とそれに関係する作者の心理や画力に触れた部分はなかなか面白い。なかでもマンガ評論家として今では名の通った夏目房之介氏の「夏目の目」のコーナーはさらに突っ込んだ分析/批評であり、これだけでも充分この本を買った価値はあるといってもいいかもしれない。
他はTVなのでバカ話の比重がかなりあり、この辺りは編集してもらってもよかった。だが、本書の編集者は基本的にバカ話も含めた内容をそのままVTRを起こす変わりに大量の注釈を加えることによって本として成立させることを選んだ。そのバカ丁寧さから、NHK出版かと思ったのに、どうしてキネ旬なんだ?







304
12/23
『西田哲学を学ぶ人のために』大峯顕編
世界思想社
☆☆

哲学というとギリシアやヨーロッパの人で、東洋の哲学者というと釈尊や孔子、老子のような昔の人しか思い浮かばないのは、高校までに習わないからだろうが、日本の三哲というのは三木清、倉田百三そしてこの西田幾太郎である。その一人の哲学を学ぼうと比較的安くて(1950円)概略が分かるもの、ということで読んだのだが、入門書というよりも、西田哲学に関する論文集で、もうひとつ分からなかった。
キーワードとして「絶対弁証法」「絶対矛盾的自己同一」そして、西田自身キリスト教や仏教に造詣が深いものの、特定の宗教に偏らず、それでいて宗教を哲学的に語ろうとした、というのは分かった。もっとも神という概念は哲学上の大きなネックでもあり、その取り組み自体はデカルトの時代から行われてきてはいるが、西田は自身がキリスト教につかってしまっているという西洋哲学者とは異なる東洋人の視点を活かして、一歩引いたところから思索を進めたというところが大きなポイントである。
ただ、やはり背骨となる思想が掴みきれないので、「盲人、象をなでる」に陥ってしまうような感じがする。この、西洋哲学者の入門書はいくつもあるのに、日本の三哲と言われる人の入門書が(気付かなかっただけかもしれないが)ない、ということ自体が自分の国を卑下してしまっている現状を表しているのだはないだろうか。







305
12/24
『逆境ナイン(3)』島本和彦
徳間書店
☆☆☆☆

全力学園対日の出商業の試合は、前代未聞の109点差で、ピッチャー返しを喰らった不屈が9回に目覚める。不屈はその絶体絶命の危機で男球(おとこだま)を編み出し、そして「やる気パルス」を燃やして怒涛の反撃が始まる。さらに草野球では使うものの、「透明ランナー」というのが本当にあった(本当にあるのか?)というのも驚きだが、それで50点差を逆転してしまう、ラストに増長する不屈というおまけはあるものの、最高に燃える巻である。これでラストにしてもいいくらい。
全編これ迫力に充満して燃えまくっているが、中でも白眉は不屈のやる気パルスの共振によって燃えた新屋敷がホームランを打つフルスイングは、その見開きに顔のアップに流線だけだが、その震撼するほどの勢い、はもう真似できないだろう。これを筆頭に、見開きにアップにここまで勢いと迫力を込めることができるのは島本和彦くらいである。熱血マンガ、野球マンガファンは絶対見るべし、という一冊!







306
12/25
『逆境ナイン(4)』島本和彦
徳間書店
☆☆☆

日の出商業に勝って増長していた不屈だが、次回には復活、シュート、フォークの男球を使い全国大会を勝ち進む。決勝で当たるのは全員不屈の精神を持ち、もと全力学園監督のサカキバラが率いる強力学園。全力ナインは最大のピンチを逆境と捉え、燃える。彼らもまた不屈のやる気パルスによって(そこまでは本編では描かれていないが)不屈の精神を得ていたのだった。
しかし、不屈は試合に向かう途中で交通事故に遭い、記憶を失ってしまう。それでも男の魂は失っておらず、ベンチから指揮をとる。最後ピッチャーとして試合に加わり、試合は終わる。最後の男球は『ガンダム逆襲のシャア』ばりに地球各地の映像がインサートされるスケールとなる(半分はギャグだろう)。
ピッチャーに立つ前に校長に言い放つ言葉が、この作品のテーマを貫かせるいい構成だ。

「おれが本気で走り出せない時…」
「走り出したが壁にぶつかり迷い、悩み、本気を出せなくなった時」
「逆境ってやつがいつも現れて本気パワーを出させてくれたような気がする…」
「だが…」
「おれは今」
「本気だ!」
「燃えたぎるほどに!!」
「どうしていいかわからんほどに本気だ!」
「逆境の力をかりるまでもないっ!」








307
12/25
『相対論対量子論』メンデル・サックス著/原田稔訳
講談社ブルーバックス
☆☆

3人の科学者が相対論と量子論、そして中道の立場から議論をする対話形式。その形式自体はガリレオの『新科学対話』からあるもので、それほど目新しいものではない(そうだ)。本書では学内で毎週一回会って話をする、という設定になっているが、その蛇足とも思える小説的部分が『ソフィーの世界』のような効果を狙っていると思えるのだが、そうはなっていない。『ソフィー』がどれだけうまく書かれていたかの反証ともいえるかもしれない。個人的にジャッキーとモーとマニーという名前は3人とも「ー」で終わるし、それぞれの名前と立場が分かりにくかった。はっきり分かる覚えやすい名前にすればよかったのに、と思う。
内容も物理の基本的知識などについてはあまり説明されないので、素人には難しい。補注も専門的な内容で、ある程度以上の知識が要求される。それでも科学哲学的な内容ではいくつか共感する内容があった。

表面に顔を出さない系の秩序を私たちが気づくか否かに関係なく、この秩序は厳然として存在しているのよ。
  別な例として、新しい1組のトランプを切る問題があるわ。札を切る前は、トランプは番号順にきちんと並び、続いてジャック、クイーン、キングとなり、さらにはスペード、ハート、ダイヤ、クラブと組札が揃っているでしょう。これを切ると、カードはすべてでたらめな順番に並ぶことになるわ。札の切り方がうまければ、最高度の無秩序さを作り出すことができるかもしれない。でも、この無秩序さの基準はあいまいな性質のもので、よくわからないものよ。つまり、主観的な無秩序さなの。というのは、札を切るときの初期条件とカードに加えられる力関係がわかっていれば、切った後のカードの一枚一枚が何番目に位置しているのかを確実に知ることができるはずだからよ。

いったい科学とは何だろうか。自然に対するもっとましな記述方法を探ることなのか。それとも自然を説明することなのか。(中略)宇宙の現象の背後に潜む奥深い謎を探るのが科学者の仕事だと考える(中略)けど、(中略)これは幻想にすぎないのだろうか。








308
12/29
『厨子家の悪霊』山田風太郎
ハルキ文庫
☆☆☆☆

『厨子家の悪霊』☆☆☆☆☆『殺人喜劇MW』☆☆☆『旅の獅子舞』☆☆『天誅』☆『眼中の悪魔』☆☆☆☆『虚像淫楽』☆☆☆☆☆『使者の呼び声』☆☆☆☆☆を収録した山風の傑作ミステリ短編集。再読。

『厨子家の悪霊』旧家にまつわる因縁や呪いなどという設定は横溝正史や初期の高木彬光と似た設定ではあるが、そんなありがちな設定にとらわれず、解題で日下氏が書いているように、あくまでもストーリー自体でミステリの醍醐味を存分に味合わせるという、その意味ではミステリの本道を行く作品。
山風ミステリには書かせないアイテムである手紙が出てくるが、そんな程度の構造は本作では序の口。作品全体のトリックを形成するために数々の山風ミステリに登場するトリックの要素が詰まっているといってもいいくらいの内容になっている。ここまで犯人探しという意味で多面的な視点に耐えうる設定・構造を作り出すのは才人・山田風太郎にしかできないだろう。

 もし、この手記が探偵小説であって、これを記する余がその作者であるならば、余がいかに筆を極めて力説しても、読者は弘吉を真犯人であるまいと考えられたに相違ない。何となれば、探偵小説において、第一の容疑者は九部九厘まで決して犯人ではないからである。数々のもっともらしい証拠を、その物語の残りの頁の厚みが、全能神のごとくに粉砕する。
 (風太郎曰く、誰か、環に紙を綴じた、探偵小説用の円い書物を発明する人はありませんか?)
 この事件においても、その期待を裏切ることなく、雪原の大地に凄惨な血を以て描かれた犯罪の設計図を、まさに、見事に轟警部補はひっくり返した。

ここまで前代未聞なミステリを作っておいて、なおかつこのような諧謔を入れる余裕があるというのが凄い。また、この記述こそが本作品のテーマ、読者に対する挑戦状となっているのだ。

『殺人喜劇MW』ある評論家戸倉氏夫婦が殺されるに至る過程を描いたもの。風太郎的ニヒリズムとパラレルな描写が楽しめる。殺人者を誘惑する場面が男と女でそれぞれ描かれるが、両者はほぼ同一のコンテクスト。これは山風が度々使う手法で西洋の物語(たとえば「ブレーメンの音楽隊」でメンバーを集めるところ)でも出てくるものである。それを、男に対しては女が、女には男が当たるという図式に、さらに男が女言葉を使い、女が男言葉で喋るというちょっと頭がこんがらがるような遊びが仕掛けられている。ミステリというよりブラックユーモア小説といえる。

『旅の獅子舞』兵庫県の山中で起こる旅芸人の一座で起こる殺人事件。目の前で自殺した筈の男がじつは殺されていた、というところから始まる。殺人のトリックも山風らしいとえいる。短短編。その郷土色ある舞台は横溝正史というより古き日本映画的な郷愁。

『天誅』象皮病のじいさんの大睾丸というインパクトだけでこのショート・ショートは勝ち、という感じもする(まともな小説家でこんな設定を考えつく人がいるだろうか!)。トリックなどはあまりに短すぎる(14ページ)こともあって状況説明が不充分で、意外さがあまり伝わる暇もなく終わってしまうのが残念。

『眼中の悪魔』ごく初期の小説の1つ。手紙、遠隔操作、人間心理、という山風独自の要素が既に固まっていたことが見て取れる。
主人公橘の手紙と殺された片倉氏の手記によって語られる事件は、疑い、悩み、悶え、暗く複雑な人間心理をえぐり出し、そして最後には不明な部分がありつつも、収束する。犯人を探し出して一件落着、という一刀両断的明解な物語ではない、それでいてミステリと断言できるその手腕はさすがとしかいいようがない。この既存のミステリの枠にとらわれない構成は、山田氏自身ミステリは殆ど読んだことがないということも関係しているのだろうが、それよりもミステリ的な、読者をだます面白さ、という娯楽性が一致しているためだろう。
以下、ネタバレ注意!

 兄さん、世人の目して「悪党」と呼ぶものがある。即ち司法の庭にひきすえられる徒輩の謂である。間の抜けた詐欺を働いて、危く刑吏の捕縄にかかりそこなった定吉の如きはこの範疇に入るものであろうか。
 けれども、ほんとうのところをいうと、これは悪党の世界では憐れむべき匹夫の席につらなるものである。真の悪人は決してそんなドジを踏まない。闇黒の中で拳についた血を洗い去り、白日の下へ素知らぬ顔を歩み出してゆく。証拠なき殺人を試みた片倉氏などは、或いはこれに属するものと言えようか。
 しかし、悪人の王者は、−−少なくとも賢明な悪人は、断じて自ら手を下さない。彼は自分の一本の指先に血痕を附着せしめることすらしない。誰にもわからないように、第三者に証拠なき殺人を行わしめた僕の如きは−−これこそ最大の悪人たるの光栄を担うものであろう。

この文章は高木彬光氏の『呪縛の家』と同様の内容であり、両氏が友人関係にあることと思い合わせ、興味深い。

『虚像淫楽』昇汞(しょうこう。毒のことか?)を飲んだといって義弟に運び込まれる女。義弟が女の夫で兄である男を呼びに戻ると、夫は自殺していた。なぜ女は以前看護婦として働いていたこの病院を指定したのか、夫が自殺したのは、女や義弟にあるみみず腫れの意味するところは?一見『D坂の殺人事件』のようでありながら、それを遥かに越えるどんでん返し。
物語が進み、病院の博士が推理を進めるに従って次第にタイトルの意味が明らかになる。女は回想シーンを除き、二言しか喋らないが、捜査を進めるに従って彼女の存在が明らかになってくるあたりは『十三角関係』と似たところがある。
そして全ての謎が氷塊した時に、さらに読者は謎を掛けられることになる。人間存在自体が犯人とでもいいたげなシニカルな結末への以て行きかたが山風テイストといえる。
山風ミステリでは特に捜査に走り回るわけでもないのでベッドディテクティブとも言えなくはないが、山風はそれら正攻法ミステリを踏襲することには興味がないと思われる。あくまでも物語ありき、なのだ。そのための殺人事件であり、ミステリというジャンルなのだ。

『使者の呼び声』山風得意のアイテムである手紙を最大限に駆使した意欲作。始まりは現実からだが、そこから封筒を開け、探偵小説が始まる。さらにその中で手紙が重要な意味を持つ探偵小説が朗読される。三重構造がそれぞれ手紙をテーマとしてあり、手紙がテーマといってもいい。単なる小説内小説ではなく、現実舞台まで含めそれらが相互いに関連し合っている構成は全く巧みである。山風ミステリの基本要素はこれまた全て入っているといっていいが、中でも大きなウェイトを占めるプロットは動機であろう。
後半に明らかになる首謀者の動機は明白なようでいて、結局最後まで明らかにはならない。全く侮れない。








309
12/30
『人間はどこまで残虐になれるか 拷問の世界史
 D・P・マニックス著/吉田誠一訳
講談社+α文庫
☆☆☆

タイトルからサディスティックな趣向で書かれたもののように思われるが、「人間はどこまで残酷になれるか」は売るためのアオリで、「拷問の世界史」が本来のタイトル。著者は淡々とギリシア時代からの拷問の歴史を綴っている。そのため、「身体中の皮をはがれたが、肩だけつけてケープのように垂らしていた」「妊婦の腹を切って胎児の肉を食べさせられた」「腹を切られて中に蝿を入れ、それが生きたまま縫い合わされた」などの想像するだに恐ろしい状況でも、なんとか読める。
古代ローマでは剣闘のように拷問と見世物を兼ねるものがあった。

麻薬中毒者がますます強烈な刺激を求めるようになるのT同じように、残虐をこととする者も、その激情を満足させるためにますます強烈なものを求めるようになる、とはしばしばいわれることだが、古代ローマ(剣闘ショー:引用者注)競技の発達ほどその間の事情を物語っているものはないだろう。

 理論的には、これらのすべての拷問は、悪事をはたらく者に対する戒めとして行われたものなのである。
 熱心な極刑支持者であり、「おまえを絞首刑にするのは、馬を盗んだからではなく、馬が盗まれないようにするためなのだ」と死刑囚に対していったセネカ(古代ローマ帝政期のストア派学者、ネロの師)の有名な言葉はしばしば引用される。

専門技術に興味をもつ熟練したカウボーイと、みずからは危険を体験したことのないスペインの闘牛見物の群衆との間には、雲泥の差がある。それに、体験者がボクシングの試合を見るときの態度は、「ぼやぼやすんな、殺しちまえ。血が見てえんだ!」などとわめき散らすやくざな男のそれとはまったく違う。前者の場合は、技術と勇気を見るのが主であって、残酷さはそれに付随するものにすぎない。後者の場合は、いわゆる「スポーツ」の要素は、勝者になったつもりの気分に酔いしれ、サディスティックなエクスタシーにふけるための、ふぬけの男の口実にすぎない。

死と苦痛の連続場面が多くの人々の心の奥底にある欲望を満足させ、麻薬の常用と同じように、いやます欲望を満足させるためにますます強烈なものになっていったことは、疑いの余地がない。古代ローマの剣闘技、邪教徒火刑、中世の公開処刑、すべてそうであった。
 いずれの場合も、拷問の本来の目的は忘れ去られ、処刑は群衆を楽しませるための純然たる見世物となる。

このように、拷問の公開は抑止力と同時に、受刑者(?)を英雄にしてしまうというマイナス面を持っている。これは一見奇妙なようだが、現実として異端摘発や魔女刈りなどでは多くの自主者を生んだそうだ。

 異端審問所が用いたとされるその他の拷問方法も、奇怪な装置を想像することを無上の喜びとするサディスティックな修道士の書き記した思いつきにすぎないことがしばしばある。(中略)H・G・ウェルズ、エドガー・アラン・ポー(中略)のような作家は、劇的効果をねらって、数々の異端審問の拷問方法を考え出した。

と、記録されている記述や図が全て実際に行われたかどうかについては疑わしいとはいえ、中世ヨーロッパの拷問の殆どがキリスト教関係、魔女と異端審問のために行われていた、という事実は避けることのできない問題である。近年のカルトの現状を見るまでもなく、宗教は狂信的行動に走る要素となる。これはキリスト教といえど、例外ではない。わずかであるが、東洋、中国とインドの事例ついても描かれている。とはいえ、こちらは拷問のもう一つの側面、嫉妬と復讐の意味合いが強い。
では拷問や体刑は絶対に撤廃すべきものなのか。著者は両者それぞれの主張と現状を批評しつつ、慎重な立場をとっている。

 体刑反対論者はもっぱらセンチメンタルな考えに動かされているのであって、首尾一貫していないと思われる。

(拷問)の一大難点は、適用が極めて簡単であり、成果があがることも確実なので、ひとたびこれが許されると、わざわざ苦労して地道な犯罪捜査をしたり、証拠を検討したりしなくなるおそれがあるという点である。

体刑は少しも効果がないとか、体刑はつねに効果があるとか、そんなことはいえないと思う。その人間のそのときの感情、犯罪の動機、時代、刑罰を加える(あるいは、差し控える)態度や方法などに左右されることがあまりにも多いからである。

3つ引用した内の1つめは、重要なポイントである。我々は死刑反対などといいつつも、極悪非道な犯罪者に対しては、それを是としていることが少なからずあるのではなかろうか。3つめで著者が言うように、そのケースに応じて立場が変わっていることがよくある。それを総合的に判断して臨機応変であるとするのか、首尾一貫していないとするかは、難しいところだ。人命と人権がかかっているだけに、慎重に考慮すべき問題である。








310
1/4
『終わりなき平和』ジョー・ホールドマン著/中原尚哉訳
創元SF文庫
☆☆☆

『終りなき戦い』という傑作戦争SFをものにした著者の約20年ぶりのSF。題名は似ているものの、舞台・設定は別の内容である。
戦争というのが大きなテーマではあるが、途中でいきなり全宇宙の危機、というやや唐突な展開となる。解説によれば、それらに対しても作者の周到な計算によるとされているが、一回でそれを読み説くのは難しい。後半の『エヴァンゲリオン』の人類補完計画のような展開も、これは唐突なようだが、こちらは比較的分かり易い。
最初に、感覚器官のみならず精神までもチーム全員で共有するジャックインによってロボットを遠隔操縦で動かす、という設定がSF的刺激心をくすぐる。遠隔操縦と感覚をロボットに開放するのは必然性があるが、「機械士」のチームが感覚を共有するというのは、サイバーパンク的というよりも、本作のテーマのためのプロットであり、必然性は薄いかもしれない。
ともかく、淡々とした谷甲州ばりの冷静な筆致で物語は進んで行く。特にその壮大なテーマとエンディングはアーサー・C・クラークのような楽観的な様相を呈してはいるものの、単純に堪能するわけにはいかない。『終わりなき戦い』のようなSFロボットものの派生として分かり易く楽しめるものではないだけに、読後感はもうひとつ盛り上がらない。とはいえ500ページ、読みごたえはある。
中で唯一明確なギャグとして笑ってしまったのがこれ。

 たしかにおれたちの部屋には武器がある。しかしおれがソルジャーボーイより早く銃を抜けるとでも思っているのか。失礼、将軍、引き出しをあけて探しものをさせてもらいますよ……ギャー。ジュリアンの丸焼きのできあがりだ。

その後にもう一個所ほどあるのだが、クールな文章だけに逆に面白い。





1999年12月分の感想へ
2000年1月分の感想へ