☆
風が吹いています。母のことが夢に出てきてから、私はいつもぼうとして窓の傍らに立ち、ただ外を見ているのです。心にずっと音の無い風が吹いています。
「若菜、君は音を奏でないピアノのようだね。一日中、ぼうとして」
Jは私を後ろから優しく抱き締めてくれます。
「僕らに子供ができれば、君はここを本当の故郷と思えるかもしれない」
私は小さく頷いて、「そうね」と応えました。
家族への想いは日増しに強くなるばかりですが、Jや私と同じ境遇の人たちのことを思うと、やはりこの想いは消さなければならないのかもしれません。
私たちは結婚により、一軒屋と粗末ですが食事を与えられました。確かにそれぞれの母国でのような自由はありませんが、この国の人々の暮らしに比べれば、とても恵まれているのです。
ですが、言葉も習慣も風土も違う異国で、篭城されている不自由さ、精神的な疲弊は隠せません。
「J、私たち、一生、ここで暮らすのかしら?」
「分からない。ただ、もし他国へ亡命し、もしもそれが失敗すれば・・・君は知っているよね」
「ええ、この国の人は、恐怖に縛られている。私と同じように」
Jは私の中に吹き続ける虚しい風を心配するかのように、「いいかい、若菜。もし、逃亡する時は、僕も一緒だよ。ひとりで行かないでおくれ」と言いました。
「若菜、気晴らしに散歩に出かけようか?」
彼は静かに私を誘ってくれたのです。
国境を流れる河沿いに私たちは立ち、向こう側の自由を懐かしく思い出していました。
「私、パスタが食べたい。トマトスープを添えて」
「デザートは?」
「色々あるけど、苺を使ったケーキがいいわ。バナナもいい。チョコレートをかけて」
「ドリンクは?」
「コーヒーがいいわ。ハーブティーも飲みたい。Jは何かしたいことがある?」
私は背の高い彼の顔を見上げて言いました。
「そうだな・・・君の心からの笑顔が見たい」
私はストレートにそう言ってくれる彼が嬉しかった。私の母国では、そんなことを言う男はいないので。私はJの言葉に感謝しつつも、私と同じ国の男たちが、懐かしくてたまらなくなったのです。私は同郷の人をこの国でまだ見たことがないのです。
最近の私は、何かにつけて故郷と結びつけ、比較し、ため息をついているのです。そんな私をJは抱き締めてくれます。私は彼の胸の中で、国境が取り払われた愛を感じ、瞳を閉じるのです。そして、彼以外の、永遠に視界に映るものすべてを拒絶したくなるのです。なぜなら現実は国境という不自由さが私たちを縛っているからです。国境は悲しくも目に見え、そこにはいつも武装した男たちが、監視しているのですから。
塞いでいる私にJは手渡したいものがあると言い、河から少し離れた場所へ、私を案内しました。辺りを木々で覆われた人気のない猫の額のような小さな空間に。
Jはしゃがみ込み、土を掘り、英字新聞でくるまれた包みを私に差し出しました。
「この中に銃がある。もし君がひとりで逃亡した時、僕はそれを決して望まないが、最近の君を見ていると、危険なことを衝動的にやりかねない。君が軍に捕まりでもすれば、絶えがたい拷問にあうだろう。その時は、自ら命を絶ってくれ。そのために、これを君にあげよう」
私はそれを受け取り、彼から操作を簡単に説明されました。両手の中にあるその重みが、この国での私の初めての未来となったような気がしたのです。それまでの私は、恐怖に縛られ、未来を思うこともなく、今を考えるでもなく、ただ機械のように感情を押し殺していたのです。母の夢を見て、私の中に急に吹き荒れ始めた望郷の念。それを私はもはやコントロールできなくなりつつあったのです。
☆
とうとう冬が来ました。クリスマスもない。ただの冬が。想像できますか?この季節の容赦ない暴君振りを。人々は路上で凍り、土は更に痩せ衰え、木々は丸裸。凍死した動物たちが、ところどころに転がり、私は目を伏せて避けて歩くのですが、嫌でも目に入る時があるのです。それは動物ではなく、老人だったり、子供だったりします。ボロを纏った人々は、遠目で見ると、動物にさえ見えます。
私はJから受け取った銃で、命を絶とうと何度も考えました。心を殺し、生きていた頃と違い、今この国で目にするすべてのものが痛々しく耐え難いのです。
この日は月に一度、買い物に出掛けることが可能な日でした。Jと私を始めとした外国人たちが小さな古いバスに乗せられ、街へと向かうのです。
途中の景色は、冷たく寒々しい地獄図でしたから、私はただJの温かい手を握り、俯いていました。
「ああ、あの少年は、足が不自由なんだわ」
バスの中で、女たちが口々に言っていました。気の毒に、と。
それは・・・たぶん凍傷で手足が使えなくなった少年でした。身につけた服は色褪せ、穴が空き、頭から大人用の大きなニットの帽子を被り、顔は見えません。街に近い市場の路上を徘徊し、物乞いをし、地に落ちたものを拾って食べようとしていました。が、すぐに他の少年たちに盗られてしまいます。彼らも少年と同じようにボロを纏い、痩せこけ、必死で生きていました。市場の隅に穴を掘り、数人が見を寄せ合っています。
彼らを哀れむ女たちが、服を脱ぎ、上着を彼らに渡したいと言い出しました。でも、それは許されないことです。たくさんの少年たちに平等に服は行き渡らないのですから。
その時です。Jがトイレに行きたいから、バスを止めてくれと行ったのです。バスが静かに止まると、運転手をしていたムシカは言いました。
「俺も子供の頃は、彼らのように生きた。幸い、今日は他の監視役もいない。もし良かったら、あんたらの暖かそうな上着を彼らに与えてあげてくれ」
女も含め、男たちも上着を脱ぎました。ひとりの子供にあげると、他の子らが群がってきました。
私は先程の手足の不自由な少年のもとへ駆け寄りました。背の高さからして、十五、六歳でしょうか。マフラーを首に巻いてあげようと近付きました。
この国の言葉で、こんにちは、と声を掛けました。が、反応がありません。肩をトントンと軽く叩きました。すると、少年は、ゆっくりと振り返り、私を見上げました。
手足の先が無くなり、コブになっています。お尻で歩いているようです。上着と言っても穴だらけ。その下に数枚、ここ数ヶ月着替えていないような肌着を重ね着しています。空いた穴から痩せ衰えて乾いた肌が骨を透かしているように薄く見えます。
少年はニットの帽子を頭から被り、影で表情が見て取れません。私はそっとマフラーを彼の首に回しました。
私の目の前に、少年の顔がありました。マフラーを巻いてあげ、抱き締めました。彼も力の限り、私を抱き締めました。ポケットからキャンディーをひとつ取り出して、彼の口へ入れました。潤いの無い唇に、私は号泣しました。私の涙で彼を潤したい。私は声を押し殺し、泣きました。
「美味しいよ、お姉ちゃん」
そんな声が聞こえてきそうでした。
少年は、あの夏、カキ氷を食べていた弟でした。久し振りに見る弟の笑顔です。
「良樹、何故、ここに?」
話したいことがたくさんあるよ。そんな表情をして私にしがみ付き、口にしたキャンディーを美味しい、美味しいと満足げに舐めていました。今の弟には、その甘さがすべてなのです。
「あの時、どうなったの?良樹も、ここへ連れ去られたの?お父さんとお母さんは、どうしているの?」
私は弟を抱き締め、耳元で何度も訊きました。でも、弟は何も話せません。聴こえません。連れ去ったのはいいが、役に立たないと分かった途端、弟はきっと捨てられたのでしょう。
「あ、飴玉、お、美味しい。ね、お、お姉ちゃん、僕がこ、こ、これを舐めきってしまう前に、殺して」
耳を疑いました。これが弟の声?枯れ果てた喉を通る冬の風のようです。
私は腰に巻いた銃に手をやりました。そして、弟の心臓へ玉を送りました。
彼はこの国へ来て、初めて訪れた安堵に感謝するような恍惚とした表情をして、私に微笑みかけました。
「ありがとう」
私の耳にその言葉は、確かに届けられました。
☆
死というものを私は恐れていません。それは、Jも同じかも知れません。死は生の延長にある。私はそんな風に死を捉えているので、生きるように死も自然と待っているものだと思います。
自分の死は恐れないのに、愛する者たちの死は、悲しい恐怖です。
死を思う時、私の幼稚さや人生にまだ未熟だからかもしれませんが、どんな死に方をするのだろう、と以前は考えていました。病死?事故死?それは酷く長い苦しみを伴うもの?それとも、一瞬の激痛?でも、ここに来てからは、死は想像を絶する恐怖と化しました。もし、自由な発言が、この国の求めているものではなかったら、安易に自由を求める行動をしてしまったら、最悪なのは逃亡を試みたりしたら・・・・。私は声を一時失い、おぞましい想像で動けなくなるのです。
以前、私たちの住む外国人住居の近くの広場で、逃亡を企てた人々の公開処刑がありました。殺される前に絶えられぬ暴行を受け、目隠しもされず、逃げ惑う彼らを軍人らは、銃で撃つのです。一瞬で決めず、何発も撃ちます。手足の骨を折られた彼らが、逃げきれるわけがありません。長い苦痛を与えられ、死を目前としたその瞬間にも更なる痛みを伴った苦しみを与えられるのです。
もしも、ただひとつ救いがあるとしたのなら、軍人らも感情を押し殺し、処刑を行っているということです。
私は弟を楽にしてあげたかった。Jは別の手段はあったのではと言うかも知れません。でも、これしかなかったのです。銃弾がいくつ残っているのか分かりませんが、私も逝こうと思います。両親のことを考えると、心が痛くなります。Jを残すことも。私たちは商品ですから、彼には他の女性が与えられるでしょう。
私は静かに銃口をこめかみに向けています。今、Jが蒼ざめた顔で私を見つけ、駆け寄ってきます。
私は彼にこの国での生き方と習慣、言語を教えたと言うのに、私は自ら命を経つことを選択しました。
さようなら。
☆
私の頭は一瞬にして吹き飛び、力を失いました。なのに、不思議と私はここに立っています。冷たい空気にさらされているというのに、何も感じません。これが死というものでしょうか?
静かに弟の方へ目を遣ると、彼は自分の死体の傍に立っていました。
「良樹?」
私が声を掛けると、聞こえたらしく、「お姉ちゃん?」と微笑みました。
「私の声が聞こえるの?」
そう尋ねると、弟は嬉しそうに笑って、「うん。聞こえる」と言いました。
「お姉ちゃん、ほらっ、失った手足があるよ。それに全然痩せていないよ」
私は彼の手足を見ました。そこには快活だった頃の良樹の姿がありました。
「お姉ちゃんの恋人?あの金髪の男の人、死体を抱き締めて、酷く泣いているよ」
私は届くはずもない言葉で、Jに伝えました。
「J、ごめんなさい。弱い私で、ごめんなさい」
私は彼に強く生きてとは言えません。どうぞ耐え抜いてとも言えないのです。狂気に晒されて生きていくには、感情を押し殺すしかありません。残された彼に苦痛の少ない人生を望むしかありません。でも、それも叶えられないかも知れませんが・・・。
もしも、世界が僅かでもいい変化すれば、この国の狂気に気づき、行動を起こしてくれたら、その時、残されたこの国に生きる人々は救われるかも知れない。
平等と自由というものが、存在せず、国の道具として生きている民。その民を動かしているこの国は、一体何を求めているのでしょう。恐怖で縛ることでしか統一できない不安定さを抱えているのでしょうか?
私と弟、そして残された両親。私同様、連れ去られた人々。自由を知り生まれて、それを永久に奪われた生活の中で、私は恐怖で縛られて逆らえなくなる心を経験しました。それは、どんな国でも起こりうる凶悪で痛ましい事件と変わりが無いように思えます。
逆らえなくなる心理。
この国の子供たちは、この貧しい生活が当たり前だと思っているでしょう。他の世界を知らないから。私は、これこそが悲しむべきことだと思います。
Jとの結婚で与えられた家と居住区を思うと、私はまだ普通に微かに近い生活をしていました。だけど、一歩外へ出ると、そこには死と隣り合わせに生きる人々の暮らしがあったのです。彼らは笑顔を知らずに生きています。私の監視役だったムシカも同じです。
ああ・・・ムシカはどうなるのでしょう。監視役として努めを遂行できなかった彼は・・・。彼の目が行き届かない場所で、私が人を殺し、また自ら死を選んだなんて知れたら。
私は外国人でありながら、この国の人たちとひとつになっていたことに改めて気づきました。
ムシカは、どうなってしまうのでしょう。もしも、銃に弾がまだあれば、彼に手渡して欲しい。苦しみの最果てに待つ死よりも、一瞬の死を与えてあげて欲しい。
私は涙に濡れたJの頬を両手で包みます。どうぞ、私の死体が握り締めている銃を取り、ムシカに届けるか、貴方が死を選択するかして欲しい。
私はポケットから転げ落ちた四葉のクローバーの栞をそっとJの胸ポケットに忍ばせて、弟と二人、国境を目指します。
第二部 インタビュー
「その後、貴方は、若菜さんの国、つまり我が国に亡命したのですね?」
アナウンサーは、Jの瞳を見つめた。窪んだ瞳には、微量の生命力しか残されていないようである。
「はい。私は彼女を残し、そのまま逃亡したのです。国境を目指し」
Jの話を静かに聞いていたもう一人の男は、「思ったより、スムーズに脱出できませんでしたか?」と訊いた。
「はい。がむしゃらに走ったという訳ではないのです。妻が自殺し、何がなんだか分からぬままに走り続けていたのです」
「まるで自分ではないかのように?」
アナウンサーが尋ねる。
Jの「はい」という言葉を聞いて、アナウンサーの隣に腰掛けた男は、微笑みました。
「だって、貴方、一人で走っていた訳ではないのです。彼女と彼女の弟さんも一緒に走っていたのです」
「弟?」
Jとその隣にいた若菜の父親は、目を丸くしました。
「そうですよ」
霊界と交信できると言う男は、若菜が見てきたことをすべて二人に話しました。
「お母さんは、若菜さんが連れ去られてからしばらくして亡くなったのですよね」
男は母の死すら見えているように言いました。
「はい。妻は、二人が連れ去られた日に遊びに行っていた海水浴場へ行きたいと急に言い出しまして。妻は心労から体調を崩し、最後には歩けなくなっていたのです。なので車椅子を押して、二人で行きました。亡くなる直前に、ウズラの卵が食べたいわ、なんて言い出しまして、私は帰る途中にでも食べようと言ったのです。でも、次に私が見たら、妻はもう息をしていなかったのです」
若菜の父親はそう言いました。
「お母さんは、今、お父さんの傍で微笑んでいますよ」
霊が見えるという男は、優しげな眼差しで微笑み、隣に若菜さんも良樹くんもいると付け加えた。
「本当ですか?」
Jは身を乗り出し、訊きました。
「ええ。貴方が亡命して来た時、着ていたシャツがありますね。その胸ポケットを調べて御覧なさい。そこに四葉のクローバーがあるはずです」
「ええ。ありました。これです」
Jはいつもそれを持っているらしく、胸ポケットからそれを差し出しました。
「ああ、これは良樹が摘んだ四葉のクローバー。妻がリボンを付けてあげた」
父親は嬉しい驚きに目を丸くしました。こんな不思議なことがあるのかというように、口を半開きにして。
男はすべてを知っているように柔和に微笑み、亡くなった若菜と交信するように、言いました。
「若菜さんは、監視役だった男がその後どのようになったのか知りたがっています。そして、弟と自分の遺体を母国に持って帰りたいと願っています」
アナウンサーは、頷き、レポートを読み上げる。
「番組の独自の調査に寄りますと、ムシカと言う若菜さんの監視役の男は、どうやら殺されたようですね」
その時、空気が鋭利な摩擦音を上げ、Jらを取り巻く空気の密度が一瞬濃くなったような緊迫感が走った。
「若菜さんが泣いていますね。今、拳を激しく噛み、泣いています」
男は言った。
Jは慌てて、「二人の遺体を引き取ることはできないのですか?」と詰め寄る。
アナウンサーは、努めて冷静に言う。
「難しいと思います。ムシカという男も国家に逆らったという理由で殺されており、不透明な死に方です。また、若菜さんらが、連れ去られたことに関しても、知らないを通しており、遺体などという話は理解できないと言っています」
空気は更に密度を増し、Jの後ろに人影が浮き出るのではなかろうかというほど、何者かの存在を示しているかのように、そこだけピリピリとしている。
若菜を見ていた男の顔色は蒼ざめ、「これ以上、彼女の苦しみを溜め込ませてはいけない。私にもう一度憑依させ、一気に感情を吐き出させて上げましょう」と言った。
☆
男はJの後ろに立ち、彼の背中をさすってから、父親と彼を取り巻く空気を自分の方へと導くように両腕を大きく広げ二つの弧を描いた。空気を一杯吸い込み、席へ戻った。そして、大きなため息をひとつした。
「J?」
男は柔らかい口調で言った。
「ムシカを殺したのは、きっと私よね。あの時、もし、彼がバスを止めていなかったら、バスの乗客が良樹の姿を哀れなければ、私は弟と遭うことはなかった。私は身勝手な人間かも知れない。だけど、あの国は私の母国とは違う。私が手を下さなければ、弟はあのまま放置されていたでしょう。
私は母の夢を見てから、改めて絶望を知りました。拷問を経ての死を恐れるあまり、私は故郷の想いを完全に胸の奥へ隠していました。でも、それにも限度があったのでしょう。
私を含め多くの人が無力なのだと知りました。巨大な力には到底敵わない。希望が自殺という形でしか残っていないことを私は思い知らされたのです。
お父さん、ごめんなさい。私は耐えられなかった。もし、辛抱強く待っていたのなら、私はいつの日か帰られたのかも知れない。でも、待てなかった。
J、貴方を一人残してしまい、ごめんなさい。私たちは結婚し、あの国の名前を貰ったのよ、貴方には伝えなかったけれど。それは、ただの番号だった。貴方も私も他の外国人もすべて。
私が伝えるべきことは、絶望しかない。絶望しか存在せぬ国にいたのだから。私は無力だったけれど、いつか世界があの国の異常さを改めてくれたら、と願うことしか出来ない。自由を表面的に奪っても、心の自由は侵されないと言う人もいるかも知れない。だけど、本当に自由が存在しない場所があるのよ。
あの国に限らず。
恐怖に縛られた女性や子供、もちろん男性も多く存在するわ。私はここに来て思うの。やはり生の延長に死はあった、と。たくさんの人に出遭うのよ。私と同じように自由を奪われた人たち。それはどんな国にも存在するの。人が人を支配しようとしたその時に」
男は一気に話した。身体中から脂汗を流し、肩で息をして。
☆
Jは若菜の父親と二人、国境に程近い運河に立っている。霊が見えるという男を特集した番組の企画で、再びあの地を間近にしたのである。
男は朗らかな笑みを浮かべた。
「ほらっ、あなたたちが暮らしたあの地には、もう何もありません。霊も彷徨うことなく、天国へと旅立っています。生きることがまるで壮絶な試練であったかのように、この国の人々は生き抜き、そして死んでいきました。でも、いつかきっと緑豊かな地へと生まれ変わる日が来るでしょう。それまで、天国で心穏やかに暮らしていくのです。」
彼等の目の前で、ある人は餓死し、ある人は処刑され、またある人は自ら死を選ぶ。この哀しい国は、人の支配欲を寄せ集めたような地へと変わってしまったが、いつかきっと時流の中で、僅かずつだが変化していくだろう。
Jは言った。
「ムシカは居ませんか?」
男はしばらくして微笑んだ。
「Jさん、貴方はあの国にもう二度と踏み込まない方がいい。私たちTVクルーが、若菜さんと弟さんが亡くなった場所へ行ってみましょう。もしかしたら、そこに居るかもしれません。もし居なければ、彼の暮らしていた家の辺りを見てみましょう」
男は静かに言った。
TVクルーらは、市場近くに乗り込んだ。近付くに連れ、子供や老人の姿が目に付く。着心地の悪そうな服を纏い、春も近いというのに、この国はまだ肌寒く、子供たちは身を寄せ合い、老人らは古い歌を歌っている。隠しカメラが捉える映像は、平穏な日々を送る人々に何を伝えるだろうか。平和が一瞬に壊されると既に知っている人々は、日常に潜む陰鬱な気配に恐れ、明日は我が身と身体を震わせるだろうか。
市場から少し外れた場所(そこは僅かだが、緑が命の片鱗を見せている)で、男は車から降りた。
「ああ、彼がムシカさんでしょうか?若菜さんと弟さんの遺体もあります」
男は、他の人には何も見えない僅かばかり緑に満ちた場所に向かって言った。
「ムシカさん、ですね」
男に声を掛けられたこの国の男は、静かにそして満ち足りた笑顔で頷いた。
「待っていた。貴方には私が見えるんだね。この地の下に、彼女たちの肉体はある。貴方の国の人にこの場所をこの現実を、そしてこの死を知ってもらいたかった。これで私も安心して旅立てる。さあ、ここを掘り起こし、故郷へ肉体も返してあげなさい。私は同胞の待つ空へと帰ります」
ムシカはニッコリ微笑み、消えました。二人の遺体もすうっと消え、ひとつ、ふたつと緑の中に四葉のクローバーが顔を覗かせました。
おわり
