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元気のでる館 > 和歌の世界古代万葉の世界巡り | |||||||
| 万葉人は自然に溶け込み、その一部となり、畏怖し、愛し、想いを草木にたくして歌う 万葉の頃から野に出て若菜を摘む野遊び、若菜摘みは習慣としてあり、冬の間のビタミンCの不足を補う知恵でも、そしてまた、春とともにうきうきする青年たち娘たちのたのしい出会いの場でも・・・。 全国に70社以上の柿本人麻呂神社があります。 人麻呂の生涯 人麻呂、死に臨む 人麻呂終焉の地 歴代天皇出来事 万葉のひと時 歌へのこだわりは旅人から憶良へ憶良が模索したこの叙事詩の可能性は憶良に学んだ家持ではなく、ふたたび日本の詩人によって注目される時は、元禄の芭蕉に。芭蕉は老荘や禅のもつ直覚的な時間性を導きいれます。 大宰府筑紫歌壇 大伴家持 大伴坂上郎女 奥の細道 旅人と憶良 旅人と憶良2 籠(こ)もよみ籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串もち この丘に菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて吾こそ坐(ま)せ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をもの 雄略天皇 巻一−一 『万葉集』の最初を飾るこの歌は、泊瀬朝倉宮に宮処(みやこ)があった雄略帝の時代、天皇の御製と伝えられています。「籠を、美しい籠を持って、掘串を、美しいへらを持って、この丘に山菜を摘んでいる娘さん、家はどこ? 名は?。この美しい大和の国は、私が治めているところ。私は名告りましょう、家の場所も、名前も」 万葉の自然を歌う 七草と習慣 春の七草の歌2 秋の七草の歌2 春の七草の歌3 『万葉集』の魅力とは、そこに収められた一首一首の歌は読む者の心に、かならず何かを残してくれます。 万葉の愛をたずねて額田王 主な万葉の人々 有間皇子 大津皇子 中大兄皇子 「万葉集」にうたわれている地は、北海道、東北の大部分と沖縄県には一首も存在しないが、その他は、日本全国に及んでいます。 東北地方は福島県までで、それに宮城県の多賀城は大伴家持が赴任していて、ここで亡くなりました。 中国の万葉 万葉の韓国 悟りを超えて(良寛) 北原白秋 川柳 歌の記録 金子みすゞ |
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| 『万葉集』にある、山辺赤人の歌 「春の野に菫(すみれ)摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」 が見え、草摘みの動機を理解する上に有効な手がかりをつかむことができるように思われます。 ![]() どうも草摘みの歌は、系統をなしているらしく、『万葉集』には、その系統に属する歌が、三〇首を上まわって収められています。 『詩経』にも、野草、海草、水草を采(と)ることを詠(うた)う作品が二〇篇を下らず収められています。「草摘み」は、古代の人々の祭礼、俗習として広く行われていたものと考えられます。山辺赤人の歌も、食用や染色の材料として摘まれたものとは思われません。そのために「春の野」に魅かれて、その地で一夜を明かすことになったというのは、大げさにすぎることです。草を摘む行為を重ねることで、地霊の生気を持続的に吸収する、そして自らの魂に活力を与える、きっとそのことに草摘みの目的と動機はあったのでは・・・。少なくともそのような発想にもとづいて、山辺赤人の歌は詠われています。「一夜寝にける」という行為の必然性もそのことによるはずで、いわば地霊との交渉がここに試みられています。ことにそれが「春」に行われているという事実も、無視しがたい意義をもつように思われます。生命力を更新する上で、最も時宜にかなった「春」の季節が、ほんとうは選ばれているのです。興に乗って遊楽に出かけてゆき、つい帰るのを忘れてしまったといった類(たぐい)のことではありません。草摘みののち、それを道のべに置くというのも、じつはその行為が地霊から与えられた旺盛な霊力を、遠隔の人に移し、感染させ、その魂をふるいたたせるための呪的な方法を指すことであったからにほかなりません。その祈りの様式を、日本では、「魂振(たまふ)り」 と呼ぶ習わしです。草を摘む「手」は、魂を伝える媒介ともなりえたのです。その行為にほ遠く隔てられている人への連想をうながす、何がしかの目的と理由とがはらまれていたはずです。摘んだ草を、思う人にささげようにも、あまりに二人の距離は遠すぎます。それでもなおひたすら草を摘んでいるというのは、現在の私たちにはとうてい不可解な動機が、そこにひそんであるからなのでしょう。それはもう古代のみがもつ動機としかいいようのないものです。 |
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