「長野電鉄 湯田中駅よリバス15分」 長野県山ノ内町 上林温泉
宿(塵表閣)には「月見亭」と名づけられた離れがあり、この離れで昭和中期、ふたりの女流作家がペンを握る。林芙美子(1903−51山口 県生まれ)と壷井栄(1900−67香川県生まれ)の二人。林芙美子が、ベストセラーとなった代表作『放浪記』の書き出しに、「私は宿命的に放
浪者である。私は古里を持たない」と綴ったことはよく知られています。それは、行商人の娘として生まれ、旅の空と木賃宿で成長した過去が 言わせた台詞。信州は芙美子にとって格別の土地。昭和という時代の幕開けとともに、手塚緑敏という誠実でやさしい人柄の夫を得、男運の悪
かった芙美子の生活も、ようやく貧しいながら穏やかなものに変わり。信州はその夫の生まれ故郷であり、芙美子にも安らぎを感じさせる土地 柄であったのでは。結婚後は塵表閣での宿泊を含め、しばしば信州に遊んでいます。昭和19年(1944)、戦火を逃れてこの宿にやってきたのも、
ごく自然な成り行き。この疎開先の宿で生まれたのが、「戦争はながくつゞいた。こんな谷間のなかの小さい村のなかでも、もう、みんな、こ のながい戦争には飽き飽きしてゐた」という記述で始まる短編『吹雪』。そこには、信州の小さな村を舞台に、戦争に傷つき苦しむ
庶民の姿が 如実に描かれています。この作品は、「雨」「放牧」「うず潮」へと続く反戦的作品群の走りとなりました。 |
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【林芙美子と壷井栄】
瀬戸内海に浮かぶ小豆島に生まれた壷井栄は、郷里を舞台とする作品を多く著した。その白眉は言うまでもなく、島を舞台に若い女教師と 12人の教え子たちの交流を綴った『二十四の瞳』。実はこの作品、昭和27年(1952)の2月から11月にかけて無名の雑誌『ニュー・エイジ』に連
載されたもの。昭和18年(1943)以来、29年(1954)に軽井沢に別荘を構えるまで、毎年夏、塵表閣に逗留して執筆するのを習わしとしていた
栄だから、自然、『二十四の瞳』も、その一部はこの旅館内で書かれたことになります。林芙美子と壷井栄は、かつて東京・世田谷に隣同士と して住んでいたこともあって、おそらく芙美子の紹介で、栄がこの宿を知ったものと思われます。ふたりが筆を執った離れは改装されて現存し
ますが、6畳・8畳・4畳と、余裕のある空間で、さらに文机を配した3畳の小部屋もあります。家族との賑やかな語らいの合間に、孤独な思索に もふけりたい。そんな贅沢な欲求を満たしてくれる魅惑的な隠れ家なのでは。 |
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【小林一茶(1763−1827)】
宝暦13年信州生まれ。15歳 江戸に奉公。
25歳 二六庵竹阿の弟子となる。
3年後竹阿が亡くなる。その後継者となり一茶と称す。
一茶は江戸から房総付近にかけて旅をしながら俳句を読み続けました。
上総富津の女流俳人・織本花嬌と静かに愛を育てる。
文化10年花嬌の死により、終わりを告げます。一茶51歳。
翌年一茶は故郷に戻り結婚。生まれた子供がみな夭折。
更に妻も亡くなり、更にその後結婚した2番目の妻とは短期間で離婚。 |
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一茶と俳諧の出合いは、どこまでも相対的なもので、寺子屋にさえ行かぬ彼が、いかに庶民芸術とはいえ、表現としての言語という課題を自ら 担ったことは並一通りではなく、彼の俳壇登場後の知名度なり交友半径なりを考えると、おそらく大変な努力が支払われたのではないでしょう
か。一茶登壇以前の俳諧がいかに矮小化していたか、知的なものを失った分だけ感性も錬磨されたといってよく、蕪村は要するに俳譜の知 的情的レベルアップを呼号していました。この蕪村をかいくぐった地平に一茶はいました。一茶といえばストレートに無学無識無教養という点
において一茶をみることは正しくありません。その一つに、一茶が 『万葉集』をかなり読みこなし、自家薬籠中のものにしていました。『万 葉集』はいうまでもなく、古典中難解さをもってきこえています。その『万葉集』を、一茶は勉強していました。1795年三十三歳の一茶は讃岐
観音寺で正月を迎えた。
君が代や旅にしあれど笥(け)の雑煮
これは有間皇子の「家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」を踏んだもので、旅中ながら家にあると同様、いな家 にあるよりすぐれて専念寺の温かい亭主ぶりを謝したものでしょう。とかく旅先で「万葉集』が想起されるものか、『西国紀行』において、
「入野の暁雨館を訪ふ」と題して、堂々たる 『万葉集』通ぶりを示しています。
「やつがれも普ぶりの歌一首を申侍る」との前書につづいて、長歌一首反歌一首の構成です。反歌のみを引けば、
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