松尾芭蕉(1644-1694) 江戸前期の俳人
元気のでる館ホーム > 各地をご案内 > 東北
|
|
序文
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる物(者)は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古
人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘はれて漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうしゃう)の破屋(はおく)に蜘蛛(くも)の
古巣を払ひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて、取もの手につか ず。股引の破をつづり、笠の緒付かえて、三里に灸すうるより、松嶋の月先(まず)心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、面八句を
庵の柱に懸置。
おくのほそ道 「序文」の訳文「月日がたつのも、年がかわるのも、まるで旅人のようだ。旅にあこがれるようになった自分が、前の旅から帰って半年、春になって空に霞がたちこめると、旅への思いがつのってきて、こんどはぜひ
白河の関をこえたいものだなどと考えていると、まるで招かれているかのようにそわそわとして落ち着いておれない。衣服をなおし、膝にお灸をすえると、人にゆずることにしたあばら家だったわが家に句を残し別れを告げる |
正保元年 1644年 伊賀の国上野、 松尾与左衛門の次男として生まれる 幼名を金作、のちに 宗房(むねふさ)と名乗る。別号、桃青・泊船堂・風羅坊など
寛文2年(1662年) 藤堂藩伊賀付五千石の侍大将・藤堂新七郎家の嫡子藤堂良忠(俳号蝉吟)の近習となる。
寛文6年(1666年) 良忠の病没後、藤堂家を去り京都で北村季吟に師事。
延宝8年(1680)住居を江戸の中心から深川に移し、門人に芭蕉の株をもらい植えたことから、「芭蕉庵」と呼ばれる。
天和元年(1682年) 俳号 「芭蕉」 の名を始めて使う。
貞享元年(1684 )8月、門人千里(ちり)を伴い、伊勢神宮に詣で、伊賀上野に帰郷、前年亡くなった母の墓参。
のち大和・吉野・美濃を巡り、翌年4月江戸に戻る。
このときの紀行文が『野ざらし紀行』
貞享4年(1687)8月 鹿島神宮参詣の 『鹿島紀行』
貞享4年(1687)10月に江戸を旅立ち、尾張・伊勢桑名を経て、年の暮れに伊賀上野に帰郷し、実家で新年を迎える。
芭蕉故郷にての句「古里や 臍(へそ)のをに泣く としのくれ」
伊勢・吉野・高野山・須磨・明石などを巡り、この間の紀行は
『笈(おい)の小文(こぶみ)』
元禄元年(1688)信州更科へ姨捨山の名月を見るための旅『更科紀行』約20日間の旅
元禄2年(1689)東北・北陸への旅 『奥の細道』 約6ヶ月間の旅
元禄7年(1694年) 大阪にて死去 |
|