素朴で率直で、野の花に心を動かし、想うひとに心を告げる 織姫彦星
現代人のアウトドアライフ、野外のクッキングなどは新しい生活スタイルではなく、昔からこだわり のない形で、同じようなことを楽しんでいました。

 元気のでる館ホーム万葉の世界巡り 若菜摘み
万葉の頃から野に出て若菜を摘む野遊び、若菜摘みは習慣としてあり、冬の間のビ タミンCの不足を補う知恵でも、そしてまた、春とともにうきうきする青年たち娘たちのたのしい出会いの場でも・・・
籠(こ)もよ  み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串もち この丘に 菜摘ます子 家聞かな 名告(の)らさね  そらみつ 大和 の国は おしなべて 吾こそ居れ  しきなべて 吾こそ坐(ま)せ  我こそは 告(の)らめ 家をも名をも
大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと) 
「万葉集」の最初を飾るこの歌は、泊瀬朝倉宮に宮処(みやこ)があった雄略帝の時代、天皇の御製と伝えられています。

「籠を、美しい籠を持って、掘串を、美しいへらを持って、この丘に山菜を摘んでいる娘さん、家はどこ?  名は?。この美しい大和の国は、私が治めているところ。私は名告りましょう、家の場所も、名前も」

この椎武の命は従者もわずかに気軽な姿であたたかな日差しの下を逍遥していたのでしょう。そのとき、若い娘が 籠と箆(へら)を手に、野の青菜を摘んでいるのが、ふと眼に入りました。時は春先、たぶん若菜摘みに出てきたのでは。その娘に対して、命は声をかけます。名を名乗りなさい、と言っているのは、求婚のことばです。当時は名前を大切にし、本名は両親以外は知らせない場合もあって、そのために別に呼び名(忌み名)があったといいます。見知らぬ男に 声をかけられて、もし名を名乗れば、それは婚姻を承諾したことになります。また、求婚のことばは、必ず「歌」の問答によってなされました。「妻問い歌」は男から歌い、女の方は必ず一度は「拒り歌」を返します。すぐに「はい、はい」などと気軽に婚姻を承諾してはなら ないのです。

たぶんこの時も、娘は「拒り歌」を返し、でも、きっと、身分の高い大王の許へ、後には上ったかも。天皇といえども、野辺で出会った娘子(おとめ)に、気軽に歌をよみかけ、「ボクはここ の王なんだ」などと率直に自慢したりして人間味にあふれています。籠に、土だらけの手をした娘が、ふと羞らって男を見上げ、まぶしそうにまたたく様子まで、目に浮かぶようです。天皇と庶民の間に隔てがなく、どこかあたたかい土の匂いの漂う空間、それが古の大和路。


春日野に 煙立つ見ゆ をとめらし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも 作者未詳 巻十−一八七九
この歌をみると、摘んだうはぎ(嫁菜)をその場で煮て賞味した様子。現代人のアウトドアライフ、野外のクッキングなど新しい生活スタ イルではなく、昔からこだわりのない形で、同じようなことを楽しんでいました。
御縁ライン男女間に交わされた歌
紫は 灰指すものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 会へる子や誰      巻十二−三一〇一

 たらちねの 母が召ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか   巻十二−三一〇二

海石榴市(つばいち)は今の椿市(つばいち)(奈良県桜升市金屋)ですが、当時は人のたくさん集まる市で、路が整備されていたと いわれ、年頃の男女が相手を見つけるため神前で歌を掛け合う「歌垣」の場でもあり、その地名から言っても、椿の木の多い所だったので しょう。今も椿をたくさん見かけます。

「紫を染めるには、椿の灰を差すもの、その椿の名のついたこの 椿市の辻で出合ったおとめは、誰なんだろう」

「言えとおっしゃるなら、母が呼ぶ私の名前を申し上げもしましょうけれど、路で 偶然お合いしただけの人を、誰なのか私知らないんですもの」

 行きずりの、若い男と娘のやりとりなのです。市の混雑の中、街の中でちょっと声をかけ、
  娘もまんざらでもない、軽い接触の探り合い。 たのしく会話がはずみます。
古代の文献に 『万葉集』の存在を確かめると最古の記録は、『古今和歌集」巻十八に収められている次の歌とその詞書です。
  貞観の御時、万葉集はいつばかりつくれるぞと問はせたまひければ、よみてたてまつりける 

文屋有季
神無月時雨ふりおけるならの葉の名に負ふ宮の古ごとぞこれ

 桓武天皇の平安遷都から六十五年、桓武天皇から六代目、清和天皇の貞観年間(八五九〜八七七)のことです。清和天皇の、万葉集はいつごろ作られたのかというお尋ねに、文屋有季が目の前に見る、時雨に濡れるならの木の葉に託して、万葉集は奈 良時代のものだと答えた。その『古今和歌集』は延喜五年(九〇五年)の醍醐天皇の勅命によるもので、できたのは延喜八、九年(あるい 十三、四年とも)のころですが、紀貫之の「仮名序」に、奈良の御代以前の歌を集めて「万えふしふ(万葉集)」と名付けたのだと記され ている。今に伝わる万葉集のどの古写本にもその成立の事情も時も記されていないが、奈良時代の歌集として万葉集の存在は明らかです。 万葉集二十巻の原物は、巻によって大きさも紙の色も質もまちまちで、年代ものの巻一、二などと巻十七から終わりの四巻とはい かにも別物だという具合だったはずで、それぞれの巻も継ぎはぎだらけで古い部分に新しい紙が貼り維いであったりもしていたはずです。 万葉集とはそんな二十巻。
一つの編纂方針に基づいて一時期に成立したものではなかった。例えば巻一、二は古撰の巻と言われ、この両巻だけ「何々天皇代」という標目をいちいち掲げて歌を配列している。そして、巻一は「雑歌」、巻二は「相聞」と「挽歌」に分かれ、両巻合わせて一つのまとまりを持つといえ、 巻三、四は巻一、ニの続撰であったものに、万葉集の最終編者に目される大伴家持が大伴氏関係の新しい資料を加えたものらしい。

巻五は筑紫の大宰府における大伴旅人と山上憶良かを中心とする歌集で、分類はなく、歌を記す表記の方法も他の巻と異なり、前後の 巻と関係を持たない異色の一巻。
巻八と巻十は四李に分類してあり、巻十一と十二は古今の相聞歌を作者の名を記録せずに集めたもので、巻十三は古い歌謡の流れを伝える 古形のものを多く含む。
巻十四は東歌として知られ、巻十六は物語歌や戯笑歌や地方民話などを集めている。
巻十七以降の四巻は大伴家持の歌を中心に、その周辺の歌を加えながら作歌年月日に従って記録したもので、巻十六までの十六巻とは全く 趣を異にする。巻十六までの各巻は、それぞれの巻の中では年代順の配列が基本となっているが、巻の順序は年代順とはかぎらないこ とに注意。
巻十六までの各巻に、作歌年時の明らかなもので天平十六年(七四四)より後のものは見られない。
天平十六年とは大伴家持が内舎人であった最後の年。そして、巻十七の家持の歌日記は天平十八年から始まる。天平十六年の後半から十七年いっぱい、万葉集は空白。
これこそ、巻十六までの万葉集第一部が編纂されていたための空白では・・・。
家持もまた、天平十六年夏に内舎人の任を終えた後、天平十八年三月宮内少輔に任官するまで、その官は空白。この時期、家持は万葉集第 一部の編纂にたずさわっていたのでは・・・。
万葉集巻二十の最後の歌は、天平宝字二年(七五九)正月元日、家持が因幡国守として国庁での宴席に歌った賀歌。家持四十二歳、このあ と六十八歳で没する・・・・・希望の時代であった。



森

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