元気のでる館万葉の世界巡り 柿本人麻呂
島根県益田市に柿本人磨神社があります。(全国に70社以上)石見国高津(益田市上高津町)の人麻呂神社創建は神亀 元年(724)と伝えられています。
我が国最古の歌集『万葉集』には部立と呼ばれる三つのジャンルがある。相聞、挽歌、雜歌である。相聞は男女間の恋愛歌を中心とするが、男女関係以外の歌もあり、総じて言えば愛の歌である。挽歌は棺を引くときの歌で、死を悼む歌。雑歌がそれ以外の歌。相聞と挽歌は愛と死という今も変わらない文学のテーマを早くも表している。石見には相聞と挽歌を詠んだ万葉最大の歌人、柿本人麿の足跡が残る。石見では人麿は人丸と呼ばれる歌の神である。その石見相聞歌は人麿が石見の国から妻と別れて都に上るときの歌。石見挽歌は妻を思いつつ、そこにたどりつけないまま亡くなることを詠んだ歌。人麿は任地石見でそのままその生涯を終えたのでしょうか。歌人斎藤茂吉は終生人磨終焉の地を追い求めています。
御縁ライン 柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ) 生没年未詳 (648?-709?)
柿本朝臣は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和邇(わに)氏の一族で、春日氏・粟田氏などと同族。大和国添上郡柿本寺(奈良県天理市櫟木町)付近の地名を名としたという。
姓ははじめ臣、天武十三年、八色の姓制定に際し、朝臣を賜る。生年は不詳ですが、大化元年(645)前後と見る説が多く、人麻呂が宮廷歌人として万葉集に登場するのは持統天皇代からで、最初の歌は持統三年(689)の草壁皇子挽歌(2/167-170)。また「近江荒都歌」(1/29-31)は持統二年(688)の作と見る説があります。

 持統四年(690)二月の吉野行幸に従駕し、歌をよむ(1−36-39)。
翌持統五年九月、川島皇子が薨じ、泊瀬部皇女に献る歌(2−194-195)がある。
 持統十年(696)七月、高市皇子が薨ずると、挽歌を詠む(2−199-202)。大宝二年(702)冬には持統上皇の東国行幸がなされているが、人麻呂がこの行幸に従駕した形跡はない。
 万葉集の歌を見る限り、宮廷を離れた人麻呂は、和銅元年以降、筑紫に下ったり(3−303・304)、讃岐国に下ったり(2−220-222)した後、石見国で妻に見取られることなく死んでいる(2−223)。
 柿本人麻呂は長く宮廷に仕えて、天皇を讃える歌、皇族の死を悼み、その功績を綴る挽歌など、たくさんの荘重な歌をのこしました。晩年は悲劇的で、持統女帝に忌避されて、遠い石見国で死去したと伝えられています。しかし、そのすばらしい歌、特に声調のととのったその調べは人々を感動させ、古くから「歌聖」と讃えられてきました。人麻呂は若いころ飛鳥に住んでいましたが、巻向(まきむく)の桧原(ひばら)のあたりに妻を住まわせていたようです。
痛足河(あなしがは) 河波(かはなみ)立ちぬ 巻目(まきもく)の 由槻(ゆつき)が嶽に 雲居立てるらし                      柿本人麻呂 巻七−一〇八七
あしひきの 山河の瀬の 響(な)るなへに 弓月(ゆつき)が嶽に 雲立ち渡る    同 巻七−一〇八八
 その妻は、天皇に仕える采女(うねめ)ではなかったかといわれ、采女は「禁断のおとめ」、臣下が勝手に恋したり妻問いしたりすることは難しく、そのためか、人麻呂はひそかにここに住まわせて・・・

ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音(かはと)高しも 嵐かも疾(と)き    柿本人麻呂 巻七−一一〇一

 万葉時代の夜は、今よりもずっと闇も深く音も静かな中、川音も古代人の耳に鋭くひびいたでしょう。「壬申の乱」ののち、近江朝廷は滅び、天武帝とその皇后だった持続女帝の時代がきましたが、人麻呂は滅びた近江の都を悼んで、次のように歌いました。
                    
 ささなみの 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ 柿本人麻呂 巻一−三〇
滅びて行くものの悲しみを人麻呂は共感をもつて歌い上げているのです。正式に帝位に即いた後、持統女帝は、藤原京を完成してここに移りました

采女めの 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く    志貴皇子 巻一−五一

天武帝の時代は明日香に都がありましたが、そのあたりの路上も、藤原宮へ遷都のあとはすっかり寂しくなっでただ風がむなしく吹いているばかりです。浄らかな衣の袖をひるがえして歩む采女の姿も、もう見ることもありません。時代は過ぎて行くばかりなのです。

持統・文武朝に宮廷歌人として華々しい存在から、その秀でた才能ゆえにか、何故か晩年国司として石見の国(現在の島根県西部)に赴任したと言われています。当時、石見の国庁は現在の浜田市にあり、山陰本線の下府駅(しもこう)のすぐ東に伊甘(いかん)神社という社があります。
その境内の椋木の陰に、国府あとの石碑が建っています。

人麿は任地石見でそのままその生涯を終えたのでしょうか。歌人斎藤茂吉は終生人磨終焉の地を追い求めています。必ずしも明らかではありませんが、万葉集では柿本朝臣人麿の次の歌が辞世の歌とされています。
「柿本朝臣人磨の石見の国にありて臨死らむとせし時に、自ら傷みて作れる歌一首」この題詞に続く02−223番の歌
 鴨山の岩根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
(鴨山の岩根を枕にふせっている自分を妻は知らないで、ひたすら待ち焦がれていることであろうか)
 その死の事情については、石見国で疫病死(斎藤茂吉)、同地で刑死(梅原猛)、持統崩後数年内に殉死(伊藤博)など諸説ある。万葉集には少なくとも八十首以上の歌を残している。また万葉集中に典拠として引かれている「人麻呂歌集」は後世の編纂と思われるが、そのうち少なからぬ歌は人麻呂自身の作と推測されている。 
没後人麻呂は歌聖として仰がれ、また神として祀られた。
石見国高津の人麻呂神社創建は神亀元年(724)と伝えられている


柿本朝臣人麿の死りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首
今日今日とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといはずもや      巻ニ−二二四
直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ        (同・二二五)
 終焉(しゅうえん)の地は?人麿の死の状況を・・・。人麿の妻、依羅娘子(生没年未詳)の歌には「石川」という川が出てくる。人麿は石川という川の近くの鴨山で死んだことになる。石川はどこに・・・

石見みの海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし潟は無くとも 鯨魚取り 辺べを指して 和多豆の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ夕羽振る 浪こそ来寄せ 浪の共 か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈毎に 万たび かへりみすれど いや高に 里は放りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山(巻二−一三一)
これは、柿本人麻呂が石見の国に来て、妻に別れて都へ上るときの歌です。
晩年の柿本人麻呂は、石見の国(島根県)の下府(しもこう)にあった国庁の役人になって赴任。
異説もありますが、「角の里」都野津というところに現地の妻を得たのではないかと思います。
この歌は、現地の政治の状況を報告する為に妻と別れて都へ上るとき、妻との別れがたさをうたったもの。
 当時、都までどのくらいかかるというと、平安朝の延期式によりますと、上り二十九日とありますから、ずいぶんと遠いところだった。国庁から都野津や江津にかけての海岸というのは、非常にきれいな海岸ですが、湾入も浦も干潟もない全く弓なりの海岸で、秋から春にかけて、この辺は、曇りがちで風も強く波も高い、そして砂丘が続いているところに海藻がうち上げられている、そうした荒涼とした景観を示しています。

「石見の海の都野の浦、入り江も潟もないと人はみるだろう ままよ、浦はなくとも、潟はなくともかまやしない。たとえ浦も潟もなくても海藻が寄せてくる」 と始まります。
「朝吹く風が寄せてくる、夕吹く風に寄せられてくる波、その波といっしょに、あっちへ寄ったり、こっちへ寄ったりしている玉藻、その玉藻のように寄り添うて共寝をしたあの女」と、やっとここで恋人が出てきました。「あの寄り添うた彼女、いとしい彼女、それを露霜のように都野の里へ置いてきてしまった。この道のたくさんの曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見るけれど、もういよいよ遠く村里は離れてしまった、いよいよ高く山も越えてきてしまった」
「夏草のように思いしおれていま頃は物思いに沈んでいるであろう彼女の家の門口を見ようと思う。山よ邪魔だから横に平になってくれ」
反歌を
石見のや 高角山の 木の際(ま)より  わが振る袖を 妹見つらむか   巻二−一三二

「石見の高角山(益田市高津)の寂しい木の間から、私が袖を振っている。彼女は見ているだろうか」

第二の反歌を
小竹(ささ)の実は み山もさやに さやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば   巻二−一三三

「笹の葉が山全体にさやさやとさやいでいるけれども、私は別れてきた彼女のことを思うよ」
いまは津野津は江津市内ですが、風の強い日にでもなれば、ほんとうに海岸には海藻が打ち上げられているだけです。ここに立ってみますと、そのまま人麻呂の恋情をじかに聞くような思いがするでしょう。おそらく、人麻呂の歌も石見の海の景観も、忘れ得ない印象になるにちがいないと思います。
 近江の都が廃都となった後には、あの人麻呂の歌がありましたが、その後栄えた此処もまた廃都となりました。志貴皇子には、ただしらじらと過ぎて行く風が、明日の香を運ぶ風とは思えなかったでしょう。志貴皇子の人生もまた、時のまにまに翻弄されたのです。 志貴皇子は天智帝の皇子で、壬申の乱の後は姉に当たる持統女帝の下にいましたが、少しでも目立てば生命も危うくなりかねません。大津皇子の例もあります。鳴かず飛ばず、じっと我慢して生きて釆たのでした。
 持続女帝が崩御した後、はじめて迎えた早春、志貴皇子はこう歌っています。
 石(いは)そそく 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも  志貴皇子 巻八−一四一八
「歓びの歌」として名高い歌ですが、これは単純な春の歓びの歌ではないのです。こののびのびとした、溢れるような息づかい、それは、長年抑圧されてきた女帝の翳からようやく解き放たれた、そのよろこびに満ちているのです。その歓びが、早春の光といっしょになって、現代人の心にも感動を伝えて来るのです。
 柿本援(佐留)(「サル」はけものへんに「爰」)が柿本人麿!?
柿本人麿と援を同一人物と考えるほうが、別人と考えるより、はるかに人麿に関するすべての文献および伝承が、首尾一貫して説明され、それによって万葉集の歌がより探く理解されることができるなら、詩人・柿本人磨は(万葉集には「柿本朝臣人麿」とある)、援(佐留)の近親者、おそらくは直系の子孫ということに・・・。
 人麻呂は援(佐留)の近親者、あるいは直系子孫ではないか!
朝臣が、援およぴ援の近親者にのみ与えられたという大前提と、柿本人麿は朝臣を名のっていたという前提から出てくる結論は、柿本人麿は援自身であるか、それとも人麿は援の近親、すなわち父子、兄弟または伯父・甥の関係になる。
柿本人麿は、暖自身であるか、あるいは柿本人麿は、援の近親者であるか(a柿本人麿と援の関係は、父子であるか、bそれとも兄弟または伯父・甥)
 まずbの可能性は、他の可能性より低い。というのは、無名の氏族・柿本氏が、一躍、朝臣姓を授けられたのは、柿本援の功績によるのであり、その朝臣姓は、おそらくは直系の子孫に限られると思う。

そう考えて歴史を調べ直すと、人麻呂がもっとも名高い歌「東の野にかぎろひの立つ見えて」を詠んだのは696年のことです。その前後で柿本サルという人物がいるのです。『日本書紀』の、681年12月に、柿本臣援(かきのもとのおみさる=柿本家の帝の家来であるサル)ら十人に小錦下の位を授け給ふ。
 また、684年には、八色の姓(やくさのかばね)「朝臣」を賜る。 とあり、人麻呂も「朝臣」です。
そして、『続日本紀』の708年4月20日に、従四位下、柿本朝臣佐留卒す(しゅっす=死んだ)。
 とあるのです。どう思いますか?もしかすると同一人物かも知れませんね。(一説によれば、当時この位の者は上から数えても30人程度のため作風、石見における職を考えるとその直系もしくはその子か・・)
四位では蔭孫(おんそん)の恩典はなく神亀、天平期に国司等に名の見える建石、浜名、市守までにつながる人麻呂か?727年建石の現れるまで空白の20年を埋める唯一の人物。一族の規模からすると佐留の嫡子か諸子と考えられる。  参考文献 人麻呂の鴨山
梅原猛さんは『続日本紀(しょくにほんぎ)』に「柿本朝臣サル」(「サル」はけものへんに「爰」)という人物が出てくる点を指摘、柿本人麻呂と柿本サルは同一人物であるという仮説を立てられています。柿本人麻呂2へ




森

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