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大伴坂上郎女「名家令嬢」/生没年不詳(700前後〜750以後)奈良朝の最盛期を 生きた女性

名門貴族大伴氏の娘であり、旅人の異母妹。家持の叔母、姑。起伏に富んだ生涯を送る

千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 止む時も無し わが恋ふらくは (巻四−五二六)

「千鳥の鳴く佐保川の瀬に止むことなく立つさざ波のように、あなたをお慕いする私の心のざわめきも、止むことが ありません」

夏の野の 繁みに咲ける 姫百合 知らえぬ恋は 苦しきものそ (巻八−一五〇〇)

「夏の野の繁みにひっそりと咲く姫百合が誰にも知られないように、あの方に知ってもらうことのできない恋は、 何と苦しいものなのでしょう」

額田王、持統天皇らの歌とは少し感じが違っています。前期の素朴な、大らかな歌いぶりとはちがい、技巧的で軽妙な詠み口。一般に、初期万葉(六百年代、天智帝、天武帝・持統帝)の歌は重 厚で、後期万葉(七百年代の奈良朝になってからの時代)の歌は繊細で技巧的とよくいわれますが、坂上郎女の歌にも、そうした後期の特徴が出ています。



父は、大伴安麻呂。壬申の乱(六七二)では大海人皇子の側について戦って、大和の争奪で功をあげ、のち累進して 七〇五年(慶雲二)には大納言にまで昇った重臣。佐保の地に邸をかまえたため「佐保の大納言」と呼ばれました。坂上郎女はこの邸で育ち、その後も長くここに住んでいたので、彼女の歌には「佐保」の地名がよくでてきます。母は石川内命婦。坂上郎女は、のちに長くこの母ととも に暮らすことになります。ほかに、巨勢郎女を母とする兄弟として旅人、田主宿奈麻呂がいました。このうち、大伴宗家を継いだのは、万葉有数の歌人として知られる旅人ですが、その生年は六六五年(天智四)とされているので、兄妹とはいいながら坂上郎女より三五歳も年上という ことになります。この旅人の子が家持です。坂上郎女は、このような華やかな名家の娘として、そして旅人をはじめ父や兄弟のすべてが万葉集に歌をのこすという文書の香り溢れる環境のなかで、おそらくは才気煥発なお嬢さんとして成長しました。ちなみに、彼女の名、大伴坂上郎女は呼び名であって姓名ではありません。彼女が住んだ佐保の邸通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町。一説 に生駒郡三郷町立野)に住んだためという。「坂上郎女」はあくまでも親族内部における呼称(あだ名)であり、例えば藤原麻呂との贈答 歌においては、単に大伴郎女と呼ばれています。(実家である大納言邸であるかどうかは定かではありませんが)が「坂の上の里」にあったか らで、「郎女」は「お嬢さん」というほどの一般名詞です。「大伴家の出身で、坂の上の里に住んでいるお嬢さん」、これが大伴坂上郎女の名の意味するところなのです。


一三、四歳になったころ、披上郎女は最初の結婚をしました。相手は、穂積皇子(天武帝の子)七〇五年(慶雲二)には事実上の政府首班である知太政官事に任ぜられ、藤原京末期から奈良朝初期の政界に重きをなしましたが、万葉の世界では、異母妹・但馬皇女との若き日の悲恋で知られています。そのとき但馬皇女がつくった、「人言を繁み言痛み己が世に末だ渡らぬ朝川渡る」(人の噂があまりに激しいので、あの方は邸の外に出ることができなくなってしまった。 だから女の私が、辱もはしたなさもかなぐりすてて、まだ人目につかない早朝に、川を渡ってあの方のもとへ行くのだ。)巻二−二一六は、つきつめられた思いと行動が胸を打つ、情熱的な愛の歌として有名です。しかし、この恋は、但馬皇女がすでに高市皇子に嫁 いでいる身であったためか、ついに実ることはありませんでした。そして、その但馬皇女が七〇八年(和鋼元)に亡くなったとき、すでに壮年 に達していた穂積皇子の名高い挽歌。 但馬皇女 薨りましし後、穂積皇子、冬の日雪の落るに、遥かに御墓を見さけまして、悲傷流涕して作りましし御歌一首

 降る雪は あはにな振りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに (巻二−二〇三)

「雪よ、あまりたくさん降らないでおくれ。あの人が眠っている吉隠の猪飼の岡が寒いだろうから」

坂上郎女が嫁いだのが七一三、四年のころとすれば、穂積皇子は少なく見積もっても四〇歳はとうにすぎていたはずですから、親子以上に年の差のある夫婦だったことになります。穂積皇子にはこんな歌があります。

家にありし 櫃にかぎ刺し 蔵めてし 恋の奴の つかみかかりて (巻一六−三八一六)

「家にあった構に鍵までかけ、しっかり閉じ込めておいたはずの、あの恋という奴が、いつの間にか抜け出して私を悩ませ るとは…いやはや」

穂積皇子は、宴席ではいつもこの歌を高らかに誦してはたのしんでいました。これが坂上郎女との恋を詠んだ 歌とは思いませんが、哀切な挽歌をつくるかと思えば、こんな洒脱な一面もある、なかなかに人間味豊かな皇子の人柄がしのばれます。万葉集の坂上郎女の歌の注に「この上なく寵愛を受けた」とあるところをみると(巻四−五二五〜五二八の左注)、彼女は包容力のある皇子の愛 につつまれて幸せな結婚生活を送ったようです。しかし、その生活は、ごく短期間で終わります。七一五年(霊亀元)、穂積皇子が薨じてしまったからです。二年足らずの結婚生活でした。坂上郎女が二回目の結婚をしたのは、二〇歳のころ、七二〇年前後と見られています。相手は、これも大物の藤原麻呂(六九五〜七三七)。いうまでもなく藤原不比等の四男で京家の祖です。このとき、麻呂が坂上郎女に贈った歌三首が万葉集に収められています。うち一首。

むしぶすま 柔やが下に 臥せれども 妹とし寝なば 肌し寒しも (巻四−五二四)

「カラムシでつくった柔らかい布団にくるまって寝ているけれども、今夜はあなたと一緒でないから、私は体が冷たくてた まらないのだよ」
この贈歌に対して和えた歌四首が、坂上郎女の作歌年代としては一番古いものです。

「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時も無しわが恋ふらくは」の歌は、その第二首です。

第三首は
来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを (巻四−五二七)

「あなたは、来るとおっしゃっても来ない時のある方だから、来ないとおっしゃるのに来るのではないかと思ってお待ちしたりはしませんわ。だって、来ないとおっしゃるのだもの」

このような歌づくりの感覚は、天武帝吉野行幸時の歌
「よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見」(巻一ーニ七)
を例外として、それ以前にはありませんでした。

佐保川の 岸のつかさの 柴な刈りそね 在りつつも 春し来らば 立ち隠るがね(巻四−五二九)

佐保川の崖(がけ)の高いところの雑木を刈らないでね。このままにしておいて春が来たらあのひとがそこに
   隠れるために役立つだろうからね。


こんな戯れ合うような歌のやりとりまでした麻呂と坂上郎女ですが、二人の仲はそれほど長続きしません。おそらく、ニ年程度ではないでしようか。結婚というより、むしろ一時的な恋のようなものです。父親である藤原不比等が、二人の関係をどう扱ってよいか、因っていたのでしょうか?。石川内命婦は察しが早く、最初のうちは諦めて傍観していたが、郎女の様子が変ったので早速に旅人に相談した。「難しいところにさしかかりまし たな」旅人は暗い顔になった。不比等からこのつきあい止められているとしか考えられない。しかし、あまり事を荒立てると、麻呂の立場がなくなる。何と言っても皇子の元夫人(皇子の死後七年間以内に再婚すると元夫人の地位を失う)に通ったのだから、旅人には不比等の打つ次の手が読めなかった。こうしたことが何よりも苦手の旅人であった。不比等は先年、病を理由に太政大雪固辞している。本当に身体の工合が悪いかどうか分らないが、もし不比等が死ねば、藤原四兄弟がどのような動きをするか分らない。最も年若な麻呂が不比等にとっては不安なのだろう。強力な後楯のある配偶者を考えているのかもしれない?。坂上郎女の三回目の、そして最後の結楯は、藤原麻呂と別れた直後の七二〇年代前半、相手は異母兄の大伴宿奈麻呂でした。宿奈麻呂の生年は不詳ですが、七〇八年(和銅元)にすでに従五位下に叙せられているので、坂上郎女より一回り以上、またはニ○歳以上、年上であることは確実です。この結婚で、坂上郎女は二人の娘を産みました。坂上大嬢と坂上二嬢の姉妹です。ところが、夫の宿奈麻呂が七二四年(神亀元)以降、『続日本紀』の記述から消えてしまうのです。どうも、このあたりで死別したらしいというのが通説です。とすると坂上郎女はようやく二〇歳代の半ばにさしかかったばかりの年齢で、二人の幼い子持ちの寡婦になってしまったことになります。まことに運が悪かったとしか言いようがありませんが、しかし実は、歌人としても、生活者としても、彼女がその本領を発揮するのは、これからなのです。坂上郎女の異母兄、中納言大伴旅人が、筑紫(福岡県)の太宰師(だざいのそち)に任ぜられ、長年連れ添った妻の大伴郎女(坂上郎女ではありません)を伴って着任したのは、前年(七二八)春のことでした。しかし、着いて一ヵ月ほどで、大伴郎女が亡くなってしまいます。坂上郎女が一人はるばると太宰府へと向かったのは、その翌年(七二九・天平元)のはじめ頃だったと思われます。この九州行きの目的については、旅人の後妻におさまったという説などもありますが、ここでは、 大伴一族の将来を案じた旅人が、一族の中心にどっかと座り、家政を取り仕切る「家刀自」として坂上郎女を指名し、それに応じた彼女が、さ しあたっての家政処理のため下向したと考えたいのです。何といっても、旅人はすでに六五歳になろうかという高齢であり、一方、宗家を継ぐべき長男家持は、まだ一〇歳に過ぎなかったのですから…。事実、これ以後の彼女は、由緒ある大伴一族のために、その能力一杯尽く していくことになります。一家の刀自として、また大伴氏の巫女的存在として、また恐らくは家持の母代りとして等、様々な役割を担う。佐保・春日里・竹田庄・跡見庄など、各所で歌を詠んでいることが万葉題詞から窺える。額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したと の説が有力。万葉集に長短歌84首所載、女性歌人としては最多、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数。相聞の多くは社交性・虚構性の強いもの といわれます。さて、坂上郎女が太宰府に赴いたとき、同地では旅人とその友人や下僚ら歌好きたちが、筑紫歌壇ともいうべきサークルを 形成していました。主な歌人としては、まず何といっても山上憶良をあげなければなりませんが、その他にも「あをによし寧楽(なら)の京師(み やこ)は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」(巻三−三二八)で知られる小野老(おののおゆ)「世間(よのなか)を何に誓(たと)へむ朝びらき漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと」(巻三−三五一)で知られる沙弥満誓(さみまんせい)などがいました。ちょうど坂上郎女が大宰府に滞在していた七三〇年(天平二)の正月には、旅人の官邸に歌人たち三二人が集まり、それぞれが庭の梅を詠み込んだ歌を一首ずつつくるという空前の試み、いわゆる「梅花の宴」が催されています。旅人の名歌
「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(巻五−八二二)は、その折りに詠まれたものです。
七三〇年(天平二)一〇月、大納言に任ぜられた大伴旅人は、その年の暮れに帰京し、翌七三一年七月、おそらく佐保の邸で長逝しました。享年六 七歳。このとき坂上郎女は三〇歳をこえたばかり、娘の大嬢と二嬢はまだ一〇歳に達しない年頃であり、大伴宗家の相続者大伴家持も一三歳くらいの少年でした。まだ幼い娘たちの養育、家持を立派な後維者に育てげるための教育、そして名族大伴氏の家政の切り盛りと、三つもの大仕事を坂上郎女はこなさなければなりません。そして彼女は、彼女なりの決意と計算とでそれらをやりとげたと思います。 まず、おそらく七三三年(天平五)に、坂上郎女と大伴家持が和した歌から

月立ちて ただ三日月の 眉根掻き 日長く恋ひし 君に逢へるかも (巻六−九九三)
 「三日月のような形をした眉を掻きながら、やがて逢えるのでは、いつかは逢えるのではと長くお慕いしてきたあな たに、今日とうとうお逢いすることができました」

振仰けて 若月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも (巻六−九九四)

「空を振り仰いで三日月を見ると、ただ一目だけ見た人の美しい眉が思い出されてなりません」

三日月を題材にして、二人が和した歌です。坂上郎女の歌は、眉を掻くと思う人に逢える、という俚諺を踏まえたもの。これに対して家持は、 同じ俚諺を踏まえながら、恋への若々しい憧憬をうたっています。若々しいのも道理で、この年、家持は一六歳、この歌が万葉集に採られた家持の最初の歌ではないかといわれています。さらに、この二首の背景に は、家持と坂上郎女の娘・大嬢との恋があるといわれています。つまり、坂上郎女の歌は、大嬢になり代わってつくった代作で、家持はそれを承知で大嬢に対する恋心を表明した、というわけです。大伴宗家の継承を強固なものとしたい立場からは、家持と大嬢の結婚は願ってもないことでした。して、そのとおり、大嬢はのちに家持の正室となりました。坂上郎女の誘導は、功を奏したのです。

恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛(うつく)しき 言尽(ことつ)してよ 長くと思(も)はば (巻四−六六一) 

「恋うて、恋うて、やっと逢えたこのわずかなあいだだけでも せめてやさしい言葉を聞かせてください。
 二人の仲を、永く続けたいとお思いならば」


こちらは、下の娘ニ嬢の代作。恋する女の昔も今も変わらないニ嬢の歌は一首も残されていません。
ニ嬢になり代わって大伴駿河蘇呂におくった歌。大伴駿河蘇呂と二嬢も髄ばれたようですから、ここでもまた母はみごとに愛のキューピットの役目を果たしたことになります。もちろん坂上郎女は、大伴家の家刀自(いえとじ)の役目も、精一杯果たしました。ことに祭祀や行事などでは、式を取り仕切るとともにいくつもの儀式歌までつくって います。

木綿畳(ゆふだたみ) 手に取り持ちて かくだにも 我れは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも (巻三−三八〇)

「木縞でつくった幣帛を神前に捧げて、こんなにも私はお祈りしているのにそれでもあの方には逢えないのでしょうか」
「大伴坂上郎女、神を祭る歌一首 ならびに短歌」の反歌です。このような儀式の歌でも、君(この場合は、おそらく亡夫宿奈麻呂のことでしょう) に対する相聞歌の様相を呈してしまうところが、彼女らしいのです。

酒づきに 梅の花浮け 思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし (巻八−六五六)

「盃に梅の花を浮かべて、親しい者同士でたのしく飲み合ったあとならば、花は散ってしまってもかまわませんわ」

これもじつは、親族を招いた宴での歌。
一族の結束と発展を祈る席での歌にも、彼女の現世的で、一種享楽的な面がのぞいています。
大伴家の家刀自、そして恋多き女、坂上郎女は、結局、さまざまな局面で、かしこく人生をたのしんだ人でした。
一説によれば、彼女は八〇歳をこえるまで生きたようです。



森

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