元気のでる館ホーム > 万葉の世界巡り > 大伴家持(おほとものやかもち)/718(養老2)−785(延暦4)
大納言旅人(おおとものたびと)の嫡男。母が旅人の正妻でなかったのですが、大伴氏の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女の佐保川べりの邸で育てられる。その郎女とは11歳の年に、また父の旅人とは14歳の年に死別しており、さらにたった一人の弟書持とも越中守在任中に29歳で死別しています。大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけてさせられていました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に万葉集編纂の重要な役割を果たす力量・
識見・教養を体得します。妹には留女女郎と呼ばれた女性がいる。坂上郎女は叔母。子には永主がいる。「三十六歌仙」の1人。越中守などの地方官を経て、中納言に至る。天平10年(738)にはじめて内舎人として朝廷に出仕しました。その後、従五位下に叙せられ、天平18年3月には宮内少輔となります。同年6月、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京
するまでの5年間、越中国に在任していました。家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。その官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏と
の抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続け、家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとします が、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、万葉集に残した歌(4465・4468)からうかがうことができます。
天平宝字3年(759)正月1日、因幡国庁における新年の宴の歌を最後として、家持の歌は残されていません。万葉集もこの歌で終わっています。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかっていません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、死没地にも都説と多賀城説とがあります。晩年は藤原氏に圧されて不遇に終わる。延暦4年(785)68歳で病没しました。その死後20日、葬儀も終らぬうちに、藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が実子の永主とともに隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは大同元年(806)でした。『萬葉集』の大部分を編纂したといわれており、集中最多の479首が入集している。大伴家持(おおとものやかもち)によって編まれたこの歌集は、全二十巻・四千五百十六首は橘諸兄(たちばなのもろえ)の協力があったといわれます。「万葉集」の中でも最も後期に属する人ですが、天平時代といわれる文化的な成熟の中で、繊細鋭敏な感性と近代的感覚に満ちた歌を
たくさんのこしました。神亀四年(727)冬頃、大宰帥に任ぜられた父に随い、筑紫に下向する。当時大宰府には山上憶良・沙弥満誓ら文人が集い、筑紫歌壇を形成した。天平二年(730)末、父の大納言任命に伴い帰京したが、旅人は翌年七月死去した。少年期から坂上郎女をはじめ多くの女
性と歌を贈答した。天平十一年には「悲傷亡妾歌」を詠み、これ以前に側妻を失ったらしい。まもなく、坂上郎女のむすめ大嬢を正妻とした。若年から歌作りに精進したが、まもなく人麻呂・赤人ら宮廷歌人の伝統を意志的に引き継ぎ、万葉歌の世界を綜合した大歌人である。家持は、大伴坂上郎女というすぐれた女流歌人を叔母に持ち、その影響の下で歌才を伸ばしました。そしてその長女で幼なじみの坂上大嬢を妻に迎えました。越中国守として赴任した先に妻を迎えたころには、
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ 大伴家持 巻一九−四一三九
などの美しい歌を作りましたが、青春時代には、多くの貴族の女性たちとの恋愛があり、その歌のやりとりがたくさんのこされています。たとえば紀女郎(きのいらつめ)と家持とは、
戯奴(わけ)がため 我が手もすまに 春の野に 抜ける茅花ぞ 食して肥えませ 紀女郎 巻八−一四六〇
我が君に 戯奴は恋ふらし 賜りたる 茅花を食めど いや痩せに痩す 大伴家持 巻八−一四六二
「この主人さまが戯奴(お前)のためにわざわざわざ摘んだのですよ、茅花を食べてお肥りなさいな」
「いやどうも、その戯奴め(わたし)は御主人さま(あなた)に恋をしているらしいです。賜わった茅花を食べても痩せる一方でして」
と、お互にふざけて贈答のできる間柄です。紀女郎は紀小鹿ともいい、才気のある女性で、もと安貴王の妻でした。家持は年上の紀女郎に求婚したことがあるらしく、
神さぶと 否にはあらず はたやはた かくして後に さぶしけむかも 紀女郎 巻四−七六二
百年に 老舌出でて よよむとも 我はいとはじ 恋は益すとも 大伴家持 巻四−七六四
「神さびるほどに年を取っているから、否といっているわけではありません。でも、もし承知すると、あとで寂しい思いをするだろうと思いますから」
「いや、あなたが百歳になって、たとえ口の蹄まりがなくなって舌を出し、腰が曲ってしまっても、いといはしません。恋は増すとしましても」
という贈答が残っています。いくらか大げさな言い方は、茅花の贈答と同じ親しみにみちています。
家持はたぶん本気でこの年上の女性に心ひかれていたのでしょう。
家持は平城還都後の天平十八年(七四六年)六月、宮内少輔より越中国守に遷され、天平勝宝三歳(七五一年)まで、まる五カ年間、越中の国の守となって行き(越中では下僚の大伴池主とさかんに歌を贈答し、また異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌を詠む)、天平勝宝三歳に都へ帰ってきます。ところが都の情勢は一変している。家持は左大臣橘諸兄や右大弁藤原八束らのグループに近く、家持が尊敬していた聖武天皇はご病気がちで、政治の中心は橘諸兄から藤原仲麻呂、光明皇太后と孝謙女帝の三人にすっかり移り、大伴家や橘家はだんだんと没落していく、そういつた加速度的に政治不安がつのってきているときに、家持は都へ帰ってくる。都へ帰っての七年間の家持は実に苦しかったと思います。都では藤原仲麻呂が全盛で、天平勝宝八歳(七五六年)二月には、橘諸兄は宮中をついに追われ、五月には聖武上皇がお亡くなりになってしまった。仲麻呂の専横はますます盛んになって参ります。そこで反仲麻呂の空気が出てくる。家持の一族の中からも謀叛をしたというかどで逮捕される者も出てきた。そこで氏の長者である家持は一族を集めて、「族を喩す歌」という歌(巻二−四四六五から四四六七)をつくり、同族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。それは天平勝宝八歳の六月十七日のことです。
その歌の一つにこんなのがあります。
磯城島の 大和の国に 明らけき 名に負ふ伴の緒 心つとめよ (巻二十−四四六六)
「この大和の国に明々白々たる大伴という立派な名前を持っている表の者よ、しつかり気をつけるように」
、というのです。実に堂々としたが丈夫ぶりの歌でしょう。
ところが、同じ人が同じ日に病の床に伏して詠んだ歌″というのがあり
うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道をたづねな (巻二十−四四六八)
「生きの身は、本当に物の数でもない、はかないものだ。山川のさやけき見つつ仏道をたずねたい」
強く生きようと思ったり、人生がはかなくなったり、実に動揺している。まさに神経衰弱的状態といってもいいくらいです。天平勝宝九年(757)正月、橘諸兄が薨去。同年六月、兵部大輔に昇進。翌月には橘諸兄の子、橘奈良麻呂の乱があり、大伴家の一族ははとんど参加するが、事前にもれ、参加者はことごとく逮捕され、そして処刑されてしまいます。家持は咎めを受けた形跡がない。家持は、反仲麻呂の気持を持っているけれども、実行運動には飛び込めなかった。翌年、家持は因幡国の守として派遣されるわけです。この時の気持は、かつて越中国の守となって行くときとは全く違い、つまり都からはるかに離れ、いまや孤立無援の身の歌です。
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと) (巻二十−四五一六)
この歌は天平宝字三年(七五九)正月一日に、因幡の国庁で新年の宴会があった時に、因幡の国の守の大伴家持が詠んだ歌です。新年の年の始の初春の今日、さかんに雪が降っている。雪は豊年のしるしです。今、雪がしきりに降っているように、よいことが積もれ積もれ、というわけです。 そういったこの歌の背景にあるものを知った上でこの歌を読みかえすと、家持が、せめて今年だけでも良いことがあってくれ、と深い祈りをこめていることがよくわかるのではないでしょうか。 この歌は、『万葉集』のいちばん最後にあります。同時に家持がこの世に残した最後の歌でもあります。現在、鳥取市の南東四キロ、岩美郡国府町大字庁という村なかの共同作業場の隣りに、因幡国庁の跡があります。
二十年の後、家持は持節征東将軍として陸奥の軍に派遣されている最中、任地で病死した。
延暦四年八月二十八日、死去(公卿補任には「在陸奥」とある)。家持の死体は正式の葬式をされないまま放置された。家持の死の一か月ほど後に帝(桓武)の寵臣藤原種飴が暗殺された。家持がこの暗殺に関わったというのである。
事件は非常に不明朗な調べられかたをした。もともとこの事件は藤原が大伴をはじめとする古代からの貴族を抹殺するために画策されたものと思われた。種継を暗殺した男が白状して、今度の事件は帝(みかど)と種継による長岡遷都に反対する看が起した謀叛で、皇太子早良親王を擁立し朝廷を傾けようとするものであるという。
家持は皇太子博であったので早良親王の意を戴して種継暗殺の命令を発した、とされた。帝はこれに対して厳罰をもって望んだ。早良親王は廃太子、実際の暗殺者二人と首謀と覚しい大伴継人ら六人、計八人は斬首、家持は実行のときはすでに死んでいたにもかかわらず官名を剥奪、庄園を含め一切の私財を没収、後嗣の永主は隠岐に流された。ここに、古代の名門大伴の佐保大納言家は終わった。私財として没収されたもののなかにあった歌集が『万葉集』の原形であると言われています。最終官位は従三位。薨年は六十八歳か。ところが薨去の直後、大伴氏族の多くが関与した藤原種継暗殺事件に主謀者として名を挙げられ、生前に遡って除名される。
この処分は延暦二十五年(806)三月に至って解除され、家持は従三位に復位されました。
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