元気のでる館ホーム万葉の世界巡り 有間皇子(ありまのみこ) (640-658) 孝徳天皇の唯一の皇子。
母は阿倍倉梯麻呂の女。
645年、六歳のとき父が即位したが、外祖父である左大臣阿倍倉梯麻呂が薨じ、有力な後ろ盾を失う。
父帝654年10月、難波宮で崩御。658年に蘇我赤兄(そがのあかえ)に謀られ、謀反を計ったとして11月11日、藤白坂で絞首刑に処せられる。薨年十 九。万葉集には、護送の途次、岩代(和歌山県)で詠んだ歌二首が載る。

有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む 巻2-141
「磐白(いはしろ)の浜辺の松の枝を結ん(旅の安全や命の無事を祈るまじない)で、無事であれと祈るのだが、幸いにして命があったなら、ふたたび帰ってこの松を見よう」

家にあれば笥けに盛る飯いひを草枕旅にしあれば椎の葉に盛る     巻2-142
「家であれば器に盛るご飯を、旅にあるのでこうして椎の葉に盛ってたべることだ」もまた、神へのお供えをして息災を祈ったものと思われますが。この先に訪れる運命の前に、神に祈らんとする皇子の姿は悲しい。

大津皇子(おほつのみこ)/663−686
天武天皇の第3皇子。文武に優れたといわれている。
父(天武天皇)の死去の翌月(686年10月)に、謀反の嫌疑をかけられ自殺した。

経(たて)もなく (緯)ぬきも定めず 娘子(おとめ)らが 織る黄葉(もみちは)に 霜なふりそね 巻8-1512

石川郎女に贈った歌

あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れたち濡れぬ 山のしづくに 巻2-107

女性とどこか山の中で逢う約束をしたのでしょう。ところが女の方は約束の場所にとうとう来なかった。
けれども大津皇子はそこで夜通し待ち、その時の歌、「私は、山のしづくに濡れて待っていたよ、山のしづくに濡れてさ」 というのです。ここで山のしづく″という言葉は、夜じっと彼女を待っている、すると木の葉にたまった夜霧が、ポタリ、ポタリと落ちてくる感じと、胸の動悸ま で伝わってくるような言葉、それが山のしづく。
言葉には人の心の厚みがついたものとそうでないものがあります。
例えば「愛している」などという言葉は、ただそれだけで、その人独特の心の厚みも何もない。
言葉は人の心の厚みが加わってはじめて生きてくるのではないかと思う。
だから万葉の歌は千三百年も前の古いものですが、いつまでたっても日本の言葉のあるかぎり生きているわけです。
ですからみなさんもいろいろな機会に万葉の歌を読むと、自分の忘れていた心の世界を発見できます。
私たちは日常生活の中でもそうした豊かな心の厚みのある言葉を使いたいと思う。

歌というのは、心の音楽五・七・五・七・七という短い言葉の中で、同じ言葉を繰り返すと、どうしても意味は単純になる。単純になるだけでなく、そこに気持が集中してくる。そしてすこぶる音楽的に。この歌は、二句目と五句めの「山のしづく」の二回の波で、大津皇子が石川郎女に寄せる愛情を訴えているわけです。そこで石川郎女は何と答えたか。

吾(あ)を待つと君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを   石川郎女  巻ニ−一〇八   
「私を待つというので、あなたはお濡れになったそうね。お濡れになったその山のしづくになりたかったわ」 と。

こういうのを相聞贈答歌といい、相手の言葉をしり取りのように受けとることが多いのです。
大津皇子が石川郎女に贈ったすばらしい愛情の波の歌。
それに対して、石川郎女が実に上手に受け答えて、力強く相手に打ち返しています


 


舒明天皇(じよめい)/593-641 敏達天皇(びたつ)の孫。妻は皇極(斉明)天皇、天智・天武両帝の父。
630年に飛鳥岡本宮に遷都。蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)父子の専制時代。大和には 群山あれど

とりよろふ 天(あま)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立つ立つ 海原(うなばら)は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は   巻1-2

大和には多くの山があるけれども、とりわけ立派なのは 天(あま)の香具山。その頂に立ち、国見をすると
国土には煙が立ちのぼり、海上には鴎がはばたきつづけている美しい国よ、 蜻蛉(あきづ)島、大和の国は

持統天皇(じとう)/645-702  天智天皇の第二皇女。天武天皇の皇后。
子の草壁皇子を皇位につけようとしたが皇子が早世。孫の軽皇子が成人するまで皇位についた。
藤原京への遷都。異腹子の大津皇子を暗殺?。

春すぎて 夏来にけらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山

今年もはや春すぎて、いつのまにか夏がきたらしい、天の香具山辺に、住む農夫が夏の用意のため、
白き夏の衣を天の香久山辺に、干してあるのが見える。
天の香具山は奈良県にあり、神が人間のうそ、まことを調べるときに、衣をほしたという伝説があります






天武天皇(631-686) 大海人皇子(おおあま)。天智天皇の弟。妻は持統天皇。
壬申の乱で甥の大友皇子(天智天皇の子・弘文天皇)を破り、飛鳥浄御原宮で即位。
「帝紀」「旧辞」の編纂、「八色(やくさ)の姓(かばね)」の制定を行う。
兄(天智天皇)と額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる恋の争いがあった?
孝徳天皇が亡くなった後、中大兄皇子が即位し天智天皇となり、都を一時琵琶湖のほとりの大津に移す。
当時日本と唐(中国)は対立関係にあり、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて百済救援に失敗(六六三年)した日本に唐が改めてくる可能性す らあったから。
この天智天皇が亡くなった後に起こったのが、日本最初の天下分け目の決戦・壬申の乱(六七二年)。

壬申の乱の勝者は、大海人皇子(おおあまのおうじ)つまり天武天皇。
「春過ぎて夏釆にけらし白妙の……」と詠んだ持続天皇は天武天皇の妃。
 この二人の間に生まれた子供たちが、日本で初めての恒久的な首都を建設しました。
それが平城京(七一〇年)。それまで日本の都というものは、原則として、天皇一代限り。
しかしそれではあまりにも不経済で、国も安定しないというところから、中国のように都を固定しようということになり、現在の奈良の地が選ばれた。この一家は必ずしも幸福ではなく、少し歴史に詳しい人はこの時代に女帝が続いたことを知っている。なぜそんなことになったかといえば、こ の一家にはなかなか男の子が生まれず、生まれても若死してしまうから。もちろん皇族といえば、天武系だけではなく、天智の系統もいます。
しかしその系統には絶対天皇の位を渡したくないとなれば、男の子が生まれるまで未亡人や叔母さんや姪が臨時について、天智系を排除するという形になります。それが持統、元明、元正たち。

この時代天皇になるためには、もうひとつ必要条件があり、父系は天武系で母系は藤原家でなければいけない、というルール。父親が天武系でも母親が藤原家の出身でなければ、その皇子はいつのまにか歴史から消える、という怪談のような話が実際にあった時代。しかしこんな無理なことをしていけば、そのうちにツケが回ってきます。久しぶりに、二つの系統の血を引いた男の子が生まれた時、その子はあまりにも病弱。
そこで藤原家では、一家の中で最も元気でバイタリティーのある女性を妃として、送り込みます。
これが聖武天皇と光明皇后夫妻となり・・・・?。

皇太子答御歌[明日香宮御宇天皇、諡曰天武天皇]
皇太子(ひつぎのみこ)の答へませる御歌[明日香宮に天の下知らしめしし天皇、諡(おくりな)して天武天皇]

紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも  巻1−21

紫草のように美しいあなたがを憎いのなら、人妻であるあなたをどうして恋いしたうことがあろうか

あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る 額田王 巻1-20

紫草の生えている野、御料地の野をあちらにゆきこちらに行きながら・・・野の番人は
見はしないでしょうか、あなたは、そんなに袖などお振りになって



森

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