元気のでる館ホーム > 万葉の世界巡り > 柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む
柿本朝臣人麻呂、在石見国臨死時、自傷作歌一首
(柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首)
原文 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
鴨山の 磐根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ 巻2−0223
「鴨山の 岩根を枕にして 死のうとしている私を そうとは知らずに妻は 待ち焦がれていることであろうか」
人麻呂は万葉集には少なくとも八十首以上の歌を残している。
万葉集中に典拠として引かれる「人麻呂歌集」は後世の編纂と思われるが、少なからぬ歌は人麻呂自身の作と推測される。
柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首 (柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首)
原文 旦今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方
旦今日々々々(あさけあさけ)と わが待つ君は 石見津(いわみづ)の貝に 交じりてありと いはずやも 巻2-0224
「朝も昼もと私が待ち焦がれているお方は、石見津(浜田川の河口)の貝に混じっているというではないか」
原文 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
直の逢ひは 相不勝(あひたへざらむ) 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ 巻2−0225
「直説に逢うのは 相不勝(おたがいにたえきれない)だろう 石川のあたりに 雲よ立ちわたれ せめて眺めてあの 方を偲ぼう」
(洪水により流され、浜田川の河口の砂浜で貝や砂にまみれた、無残な姿を貴方も私に見られたくないでしょう。
行きたくてたまらないのですが、行かずに、あなたのか顔や姿を、いつまでも私の心にとどめていたいのです)
丹比真人[名闕]擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首(丹比真人 名をもらせり、柿本朝臣人麻呂の意に擬へて報ふる歌一首)
意(こころ)に擬(なずら)へて−人麻呂の心をおしはかりその心になって
原文 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げなむ 巻2−0226
「荒波に打ち寄せられて来る玉を 枕辺に置き わたしがここに伏せっていると 誰が告げてくれることであろうか」
或本歌曰 (在本の歌に曰く) 左注 右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也
(右の一首の歌 作者未詳。但し、古本、この歌をもちてこの次に載す)
原文 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
天離る 鄙の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし 巻2−0227
「遠い国の荒れ野に あなたを置いて 思い続けていると 生きた心地ももない」
没後人麻呂は歌聖として仰がれ、また、神として祀られた。古田武彦氏は、人麻呂辞世歌 巻2−0223に着目。
「石見国に在りて」と石見国の何処と明記しないのは「石見国の石見で死んだ」からだと言う。
例をあげられ、「京都で死んだ」という。京都市の市内か郊外で死んだとき、この表現は正しい
「京都府の京都市で死んだ」などという必要はない。現在の浜田市が国府の所在地(浜田市国府町伊甘の石見国府跡)である。さらに、浜田市のど真ん中である「浜田城」のあるところが「鴨山」と呼ばれていたことも分かり、裏付け資料も見つかった。
浜田城は現在の浜田市中心部・浜田川右岸の通称亀山という独立丘陵にある。
元和5年(1619)に古田重治が大坂の陣の功績により、石見国に約5万石・丹波国に約5千石の所領を与えられ、伊勢国(三重県)松阪より浜田に転封、築城。城下町整備を進め、浜田川を挟んで、北と南に「城」と「城下」が分けられた。浜田市殿町の城山公
園に秋葉神社(浜田商工会議所真裏)がある。秋葉神社は、この地に以前からあった「柿本神社」をも合祀している。しかし浜田の人は古くから「ここが人麻呂終焉の地」と信じてきた。地元では城山公園を亀山の名で親しみ、そもそも初代藩主が築城し改名するまでは鴨山と呼ばれていた。斎藤茂吉も「鴨山考」の中で浜田を検討しており、浜田では国府にあまりに近く、依羅娘子が国府にいたとすれば、「知らにと妹が待ちつつあらむ」という歌の感じに適当ではない。この鴨山(亀山)はあまりに低い山で「鴨山の磐根し枕ける」という感じではなく、浜田川は小さい川で「石川に雲たちわたれ」という感じはしな
い(水底の歌)と茂吉はこの説を一蹴する。古田氏の「浜田説」が現時点では一番判り易い。古田氏の調査で「浜田川が石川と呼ばれていた」という資料が出、この川に洪水が多く「凡庸きわまる相貌の浜田川。いったん、水を吐きはじめると、手がつけられない。家屋は流され、人は死ぬ」という地元の人の話しから、「人麻呂は洪水で死んだのではないか」との仮説が立てられた。1570年、毛利軍と周布・三隅氏の連合軍との戦いを綴った「陰徳太平記」では、今の浜田川を「石川」と呼んでいる。
『水底の歌』(梅原猛著)は、柿本人麻呂の流罪刑死説を説き、終焉の地を石見(島根県)の高津(益田市)とする。
「草壁皇子を喪った(六八九)持統の晩年、高市皇子(後皇子尊)との関係は険悪なものであった。
しかし、この危機は、高市皇子の突然の死 (六九六) によって解決する。壬申の乱に参戦し
たと思われる人麻呂は、壬申の乱の英雄、高市皇子に寄せる激烈な挽歌をつくる。
これが、持統帝への露骨な挑戦と映ったものと思われ、藤原不比等がこれを増幅助長、天皇側近の立場を人麻呂にとってかわる。大宝元年(七〇一)頃から、人麻呂の姿が都から消える。讃岐のさみじま(沙祢島)、石見の角の里へと二度流罪となった。人麻呂の死を巡る歌五首が残されており、人麻呂は水死(刑死)したものと推定される。室町時代に作られたとする『生徹物語』(しょうてつものがたり)は、気になる一文を記載する、『人丸の御忌日(おいみぴ)は秘する事也。去程に、をしなべて知りたる人は稀(まれ)なり。三月十八日にてある也』と。人麻呂が死後間もなく神になり、その命日が三月十八日とされていることから、歌の名人だけで神になることができたか。三月十八日は、暮春の満月の後三日で、精霊の季節であり、死んで怨霊になった人に限られる」という。
柿本人麻呂は、何故・持統天皇の寵臣から、配流、左遷させられるまでに疎んじられ、刑死にまで追いやられたのか。
一般的には、高市皇子に対する思い入れが、その因を為したと説明されるが、高市皇子薨去前から、持統天皇の不興をかっていたと思われる。伊勢行幸にも、三河行幸にも宮廷歌人としての同行を許されていないのである。子息躬都良(みつら)に関して、隠岐島の五箇村に興味深い伝承が残っているという。「柿本躬都良は、隠岐の流人第一号である。文武の朝(みかど)、大津皇子が死を賜うのに連座して隠岐に流された。この事件が起きたのは天武天皇のときである。この頃、宮仕えしていた歌人に柿本人麻呂朝臣があった。その息子に美豆良麿(みつらまろ)といって年は十余歳、異母刀自(とじ)に懇篤(こんとく)な養育を受け、父に漢学和歌の道を習い、唐の高僧道照僧都(どうしょうそうず)に仏典を修め、容姿端麗、世に神童と呼ばれた美少年があった。帝の御覚えが厚く、ことに大津皇子との親交が殊のほか厚かった。この頃、皇太子草壁皇子は、御病にて御即位叶わず、かわって大津皇子が即位されようとした折柄、何者か阿閉皇后(あへのきさき)に、大津皇子に謀反の企てがある由を内奏したものがあった。大津皇子は、皇后の実子ではなかった。そこで帝の崩御の悲しみの中に、謀反を企てるようなことは、断じて許し難しということで、ついに皇子に死を賜り、常に扈従(こじゅう)していた美豆良麿も、その謀議に与(あずか)ったとして隠岐の島に遠流(えんる)された。さらにその父人麻呂朝臣を近流(きんる)に処し、皇后は自ら皇位に上ったのだ」とする。 この伝承に云う阿閉皇后とは、後の元明天皇(文武天皇の母) のことで、明らかに菟野皇后(うののきさき)
(後の持統天皇) の誤伝であるが、柿本人麻呂が、持統天皇に疎んじられる経緯をよく伝えている。
万葉集に、大津皇子に寄せる人麻呂の挽歌が見出せない事情も、歴然とする、注目すべき伝承です。柿本人麻呂3へ
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