元気のでる館ホーム > 万葉の世界巡り > 柿本朝臣人麻呂 かきのもとのあそみひとまろ (645?〜708?)
上代の史書にはその名が見えない。万葉集が唯一の確実な資料とされます。
柿本朝臣は、五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)命を祖とする和邇(わに)氏(蘇我氏と並び多くの皇后をだす)の一族で、春日氏・粟田氏などと
同族。三十代敏達天皇(572-585)の時、家の庭に柿ノ木があるにより「柿本臣」と称す。この時、春日氏から分家したとすると、人麻呂まで二・三代ということに
大和国添上郡柿本寺(奈良県天理市)付近の地名を名としたともいう。
姓ははじめ臣、天武十三年、八色の姓制定に際し、朝臣を賜る。持統・文武朝の宮廷で活躍した歌人。
人麻呂が宮廷歌人として万葉集に登場するのは持統天皇代から。
制作年の明かな最初の歌は持統三年(689)の次の草壁皇子挽歌(巻2−167〜170)。
| 天地之 初時 久堅之 天河原爾 八百萬 千萬神之 神集 集座而 神分 分之時爾 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 瑞穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮爾 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 上座奴 吾王 皇子之命之 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波乃計武跡 天下 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待爾 何方爾 御念食可 由縁母無 真弓乃岡爾 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言爾 御言不御問 日月之 敷多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 |
天地(あめつち)の 初(はじめ)の時 ひさかたの 天の河原に 八百万(やほよろず) 千万神(ちよろずがみ)の 神集(かむつど)ひ 集ひいまして 神分(かむわか)ち 分ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天地の 寄り合ひの極(きはみ) 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重(やえ)かき別けて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥(とぶとり)の 浄(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神(かむ)あがり あがりいましぬ わが王(おおきみ) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴(たふと)くあらむと 望月(もちづき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思い憑(たの)みて 天つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言(みこと)問はさぬ 日月の 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも |
天地創造の時のこと、 遥か彼方の天の河原に 沢山の神々がお集まりになり それぞれの治めるべき国々を 分けられた時に 天照大神には、 天を治められよ、ということになり 葦原の瑞穂の国を、 天地の続く限り 治められる神の命として 天雲の幾重をかきわけて 御下しになった 日の皇子は、飛鳥浄宮に 神として宮をしっかりと、御築きになり やがて天上を天皇の治められる永生の国として 天の原の岩戸を開き 神として天に上ってしまわれた。 その後、わが大君、 皇子である日並皇子が 天の下を治められたならば 春の花のように貴いであろう 望月のようにみちたりているだろう 天下の四方の人々は 大船にのったように思いたのみとし 天の恵みの雨が空から降るように仰いで待って いたが どのように思召されたのか ゆかりもない真弓の岡に、 宮柱をふとく敷き 御殿を高々とたてられて 毎朝御言葉も仰せにならず 月日が多くたってしまった そのために皇子に仕えていた人々は どうしていいか途方にくれている |
反歌二首
原文 久堅乃 天見如久 仰見之 皇子之御門之 荒巻惜毛
ひさかたの 天(あめ)見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門(みかど)の 荒れまく惜しも 巻2−168
「天空を望み見るように仰ぎ見た皇子の宮殿の、やがて荒れてゆくであろうことのかなしさよ」
原文 茜刺 日者雖照有 鳥玉之 夜渡月之 隠良久惜毛
あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠(かく)らく惜しも 巻2−169
「天つ日は今日も輝いているが、夜空を渡る月の隠れて見えぬことのかなしさよ」
幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌 (持統四年(690)二月の吉野行幸に従駕し、歌をよむ)
吉野の宮に幸いでます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌
原文 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃
大宮人者 船並弖 旦川渡 舟<競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高<思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可<問>
やすみしし 我が大王おほきみの きこしめす 天あめの下に 国はしも 多さはにあれども 山川の 清き河内かふちと 御心みこころを 吉野の国の 花散ぢらふ 秋津の野辺のへに 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並なめて 朝川渡り 舟競ふなきほひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水激みなそそく 滝の宮処みやこは 見れど飽かぬかも
巻 1-36
反歌
原文 雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む 巻1-37
原文 安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 <芳>野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為<勢><婆>
疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理 [一云 黄葉加射之] <逝>副 川之神母 大御食尓
仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
やすみしし 我が大王 神かむながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神やまつみの 奉まつる御調みつきと 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり ゆきそふ 川の神も 大御食おほみけに 仕つかへまつると 上かみつ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さでさし渡す 山川も 依りて仕つかふる 神の御代かも 巻1-38
反歌
原文 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも 巻1-39
制作年の明らかな人麻呂最後の歌−明日香皇女(天智天皇の皇女)薨去の際、挽歌を詠む(700年4月)。
題詞 明日香皇女木P殯宮之時柿本<朝臣>人麻呂作歌一首[并短歌]
(明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 并せて短歌)
原文 飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡 [一云 石浪] 下瀬 打橋渡 石橋 [一云 石浪] 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙
干者波由流 何然毛 吾<王><能> 立者 玉藻之<母>許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉
夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春都者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不Q 三五月之 益目頬染 所念之 君与時々 幸而
遊賜之 御食向 木P之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨 [一云 所己乎之毛] 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬 [一云 為乍] 朝鳥 [一云
朝霧] 徃来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者 遣<悶>流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶
天地之 弥遠長久 思将徃 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此焉
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉挿頭し 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを 巻2-196
短歌二首
原文 明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有萬思 [一云 水乃与杼尓加有益]
明日香川 しがらみ渡し 塞(せ)かませば 流るる水も のどにかあらまし [一云 水の淀にかあらまし] 巻 2-197
原文 明日香川 明日谷 [一云 左倍] 将見等 念八方 [一云 念香毛] 吾王 御名忘世奴 [一云 御名不所忘]
明日香川 明日だに [一云 さへ] 見むと思へやも [思へかも] 我が大君の 御名忘れせぬ [御名忘らえぬ] 巻 2-198
和銅元年(708)以降、筑紫に下り
題詞 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首(柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下る時に、海路にして作る歌二首)
原文 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
名ぐはしき 印南(いなみ)の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は 巻 3-303
原文 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と あり通ふ 島門(しまと)を見れば 神代し思ほゆ 巻 3-304
讃岐国に下り
讃岐狭<岑>嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
(讃岐の狭岑さみねの島にして、石の中の死人しにひとを見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 并せて短歌)
原文 玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 <船>浮而 吾榜来者
時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行<船>乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭<岑>之嶋乃
荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 欝悒久
待加戀良武 愛伎妻等者
玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて
我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど
名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば
来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは 巻2-220
反歌二首
原文 妻毛有者 採而多宜麻之 <作>美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也
妻もあらば 摘みて食(た)げまし 沙弥(さみ)の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや 巻 2-221
原文 奥波 来依荒礒乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞
沖つ波 来寄る荒礒(ありそ)を 敷栲(しきたへ)の 枕とまきて 寝(な)せる君かも 巻2-222
柿本朝臣人麻呂、在石見国臨死時、自傷作歌一首
(柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首)
原文 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
鴨山の 磐根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ 巻2−0223
「鴨山の 岩根を枕にして 死のうとしている私を そうとは知らずに妻は 待ち焦がれていることであろうか」
人麻呂は万葉集には少なくとも八十首以上の歌を残している。
万葉集中に典拠として引かれる「人麻呂歌集」は後世の編纂と思われるが、少なからぬ歌は人麻呂自身の作と推測される。
柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首 (柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首)
原文 旦今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方
旦今日々々々(あさけあさけ)と わが待つ君は 石見津(いわみづ)の貝に 交じりてありと いはずやも 巻2-0224
「朝も昼もと私が待ち焦がれているお方は、石見津(浜田川の河口)の貝に混じっているというではないか」
原文 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
直の逢ひは 相不勝(あひたへざらむ) 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ 巻2−0225
「直説に逢うのは 相不勝(おたがいにたえきれない)だろう 石川のあたりに 雲よ立ちわたれ せめて眺めてあの方を偲ぼう」
(洪水により流され、浜田川の河口の砂浜で貝や砂にまみれた、無残な姿を貴方も私に見られたくないでしょう。
行きたくてたまらないのですが、行かずに、あなたのか顔や姿を、いつまでも私の心にとどめていたいのです)
柿本人麻呂の略歴
『古事記』 では、柿本臣(おみ)は、「天押滞日子命(あめのおしたらしひこのみこと)の子孫」であるとし、
『新撰姓氏録』に、「大春日朝臣と同祖、天足彦国押人命の後なり、敏達天皇の御代、家の門に柿の樹有るによりて、柿本臣氏となす」とある。 柿本氏という氏族が、正史に登場するのは、天武十年(六八一) 十二月に、柿本臣?(かきもとのおみさる)が小錦下(しょうきんげ)を授けられたのに始まり、この柿本臣はそれから三年後の天武十三年(六八四)十一月に朝臣の姓を授けられている。『続日本紀』に、和銅元年(七〇八)四月「従四位下柿本朝臣佐留卒(さるそつ)」とある。
柿本人麻呂については、驚くべきことに、歌聖〃とも称される人物にも拘らず、正史にその記録を留めていないのであり、生没年、経歴は、全く不詳なのである。該当する時代の正史に記載ある柿本氏は、柿本臣猿と柿本朝臣佐留だけである。
『水底の歌』(梅原猛著)は、「人麻呂」も「猿」、「佐留」も同一人であるという。『続日本紀』 に記載する従四位柿本猿(佐留)の和銅元年(七〇八)四月死去時の年齢を六〇歳と仮定し、「人麻呂」と「佐留」が同一人物であると仮定すると、「人麻呂」は、大化四年(六四八)の生まれで、壬申の乱時(六七二)、二五歳の青年となり、天武十年(六八一)、三四歳にて小錦下(従五位下)を授けられたことになる。持統三年(六八九) 「柿本朝臣人麿歌集」と題する恋愛歌集をもち、宮廷歌人として華々しく登場する。「歌集名」に朝臣を冠しており、「人麻呂」は、やはり「佐留」と同一人と解すべきで、宮廷歌人として絶頂期にあった筈の柿本人麻呂は、伊勢行幸にも、三河行幸にも同行を許されず、持統十年(六九六)七月、高市皇子薨去に伴い、「高市皇子に寄する激烈な挽歌」を歌い、持統帝の不興を更にかうことになる。中世の万葉学の必読参考書であったと云われる由阿(ゆうあ)の『詞林釆葉抄』(しりんさいようしょう)には、こんな記載が見られる。
石見風土記に云く、天武三年八月人丸、石見守に任ず、同九月三日、左京太夫正四位上に任ず、次年三月九日、正三位兼播磨守に任ず云々と。これより以来、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙の御宇に至るまで、七代の朝(みかど)に奉仕するものか。是に於て、持統の御宇に四国の地に配流され、文武の御代に東海の岬(ほとり)に左遷さる。子息躬都良(みつら)は隠岐の嶋に流され、謫所(たくしょ)に於て死去す云々と。かくの如く沈淪(ちんりん)の時分死生の真偽定まらざる者か」。
柿本人麻呂の「束海の岬への左遷」については、『尾参郷土史』文武天皇項に、記載がある。
柿本人麿、遠江国司となりて三河国よさみを過るとて歌よみ給ひし、
あをみつら よさみのはらに 人にあはぬかも いははしの あふみあがたの ものがたりせん
「あをみつら (青いつる草)」 の「みつら」が、隠岐に配流されたとされる子息躬都良を掛けたものか。
わが子の消息を想う人麻呂の悄然とした道行きが想起される。
没後人麻呂は歌聖として仰がれ、また神として祀られた。
大伴家持は倭歌の学びの道を「山柿之門」と称す(万葉集巻十七)
紀貫之は人麿を「うたのひじり」と呼ぶ(古今集仮名序)。
![]()
![]()
![]()
![]()
