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元気のでる館ホーム> 万葉の世界巡り>万葉集の重要性と万葉仮名皇国史観 |
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日本国(天皇家を中心王朝)を認定した当事国−唐朝の、「倭国」と「日本国」に対する根本認識 阿部仲麿は、天皇家から遣唐使として中国に至り、唐朝に「帰化」し、唐朝の大官を歴任し、洛陽に滞留五十年にして、その地に没した。旧唐 書の日本国伝に詳述されている。したがってこの日本伝の冒頭に書かれた「日本国」と「倭国」の関係、それは他のだれよりもこの阿部仲麿の証言、 その情報によるものと考えられる。彼は、その出生時は「倭国」時代であるうえ、「日本国」の大使であった。両国の関係を知らないはずがない。 阿部仲麿(小倉百人一首)七番目の歌より 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠のやまに 出でし月かも 阿部仲磨(701?〜770)孝元天皇の皇子、中務大師舟守の子 717年十六歳にて遣唐留学生となり、遣唐使大伴山守に随い入唐 姓名を朝衡と改め、船の難破等により53年間帰国できず、その間常に王維李白等と往来し、外国の人の尊崇を受け、唐に仕へて、左散騎常侍鎮南都護となり、770年、七十九歳にて卒す 「異郷の地より遥かに遠く大空を眺めると、東の方にちょうど美しい月が出ている。あの月は、私の故郷の春日の里にありし時よく見馴れた、三笠の山に出ていた月と同じ月なのだなあ、故郷が思ひ出されて恋しいものよ」 唐の大官であるから、すでに「日本国」側の建て前、その「大義名分」のイデオロギーに遠慮する必要もなく、さらに、唐朝の記録官にとって、上官にして、本来「日本国」の人たる、彼の情報を無視することなど、不可能。旧唐書(945)は、唐朝滅亡直後、唐代の同時代史料によって編纂された。旧唐書の「倭国」「日本国」記述は、本質的に正しい。 七世紀末以前 − 倭国(九州) 八世紀以降 −日本国(近畿) この歴史は、古事記・日本書紀のしめす歴史像とは根本的に対立します。 「続日本紀」(697−791の歴史をつづる)にのこされた真実 続日本紀に元明天皇の慶雲四年(707)七月、次の詔勅が出ている。 「山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす」 「軍器」とは、正規の軍隊の戦闘に必要な、一切の器物。兵器はもちろん、指揮棒や太鼓や旗指物などのすべて。正規の軍隊が武装をして、山沢に「亡命」していた。「亡命」とは、権力の行政命令を拒否することをいう。正規の軍隊が、近畿天皇家の命令を「拒否」している。 ついで、元明天皇の和銅元年(708)正月。 前の記事からわずか半年あとの詔。同文で、「軍器」のところが「禁書」となっているだけ。後代の写本では「軍器」と直しているが、古い写本は「禁書」。「禁書」とは、当然ながら、近畿天皇家によって「禁じられた」本。つまり、近畿天皇家の「正規のイデオロギー」と相反する「大義名分」に立つ書物、それをもっている。たいへんな事態だ。 この異常事態は、日本書紀からは説明しがたい。七世紀末の「天武紀」「持統紀」を見ても、そのような事態を「予想」させる、なにものもない。天下泰平だ。 |
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「大王(おおきみ)」から「天皇」に変わり,同時に「倭国(わこく)」から「日本」へ 旧唐書(945)「倭国伝」と「日本国伝」を併置 倭国−後漢の光武帝(25-57)に金印を授与 一つの大島を中心に群小島により取り巻かれている「701年」まで続く 日本国−西と南は大海に到り、東と北は大山を限りとす 新唐書(1060)日本伝のみ 「日本、古(いにしえ)の倭なり」 新唐書百済伝に 「高麗・倭よ連和す」 「阿毎家(倭国王)32代に到り分流が生じ、東の大和州に移りその地に割拠した 分流貴族は600年頃、初めて隋王朝と接触「本家阿毎(あま)多利思北弧(たりしほこ)の代理を称す。分流の初代は、神武 以後代々を記す。最後は光孝天皇(884-887) |
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柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首 (柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首)原文 旦今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方 旦今日々々々(あさけあさけ)と わが待つ君は 石見津(いわみづ)の貝に 交じりてありと いはずやも 巻2-0224 「朝も昼もと私が待ち焦がれているお方は、石見津(浜田川の河口)の貝に混じっているというではないか」 原文 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲 直の逢ひは 相不勝(あひたへざらむ) 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ 巻2−0225 「直説に逢うのは 相不勝(おたがいにたえきれない)だろう 石川のあたりに 雲よ立ちわたれ せめて眺めてあの方を偲ぼう」 (洪水により流され、浜田川の河口の砂浜で貝や砂にまみれた、無残な姿を貴方も私に見られたくないでしょう。行きたくてたまらないのですが、行かずに、あなたのか顔や姿を、いつまでも私の心にとどめていたいのです) 丹比真人[名闕]擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首(丹比真人 名をもらせり、柿本朝臣人麻呂の意に擬へて報ふる歌一首) 意(こころ)に擬(なずら)へて−人麻呂の心をおしはかりその心になって この丹比真人は「丹比真人笠麿」か「丹比真人島」のいずれかとみられる。歌風からすると笠麿か? 原文 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告 荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げなむ 巻2−0226 「荒波に打ち寄せられて来る玉を 枕辺に置き わたしがここに伏せっていると 誰が告げてくれることであろうか」 「丹比真人」−真人といえば八色の姓(天武十三年制定)の最高位。倭国最高位の高官が人麻呂と妻依羅娘子に捧げた。それに対して、宮廷歌人として仕えた日本国・近畿大王家内には一人として「挽歌」を呈した人がなかった。当時 藤原鎌足は一階級下の人麻呂と同じ朝臣(巻1-16題詞参考)、天武天皇(天渟中原瀛真人・アメノヌナハラオキノマヒト諡おくりなして天武天皇という)が真人で同格。上記 天武天皇−真人・鎌足−朝臣・人麻呂−朝臣は7世紀末までに「倭国」より任命されたものか 八色の姓は倭国(白村江の戦662あるいは663で百済と共に唐・新羅と戦い百済は滅び国力が衰退)より発布された制度か 或本歌曰 (在本の歌に曰く) 左注 右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也 (右の一首の歌 作者未詳。但し、古本、この歌をもちてこの次に載す) 原文 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし 巻2−0227 「遠い国の荒れ野に あなたを置いて 思い続けていると 生きた心地もしない」 この時石見の国を管轄する上級官庁は大宰府であるので、すぐに報告があり、かって若き日ともに登竜の道を歩んだ友(大伴旅人・山上憶良・丹比真人等)が集まり、今は非業の死を遂げて帰らぬ人となってしまった。やるせない、その思いが友人の手で後世に残る形で、人麻呂歌集、万葉集の編纂に−中心は憶良から家持へ。巻2−0227は億良の歌という説もある。 没後人麻呂は歌聖として仰がれ、また神として祀られた。 人間の歴史に権力は生まれ、消え去る。権力者の忌避にふれエリ−トコ−スからはずれ遠い石見の地へ左遷された人麻呂・太宰府にある大伴旅人(家持)・山上憶良・丹比真人の歌と真実は時代をこえ永遠に生き続ける−栄光はどちらに! 古田武彦氏は、人麻呂辞世歌巻2−0223に着目する。 「石見国に在りて」と石見国の何処と明記しないのは「石見国の石見で死んだ」からだと言う。 万葉集中にある丹比真人の歌(同一人か否か?) 題詞 丹比真人歌一首 [名闕] (丹比真人歌一首 名をもらせり) |
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