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万葉集

元気のでる館ホーム万葉の世界巡り>万葉集の重要性と万葉仮名皇国史観
古代日本の文化と日本人の精神生活や当時の社会の様相を知る古典として、欠かすことのできない資料として、その重要性が認められる 万葉集(歌は見たまま感じたままを詠む−同時代史料)は、原本が現存しないため、その原文復元には大変な困難があります。古典の基本的研究は本文の吟味からはじまりますが、万葉集では、歌を漢字の音や訓を使って表現しています。このため現代の言葉にあてるの に音であてるか意味であてるか等で解釈に・・・。これを万葉仮名(まんようがな)といい、中には元々の漢字の表わす意味とは関係のない使わ れ方も沢山あります。この万葉仮名が、後にひらがな・カタカナに発展していったと考えられています。万葉仮名は、古事記・日本書 紀にも使われています。古い写本のほかに、有名なものは大正13年に刊行された「校本万葉集」。そして、我が国の古典研究における単語 索引の先駆けとして、万葉集に使用された単語の全てが検索できる「万葉集総索引」(昭和4〜6年)があります。しかし、「校本万葉集」 だけでは十分とはいえず、また「校本万葉集」自体に誤りがある箇所も見られ、各種古写本を直接見て比校すべき必要が生まれています。

正史から消える運命だった「万葉集と古事記」(万世一系の歴史に相応しくなかった)
万葉集の中には、「七世紀以前と八世紀以降との間には、深くて重い溝がある」
その歴史事実は、旧唐書の倭国伝と日本国伝の記すところ、倭国は筑紫、日本国は近畿が中心だった。万葉集の歌は、まさにその歴史事実と対応し て一致する。歌は同時代史料であるから、当然のこと。その歴史事実、旧唐書の記したところは、近畿天皇家の「第一の正史」である、日本書紀(万葉集と古事記の記述が一行もない)の告げるところとは、ちがっていた。「神武以来、近畿が中心」という「正史」の「建て前」とは、決定的に異なっていた。
旧唐書(945)「倭国伝」と「日本国伝」を併置
倭国−後漢の光武帝(25-57)に金印を授与 一つの大島を中心に群小島により取り巻かれている「701年」まで続く
日本国−西と南は大海に到り、東と北は大山を限りとす
新唐書(1060)日本伝のみ
「日本、古(いにしえ)の倭なり」 新唐書百済伝に 「高麗・倭と連和す」
「阿毎家(倭国王)32代に到り分流が生じ、東の大和州に移りその地に割拠した。分流貴族は600年頃、初めて隋王朝と接触「本家阿毎(あま)多利思北弧(たりしほこ)」の代理を称す。分流の初代は、神武 以後代々を記す。最後は光孝天皇(884-887)


600年 倭国王 国書を送る「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」隋書(636)によれば、倭国王 「姓は阿毎(あま)字は多利思北弧(たりしほこ)」王の妻を 「鶏弥(きみ)」 後宮に女六、七百人 という 隋朝−581〜618 (中国では一つの王朝終了後、次の王朝が歴史書を作るこの場合は唐朝が作成)
日本書紀ではこの日出処の天子を聖徳太子としているが太子は天子ではなく、この時は推古女帝(592-628)王の妻を「鶏弥(きみ)」後宮に女六、七百人があるはずもない

御縁ライン 「倭国万葉集」と「日本国万葉集」
 「古集」は、「七世紀以前」の「倭国の時代」に成立。これに対して「新集」は、八世紀中葉の成立。年代明記の最柊の歌は、天平宝字三年(759)、「日本国の時代」。
 したがって前者を「倭国万葉集」、後者を「日本国万葉集」と呼ぶべき。
 「倭国万葉集」には、公的な使者としての行動の歌等が収められ、倭国の公的な歌集であったと思われ、その中心地は「筑紫」。これに対し、「大和」を主題とした歌、それが「雑歌」の部に収められていた。
 巻一の冒頭には、「大和」を主題とした二篇の歌がある。
 題詞  雜歌 / 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌
 原文  篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
 「篭もよ み篭持ち・・・大和の謂おしなべてわれこそ・・・家をも名をも 」 雄略天皇   巻1−1 
 「大和には 群山あれど とりよろぶ・・・ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」 舒明天皇  巻1−2

二首とも、「大和主題」の歌。これ以下も、「近畿の大豪族」であった(八世紀以降)の天皇家にまつわる歌が、ここでは「雑歌」の部に収められていた。本篇である「倭国の王者や倭国の官職名」がちりばめられていた部分はカットされ、「雑歌」の部が活用され、その補篇として「採集」されたものが、巻三・巻四に収められている。けれどもカットしきれなかった部分で綻びをみせてしまう。「日本国万葉集」のお手本となった。この手本に従って、巻五以降が「追加」されて、現存の万葉集へと成長した。「日本国万葉集」には九州と瀬戸内海の人の作歌がない−「倭国万葉の世界」だった。倭国圏に属していた為、その地を舞台とした歌には、当然ながら「倭国の王者や倭国の官職名」がちりばめられていた。ゆえにその一切はカットされてしまった。「日本国万葉集」には載せられなかった。「七世紀の防人の歌」およぴ「白村江の戦をめぐる歌」がない−七世紀の防人は、「倭国」の防人であり、筑紫を原点とし、「都」とした、そのための「防人」であった。「白村江の戦は倭国の戦いであり日本国は参加せず(倭国は白村江の戦663で百済と共に唐・新羅と戦い百済は滅び国力が衰退。参加せず、兵力温存の日本国により併呑)

奥の細道 芭蕉 古今和歌集 川柳 中大兄皇子 小倉百人一首 参考文献

大伴家持
大宰府筑紫歌壇
人麻呂終焉の地
人麻呂、死に臨む
主な万葉の人々 
歴代天皇と出来事
御縁ライン
日本国(天皇家を中心王朝)を認定した当事国−唐朝の、「倭国」と「日本国」に対する根本認識

阿部仲麿は、天皇家から遣唐使として中国に至り、唐朝に「帰化」し、唐朝の大官を歴任し、洛陽に滞留五十年にして、その地に没した。旧唐 書の日本国伝に詳述されている。したがってこの日本伝の冒頭に書かれた「日本国」と「倭国」の関係、それは他のだれよりもこの阿部仲麿の証言、 その情報によるものと考えられる。彼は、その出生時は「倭国」時代であるうえ、「日本国」の大使であった。両国の関係を知らないはずがない。

阿部仲麿(小倉百人一首)七番目の歌より

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠のやまに 出でし月かも

阿部仲磨(701?〜770)孝元天皇の皇子、中務大師舟守の子
717年十六歳にて遣唐留学生となり、遣唐使大伴山守に随い入唐 姓名を朝衡と改め、船の難破等により53年間帰国できず、その間常に王維李白等と往来し、外国の人の尊崇を受け、唐に仕へて、左散騎常侍鎮南都護となり、770年、七十九歳にて卒す

「異郷の地より遥かに遠く大空を眺めると、東の方にちょうど美しい月が出ている。あの月は、私の故郷の春日の里にありし時よく見馴れた、三笠の山に出ていた月と同じ月なのだなあ、故郷が思ひ出されて恋しいものよ」

唐の大官であるから、すでに「日本国」側の建て前、その「大義名分」のイデオロギーに遠慮する必要もなく、さらに、唐朝の記録官にとって、上官にして、本来「日本国」の人たる、彼の情報を無視することなど、不可能。旧唐書(945)は、唐朝滅亡直後、唐代の同時代史料によって編纂された。旧唐書の「倭国」「日本国」記述は、本質的に正しい。
七世紀末以前 − 倭国(九州)
 八世紀以降  −日本国(近畿)
この歴史は、古事記・日本書紀のしめす歴史像とは根本的に対立します。
 「続日本紀」(697−791の歴史をつづる)にのこされた真実
続日本紀に元明天皇の慶雲四年(707)七月、次の詔勅が出ている。
「山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす」
「軍器」とは、正規の軍隊の戦闘に必要な、一切の器物。兵器はもちろん、指揮棒や太鼓や旗指物などのすべて。正規の軍隊が武装をして、山沢に「亡命」していた。「亡命」とは、権力の行政命令を拒否することをいう。正規の軍隊が、近畿天皇家の命令を「拒否」している。

ついで、元明天皇の和銅元年(708)正月。
前の記事からわずか半年あとの詔。同文で、「軍器」のところが「禁書」となっているだけ。後代の写本では「軍器」と直しているが、古い写本は「禁書」。「禁書」とは、当然ながら、近畿天皇家によって「禁じられた」本。つまり、近畿天皇家の「正規のイデオロギー」と相反する「大義名分」に立つ書物、それをもっている。たいへんな事態だ。
この異常事態は、日本書紀からは説明しがたい。七世紀末の「天武紀」「持統紀」を見ても、そのような事態を「予想」させる、なにものもない。天下泰平だ。
和歌 「大王(おおきみ)」から「天皇」に変わり,同時に「倭国(わこく)」から「日本」へ
旧唐書(945)「倭国伝」と「日本国伝」を併置
倭国−後漢の光武帝(25-57)に金印を授与 一つの大島を中心に群小島により取り巻かれている「701年」まで続く
日本国−西と南は大海に到り、東と北は大山を限りとす
新唐書(1060)日本伝のみ
「日本、古(いにしえ)の倭なり」 新唐書百済伝に 「高麗・倭よ連和す」
「阿毎家(倭国王)32代に到り分流が生じ、東の大和州に移りその地に割拠した 
分流貴族は600年頃、初めて隋王朝と接触「本家阿毎(あま)多利思北弧(たりしほこ)の代理を称す。分流の初代は、神武 以後代々を記す。最後は光孝天皇(884-887)
旅人と憶良 額田王 大伴坂上郎女 万葉集と万葉仮名 八色の姓 人麻呂の生涯
万葉集柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首 (柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首)
 原文 旦今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方
  旦今日々々々(あさけあさけ)と わが待つ君は 石見津(いわみづ)の貝に 交じりてありと いはずやも  巻2-0224
 「朝も昼もと私が待ち焦がれているお方は、石見津(浜田川の河口)の貝に混じっているというではないか」

 原文  直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
  直の逢ひは 相不勝(あひたへざらむ) 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ  巻2−0225
  「直説に逢うのは 相不勝(おたがいにたえきれない)だろう 石川のあたりに 雲よ立ちわたれ せめて眺めてあの方を偲ぼう」 (洪水により流され、浜田川の河口の砂浜で貝や砂にまみれた、無残な姿を貴方も私に見られたくないでしょう。行きたくてたまらないのですが、行かずに、あなたのか顔や姿を、いつまでも私の心にとどめていたいのです)
 
丹比真人[名闕]擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首(丹比真人 名をもらせり、柿本朝臣人麻呂の意に擬へて報ふる歌一首)
 意(こころ)に擬(なずら)へて−人麻呂の心をおしはかりその心になって
この丹比真人は「丹比真人笠麿」か「丹比真人島」のいずれかとみられる。歌風からすると笠麿か?

 原文 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
      荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げなむ  巻2−0226
  「荒波に打ち寄せられて来る玉を 枕辺に置き わたしがここに伏せっていると 誰が告げてくれることであろうか」

「丹比真人」−真人といえば八色の姓(天武十三年制定)の最高位。倭国最高位の高官が人麻呂と妻依羅娘子に捧げた。それに対して、宮廷歌人として仕えた日本国・近畿大王家内には一人として「挽歌」を呈した人がなかった。当時 藤原鎌足は一階級下の人麻呂と同じ朝臣(巻1-16題詞参考)、天武天皇(天渟中原瀛真人・アメノヌナハラオキノマヒト諡おくりなして天武天皇という)が真人で同格。上記 天武天皇−真人・鎌足−朝臣・人麻呂−朝臣は7世紀末までに「倭国」より任命されたものか
八色の姓は倭国(白村江の戦662あるいは663で百済と共に唐・新羅と戦い百済は滅び国力が衰退)より発布された制度か

或本歌曰 (在本の歌に曰く)   左注 右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也
(右の一首の歌 作者未詳。但し、古本、この歌をもちてこの次に載す)

 原文   天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
天離(あまざか)る 鄙(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし  巻2−0227
          「遠い国の荒れ野に あなたを置いて 思い続けていると 生きた心地もしない」 

この時石見の国を管轄する上級官庁は大宰府であるので、すぐに報告があり、かって若き日ともに登竜の道を歩んだ友(大伴旅人・山上憶良・丹比真人等)が集まり、今は非業の死を遂げて帰らぬ人となってしまった。やるせない、その思いが友人の手で後世に残る形で、人麻呂歌集、万葉集の編纂に−中心は憶良から家持へ。巻2−0227は億良の歌という説もある。 没後人麻呂は歌聖として仰がれ、また神として祀られた。
人間の歴史に権力は生まれ、消え去る。権力者の忌避にふれエリ−トコ−スからはずれ遠い石見の地へ左遷された人麻呂・太宰府にある大伴旅人(家持)・山上憶良・丹比真人の歌と真実は時代をこえ永遠に生き続ける−栄光はどちらに!
古田武彦氏は、人麻呂辞世歌巻2−0223に着目する。
「石見国に在りて」と石見国の何処と明記しないのは「石見国の石見で死んだ」からだと言う。

万葉集中にある丹比真人の歌(同一人か否か?)

題詞 丹比真人歌一首 [名闕]  (丹比真人歌一首 名をもらせり)
原文 宇陀乃野之 秋芽子師弩藝 鳴鹿毛 妻尓戀樂苦 我者不益
宇陀(うだ)の野の 秋萩しのぎ 鳴く鹿も 妻に恋ふらく 我れにはまさじ  巻 8−1609

題詞 丹比真人歌一首 (丹比真人歌一首)河内の国丹比郡。この一郷名に依羅娘子にちなみの「依羅」がある
原文 難波方 塩干尓出<而> 玉藻苅 海未通<女>等 汝名告左祢
難波潟(なにわがた) 潮干に出でて 玉藻刈る 海人娘子(あまおとめ)ども 汝(な)が名告らさね  巻9−1726

巻1−16の歌
天智天皇(中大兄皇子)が藤原鎌足に春と秋とどっちがすぐれているかを歌で競わせた時に額田王が、歌で意見を示したもの。

題詞 近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇謚曰天智天皇] / 天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌

原文 冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者
冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山ぞ吾は

春がやって来ると、鳥がさえずり、花が咲きます。けれども、山には木が生い茂っているので、分け入って取りもしない。
草が深いので手に取って見ることもできないのです。秋山は、紅葉した木の葉をとっていいなと思います。
まだ青いまま落ちてしまったのを置いて溜息をつくのが残念です。私はそんな秋を選びます。

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