元気のでる館ホーム > 万葉の世界巡り > 素晴らしい万葉の四季 梅の花 旅人と憶良2
大伴宿禰旅人 おおとものすくねたびと(665〜731)
父は、大伴安麻呂。壬申の乱(六七二)では大海人皇子の側について戦って、大和の争奪で功をあげ、のち累進して七〇五年(慶雲二)には 大納言にまで昇った重臣。佐保の地に邸をかまえたため「佐保の大納言」と呼ばれました。安麻呂の長男。家持・書持・留女之女郎の父。妻として大伴郎女が知られる。
万葉集には大宰帥大伴卿・大納言卿などの敬称で現れ、また自らは書簡文に淡等と署名しており、「旅人」の名は一度も見えない。続日本紀に は「旅人」「多比等」とある。おそらく、もとは「田人」では・・・。
731(天平3)年1月27日 従二位 臣下最高位となる。同年秋頃、「寧樂の家で故郷を思ふ歌」(巻6−0969・0970)。731年7月25日薨ず。大納言従
二位、67歳。 万葉に歌76首を載せる。
旅人は七三〇年、七年ぶりに帰京を許され、故郷の山河をふたたぴ目にした彼は半年後に死んだ。
九州時代の心境をかたる讃酒歌十三首のうちの一首。
しるしなき ものを思はずは ひと杯(つき)の にごれる酒を 飲むべくあるらし 338
黙(もだ)おりて さかしらするは 酒のみて 酔ひなきするに なほしかずけり 350
考えたってどうなる 人生はこれ一ばいのどぶろくにしかず なみなみと それふちまでついで
妹が見し あふちの花は 散りぬべし わが泣くなみだ いまだ干なくに 797
妻ははなしていた あふちは花ざかりだったと、もう花は散ったろう だのに、私の頬はかわかない
雨障わり つねする君は ひさかたの 昨夜(きそのよ)の雨に こりにけるかも 519
雨のきらいなあなた やっぱり来ない。こりたのかしら きのう 夜じゅうさんざ降ったからかしら
妻は帰京のニ年前に九州で死んだ。あふちはせんだんのこと。
旅人はこれですっかりカをおとし、病気になったらしく、帰京が許されたのは、このせいだといわれている。
妻の歌は若いころのものらしく、雨ざわりは雨つつみともよまれ、雨に弱いという意味です。
彼女が死んだとき、旅人は弔問の使者にこたえて、こう歌っています。
世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり 793
悔しかも かく知らませば あおによし 国内ことごと 見せましものを 797
旅人は七三〇年の暮もおしつまって大納言に昇進して帰京しますが、その出帆を見おくる人のなかに児島という名の(うかれめ)がいました。
遊芸で身をたてている女だろうが、当代の知識人を相手に堂々とした歌をのこしています。
おほならば かもかもせむを かしこみて 振りたき袖を しのびてあるかも 九六五
二人きりなら思う存分名をよびたい、でもあらたまった国守の見送りだから、入目にたたぬようにしています。
また姉のように海路を案じている歌も。
家思ふと こころすすむな 風まもり よくしていませ 荒らしその路 381
旅人はこの船が吉備の児島〔岡山〕にさしかかった時、こうよんでいます。
やまと路の きびの児島を すぎてゆかば つくしの児島 思はゆるかも 九六七
岡山県の児島半島は、遠く神話時代から砂鉄の産地をひかえていました。広島県の鞆〔福山〕とともに内海の中継地点としてさかえています。
吉備地方が鉄器と塩の生産を背景として西日本の一中心をなしていたことは、雄略が夫人(稚姫)をここから迎え、またその死後、彼女の子の星川 皇子がクーデターをおこした時、吉備勢力が軍船四十隻を仕立てて大和を攻撃しょうとした事実などからも想像されます。今も岡山県高松にのこる造山古墳は全長三五〇m、応神陵につぐ規模といわれます。なおこのとき星川を討伐したのが金村の父の大伴室屋です。また、みづくきの水城は、天智三年〔六六四〕唐・新羅連合軍の来攻にそなえて、博多湾にそそぐ御笠川に堤防をきづいて城砦と貯水池をかねたもの
で、いまでも高さ一四メートル、長さ一キロにおよぶ土堤がのこっていて、その両端には城門の礎石がみられるといいます。
わがいのちも 常にあらぬか むかし見し 鮎の小川を 行きて見むため 三三二
命がもてばいい ほんの少しだけ 見たいのだ そして聞きたい 生まれ育ったきさ川の
さらさら流れるのを
わが盛り また変若(おち)めやも ほとほとに 奈良のみやこを 見ずかなりなむ 三三一
きさ川は黒人のいう「きさの中山」の谷あいを流れる小川らしく、吉野の宮のあった宮滝の対岸にある喜佐谷がそれだといわれ、ななお同じ時 の作に、
わがゆきは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にあらなも 335
とあるのはこの谷川の落ち口だといわれ、下市のそばにある梅のわだがそれだともいう。
遠からず帰京してたずねるまで、どうか深い淵であってくれという歌で、今では文字通り瀬になっているよう。
旅人はかって元正女帝に従って吉野離宮にいた時、
むかし見し きさの小川を いま見れば いよよさやけく なりにけるかも 316
とよんだ頃を九州で何度も想い返していたのでは・・・。
大伴の氏の長者である旅人が、六十歳をすぎてこれほど長く太宰府づめになるのは、やはり藤原氏に疎外されたと見られます。もっとも、半島を失った大和朝廷が北九州の情勢に極度に敏感だったのは事実で、旅人の死後九年目におきる広嗣の反乱は、太宰府がこの武門の手
に委ねられる背景を裏書するのでは・・・。
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門閥はないが、旅人と同じような境遇にいたのが五歳年長の山上憶良。
彼は帰化系の知識人で、四十歳のころ遣唐使に加わり、七ニ一年左大臣の長屋王に見いだされ皇太子〔聖武〕の侍溝となる。家柄をもたない彼としては好運に恵まれたわけだが、好事魔多し、同じ長屋王の不興を買って筑前守として九州へ左遷された。時に六十七歳。七十歳になる憶良が、旅人の官舎の図書室で行なわれた送別宴でうたった作で、置きざりにされる老人の焦操のようなものが感じられます。
人もなき 空しき家は 草まくら 旅にまさりて 苦しかりけり 451
年があけて七三一年〔天平三〕七月、彼が病床につくと、朝廷は侍医の犬養人上を送って診察させたが「医薬験なく、ゆく水とどまらず」死去した。 この医師の歌が集中におさめられている。
見れどあかず いましし君が もみぢ葉の うつりいゆけば 悲しくもあるか 四五九
余 明軍は金明軍ともいわれ、半島の王族出身らしく、大伴家の会計などを管理していた執事である。
金村いらいのなごりなのか、この家には古くから帰化人の出入りが多く、のちにでる理願という新羅系の尼もここに身をよせている。憶良はすでに 帰京していて、旅人の葬送に参加したはずだが、挽歌がのこっていないのは、すでに病床にいたのでしょうか。
はしきやし さかえし君の いましせば きのふも今日も 吾を召さましを 454 余 明軍
人なつっこかった大伴の殿さま、おげんきだったらきっとおよびなのに、今日も きのうも
男(おのこ)やも むなしかるべき よろづ世に 語りつぐべき 名は立てずして 978 憶良
最晩年まで「おのこ」たるの志を抱いて生きた憶良の死に臨んでの想いが切々と・・・・。
彼はこの時、自分の名が後世に伝えられるとは夢にも想像しなかった。漢学に、詩歌に、当時の水準をはるかにぬいた俊才でありながら、門閥のないために晩年まで生活の不如意に悩まされた彼が、上使の面前でこの辞
世を朗々と吟じるというのは、いかにもありそうなこと。なまじ自信家であるだけに悔やしさは、人一倍だったのでは・・・。
幸いにして、古今の名歌を耳にするままに彼が書きつけていた類聚歌林というメモが、旅人の子の家持の手に伝えられたために、私たちは今この特 色ある人物について、ある種のイメージを描くことができます。
山上憶良は、社会のゆがみと人間の卑小さとに、すこしの妥協の手もさしだそうとせずに、自分の生地をつらぬこうとしてきた。彼がいわゆる新帰 朝者でありながら、その見聞と知識を律令体制のなかで生かしえず、また生かされることもなく九州で老いたのは、ひとつには彼の性格から・・・。彼自身は、それを門閥のせいにしたかったのでは・・・。
方葉集にのこされた彼の詩文から浮かびあがるのは、一人の均衡のとれていない人間の姿で、憶良は中央で官途につくには、いささか順応性に欠け すぎて・・・。歴史にもしはなく・・・、憶良にもうすこし適応性があれば、九州へ飛ばされることはなく、律令体制への切りかえに狂奔していた当時の官界は、
現代の大企業に似て、新帰朝者を遊ばしてはおかなかったのでは・・・。しかし、もし彼が九州へゆかなかったら、旅人一家もあれほどの和歌熱にはとりつかれず、憶良の「歌林」が家持の手に伝えられるチャンスもなく、万葉集を私たちに与えたのは、憶良のこの人間性だったのかも・・・。
彼は彼を理解し、彼をどうにか生きさせてくれる世界を、九州にきてはじめて発見した。
彼の心を感じとることができるのは・・・、彼は九州にきて、そこではじめて、疎外された者のつくる心の空間に目をひらかれ、万葉集というぜい たくな宴は、辺境に芽ばえた心のぬくもりが、少しずつふくらんだものかも・・・。
憶良は社会の虚偽と愚かさに、白い牙をむきつづけながらも、一方で日本の詩、ことに叙事詩としての長歌の可能性にはげしい意欲を燃やし、有名 な貧窮問答歌に、社会のひずみと政治の貧困が、年頁をとりたてる収税吏という姿であらわれてくるこの作品に。、古代、中世のどの詩人にもみら
れない詩人の姿勢ををみせます。人間いかに生くべきかの根本主題が、すでに八世紀という時期に、人間と社会との緊張関係のなかにとらえら れて・・・。
家族を思って詠んだ「思子等歌(こらをおもふうた)」や、
「憶良らは いまはまからん 子泣くらむ」で始まる有名な「貧窮問答歌」意味だけを(当時の社会の参考に) 「風交じりの雨が降る夜、雨交じりの雪が降る夜は、どうしようもなく寒いので、塩をかじりながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり、咳をしながら、 鼻をぐずぐずさせて・・・、私以上優秀な人はいないだろうと、うぬぼれてはいても、寒くて仕方ないので・・・、あるだけの衣を着重ねしても寒
い夜を、私よりも貧しい人の父母は、お腹を空かせて凍えている妻や子供たちは泣いているだろうに。こういう時は、あなたはどんな風に暮らして いるのですか。
天地は広いというが、自分には狭いもの、陽や月は明るいというが、自分を照らしてはくれないもの。
みんなそうなのか、自分だけがこのようなのか、人並みには私も汗水流しているのに、綿も入っていないし、ぼろぼろになった衣を肩にかけ、壊れ かけて曲った家の中の地面にわらをひいて父と母は枕の方に、妻や子どもは足の方に、取り囲むようにして嘆き悲しむ。かまどに火を炊くことはな
く、蒸し器にはクモの巣が張って、飯を炊くこともすっかり忘れてしまった・・・、これ以上短くはならない物のはしっこを切るとでも言うように、 鞭を持った里長(さとおさ)が、寝床にまでやってきてわめき散らす、こんなにもどうしようもないものなのか、世の中というものは」 892
九州筑前守としての勤務を終えて奈良の都で732年の歌といわれます
世の中は 憂しとやさしと 思へども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば 八九三
憶良が晩年になるにつれて一層執拗に追求したこのことばのあやへの工夫。
憶良に学んだ家持は、それを承けつぐには、あまりにも名門の氏の長者でありすぎ・・・。
憶良が模索したこの叙事詩の可能性が、ふたたび日本の詩人によって注目される時は、元禄の芭蕉に。芭蕉は老荘や禅のもつ直覚的な時間性を導きいれます。
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