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元気のでる館ホーム > 万葉の世界巡り > 万葉集の時代区分
万葉集の詠作年代は、仁徳天皇代から八世紀中頃までの450年間です。
舒明天皇(629年即位)以前の作には伝誦的な性格がつよく、その成立もはるかに下ると考えられる。
通常、以下の四期に分けられます。
第一期 舒明天皇(629年即位)−壬申の乱(672年)
孝徳天皇が亡くなった後、中大兄皇子が 即位し天智天皇となり、都を一時琵琶湖のほとりの大津に移す。当時日本と唐(中国)は対立関係にあり、白村江(はくすきのえ)の戦いにお
いて百済救援に失敗(六六三年)した日本に唐が改めてくる可能性すらあったから。この天智天皇が亡くなった後に起こったのが、日本最 初の天下分け目の決戦・壬申の乱(六七二年)。
第二期 壬申の乱(672年)−平城京遷都(710年)
壬申の乱の勝者は、大海人皇子(おおあまのおうじ)つまり天武天皇。
「春過ぎて夏釆にけらし白妙の……」と詠んだ持続天皇は天武天皇の妃。
この二人の間に生まれた子供たちが、日本で初めての恒久的な首都を建設しました。
それが平城京(七一〇年)。それまで日本の都というものは、原則として、天皇一代限り。
しかしそれではあまりにも不経済で、国も安定しないというところから、中国のように都を固定しょうということになり、現在の奈良の地が選 ばれた。この一家は必ずしも幸福ではなく、少し歴史に詳しい人はこの時代に女帝が続いたことを知っている。なぜそんなことになったかとい
えば、この一家にはなかなか男の子が生まれず、生まれても若死してしまうから。もちろん皇族といえば、天武系だけではなく、天智の系統も います。しかしその系統には絶対天皇の位を渡したくないとなれば、男の子が生まれるまで未亡人や叔母さんや姪が臨時について、天智系
を排除するという形になります。それが持統、元明、元正たち。
第三期 平城京遷都(710年)−天平五年(733年)
この時代天皇になるためには、もうひとつ必要条件があり、父系は天武系で母系は藤原家でなければいけない、というルール。父親が 天武系でも母親が藤原家の出身でなければ、その皇子はいつのまにか歴史から消える、という怪談のような話が実際にあった時代。しかしこん
な無理なことをしていけば、そのうちにツケが回ってきます。久しぶりに、二つの系統の血を引いた男の子が生まれた時、その子 はあまりにも病弱。そこで藤原家では、一家の中で最も元気でバイタリティーのある女性を妃として、送り込みます。これが聖武天皇と光明皇后夫妻となり・・・・?。
第四期 天平六年(733年)−天平宝字三年(759年)
聖武天皇というと奈良の大仏を建立したことで有名だが、実際は気の弱い人だった。
皇后との間にまず男の子ができたが、その子は成人しないうちに若死してしまった。
天皇は別の女性と男の子をもうけたが、その子も成人直前で謎の死を遂げた。言うまでもなくこの子は藤原の血を引いていなかった。こんなことをしていれば皇室に跡継ぎがいなくなる。ついに夫妻に男の子は二度と生ま
れなかった。そこでその代わりに最初にできた女の子を日本初の女性皇太子にした。これまでの女帝はすべて何らかの「つなぎ」で女帝になった人で、正式に皇太子になって天皇の位を受け縫いだ人は一人もいなかった。
この人が後の称徳女帝つまり道鏡の「愛人」と言われた人。まず女帝が気の毒だったのは、生涯正式な結婚をすることを許されなかっ たということ。商店ならば入り婿をもらうことができる。そして生まれた子供は正式な跡つぎとなる。ところが天皇家では女帝に対する入
り婿は許さないのだ。なぜかというと、天皇家の血統を言う場合、それは原則として男系に限るからで、「つなぎ」として女帝が即位する 場合もあるが、それはあくまで臨時措置であって、正式な天皇はやはり皇族出身の男性でなければならない。結局彼女は、実家の藤原家の「次
代の天皇はうちの一族を母としなければならない」という大方針の犠牲にされたのです。道鏡の「愛人」とされる称徳女帝は、あくまで「つな ぎ」の天皇であった。だから実はその後を触いだ「つなぎではない」しかも男性の天皇がいた。淳仁天皇というのです。ちょうどそのころ大陸の中国は唐という王朝であったが、時の玄宋皇帝が楊貴妃という絶世の実女の色香に迷い政治を怠ったため、国が乱れ大
規模な反乱(安禄山の乱)が起こっていた。そこで彼は、そのすきに乗じて中国の勢力圏にある朝鮮半島に出兵し新羅を征服しようとした。これはかなり無謀な計画。というのは、今でこそ唐は乱れているが、立ち直った後は当然日本が朝鮮半島に侵入したことを快く思うはずがない。
いや、それどころか、下手をすると唐との全面戦争になりかねない。それを心配した彼女は、腕利きの戦略家を味方につけクーデターを起こして 政権を奪取し、ロボット天皇を追放した。こうして再び彼女は天皇の座に返り咲いた。つまり彼女は二回天皇の位に就いているので、クーデター前を孝鎌天皇、それ以後を称徳天皇と呼ぶ。もちろんこれは後世の区別であって、当時はそう呼ばれたわけではない。女帝の死後、次代の天皇に選ばれたのは、天武天皇以後絶対に天皇になれないとされていた、天智天皇の子孫であった。これが光仁天皇。そもそも天智天皇の子孫を絶対に天皇にしないと、その子孫を排除し続けてきた張本人は藤原氏であった。ところがその政策が裏目に出て称徳女帝のような女性が出てしまったので、藤原氏はすぐに発想を転換し、むしろ天智天皇の子孫を積極的に天
皇に推すことによって、自分たちが再び権力の座に就くことを狙った。こうしたところに藤原氏が奈良平安を通じて常に日の当たる権力の座に居座り続けた秘密がある。そして対照的にこの闘争に敗れた女帝は「悪名」を語りつがれることになってしまった。
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第一巻 1〜
雑歌・・・雄略天皇・舒明天皇・元明天皇(714)の時代ごとに歌が整理。
巻一の冒頭には、二篇の歌がある。
「…大和の謂おしなべてわれこそ尉咋・・・」雄略天皇
「大和には 群山あれど とりよろぶ…・」舒明天皇
額田王や柿本人麻呂などの有名な歌があります。
第2巻 85〜
天皇の時代ごとに分類。
相聞・・・仁徳・天智ー持統、それぞれ年代順に載せています。
挽歌・・・斉明天皇(658年)−元正天皇(715年)
柿本人麻呂の挽歌もあります。
第3巻 235〜
雑歌・・・持統天皇(686年)−聖武天皇(733年)、それぞれ年代順に載せています。
譬喩(ひゆ)歌・・・年代順か
挽歌・・・推古、持統天皇(692年)−聖武天皇(744年)
第4巻 484〜
相聞・・・仁徳・舒明・天智天皇(671年)−聖武天皇(724年)、年代順に載せています
大伴家持と女性たちとの贈答歌が多い。
第5巻 793〜
雑歌・・・聖武天皇(728−733年) 大伴旅人、山上憶良の歌が多い。
第6巻 907〜
雑歌・・・元正天皇(723年)−聖武天皇(743年)、年代順に載せています。
笠金村、山部赤人など。
第7巻 1068〜
雑歌・譬喩歌・挽歌。柿本人麿の歌集からか。
第8巻 1418〜
雑歌・相聞歌を四季ごとに分けて載せる。各々、舒明天皇−聖武天皇(743年)、年代順に載せています。
第9巻 1664〜
雑歌・相聞歌・挽歌。各々雄略天皇・舒明天皇、持統天皇−聖武天皇(733年)、それぞれ年代順に載せています。
第10巻 1813〜
雑歌・相聞歌を四季ごとに分けて載せる。 |
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第11巻 2351〜
旋頭歌(せどうか)、正述心緒、寄物陳思、問答、譬喩から構成される。
正述心緒、寄物陳思、問答は柿本人麻呂歌集からのもの。
第12巻 2841〜
正述心緒、寄物陳思、問答等、数種類の区分で構成される。
正述心緒、寄物陳思は柿本人麻呂歌集からのもの。
第13巻 3221〜
雑歌、相聞、問答、譬喩、挽歌から構成される。
第14巻 3348〜
雑歌、相聞、譬喩ーそれぞれ国別に構成。
上総・下総・常陸・信濃・遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・陸奥などの国々の歌が収録されています。 雑歌、相聞、防人、譬喩、挽歌から構成。国の不明なものを分類 |
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第15巻 3578〜
部立せず。大きく二つの歌の集まりからできている。
遣新羅使人等の歌。聖武天皇(736年)
中臣宅守と狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との贈答歌。
聖武天皇(738年ー)
第16巻 3786〜
有由緑井雑歌などから構成。
第17巻
部立せず。大伴家持の歌日記。
年代順に歌が載せられる。 聖武天皇(730−748年)
第18巻
部立せず。大伴家持の歌が多い。越中に在任中の歌も。
聖武天皇(748年)−孝謙天皇(750年)
第19巻
部立せず。大伴家持の歌が多い。
天武、聖武天皇(733年)−孝謙天皇(750−753年)
第20巻
部立せず。防人(さきもり)の歌が多く載せられる。
万葉集最後に掲載されている歌は、大伴家持の歌です。
雄略天皇(−470−)−淳仁天皇(759年)
万葉集は「日の目を見る」ことができないもの、「公の場」に出ることが許されないものであった。それは、天皇家の奥座敷ともいうべき「梨 壷」(平安京内裏の後宮五舎の一。昭陽舎)の中で、女たちに愛好されることによって、生きのびてきました。万葉の諸本の中で、「古点」と呼ばれるものは、そこから生まれました。「そこで天暦年間、宮廷の梨壷で、源順・清原元輔・紀時文・大中臣能宣・坂上望城の五人が漢字ばかりの万葉集に平仮名の訓みを添えた。これを古点と呼んでいる」(岩波本一解説37ページ)というように、同じ宮中でも表向きの政治の場ではなく、裏向きの遊芸の場で、万葉は「
保存」されたのです。表向きは、「建て前」の世界、日本書紀がはばをきかす時。裏向きは、「本音」の世界、万葉が愛好される時。日本書紀(記載年次は697年で終わり。完成が710年−720年とすると、関係者がまだ生存しているので、記載がはばかられたという説も)では
消された人麿も、このタイム・トンネルの中を生きつづけていました。紫式部が「日本紀などは片はしぞかし」といった背景も、ここにあります。たとえば、古事記。この書も、「日本書紀の成立」によって消された本だった。日本書紀の天武紀に、この天皇の「特記すべき文化的事業」は一言も書かれていない。「古事記」という固有名詞も、稗田阿礼と太安万侶の結び付きも語られていない。また続日本紀の、元明天皇の和銅五年(712)の項にも「古事
記、撰進」の記事はまったく存在せず、ために後代の「古事記、偽書説」を生むもととなり、南北朝期(1331-1392)、名古屋の近く、真福寺 本が現われるまで、古事記という本は、この世に存在せず、しかし、万葉には堂々と当の「古事記」からの引用があり、万葉は表に出てはな
らない本だったのです。2007/11/20 最終更新 |
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