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ベガス
世界の国々はその国々独特の歌や踊りをもっています。世界の人々は,あるときには自国の民謡をたのしみ,またあるときは外国の歌に感銘します。仏教が日本にはいったのはずいぶん昔のことであって当時仏教は舶来品でした。しかし長い年月の間に仏教は日本のものとなってしまいます。急激にとり入れた外国文明についても同じ道を歩みつつ・・・。同じように外国の歌を歌い外国の踊りを踊るとき,私たちは次第にそれへの理解を深めると同時に,自分自身も好むと好まぎるとにかかわらず,その国の人々と共通なものをもつように傾いていきます。ピッツバーグにあるフォスターの記念音楽堂へ。近くには立つフォスターのひざもとに老いた黒人がバンジョ−をもって歌っている銅像が曲を彷彿とさせます。フォスターの歌は主として黒人を題材としてつくられたものであるけれども,どの民族にとっても共通な人間の憂愁を歌ったもので、フォスターの歌も日本では広く愛唱されています。しかしこの銅像を見,さらに記念館に彼の用いたピアノの鍵盤が実しい螺鈿をうめ込んであるのを見たときフォスターは彼の黒人の人間性を彼自身と同じ価値において愛していなかったことを知る・・・。このことは彼にとっても,彼の美しい歌にとっても不幸なことで、これを補うものはフォスターの歌を通して歌う人自身が心の中に正しく,新しい心をつくり出してゆくほかはないのでは・・。
ヨセミテヨセミテ公園
ロッキー山脈
万年雪を抱く、アメリカの背骨
ロッキ−山脈
ハマースタインの傑作ショ−ボ−トが日本に根をおろしてからずいぷんになります。ハマースタインの音楽はオクラホマにしても、サウスパスィフィツクにしても,私たちの自然的、社会的環境から発生した民謡とはまったく異なったもので、形式においてまったく異なった曲をきいて共感しうるものについて,作曲者はこういっています。「私はただ人間として共通のものを歌っているに過ぎない。」彼はあらゆる国々をまわり,海をこえ川をわたり,民族を異にし,貧富を異にしても,なお悲しみは同じく喜びは同じであるという信念のもとに作曲し,ついに最大の傑作としてサウンド・オプ・ミュージックを残してこの世を去りました。ロンドンのピカデリーサーカスに立ち、遠くからビッグペンの鐘がテームズ河を渡って響いてくる。と同時に街のチャイムからサウンド・オプ・ミュージックの音楽が流れ「少年よ、ロンドンの街角も,もう暮れかけて、安らかな家に帰れ。」と響いているようで・・・。共通な人間性を歌い踊るということ,それは生きている全人類が生命の喜びを共にするということで,美とはその巧緻さではなく、いかに深く生命的であるかということなのでは・・・。
ヨセミテカメラでご紹介ヨセミテ公園
エルカピタン、米国カリフオルニア州
エルカピタンは、ヨセミテ国立公園の谷底との高低差1098m(3064フィート)におよぶ花崗岩の岩壁です。
グランドキャニオン⇔グランドキャニオン
フォスターの生きた頃のアメリカは、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が使われていた時代でした。後世の人々に「アメリカ民謡の父」と称され賞賛されることになるスティーブン・コリンズ・フォスターは、1826年7月4日ちょうどアメリカ独立記念日の50周年目にあたる記念すべき日に、地元ピッツバーグで有名な実業家であった父ウィリアム・バークレー・フォスターの9番目に生まれました。 フォスターは、何不自由なく、幸せな生活を送ることになります。フォスターは、9番目の子どもでした。音楽好きな姉たちがフォスターに音楽を教えました。2歳でギターにさわり、姉のピアノにも触れることができました。この時代にピアノがある家など、ほとんどありません。 フォスターが6歳の時、父ウィリアムが事業に失敗し、彼は、生まれ故郷のピッツバーグを離れなければなりませんでした。ピアノもギターもなくなってしまいます。こんな経済状況でしたが、フォスターは、母親からフルートを与えられます。この楽器がフォスターの宝物となり、彼の音楽の心を育てていくことになりました。19世紀中ごろまでに、中・南アフリカから、千数百万の黒人奴隷がアメリカ大陸などに送られました。フォスターは、ミンストレルショー(白人が顔を黒く塗り、黒人の格好をして演じる芝居)のための曲をたくさん作りました。ミンストレルショーで歌われる歌は黒人奴隷を題材にしたものでした。

フォスターが15歳の時、寄宿制のジェファーソン大学に入学しましたが、フォスターは間もなく家に戻り、父親に、音楽家になることを打ち明けます。このころになると、父ウィリアムの仕事が回復し、フォスター家の家計は不自由ないものになっていました。1848年、フォスター22歳の時、「おおスザンナ」の楽譜が出版され、たいへんな勢いで売れました。フォスターの作曲家としての第一歩です。1860年、34歳の時、フォスターは、ジェーンとマリアンと共に、再びニューヨークに出ました。大都会ニューヨークの空気は、フォスターの性格に合わず、収入は減っていきました。
アメリカの北部州と南部州の対立が、黒人奴隷制の是非という形で激しくなっていきました。
1861年、フォスターが35歳の時、南北戦争が始まります。南北戦争が始まると、フォスターの曲の発表の場として重要な位置を占めていた「ミンストレル・ショー」も行われなくなったために以前ほど彼の曲が多くの人々に触れる機会自体が徐々に少なくなっていきました。彼は北部側の人間だったために南部の人間から敬遠されるようになり、さらにフォスターの曲は黒人をテーマに扱ったものや黒人なまりの歌詞が多かったために奴隷反対の北部からも拒絶されます。ミンストレルョーの歌曲で名声が高かったフォスターは、ヒットを手にすることができなくなったのです。

収入が激減、妻ジェーンはニューヨークを離れ、親戚に身をよせました。曲が以前のように売れなくなれば当然収入もそれにつれて少なくなり、彼の生活は日増しに苦しいものとなっていきます。この頃スティーブンはお酒を多く飲むようになり、酒代もばかにならない金額になっていたようです。なんとか日々の生活費を捻出しようと楽譜出版社に印税の前借りを要求したり兄弟から借金をしたりと精神的にも経済的にも切羽詰った状態でした。晩年の彼にはもはや音楽的才能を見出すことはできず、この頃に書かれた曲で後世まで受け継がれてきた曲はほとんどありませんでした。ろくな収入もなく、安宿の一室を自宅代わりにして、わずかながらの蓄えを切り崩しながらなんとか生活を続けていたような状態でした。1864年の1月10日、彼は顔や首のあたりから大量に出血して倒れているところをホテルの室内係の女性に発見され、ニューヨーク市のベルビュー病院に担ぎ込まれます。この事故のあった数日前からフォスターは何らかの病気で発熱し寝込んでいたのですが、その日は意識が朦朧とした状態でベッドから起き上がろうとしてバランスを崩し、すぐ近くにあった洗面台に頭から倒れこんでしまったのです。洗面台はこなごなに割れ、彼も頚部に深い傷を負ってそこから大量に出血し、手当ての甲斐も空しく、搬送されてから3日後の1月13日、スティーブン・コリンズ・フォスターはその37年の生涯を静かに閉じました。彼の死後、最後の作品である「夢路より」が出版されます。南北戦争が終わり、アメリカ合衆国が発展する中、フォスターのメロディーは、再びアメリカの人々の心に響くようになりました。フォスターのメロディは、平易で、誰でもすぐに覚えることができます。
こんなフォスターのメロディーは、アメリカのみならず、世界の人々の愛唱歌となりました。
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