5.世界の鯉釣り
パプアニューギニアの釣りと旅情

  最近の旅行ブームで、ツアーも沢山あります。しかし、パプアニューギニアのツアーが始まったのは比較的最近です。一時あった、九州からの直行便もなくなると、日本からの旅行は不便になりましたが、今は、成田から、直行便があります。
 一年余、彼の地に滞在し、鯉がいないか、調べましたが不明のまま帰国しました。その上、治安の問題もあり、人里離れた川に単独で釣りに行ける状況でもありませんでした。

 デジカメの無い時代で、写真は不鮮明ですが、ご容赦下さい。
 仕事の関係で、彼の地に行き、主な都市は足を踏み入れました。滞在時の本拠にしていた、ポートモレスビーから始めます。 
 当時は、シンガポール経由で入出国しました。
 単身転任のため、休日対策として、ゴルフ道具と釣り具を持参しました。そして、後述しますが、戦中派には忘れられない彼の地の、自費出版も含む戦記書籍を、八重洲のブックセンターで沢山買い込み持参しました。
 ゴルフは、日本人、オーストラリア人と、すぐに仲間が出来ましたが、釣りは、各人の好みもあり、簡単ではありませんでした。

ポートモレスビー 
 ポートモレスビーの気候は、乾期と雨期に別れています。住んでいたマンションの窓から写した風景です。同じ山とは思われぬ風景です。貿易風を考えて頂くと、すぐ判る現象です。
 下の町並み?はポートモレスビーです。
雨期
乾期
川釣りも適当な川や湖が無く、近くのポートモレスビー港で、海釣りをすることにしました。当時、釣り好きの日本人が何人かの仲間で舟を持ち、海で沖釣りをしていましたが、波が荒い海で、また、時間に縛られるのがいやで、一人でポートモレスビー港で竿を出すことにしました。
 
午後、沖のコンテナ船を見ながら思い切り遠投
日が落ちて9kgのヒラアジ
諸々の釣果、餌はスーパーで買ってきたイカ。
仕掛けは石鯛鉤、ワイヤー鉤素、ABU9000Cリール、石鯛竿。
日本から取り寄せていた釣り雑誌と較べて! ニューギニア石鯛と名付けた魚、鋭い歯。正式な名称をご存じの方は教えて下さい。刺身が美味しかったです。



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 平成18年7月1日、日本経済新聞の記事を見ました。

ポートモレスビーの魚市場で、思いがけない肉を見つけ一瞬、疑問に思ったが(肉市場は別にあり)これが、目の前にひっくり返っている海亀と納得する話です。

 前述の如く、釣りに行く前に、魚市場に行き、同じ思いをしました。私の場合は、食べられる魚を調べるのが目的でしたが。

 海亀の料理は、前任地のマレーシアで賞味済みでした。中華料理店で食べた、中華風海亀料理でした。
 その後、此処で、料理前の海亀の肉を見て、脂っこいのが分かりました。
 
 マレーシアのサラワク州では、海亀の卵を出され、一瞬、たじろいだのを思い出しました。
 卵の白身は熱いのに、透明なまま、生の鶏卵と同じ、ただし、黄身は固くなっていました。最初で最後の思い出です。

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日本の海亀漁:

 日本では海亀は捕獲禁止と了解していましたが、平成19年6月1日、朝日新聞の記事で、小笠原諸島では伝統漁として、現在も東京都の監視の下、頭数を規制してアオウミガメ漁が行われていることを知りました。
 父島では、1980年に、アオウミガメの産卵は、100カ所程度であったのが、保護、育成の成果で、今は200〜1200カ所に増えたという。

 詳しい内容は、左の写真をクリックすると新聞大になり、読みやすいです。
 パプアニューギニアには、数百とも言われる各種の部族がいます。一部の、文化人類学の研究者にとっては、とても興味ある地域のようです。しかし、各部族によって、言葉の違いがあり、意思疎通に困るようです。公用語は英語ですが、小学校入学時に、親も子も全く話したことのない、英語の教科書を与えられることを想像すれば、教育の難しさは想像を絶します。
 毎年、首都のポートモレスビーで、各部族が、それぞれの部族衣装を身にまとい、踊るシンシンというお祭りがあります。
これも観光資源の一つで、シーズンになると、欧米からの観光客も来ます。
旅の思い出
 戦時中を、少年時代に生きてきた私にとって、この地には、忘れることの出来ない若き日の思い出があります。良きにつけ悪しきにつけ。
 ニューギニア島における日本軍の惨敗、ラバウル海軍基地の孤立、そして、敗戦が決定的となる頃、ガタルカナル島等の前線視察に赴いた山本五十六元帥搭乗機が、ブーゲンビル島で撃墜されたことです。

  
 さて、日本とパプアニューギニアの位置関係はどうでしょうか。数千キロ離れた彼の地へ、人員・物資を補給することは、現在の航空機や船舶の能力から見ても不可能な遠距離です。
 
 以下の説明に出てくる、ラバウル、ブーゲンビル、ガタルカナル、ポートモレスビーの位置関係を、地図に書き込みました。
ニューギニア島
 戦況の状況は、関係書籍がありますから、それに譲りますが、概況として、ラバウル海軍基地や航空隊の防御、さらなる前線の、ガタルカナル島防衛のため、連合国の補給基地、オーストラリアを睨むために、ニューギニア島の占領が必要となりました。
 ニューギニア島に送られた日本軍約13万人、五体満足で帰国出来た者約6千人と言われています。
 日本軍は、島の北岸より南進、中央に聳える高度4000メートル超の、オーエン・スタンリー山脈の、道無き山を越え、南岸のポートモレスビーを目指しました。
 ニューギニア島は、赤道に近い熱帯地帯ですが、高度4000メートルの高山の頂は、雪に覆われています。山頂は、何時も、雲に覆われているため、地上から見ることは出来ませんでした。こんなことも知らない、軍の指導者が立案した無謀な戦闘のため、前途有為な若者を、多数犬死させることになりました。
 
 左の写真をご覧下さい。

 テーブル状の山の左山頂が、日本軍がたどり着いた最前線です。
 ポートモレスビーから43km。ポートモレスビーの街の灯が見えます。
 ここ迄、人力で、高度4000mの山を越えて、大砲を運んだ苦労は想像も出来ません。
 今も、この麓から、山頂にたどり着く道はありません。
 しかし、すぐに、連合軍の反撃に遭い、全てを捨てて、敗走することになります。裸足で、雪の山越えは、死を意味します。
 やっとたどり着いた、島の北岸も、激しい艦砲射撃や、連合軍の上陸に合い、補給もなく死んでいくことになります。
 合掌!
 
ラバウル(ニューブリテン島)
 ラバウルは、ニューギニア島の北、1000km弱に位置し、ニューブリテン島にある町です。
 日本軍が死守したラバウル飛行場は、近代的な飛行場に変貌していました。戦時中の写真で見る、椰子林の中に、手作りの滑走路一本の戦時飛行場の面影はありません。
 戦争の名残は、港の周辺に残っている、米軍上陸に備えた夥しい横穴の陣地跡です。しかし、入り口が、順次塞がれ、今では、戦時中の面影は消えつつあります。
ラバウルの飛行場は、今や、ジェット機で行けます。 ラバウルの飛行場は、港に面しています。
左に見えるのは、活火山の山裾です。

 戦時中の軍歌の一節「さらばラバウルよ、また来るまでは・・・」は、戦中を生きた者にとって、忘れられない甘いメロデイーですが、現実がどんなに厳しいものであったか、当地に来てみれば一目瞭然です。
 飛行場のすぐ近くに、活火山があり、1994年の噴火で町は壊滅的な被害を受けました。
 日本軍は、ガタルカナルで破れ、ニューギニアで敗走し、ラバウルには野戦病院があったとのことですが、行ってみると、小さな石碑が残っているのみでした。
 ラバウルは天然の良港です。大戦中は海軍基地があり、要塞化していましたが、アメリカ軍は素通りし、取り残されたラバウルは、補給を受けるには、日本からあまりにも遠い基地となりました。
ラバウル飛行場の鳥瞰写真。左手に特徴のある火山が見える。戦時中の写真です。 ラバウル湾を望む
 
地下壕の司令部前。こんな貧弱な戦車で!
ノモンハンの教訓も生かさず!
一式陸上攻撃機の残骸。ラバウル飛行場近辺。
ジュラルミンは今もピカピカ、年月を感じさせない。


 一式陸上攻撃機は、再三設計変更され、1942年(昭和17年)製造のG4M2型の性能表を見ると、全総重量12,500kg、航続距離2,500kmです。

 ラバウル航空隊に所属していた飛行士の、自費出版書を読みますと、悲しい話ばかりです。

 前夜、徹夜で整備された爆撃機に、爆弾を積み、朝、ラバウルの飛行場を、次々に離陸していきます。徹夜で整備した、整備兵達は、滑走路脇に並んで、帽子を握った手を振って見送ってくれる。ラバウル上空で編隊を組んで、ポートモレスビーの飛行場と港湾設備の爆撃に出発する。ポートモレスビーには、一直線に飛行せず、ジグザグ飛行で、目的地をカモフラージュして、飛んで行きます。やがて、上空の護衛戦闘機は、翼を振って別れの挨拶をし、ラバウルへ戻って行きます。これからは、鈍足の爆撃機の編隊のみで、目的地に向かって飛びます。レーダーを逃れるため、波飛沫がかかるかと思うほどの、洋上を低空飛行しす。

 やがて、ニューギニア島の北海岸に着けば一気に上昇し、高度4000m超の、オーエンスタンリー山脈を越える。ポートモレスビー上空近づけば、対空砲火を避けるため、高空から爆弾投下。猛烈な対空砲火。爆撃を終えれば、燃料を心配し、すぐに帰還。
 対空砲火で機体が損傷し、浮力が低下した爆撃機が、4000mの山並みを超えるのは大変な苦労で、最後は大切な無線機まで機外に投棄。

 一方、ラバウルの飛行場では、未帰還の爆撃機を滑走路の脇で、多くの戦友が待ち受けている。夕闇迫る頃一機また一機と傷ついた爆撃機が戻ってくる。やっと、着陸態勢に入りながら、操縦不能で墜落炎上する機体。そして、待てども待てども帰らない僚機。
 ここに見る残骸は、無事着陸出来なかった、そんな一式陸上攻撃機なのでしょうか。

 写真を撮る僅かな時間にも、猛烈な蚊の襲撃。マラリアの多発地帯です。
ラバウルから発進した一式陸上攻撃機。目的地は不明。低い雲の下を飛行している。
 ガタルカナル島北部のルンガ泊地のアメリカ輸送船団を攻撃する一式陸上攻撃機。この低空では、操縦席風防に海水の飛沫がかかると言うことです。右側に、二番機、三番機の機影が続いていますが、カットしました。機影が海面に映っており、この対空砲火の中で、生きて、ラバウルの飛行場に帰還できるのでしょうか。
 米軍艦船の撮影でしょうが、見るのも辛いです。
ガタルカナル戦:
 
1942年(昭和17年)8月より1943年(昭和18年)2月の間、日米両国のガタルカナル島、ひいてはソロノン諸島の争奪戦。
 日本軍の作戦の失敗、物資不足、マラリアの猛威に悩み惨敗。海上のソロモン海戦でも、日本海軍得意の夜襲も、米軍の導入したレーダーに苦戦。切歯扼腕しても、彼我の国力の差は明白でした。
ラバウル飛行場の零戦隊 ラバウル西飛行場の零戦隊
零式艦上戦闘機
 写真は、国立科学博物館(上野)で撮影したものです。1972年(昭和47年)ラバウル(ニューブリテン島)の北西沖の海底で発見された零戦21型です。写真の座席を見れば分かるように、偵察用に2座席に改造されています。
 数機の部品を合わせて、造られています。

 エンジンが見やすいように、エンジン・カヴァーを外して展示してあります。
 
 
 平成17年(2005年)、私の所属する、埼玉県にあるゴルフ場に、いつものように独りで行きました。ご一緒になった方は、私より年配でした。取り留めもない世間話から、この方が、戦時中は、艦上攻撃機のパイロットであることを知りました。
 三段上の、輸送船団を攻撃する一式陸上攻撃機をご覧下さい。戦時中は、何でも、「我が勇敢なる・・・・・」と形容されていましたが、これで、無事な機体はどれほどあるでしょうか。この方は、自分は出撃する前に、終戦になり、生き残ったたと、淡々と語っておられました。来週、孫とゴルフをする約束が出来、今日は予行演習ですと、笑っておられました。平和は尊いです。
 写真は靖国神社に展示してある零戦です。1974年(昭和49年)に、ラバウル航空隊基地で見つけた胴体と、ヤップ島近海の5機の機体から復元されたものです。52型です。
ラバウルの零戦

 一式陸攻を護衛した零戦、ガタルカナル島奪還に投入された、ラバウル航空隊の零戦はどうだったのでしょうか。
 初戦で活躍した零戦も、色々改良すべき点が分かり、二号零戦が昭和17年(1942)にラバウルにも配備されました。ラバウルの戦略上の観点より、新鋭二号零戦が重点的に送られました。
 昭和17年(1942)8月、実戦に参加。当時、ガタルカナル島が風雲急をを告げていました。しかし、二号零戦には、攻撃性能強化の反面として、航続距離が犠牲にされました。
 ラバウルとガタルカナルは片道1000km。しかし、二号零戦の航続距離はせいぜい2000km。これでは、ガタルカナル上空で、敵戦闘機と30分の空中戦をおこない、基地ラバウルに帰還することは出来ないことが分かりました。
 ラバウルまで往復2000km、零戦の性能で片道4時間、往復8時間の飛行が必要でした。
 零式艦上戦闘機52型の性能(最後の零戦)
  全備重量 :2730kg
  エンジン  :1130hp
  航続距離 :1920km 乗員1名
  武装20mm砲x2 7.7mm銃x2

 昭和18年(1943)、山本五十六海軍大将が前線視察でラバウルに立ち寄り、ラバウル航空隊における零戦の実戦経験からみた改良すべき点を聴取。
 この時、零戦に対して、パイロットや燃料タンクの防弾機能ゼロの欠点が指摘された。この意見は、以前より前線の実戦経験より、再三上申されていたが、幹部により握りつぶされていたと言うことです。他の日本の爆撃機も同様に人命尊重の設計思想は無かった。昭和17年(1942)6月、ミッドウエー海戦で4隻の航空母艦もろとも200機全機を失うという大敗。そして、多くの優秀なパイロットを失い、これが爾後、どれほど航空戦のハンデになったか、何の反省も無いまま、人命無視の同じ飛行機を作り続けた日本と言う国の体質。それが日本の実力だったのでしょう。

 現地事情を納得して、ラバウルを離れた山本五十六大将が、この後、すぐに、ブーゲンビル島上空で搭乗機が撃墜され、戦死。
 彼が納得した防弾機能強化の思想が導入されることはなかった。

 昭和19年(1944)6月、マリアナ沖海戦で、新鋭航空母艦もろとも、誇りとしていた多くの零戦を喪失。真珠湾攻撃からたったの3年弱、日本海軍の主力は消滅。制空権も失うことになった。零戦は、アメリカの新型戦闘機グラマンF6F(2000hp)の急降下スピードについて行けず、格闘能力の優位さも失い、次々に撃墜された。しかし、もう一つの大きな理由は、人命軽視の思想により、多くの優秀なパイロットを緒戦で失ったことを挙げる人もいる。日本は殆ど全てという473機を投入したが、未熟なパイロットが多く、グラマンの攻撃に対して、混乱状態に陥ったせいとも言う。(平成18年(2006)3月NHK番組)
 
 人命軽視の日本の設計思想、パイロットの人命を重視したアメリカの設計思想。
 平成17年(2005)は戦後60年、もう、実戦を知る人は少なくなりました。平成17年(2005)8月のNHKテレビで、零戦の番組がありました。航空機を使う側の元海軍省の人は、戦闘能力重視の意見を、全く変えていませんでした。
 幾ら防弾機能が良く、パイロットが生き残っても、戦闘で勝てねば戦争にならないのですと言う意見を、淡々と述べられると・・・・・。(平成18年(2006)3月NHK番組も似た内容でした)

 使う側、造る側、設計する側、折り合いの難しさは今も変わりないことに驚きです。
 
 大和魂や月月火水木金金の猛訓練が重視されるのでしょうか。

 昭和19年(1944)10月、零戦も特攻機になり、2400機の航空機とともに、多くの若人を、無為に死なせてしまった。

 零戦の優秀であったことを否定する気はありませんが、零戦を造る主力の工作機械はアメリカ製、兵士の軍服を縫うミシンもアメリカ製でした。大人になって知りましたが、当時の為政者はそんなことを承知の上で戦争をしたのです。

 今、日本の自動車は優秀で、世界を席巻しつつありますが、昭和30年代の勃興期は、アメリカ製の工作機械が主力でした。日本の工作機械が取って代るまでに何拾年もかかりました。
ブーゲンビル島
 ここは、敗色濃厚となった1943年(昭和18年)、山本五十六連合艦隊司令長官が、前線視察中に、暗号を解読していたアメリカ軍の戦闘機の待ち伏せ攻撃にあい、搭乗機が撃墜され、長官が戦死された島です。

 私のいた頃は、平和な島でしたが、豊かな銅資源が原因で、中央政府と内戦状態になりました。
 その、原因等は省略しますが、2005年、予定されていた自治政府樹立されました。その後も、銅鉱山は休止したままです。

 2009年1月時点で、ポートモレスビーからの航空便はありません。
 山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機の残骸は、公開された写真もありますが、ここに掲載するには忍びない心境で、省略します。
紛争の原因となった巨大銅鉱山 出会いは一時、仕事が終われば、皆、それぞれの出身国に帰っていく。そして、別れは永遠です。
追記と余談
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