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5.世界の鯉釣り |
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東欧六カ国: ブルガリア ルーマニア ポーランド チェコ スロバキア ハンガリー |
| 中欧・東欧のユーロ導入は何時か | |||
| 2008年(平成20年)5月23日日本経済新聞 | |||
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我々旅行者にとって、現地通貨への両替は面倒です。特に、ユーロ導入前のヨーロッパ旅行はそうでした。トイレに小銭の硬貨がが不可欠な彼の地は、悩みの種でしたが、ユーロ導入でとても楽になりました。 しかし、中欧や東欧への旅行者にとっては相変わらずです。そして、待たれるのがユーロ導入です。 現実は、そんなに簡単ではありません。ユーロ導入を許されるのは、財政赤字が国民総生産の3%以下、物価上昇率前年比3.4%以下が条件です。 EUに加盟し、生活水準の向上とともに、インフレに悩む新規加盟国の姿が浮き彫りにされてきました。 |
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| 2005年6月、東欧に旅をしました。当時、見聞した鯉料理の話と、旅情を纏めました。 訪れた国は、ブルガリア,ルーマニア、ポーランド、チェコ、スロバキア、そしてハンガリーの六カ国です。 今回は、グループツアーで、グループで行動している限りは、言葉の不自由はありませんが、個人的に行動し、当地の土産として蜂蜜を買うたびに、言葉の壁にぶつかりました。 スペイン、中南米、そして食の国イタリアの旅では、多少のスペイン語、イタリア語の知識で、各種蜂蜜の購入には不自由しませんでした。 しかし、東欧では、英語の通じないこと(若い学生は別)、キリル文字が読めないことで、大変苦労しました。 そして、これでは、個人旅行で鯉釣りに来るのは、無理だろうなと感じました。 さて、有り難うは? キリル文字はパソコンの文字パレットでも引けませんでした。カタカナでどうぞ! ブルガリア語 :フラゴダリヤ ルーマニア語 :メルツメスク ポーランド語 :ジエンクウイエン チェコ語 :ジェクユ・ヴァーム スロバキア語 :ヂヤクエム ハンガリー語 :ケセネム 読めました? 覚えられそうですか? 閑話休題。2005年上映された映画「亡国のイージス」をご覧になりましたか。日本のどんなことが、貴方にとって誇りですか?亡国と言う言葉から、どんなことを連想されますか?皆様の思いは様々でしょう。しかし、これら東欧六カ国のように、国名消失、他国の首都が、自国に移される等は、島国の日本人には、実感として解らないのが実情でしょう。厳しい歴史を生きてきた人々の国です。 |
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鯉料理を賞味してみようと試みましたが、残念ながら、宗教と食味の関係で冬季に限られるようで、見つけることは出来ませんでした。 |
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| 写真は案内書より転載 | |||
| ハンガリーの鯉料理 鯉のフライ ![]() |
鯉をカリー風味味にして、上にチーズをのせて焼き上げる![]() |
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| ブルガリア 東は黒海、北のルーマニアとの国境はドナウ河、南はトルコ、ギリシャ等、この国の置かれた複雑な位置関係が想像できる。 人口約750万人、宗教はキリスト教(ブルガリア正教会、カトリック)、イスラム教等。 この国で、一番困ったのは、道案内を含めて、キリル文字による表示が多く、読めないことです。ブルガリアの言葉はブルガリア語、文字はキリル文字です。キリル文字はロシア文字の元祖で、9世紀、僧侶キリルとその兄が原典をスラブ語に訳すために発明したものとされています。 現地ガイドに聞いてみますと、ロシア語は、学ばずとも解ると言っていましたから、似ているのでしょう。 香水などに使われるバラの香料は、ブルガリ産が世界で八割を占めています。バラの蜂蜜もあります。 |
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| ブルガリアの歴史一言 紀元前19~8世紀頃:インド・ヨーロッパ語族のトラキア人がブルガリアの地に現れる。 紀元前8~6世紀 :ギリシャ人が黒海地方に入植。 紀元前4世紀 :マケドニアが支配 紀元前168年 :ローマ帝国の支配下に。 5~6世紀 :スラブ系原ブルガル人の移住が始まる。 681年 :第一次ブルガリア帝国誕生。 9~10世紀 :アドリア海まで領土拡大。 1018年 :ビザンツ帝国に滅ぼされ、第一次ブルガリア帝国滅亡。 1187年 :ヴェリコ・タルノヴォの領主がビザンツ帝国を破り、第二次ブルガリア帝国誕生。 1396年 :オスマン朝により第二次ブルガリア帝国滅ぼされる。 1873年 :露土戦争で、トルコが敗退。500年ぶりにオスマントルコ支配から解放。 1915年 :ドイツ、オーストリア・ハンガリー側について第一次世界大戦に参加、敗退。 1941年 :三国同盟(ドイツ、イタリア、日本)につき第二次世界大戦に参加、敗退。 1946年 :ブルガリア人民民主主義共和国が発足。共産党独裁政権へ。 1991年 :非共産党政権誕生。 2004年 :NATOに加盟、2007年EUに加盟予定。 |
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| ソフィア 首都のソフィアは、人口110万人、標高550mにあり、ヨーロッパにおける首都としては、スペインの首都、 マドリード(海抜650m)に次ぐ高地にあります。 黒海とアドリア海を結ぶ交通の要衝にあるため、古来より、多くの民族が侵攻の対象としてきました。ローマ、フン族、ビザンツ帝国、スラブ人による支配、14世紀から19世紀まで500年間はオスマントルコの支配下にありました。 旧ソ連に忠実であった政権崩壊から15年、今や、EU加盟を目差し急速に民主化が進み、旧ソ連の息のかかった銅像や建物が撤去されました。 国民の意識も急速に変化し、若者の英語教育も進んでいるようです。 現地ガイドの話では、ブルガリア正教の聖ニコラス(我々の言うサンタクローズ)の日、12月6日には、鯉を食べると言っていました。シチューにすると言っていましたが、思えば、我々も鯉コクもあるからと、勝手に納得しました。 |
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![]() 宿泊したホテル近辺の街並 建物は画一的で古く、道路の舗装は痛みがひどい。 |
![]() 宿泊したホテルの窓からの眺め。 あちこちで、建物の建て替えが進行中です。 朝、ホテルの窓ガラス越で写しました。 |
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ブルガリアの多様性と、複雑な事は、ソフィアから約100km南にある「リラの僧院」を訪れると解ります。 |
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10世紀に建設された現在の僧院は、19世紀に火災で焼失した後、再建されたもの。 外観よりして、トルコの影響は明白です。トルコはブルガリアを支配していた500年間、キリスト教の信仰は勿論、ブルガリア語の書物を読むにも制限を加えたが、この僧院だけは、黙認されていたという。 この僧院に続く一本道があり、現在は観光バス多々。 |
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| ヴェリコ・タルノヴォ バルカン山脈の東部にあり、ルーマニアとの国境を流れるドナウ河まで約100km、首都ソフィアまで約250km。現在の人口約7万人。 バルカン半島を席巻した、第二次ブルガリア帝国(1187~1393年)の首都として栄えた。 勉学を修めるために、遠くモスクワやルーマニアからも留学生がやってきた古都。周囲を蛇行するヤントラ川(ドナウ川支流)だ創った切り立った崖、自然の創った要害の都でした。しかし、国を治めるのは人、最盛期にはビザンツ帝国も圧倒していたのに、イヴァン・アッセン王の死後衰退し、1398年オスマン・トルコ帝国と三ヶ月にわたる首都攻防に破れ、ついに滅亡。 でも、ご心配なく、今も古都の美しさは残っています。石畳の坂の多い街並を散策して下さい。 美味しい蜂蜜を手に入れました。 大切なことを、現地で聞き漏らしました。鰻はいるか、鯉は釣れるかと。 |
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![]() 蛇行するヤントラ川 北に流れ、やがてドナウ川に合流 |
![]() ヴェリコ・タルノヴォは三つの丘の街 |
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| ルーマニア 昔、教科書にあった、東欧の石油産出国、首都は小パリと称される国という先入観でした。 人口約2170万人。 民族構成はルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人、トルコ人、ロマ等。 宗教はルーマニア正教、ギリシャ正教、ローマ・カトリック等。 今回旅した、東欧六カ国の中で、一番、見るに忍びない混乱と貧困の国でした。為政者の無能と私利私欲に蝕まれた国という感じでした。東欧で唯一、私の大好きなラテンの息のかかった国故、是非、立派な国になって欲しいものです。 |
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| ルーマニアの歴史一言 紀元前6世紀頃 :インド・ヨーロッパ語族のダキア人が定着、また、黒海沿岸にはブルガリアと同様に、 ギリシャ人の植民地が建設された。 紀元前1世紀 :ダキアの単一国家成立。 106年 :ローマ帝国にドナウ北部のダキアを征服され、この時、ローマ人とダキア人の混血が 進む。 東欧唯一のラテンの国、ルーマニア人の原形となる。 3世紀~13世紀 :ゲルマン民族の西ゴート族の侵入、ローマ帝国ダキアから撤退。 北西部にハンガリー人の移住が進む。 1330年 :ルーマニア人(征服者ローマ人とダキア人との混血)による初の独立国家成立。 15世紀~ :オスマントルコやロシアに従属。 1878年 :露土戦争で勝利したロシア側について独立。 ~1947年 :バルカン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦とめまぐるしく立場を変えて戦い、 領土の獲得、喪失を繰り返す。 1948年 :共産党(名は労働党)一党独裁政権誕生。 1989年 :共産党政権崩壊。 2004年 :NATOに加盟、2007年EUに加盟予定。 |
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| 首都ブカレストは人口約235万人。故チャウシエスク大統領が建設した悪名高い国民の館や共産党本部。 国の富を使い果たしても完成しなかった国民の館、自身の家族の栄華や権威のひけらかしのための無用の建物。巨大な共産党本部は、彼がここで最後の演説をし、群衆のブーイングで演説を中止、屋上よりヘリコプターで家族と逃亡、やがて銃殺。テレビの生々しい場面を覚えている方も多いでしょう。 |
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![]() 国民の館 巨大すぎて写真に入りませんでした |
![]() 人々の権力闘争と関係ない西洋菩提樹が満開でした |
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| 石油も枯渇、見るべき産業もない。観光資源は、少なくとも首都では、共産党政権時代に、旧建物や教会が破壊され、代わって、故チャウシエスク大統領取り巻きの住居が建設されたとのこと。 さて、この旅の私の目的、鯉と鯉料理はどうなっているのでしょうか。ドナウ河は、源のドイツから、2857kmの長い旅を終えて、黒海に注いでいます。ドナウ河下流は、ヨーロッパ最後の秘境と言われ、ユネスコの世界自然遺産に登録されています。 早速、現地ガイドに、聞いてみました。鯉釣りは、釣りのガイドを付けて案内出来ると言うことで、メールアドレスを聞いてあります。 鯉料理を宗教と関連して食べることはないと言っていました。私は、テレビ番組で、ドナウデルタの川魚漁を見ました。取ってきた鯉や鯰を、大鍋にぶつ切りで入れ、スープ煮にして食べていました。美味しそうでした。 |
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| この東欧六カ国の旅行で、ルーマニアが気に入りました。そして、個人旅行で再度訪問しました。 「ルーマニアの鯉釣りと旅情」に纏めてあります。 「ルーマニアの鯉釣りと旅情」 ここをクリックして下さい。 |
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| ポーランド 西にドイツ、東にロシアと大国に挟まれ、悲劇の歴史を繰り返した国。今や七つの国と国境を接し、2004年4月にEUに加盟して、西欧に顔を向け、近代国家に脱皮しようとしています。 人口約4900万人、宗教はローマカトリック95%、前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世の祖国です。 ポーランドで、クリスマスの頃、鯉を食べるという習慣を知ったのは、まだ、共産党政権下の頃でした。鯉釣りを趣味としている者にとって「おや!」と言う感じでした。 ここで、宗教論議や、旧共産党政権を云々する意志はありませんが、現地ガイドと話をしてみると、他の東欧諸国と同じく、宗教は軽んじられ、宗教と関連した鯉を食べると言う習慣も薄れたようです。 もう、もとに戻ることは無いでしょう。戻るとしても、長い年月が必要でしょう。 |
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| ポーランドの歴史一言 5~7世紀 :スラブ人の定住が始まる。 9~10世紀 :ポラーニエ族(平原の民)が部族を統合し国家統一。 1000年 :ポーランド統一。 1596年 :首都がクラクフからワルシャワに移る。 1772年 :ロシア、プロシア、オーストリアによる第一次ポーランド分割。 1793年 :第二次ポーランド分割。 1795年 :第三次ポーランド分割、これで、ポーランド消滅。 1918年 :ポーランド共和国臨時人民政府誕生、123年に及ぶ分割時代の終り。 1948~1989年 :共産党独裁政権と、再々の暴動発生、社会主義体制の崩壊。 1999年 :NATOに加盟。 2004年 :EUに加盟。 |
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| ワルシャワ | |||
![]() 聖十字架教会 ここにはショパンの心臓が納められている。 第二次大戦中、ドイツ軍はこの教会も爆破。 戦後、ショパンの心臓も戻され、教会も建て直された。 |
![]() 旧王宮のある市中心部の公園 ここには鯉がいるそうですが、 水が濁っており見えません。 |
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| 菩提樹が街路樹として、あちこちに植えられており、花の香りが一杯でした。早速、現地ガイドに、菩提樹の蜂蜜をポーランド語で書いて貰いました。 [
MIÒD LIPOWY] 役立ちました。スーパーマーケットへ行ったらすぐ案内してくれました。香りがよく濃厚な味です。 |
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![]() 夜は、旧王宮の一室でショパンのプライベート・ コンサート(ピアノ・リサイタル)を楽しみました。 |
![]() 宮殿の庭にて |
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左は、ワルシャワの街を流れるヴィスワ川。 陽が西に落ちる頃、ツアーの自由時間に、急いでヴィスワ川に行きました。 ワルシャワは、緑豊かで、大好きな街です。 |
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| クラクフ ワルシャワからバスでクラクフに入りました。行程250km。 クラクフがポーランド王国の全盛期に首都でした。1386年から1572年まで続いたヤゲエウオ王朝の時代です。ヴィスワ川畔には華麗なヴェヴェル城があります。 なお、ヴィスワ川は、北に流れ、グダンスク湾に流れ込み、バルト海に続いています。 美しい街並は、第二次世界大戦中に、ドイツ軍の司令部が置かれていたため、ワルシャワのごとき徹底的破壊から免れ、1978年、ユネスコの世界遺産に登録されました。 |
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![]() ヴィスワ川畔の華麗なヴェヴェル城と大聖堂。 大聖堂は1320年に着工され、 数世紀に亘って建設された。 建物は、ゴシック、バロック、ルネッサンスと様々。 18世紀まで歴代ポーランド王の戴冠式が行われた。 |
![]() ヴィエリチカ岩塩採掘場。地下64~325m。 クラクフ南東約15kmにあり、世界遺産に登録。 1250年頃~1950年代まで採掘されていた。 中世のポーランド王国の財政を支えていた。 |
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| 一度訪れ、印象に残った場所は何年も覚えています。そして、新聞や雑誌に載った最新の記事に、目が向きます。 ここを訪れて二年も経った、平成19年(2007年)8月28日の日本経済新聞の記事に改めて、懐かしさ、感慨がこみ上げてきました。そして、何れの日にか、また、行ってみたいと思いました。 記事は不鮮明ですが、記事をクリックすると拡大します。 |
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| チェコ 人口1030万人、チェコ人94%、スロバキア人3%その他。宗教はローマ・カトリック教徒39%、無宗教40%、公用語はチェコ語。 2004年5月EUに加盟済みなるも、ユーロは通用していません。(2005年6月)。 プラハは勿論、大きい街は、西欧の雰囲気です。ただし、このところ、毎年の物価上昇は激しく、こと、プラハに関する限り、観光で訪れるところは、西欧並みの飲食費でした。 かってのチェコスロバキアは、1993年解体、チェコとスロバキアになる。 |
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| チェコの歴史一言 4~5世紀 :スラブ人の定住始まる。 833年 :大モラヴィア王国成立。 906年 :マジャール人(ハンガリー人の自称)により大モラヴィア王国滅ぼされる。 1627年 :ハプスブルグ家の属領となる。 1749年 :ボヘミア国会がオーストリアと一体化される。 18~19世紀 :スメタナ、ドヴォジャークなどの音楽家が活躍。 1918年 :第一次世界大戦で、オーストリア・ハンガリー帝国が敗戦により崩壊。チェコスロヴァキアの 独立を宣言。 1938年 :チェコはナチスドイツの保護領としてドイツに編入。 1946年 :議会民主主義的手段で、共産党主導政権が出来た、世界唯一の国となる。 1968年 :プラハの春も束の間、8月21日ワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアを占領。 1989年 :共産党独裁政権崩壊。 1993年 :チェコスロヴァキア解体。 1999年 :NATOに加盟。 2004年 :5月EUに加盟。 |
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| プラハ 中世の宝石と称されるプラハは、再訪をそそられる街並です。今回のツアーの主題は「プラハの春」国際音楽祭でした。市民会館のスメタナ・ホールでの最終日でした。 前後して散策したプラハの街は、何処も歴史遺産の宝庫でしたが、EU加盟と関連しているのか、内装やサービスは西欧化が進んでいるようでした。我々観光客の訪れる喫茶店、レストランでは予想以上に英語が通じました。側聞によれば、当地にいる日本人留学生は、チェコ語は格変化の難しさなどあり、世界でもっとも完全習得困難な言葉と言っているそうです。 この日は、早朝、ポーランドのクラクフをバスで出発、次に、ご紹介するオロモウツ経由し、プラハに入る強行軍でした。 |
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![]() プラハ城 |
![]() プラハ城から、ヴルタヴァ川にかかる、人専用の橋 (カレル橋)を渡ると旧市街です。ユダヤ人街があり、カフカの生地としても、知る人ぞ知るです。 |
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![]() 塔が多く百塔の街と呼ばれ、赤い屋根が目立つ |
![]() カレル橋から見たヴルタヴァ川 ヴルタヴァ川はやがてドナウ川に合流 |
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| 宗教に熱心でない共産党政権のせいにするまでもなく、宗教の影響の低下は、日本も含め、世界的な傾向でしょう。 2004年末、テレビ放映されたボヘミヤの鯉料理を思い出し、色々聞いてみました。冬に、鯉料理を食べる習慣はあるようですが、それは、鯉の食味の問題の様です。鯉養殖の池までありで、業者が生きた鯉を生け簀に入れて売りの来るのです。お父さんが買い出しに行き、バスタブに入れて、料理する日を待ち、いざ、その日が来ると、毎日、バスタブで見た鯉に情が移り、可哀想になり、この、ヴルタヴァ川に放流する人が結構多いと笑っていました。しかし、自由の身になった鯉も、このヴルタヴァ川の水に馴染めない様です。 料理の方法は、フライにするようで、これなら臭みも抜けて、万人向きでしょう。 ガイドブックに鯉料理は、年中、食べられるとありましたが、探しても簡単には見つかりませんでした。聞いてみると、冬期以外は無理とのことでした。 夏期でも食べられる店があれば、ご教示下さい。 ガイドも、鯉釣りや鯉料理をくどくど聞く客は初めての様でした。ガイドが知らないこと、興味の無いことを聞いても、無駄でした。 |
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| オロモウツ ポーランドのクラコフからバスでこの町に入りました。クラコフから約200km、この後、プラハまで、 バスで250km走る厳しい一日でした。 |
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街角から見た聖三位一体の塔。 2004/2005年にかけて、我が国では 三位一体改革が叫ばれました。 皆さんは、キリスト教の説く聖三位一体 をご存じでしたか。 この日は、金曜日で、午前中の街の風景。 静かで、落ち着いた情景です |
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| プルノ チェコ共和国は、ボヘミヤとモラヴィアの二つの地域に大別され、モラヴィアの中心がブルノです。 かっての大モラヴィア王国(833年頃~906年マジャール人に滅ぼされる)の首都として栄えた。 プラハからバスで約200km。早朝、プラハを発ち昼前に到着。 |
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聖ペテロ聖パウロ教会。11世紀より20世紀に至る何百年にも渡り、改修された。 いつもの事ながら、彼等の宗教に対する情熱には、敬服します。熱しやすく冷めやすい日本人の想定の外です。 |
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| スロヴァキア 1993年にチェコより分離。人口約540万人。スロヴァキア人85.6%、ハンガリー人10.6%、その他。 宗教は、ローマ・カトリック60.4%、東部スロバキアは東方正教多い。2004年5月EUに加盟したが、2005年6月現在、ユーロは通用していません。 旅して感じるのは、農業国として、この国の将来はあるでしょう。 |
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| スロヴァキアの歴史一言 5~6世紀 :西スラブ人の定住始まる。 833年 :西スラブ族による大モラヴィア王国成立。 906年 :マジャール人(ハンガリー人の自称)により大モラヴィア王国滅ぼされる。1918年まで ハンガリーの一地方。 13世紀 :モンゴル軍の来襲、ドイツ人移民増加。 1536年 :ハンガリーの首都ブダがトルコ軍に占領される。 ハンガリー王国の領地は、現在のスロバキア地域になる。 1918年 :第一次世界大戦で、オーストリア・ハンガリー帝国が敗戦により崩壊。 チェコスロヴァキアの独立を宣言。 1939年 :チェコはナチスドイツの保護領に、スロヴァキアはドイツの傀儡政権になる。 1946年 :議会民主主義的手段で、共産党主導政権が出来た、世界唯一の国となりました。 1968年 :プラハの春も束の間、8月21日ワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアを占領。 1993年 :チェコスロヴァキア解体 その後、内政不安定が続く。 2004年 :5月EUに加盟。 |
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![]() ブラチスラヴァ中心にある旧市庁舎 |
首都はブラチスラヴァ。人口約50万人。 島国に住む日本人には理解困難なのが、この街の変遷。 ドナウ河に面して発展したこの街は、長い間、ハンガリーの支配下にあった。 1536年ハンガリーの首都ブダが、トルコ帝国の支配下に置かれたとき、ハンガリーの首都は、ブダよりここに移された。 聞けば、チェコ語とスロバキア語の違いは少々なるも、チェコスロヴァキア時代は、何時もチェコ語が多用され、スロヴァキア人の独立心を刺激したという。 |
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| ハンガリー 人口は1026万人、ハンガリー人97.7%。宗教はカトリック52%、カルビン派新教16%。公用語はハンガリー語(フィン・ウラル語)。 第一次世界大戦では、ドイツと組んだオーストリー・ハンガリー帝国の一員として、ヨーヨッパ列強と戦い敗退、 オーストリー・ハンガリー帝国の崩壊、ハンガリーとして独立を果たしたが、国土の71%を喪失、350万人のマジャール人(彼等の自称)が国外に取り残された。第二次大戦もドイツ側に与し、またも敗戦、首都のブダペストはドイツ軍とソ連軍の激戦の地となり、街は焦土と化した。 第二次大戦後は一転共産党政権下の強権政治、1956年のハンガリー動乱、二度にわたる反革命派鎮圧のためのソ連軍の介入、揺れ続けた国は、反ソ連感情が高揚。1989年、ハンガリー経由で西側に脱出しようとする東ドイツ国民のために、国境を開け、ベルリンの壁崩壊に至ったのは、まだ、ご記憶でしょう。 今回の旅の、現地ガイドは、今も国外に親戚がいると言っていました。国土の喪失、そして、今や異なる国に取り残された同胞や、身近な親戚の話をして、失われた大ハンガリーを嘆くガイド。失った国土に取り残され、今や、他国民となった同胞の数、350万人と言っていました。日本の人口から、類推すれば、約4000万を越えるの日本人が、失った国土に取り残されたと同様です。 |
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| ハンガリー歴史一言 紀元前5世紀頃 :騎馬遊牧民族であるマジャール人(ハンガリー人の自称)がウラル山脈辺りから西へ 移動を始める。 896年 :現在のカールパチア盆地を征服。 1000年 :部族を統一、キリスト教を国教とする。西欧世界の東端に位置するカトリック国とな る。 1235~1270年 :蒙古軍の襲来で国土は荒廃。 1526年 :トルコ軍に敗退。 1541年 :首都ブダ陥落。ここで、ハンガリーはドナウ河以西のオーストリー・ハンガリー王国、 トランシルバニア(現在のルーマニア領)、ブダを含む旧ハンガリー王国の中心部は トルコ直轄地域となり、ハンガリーの統一国家は消滅。三分割された地域はそれぞ れの特徴を備え発展する。 1686年 :ハプスブルグの国際軍はブダをトルコ軍から奪還。 爾後、ハプスブルグの200年に及ぶ統治も時代とともに変遷。 1867年 :外交、軍事を除き、オーストリー・ハンガリー王国内で独立国となる。 1896年 :建国1000年の節目で、ペスト、ブダ、旧ブダを統合し、首都ブダペストとなる。 第一次世界大戦、第二次世界大戦でいずれも敗戦国となる。 この間の事情は、上記をご参照下さい。 |
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| ブダペスト 1896年に。建国1000年の節目で、ペスト、ブダ、旧ブダを統合し、首都ブダペストとなる。ドナウの真珠、ドナウの薔薇と称えられる美しい都。 街のほぼ中央をドナウ川が流れ、西岸をブダ、東岸をペストと称する。 ブダ地区は丘陵が多く緑に富み、閑静な高級住宅地がある。 ペストは対照的に平坦な地形で、商店、オフィス、官庁や劇場が並ぶにぎやかな商業地帯。 |
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| ドナウ川にくさり橋が架かり、街を結んだのは1849年です。 下の写真は、ドナウ川の遊覧船越しに見るくさり橋と王宮。王宮は西岸にあり、西岸はブダ。 ドナウ川東岸から見た、くさり橋と王宮。 |
くさり橋の大写し | ||
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王宮のある西岸から、正面の東岸の眺め。 右の光景より尚左。 正面のドームのある建物は国会議事堂。 高さ96m マジャール人現在地を征服した896年に因んだ高さ。 第一次、第二次世界大戦で、二度にわたり敗退し、国土の三分の二を失った事を思えば、第一次大戦前に完成した華麗、壮大な建築群に納得できます。 |
王宮の丘(西岸)から見た東岸。 丘の多い西岸に比し、東岸は平坦 王宮のある西岸から、正面の東岸を眺め、先ず 目にはいるのは、正面の聖イシュトヴァーン大聖堂。 高さ96m マジャール人現在地を征服した896年に因んだ高さ。 イシュトヴァーンは初代ハンガリー国王。 アジア系の騎馬遊牧民族が、キリスト教を取り入れ、 ハンガリーをヨーロッパの一国に位置づけた建国の父。 |
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王宮のある西岸から、正面の東岸の眺め。 上の光景より尚左。 |
夕食前の自由時間もあっという間に過ぎ、気付けばドナウ川西岸に夕陽が落ちる頃となっていた。 夕食は、ドナウ川をクルージングして、鱒のフライ。 赤ワインが美味しかった。 ハンガリーのワインは、ローマ帝国時代から始まり、フランスのルイ14世が絶賛したワインもあった。 |
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騎馬遊牧民族のマジャール人(ハンガリー人の自称) は現在の地、カールパチア盆地を征服後も、今の スイスや北イタリア、バルカン半島へと遠征していた。 |
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| ハンガリーへは、スロヴァキアのブラチスラヴァを朝食後、バスで出発し、下記のドナウベント(ドナウ川の曲がり角)経由で、首都のブダペストに入りました。 東に向かって流れていたドナウ川は、ドナウベントで、ほぼ、直角に曲がり、南下して、ブダペストに入ります。 ブラチスラヴァより、ドナウベントまで約150km、ここから、ブダペストまで約50kmです。 |
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ドナウベントの要塞からの眺め.。時間の経過を忘れさせる圧巻です。![]() |
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| 要塞からの眺め。右から流れ、左に降っていくドナウ川。要塞を築き、王宮を造営し、ここを国の要にしようとした王達の気持ちが分かります。 | |||
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要塞の創建は13世紀だが、古くから外敵の侵攻を 防ぐため実際には、4世紀頃から少しずつ築かれていった。 要塞の内部は博物館になっており、私の興味を引い たのは、VISA(日本語の話せる現地ガイドがビザとカ タカナを振ってくれました)と言う鯰採りの展示でした。 共産党政権時代に、発電所の建設を計画し、工事も進んだところで挫折。環境への悪影響もあり、再開は無いと言っていました。 しかし、昔の様に、大型のVISAはもう捕れないと言うことです。 |
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