5.世界の鯉釣り
 旅情:北欧の旅情

北欧4カ国:  ノルウエー

         フィンランド

         スウ
ーデン

         デンマーク

日本の社会経済生産性本部は、2007年(平成19年)12月3日、OECD及び世銀の指標に基づき「国民の豊かさ」の世界順位を発表しました。

ノルウエー: 2位

フィンランド: 5位

スウエーデン:3位

デンマーク: 8位

日本:     7位

2006年6・7月、北欧に旅をしました。
 今回の旅の目的は、文字通りのセンチメンタルジャーニーです。40年も昔、若くて元気だったときに訪れた北欧は、今どうなったのだろうか。そして、今の北欧と較べた日本はどうだろうと言うことでした。

 訪れた国は、ノルウエー、フィンランド、スウーデンそしてデンマークです。
 40年前は、仕事の独り旅、今回は、グループツアーです。添乗員さんが面倒を見てくれるから、宿泊、移動、食事は貴方任せ、 当時の会社の偉いさんと同じ旅です。
 何処でも英語が通じるのは昔と同じ、何処でも豊かな暮らし、日本は高度成長を経て豊になったはずなのに、その差は全く縮まっていませんでした。
 一般の人が、別荘を持ち、ヨットを持っていて、長い夏休みをエンジョイする。

 4カ国の共通点は、いち早く、戦争の愚かさを知り、屈辱にも耐えて、自らは戦争をしなかったことです。それが、豊かさの源泉です。
 40年前と同じように、消費税が25%見当、でも、みんな豊かなのです。日本は消費税を上げると、国民総耐乏生活とわめく人が多く、国家財政は破綻状態なのに、政治家は選挙に勝つことのみ考えて、消費税は上げないといい格好をする。北欧の、医療費ただ、教育ただの国を見て欲しいです。子供は国家が面倒を見てくれるから、シングル・マザーの気苦労は少ないと感じました。
 40年前と同じだなーと思ったのは、食事にアクセントがないことです。現地の食材の種類に限りがあるせいでしょうか。
ノルウエー:面積:38.5万km2 人口:463万人(2006年3月)
ノルウエーの歴史一言

カルマル連合以前
 紀元前一万年頃   :最初の住人は南方からの移住者。
 紀元前15~4世紀  :スエーデンとデンマークの影響を受ける。
 紀元前1世紀     :ローマ文化が流入。
 8世紀頃まで      :共同体が形成され諸部族に別れていた。
 890年頃        :ハラール1世(在位890年ー940年頃)が統一

               その後一時、デンマークに屈服

 1035ー1047年   :マグヌス1世独立を回復。
                再び分裂・内乱
 1184ー1202年   :スペッレ王統一。長子相続制を確立
 1217-1263年   :ホーコン・ホーコンソン王時代に、中世ノルウエーの最盛期。
                この後、穀物供給を掌握するドイツ商人の進出が著しい。
                ドイツ商人に対抗すべく、スウーデン・デンマーク連合を形成。
デンマークへの政治的従属
 1380ー1814年   :デンマークと連合関係に入る。その間、ノルウエーの首都はコペンハーゲン
                であった。
 1814年        :デンマークがナポレオン戦争で敗北したのを機にスウーデンと連合を結
               ぶ。
独立と中立政策
 1884年        :左翼政権が成立し議会主義が確立された。
 1905年        :ノルウエーは独立宣言をしデンマークよりカール王を迎える。
               この当時、スウーデンは独立阻止に軍事行動を示唆する場面もあったが、
               隣の強国ロシアが、日露戦争と第1次革命で、介入の余力がなかったのが
               幸いしたとも言う。
 20世紀        :第一次大戦では、中立を宣言するも、多くの船舶を、機雷や潜水艦攻撃で
               失い、食料輸入の減少に苦しんだ。
 第二次世界大戦   :中立を踏みにじったドイツの軍事占領下に。政府と国王はロンドンに亡命。
 1994年        :国民投票で、EUに加盟しないと決定。

余談:
 仕事でノルウエーに始めて行ったのは40年前でした。取引先の担当者と雑談になりました。この40才代の精悍なタイプの男性が口にしたのが、ノルウエーはやっと食料自給を達成できたと、誇らしげに言ったことです。上記の歴史の一言を書いていて、これを思い出しました。第二次大戦中、食料を輸入に頼っていたばかりに、食料不足に悩んだことを忘れずに、ひたすら食料自給を目標としていた国。立派ですね、隣り合わせの大国、強国に翻弄されながら、自国の生きる道を追求していたのです。

 戦時中や戦後の、怖ろしい食糧危機を忘れてしまった日本。みんな、のほほんと暮らし、飽食に明け暮れる日本、あの食糧不足に苦しんだ世代も少なくなりました。日本は食料自給を目指そうと、選挙で訴える政治家など聞いたことがありません。それでは票が集まらないのでしょう。

 ノルウエーは、北海油田で、あっという間に産油国になりました。多額の外貨収入を得ていますが、これは、今の世代が使うべき収入ではないとして、対外金融資産運用に当てています。そして、消費税は25%のまま。日本で、こんなことが(突然産油国になる)起こったときに、貴方は25%の消費税据え置きに異存ありませんか。

追記

 平成19年4月30日 日本経済新聞朝刊
 「資源のカネ」
  北海油田を抱える」世界第三位の石油輸出国ノルウエー。皆さん、ご存じでしたか?
 石油収入などを積み立てる政府の年金基金は運用残高が30兆円を突破。日本株への投資残高は推定で1兆3千億円に迫る。一社に対する投資規模は、発行済み株式数の5%以下とするのが基本方針で、大量保有報告者に、名前の出ることは滅多にないが、投資先はキャノン、新日本製鉄、任天堂など代表的企業を中心に六百社を越えている。

 平成19年11月6日 日本経済新聞朝刊
 「株主とは」
 福島県の某新興企業の社長は、ノルウエー中央銀行が5%を越える株式を保有していることを知り、誇りに思う反面、社長としての責任の重さを改めてかみしめている。
日本の食糧自給率   平成19年(2007年)8月26日 日本経済新聞より
 平成18年(2006年)に日本の食糧自給率は、カロリーベースで39%です。食事の洋風化で、肉類、乳製品の消費が増えたことが、最大原因です。
少し不鮮明ですが、画像をクリックすると拡大します。
「人形の家」
 私にとって、忘れられないのはイプセンです。まだ、大学時代だったと思います。「人形の家」を読みました。田舎(岐阜市)に生まれ、周囲では考えられない女性の自我、自主の目覚め。それも百年近くも前の話。欧米の気風としては知っていましたが、小説で読むと格別でした。

 釣りや、付き合いゴルフに熱を上げているとき、ふと浮かんだのが「人形の家」でした。高齢で始めた下手な俳句、所属する会誌に出してもボツばかり。
 平成17年、会誌に生き残ったのが、

 「人形の家」になるらん鰻釣り

 でした。
 釣りの話は、別項目に、嫌になるほどありますから、ここでは止めます。
 ノルウエーの有名人
 イプセン      :1828-1906      人形の家:1879年作
 グリーグ      :1843-1907
 ムンク       :1863-1944

 そして、「人形の家」と同じころ読んで、深い感銘を受けたのが、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」でした。

 ヘルマン・ヘッセ :1877-1962      車輪の下:1906年刊
オスロ 人口:51万人
オスロからベルゲンへ
ヴィーゲラン公園
両側の見事な菩提樹の並木 彫刻一杯の公園です。
覚えている香り、そうです。卯の花。
しかし、家の周りの卯の花より遙かに強い芳香でした。
菩提樹の大木と、日光浴の男女。
そうです、そうゆう格好です。
王宮前広場。
スターブ教会
バイキングの独自宗教と、キリスト教の一体化
オスロをバスで発ち、いよいよ、フィヨールド観光に出発。
間もなく森林の限界を超えると、ごつごつした石の原。
サーメ人の世界に入る。
サーメ人の家の周りでトナカイの毛皮を売っていた。
日本円で約一万円。
旗で分かるように、相当強い風が吹いていたが、サーメの男性は、上半身裸で、赤銅色だった。
至る所に湖がある。雪解けの水をたたえているのだが、意外に温かい。今年の異常高温のせいだろうか。
湖では、20cmほどの魚が釣れるという。
家の外は泥を塗り、草を生やすと、冬も住みやすいと言うが、実際は、夏場の観光客目当ての土産物店です。
何処まで行っても近代化です。
石原には地衣類と、地を這う木(?)が質素な花を付けていた。
フィヨールドの風景は何処も同じ。水面は波立ちもなく(両側が山であるため)、心落ちつく眺めです。
ベルゲン:人口24万人
13世紀~14世紀はノルウエーの首都。ベルゲンはハンザ同盟に加入しその事務所が置かれていた。
ベルゲンの主要輸出品は干ダラであった。
ローセンクラッツの塔。1560年代に建設された。
石はスコットランドから運んで作られた堅牢な塔。
案内書には書いてありませんが、現地ガイドの説明で、一番印象的であったのは、この塔の右側壁面を見て下さい。
銃眼があります。そのずーっと右にあるのが、ブリッケンの街並みです。ここに向けられているのです。
ブリッケンの街並み。
世界遺産。

写真左端の建物がローセンクラッツの塔です。
何時も、銃眼は、このドイツ商人の館に向けられていたのです。彼等は、穀物商いを支配していたのです。
閑話休題
この彩り豊かで美味しそうなごちそうはどこで出たのですか?
左の写真は私のデジカメで撮りました。

グループ旅行の食事は、殆どがビュッフェ形式です。何を食べるかは、本人の勝手ですが、ゆっくりと、彩りを考えれば美味しくいただけます。

大混雑の食堂で、愉悦の一時。
 やっと見つけた、ベルゲンの魚市場の品も、写真に撮れば何とも珍奇。赤いテントが赤いフィルターの役をしました。
黒い色をしたのが、鯨の薫製です。 真ん中にあるのが鰻の薫製です。
今回の旅の目玉は、真夜中の太陽です。途中を飛ばして、オスロから北のトロムソに飛行機で飛びます。
 
 ここから、バスと船を乗り継ぎ、ノルウエーで最初の文化が開いた町、アルタへ行きます。
アルタ:人口1万7千人
1972年(昭和47年)遊んでいた子供達が発見した、アルタの岩絵を見ました。 発見されて日が浅いせいか、岩絵は未だ、研究途上の様な気がします。紀元前9000年から1800年間に描かれたようですが、誰がどんな目的で描いたのかはまだ謎のようです。

赤い着色は、保存をかねて、見やすい様に付けられているとのことです。

氷河が削った、固い岩盤にたくさん描かれています。
アルタからノールカップへ バスは森林限界線を越えて、ひたすら宿泊地、ホニングスヴォーグへと急ぎます。

ノールカップには、適当なホテルがなく、観光バスはみなここに来ます。
ノールカップは、マーゲロイ島にあります。今は、海底トンネルで陸続きとなり、あっという間にマーゲロイ島に到着します。

天気は今ひとつ。今晩曇りなら、万事休す。

日中に太陽が出るのは当たり前の話です。到着後、どんよりの空の下、時間つぶしの散歩に出ました。

ここは、第二次大戦末期、ドイツ軍が、教会を除き、街を破壊し尽くしました。
教会を残したのは、同じキリスト教徒だからでしょうか?
ちょっと横道へ
ノールカップとロシアの軍港ムルマンスクの位置関係

ムルマンスクは右下方にあります。
ホニングスヴォーグ:人口3500人
ホニングスヴォーグから、当時のソ連の軍事都市ムルマンスクまで、約300kmです。

この不凍港が、漁港であり、軍港でした。ドイツ軍は徹底的にムルマンスクを空爆し、街の大半は破壊されました。

このホニングスヴォーグは、ドイツにとって、ソ連北洋艦隊の基地であるムルマンスクを監視するために、最重要軍事拠点でした。

しかし、この不凍港ホニングスヴォーグが敵、連合国に渡ると、形成は逆転し、連合軍のソ連に対する軍事援助が容易になります。
左の地図をご覧になれば、多くの説明は不用です
本題のノールカップへ
森林がなければ、豊かな土壌は出来ないことを、思い知らされる光景です。

そして、トナカイは、食料であり、衣類であり、土産品でありそして、写真を撮らせる観光資源です。
冬を越せないトナカイの話(2006年朝日新聞)
温暖化で冬を越せないトナカイの記事が出ました。ご一読下さい。
記事は画面クリックで拡大します。
 荒涼たる光景、どんよりとした空。観光案内は、観光地に不利なことは書いてありません。夏、真夜中の太陽が見られる確率は、せいぜい10%の様です。
 同行の添乗員さんは、ここで、真夜中の太陽をみたことがないと言います。

ああ、彼女は雨女か?
いよいよ、北端の海が見える所まで来ました。太陽など眺め回しても出ていません。
左のモニュメントの周りは、写真を撮る観光客でごったがえしています。

ここは断崖の上、海まで300mの絶壁です。

北極圏も暑かったのに、コート、皮の手袋をはめていて、震え上がる寒さでした。

71°10' 21''
下三枚の写真は、旅の目的達成の、ほんの数分の出来事です。
真夜中の太陽を見る旅なのに、顔を出さなかった太陽が、夜、
期待に応えて、11時45分頃より数分間、雲間より覗きました。
それまでは、曇り、小雨の天気でしたから、喜びは最高でした。

キャビアで乾杯し、幸運を喜びました。
カラショーク:人口2800人
 真夜中の太陽に出会い、大満足で、ホニングスヴォーグのホテルに一泊。翌朝、バスでノルウエーのサーメ人の中心区、カラショークに入りました。
さて、昼食はサーメ風です。
 地下防空壕が燃えている感じです。これがレストランとは驚きです。サーメ風レストランと言っていましたが、サーメ人も、草の生えた泥屋根の家には、もう、住んでいないわけですから、観光用です。囲炉裏の煙が立ち上っているわけです。

 あまり、一歩引いた言い方をすると、冷めた感じになりますから、おとなしく観光ルートに従えばいいのです。

 トナカイの肉にベリー・ソースをかけたものでした。さっぱりとした味です。
 昼食が済み、バスが走り出せば直ぐフィンランド国境です。
フィンランド:面積:33.8万km2  人口:520万人(2005年)
2007年(平成19年)12月4日、OECDは世界57カ国の15才児に、2006年実施した学習到達度調査を発表した。

予想通り、日本の順位は下がり続けている
科学的応用力はフィンランドだ第一位、同数学的応用力第二位。

科学的応用力の設問に対する15才の日本学生の無回答はなんと26%。

健闘する東アジアの多くは上位に入っている。未参加の中国、インドも参加に関心を示しており、日本の地位の一段の低下が危惧される。

科学への関心は最低水準で、学ぶ意欲の低下は、日本で深刻になろう。

2007年(平成19年)12月5日付け日本経済新聞より。
フィンランドの歴史一言

原始部族時代
 紀元前700年頃    :最初の人類の痕跡あり。
 紀元1世紀頃     :フィンランド湾南岸から移住。
               堅実なハメ人、音楽好きのカレリア人、陽気なサボ人という部族的気風が育
               つ。
スウーデン統治下時代
 12世紀        :スウーデン王エリーク9世は十字軍の名の下に、フィンランドに攻め入り、三
               大部族を支配下に入れた。
 1599年        :カール9世はフィンランド貴族を一掃し王権を確立。
               グスタフ2世(在位1611-1632年)の統治下、武力でロシアを封じ込めた。
               工業が起こり、交通が整備された。
 1709年        :カール1世はロシアを率いたピヨートル大帝に大敗。スウーデン軍は
               フィンランドから引き上げていった。
 1721年        :ニースタードの和議でスエーデンが17世紀に獲得したすべてのフィンランドの
               土地を失う。
 1748年        :将来起こりうるロシアからの攻撃に備え、当時、フィンランドを支配していた
               スエーデン王フレデリック1世は、要塞建設地をヘルシンキ沖合の無人島に
               決めた。
               40年もかけて建設された要塞は、ロシアの攻撃に備えるという所期の目的に
               添えなかった。
ロシア統治下時代
 1808年        :ロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランドに出兵、フィンランドは善戦する
               も、ロシアに全土を占領される。
 1809年        :ロシア皇帝を君主とする自治公国としてロシアに併合される。
 1904年        :サンクト・ペテロブルグ(レニングラード)防衛強化の為ロシア化政策を強行す
               るロシアと、フィンランド人の民族的自覚の燃え上がりで、ロシア総督が殺害
               される事件が発生。
独立時代
 1917年        :ロシア革命で、帝政ロシアが崩壊。ついに、念願の独立を達成した。
 1918年        :左右両派の対立で内戦勃発。
 1939年        :ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦勃発。
               ソ連はその直後、レニングラード防衛のためカレリア地峡の土地を要求。
               フィンランドが拒否すると、50万の大軍で、フィンランドに侵攻。
               マンネルハイム元帥に指揮されたフィンランド軍は善戦するも、国土の
               南東部をソ連に割譲せざるをえなかった。
               この協定にサインするとき、マンネルハイム元帥は、ペンを折りたいと言った
               逸話を読みました。
 1941年        :ドイツは突然ソ連に侵攻する。フィンランドも巻き込まれ、ソ連と戦うことに
               なった。
 1944年        :フィンランドはソ連と休戦協定を結ぶ。ドイツは報復として、ラップランド地方を
               徹底的に破壊。
               ソ連はカレリア地方の割譲と、国民所得の1割に及ぶ2億ドルもの巨額な 
               賠償金を要求。
               賠償金の支払期限12年の半分の6年で完済。
 1952年       :めでたくヘルシンキオリンピックを開催。
 1995年       :EUに加盟、スカンジナヴィア4カ国中、唯一のユーロが流通している国。

余談:

1.マンネルハイム元帥の逸話
 40年前に、何度か仕事で訪れました。スカンジナビア4カ国を訪れるとき、初対面の相手に、仕事以外の話題に苦労しました。他の国でも同じですが、先ず、自分を気に入って貰わなければなりません。宗教の話は難しい、食べ物の話はもっと難しい。当時、海外で日本食が話題になることはありませんでした。
 上記のマンネルハイム元帥の逸話は、私のとっておきの話題でした。相手は、立派な会社の部長さんでした。
 この話を聞き終わって、彼は、しばらく黙っていました。そして、自分は知らない逸話であるが、元帥ならそう言ったろうと頷きました。

2.しかし、フィンランドは戦に敗れ、南部カレリアの一部をソ連に割譲しました。フィンランドの人口は500万人、その10%に相当する50万のソ連軍が国境から雪崩の如く進入してきました。日本に置き換えると、昭和20年当時の人口1億人として、1000万のソ連軍が侵攻してきたことになります。
 満州の居留日本人を置き去りにして、逃げてしまった関東軍、自分の家族をまず避難させた関東軍の幹部。私は、彼等を非難するつもりはありません。自分がその立場なら、戦に負けることを知りながら、家族と共にソ連軍に命をかけて戦えたか、自信がないのです。マンネルハイム元帥やその部下を、偉いなあと、ただ尊敬します。
 私が話した、エピソードに対して、南部カレリアの一部をソ連に割譲したあとのエピソードを話してくれました。勿論、当時はベルリンの壁も凛としてあり、鉄のカーテンも存在しました。地図で見ると、国境線ぎりぎりに、フィンランドの鉄道があります。当時、列車でここを通過するときに、ソ連側の要求で、ソ連側に面した列車の窓を閉めることになっていたそうです。
 彼曰く「我々は喜んで窓を閉めたよ。みんな、その時言ったよ。監獄の中を覗いても仕方ないと」。フィンランド魂です。

3.マンネルハイム元帥の逸話があるのは、彼が戦争の指揮者であり、そして、ソ連との降伏文書に調印するという屈辱の場にいたことになります。
 昨今の靖国神社参拝可否の論議の時に、面白い記事を見つけました。それは、世界が注目していたアメリカの戦艦ミズーリ号上で行われた、第二次世界大戦の降伏文書調印式のことです。勝ち誇った顔つきの連合軍の将軍の前に現れたのは、外務大臣重光 葵(しげみつ まもる)であり、戦争を始め、指揮した陸海軍の大将や提督は居なかったということです。

4.歴史を辿ると、つらい小国の苦悩です。この会社訪問の何度目かに、私が働いていた会社の、ドイツ現地法人のドイツ人と同行しました。私が帰国した後、ドイツの店に仕事を移管するためでした。フィンランドを後にするときに、この若いドイツ人に、お前の態度は生意気すぎると窘めました。彼は平然として、フィンランド人は、下手に出るとつけあがるから、これでいいのだと言います。
 日本人の私には理解できませんでした。その後、商いも順調でしたから、そうかなとも思いますが。。。。
 フィンランド人は、何世紀もの間、周りの強国、スウーデン、ドイツ、ロシアに対抗し、生きてきたわけですから、それなりの智恵があるのでしょう。
 
旅の道順
 今度の旅は、ノルウエーのオスロから始まり、ノルウエーの北端、ノールカップに行った所まで、お話ししました。
これからは、一路南下して、フィンランドに入り、ヘルシンキに行く旅に入ります。
サーセルカ
 取り敢えず、サーセリカで一泊。
 北欧4カ国の内、フィンランドが唯一のユーロ圏です。どの店も、ユーロがそのまま使えます。
サーセルカからロヴァニエミ(サンタの町)へ
ロヴァニエミから夜行列車でヘルシンキへ
この列車の2等寝台に揺られて、ヘルシンキまで11時間半はつらい旅でした。

2等は、3段ベッドで、夫婦で2段使用したのですが、上はのぼるのが大変でした。

ヨーロッパの汽車は、ローカル線は別として1等に限ります。
ヘルシンキ:人口56万人
マーケット広場。港沿いの出店群。 ヘルシンキ大聖堂
歴史のおさらい。
1808年:ロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランドに出兵、フィンランドは善戦するも、ロシアに全土を占領される。
1809年:ロシア皇帝を君主とする自治公国としてロシアに併合される。
ロシア皇帝アレクサンドル2世は、フィンランドに自治権を与え、善政だったと言いますが、フィンランドの苦悩が分かります。

街の中心、元老院広場にあるロシア皇帝アレクサンドル2世像。











ヘルシンキ中央駅
スオメンリンナ島
 この島の要塞を語るには、フィンランドの歴史、特に、スエーデンとの関係を説明しないと、ご理解いただけません。
歴史のおさらい
スエーデン統治下時代
 1709年       :カール1世はロシアを率いたピヨートル大帝に大敗。
 1721年       :ニースタードの和議でスエーデンが17世紀に獲得したすべてのフィンランド
              の土地とともに、そこにあった要塞も失ってしまった。
 1748年       :将来起こりうるロシアからの攻撃に備え、当時、フィンランドを支配していた
              スエーデン王フレデリック1世は、要塞建設地をヘルシンキ沖合の無人島に
              決めた。
              40年もかけて建設された要塞は、ロシアの攻撃に備えるという所期の目的に
              添えなかった。
ロシア統治下時代
 1808年       :ロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランドに出兵、フィンランドは善戦する
              も、ロシアに全土を占領される。翌年、ロシア軍に包囲された要塞は陥落。
 その後、約100年に亘ってロシア軍の駐屯地となる。
 1855年       :クリミア戦争の際に、英仏艦隊の2日間に渡る猛攻で、ロシア軍の駐屯するこ
              の要塞は大打撃を受ける。

              クリミア戦争:1853年オスマン帝国(トルコ)領内のエルサレムの管轄権
              をめぐって、ロシアとオスマン帝国が開戦。英仏サルディニアはクリミア半島に
              出兵。
              この時、イギリスの看護婦ナイチンゲール(フィレンツェ生まれ、
              1820-1910)は、多くの看護婦を率いて、傷病兵の看護に当たり、
              「クリミヤの天使」と言われた。

独立時代
 1917年       :ロシア革命で、帝政ロシアが崩壊。ついに、フィンランドは念願の独立を達成
               した。
              爾後、スオメンリンナ(フィンランドの要塞)と改められた。
この地図を見ていただくと、くどくど、下手な説明をする必要はありません。

グスタフ2世はフィンランドを含むバルト海一帯はもとより、ヨーロッパ大陸深くまで侵攻した。
当時が、スエーデンの絶頂期でした。

地図の色分け、3段目の黄色、フィンランドにおけるスエーデンの植民に留意して下さい。スエーデン語とフィンランド語は、全く異なる言語ですが、2カ国語を話す人は多いです。

グスタフ2世時代に獲得した領土は、1709年、カール1世がロシアを率いたピヨートル大帝に大敗したため、17世紀に獲得したすべての領土を失うことになります。

そして、征服者であったスエーデン軍はフィンランドから引き上げて、フィンランドは、爾後、独力で隣の大国、ロシアやドイツに立ち向かうことになります。
 フィンランド南岸を守る要塞として、また、ロシアに奪われた領土の回復をも願って建設された。詳細な説明は省きますが、スウエーデンーロシア戦争で、ロシアの包囲にあい、籠城、敗北、二度と領土をロシアから回復することは出来ませんでした。

 さて、皆さんは、我が国の北方領土はロシアから回復できると思っておられますか。戦争に負けて、その後の交渉で、ロシアから領土を回復することは、どんなに困難か、北欧の小国は熟知しています。
今は観光客が多い平和な島、博物館もあり賑わっています。
余談
 40年前の商談相手は、ヘルシンキに本社があり、内陸部に工場がある、フィンランドではその分野の一流企業でした。
 今回、このHPに記事を書くに当たり、改めて当時の写真を探しましたが出てきません。冬の訪問でした。写真を撮る余裕はありませんでした。寒いし、昼も暗いし、商談に忙しいし。

 北極回り、アラスカのアンカレッジ経由のスカンジナビア航空で、コペンハーゲン乗り換え、そしてヘルシンキに行きました。
 曇り空、凍てつく滑走路に着陸、タラップを降りるとき、脇のスチュアーデスが、滑らないようにと乗客一人一人に声をかけていました。(勿論、英語です!)
 ホテルから商談相手の会社事務所までは、徒歩で行きました。カツカツに凍った道を、晴れた日は、星空の下通いました。日本製品の売り込みですが、相手は、何時も温かく迎えてくれました。サンドイッチの簡単な昼食を、部長さん自ら出してくれました。
 商談が終わるのは、午後5時近くでした。3時半には暗くなり、帰りも、星空の下、独りでテクテク帰りました。何度目かに、趣味を聞いてみました。湖の畔に別荘があり、冬は、サウナに入った後、湖の氷を割って泳ぐと、とても爽快と言っていました。ヨットのことは想いだせません。40代半ばの温厚な紳士でした。
 残業はしないと言いましたが、私との話は、複雑で、翌日の準備は絶対に必要です。どうしているのかと聞くと、自分には家族があり(それはそうでしょう)、仕事は家に持ち帰ると言います。夕食後仕事を始め、時には、12時を過ぎると言っていました。当然、奥さんから苦情がありますが、この仕事が好きだからと言っていました。
 イプセンの「人形の家」を思い出しました。
 あー自分と同じかと思いました。
 一期一会、彼は未だ元気でしょうか?
スウエーデン:面積:45万km2   人口:905万(2006年3月)
スウエーデンの歴史一言

定住からヴァイキングの時代まで
 紀元前1万~8000年頃:人類の定住の痕跡。
 新石器時代(前3000年頃~前1500年頃):農耕文化伝わる。
 青銅器時代(前1500年頃~前500年頃):イングランドやヨーロッパ大陸との交渉一段と密接にな
              る。
 9世紀          :ヴァイキングの活動始まる。
 11世紀初期     :キリスト教が定着し、部族統合が進む。
統一王国形成から自由の時代
 1389年       :デンマークの支配下に置かれる。
 1523年       :デンマーク支配から解放される。指揮者グスタフ・バーサ王位につく。
 1630年       :グスタフ2世(在位1611-1632年)が30年戦争に介入し、バルト海沿岸
              地方の支配を確保。

              *30年戦争:(1618ー1648年 ドイツ国内の宗教的対立を契機とする
               紛争に諸外国が介入した戦争)

 1700年       :バルト海沿岸の支配を巡り、ロシア、デンマーク、ポーランドと戦争が勃発。
 1718年       :この戦争でカール12世戦死。
新生スウエーデンから現代まで
 1805年       :グスタフ4世はナポレオン戦争に参加し敗北。フィンランドをロシアに占領さ
              れる。
 1809年       :グスタフ4世追放される。
 1814年       :ノルウエーを同君連合の形で併合。
 1905年       :ノルウエーが分離独立する。
 1914年~1918年:第一次世界大戦は中立を宣言。輸出入が極度に落ち込み耐乏生活を強い
              られる。しかし、国土が戦火に荒らされることはなかった。
 1932年~1976年:社会民主党が単独あるいは連立で国家を指導した。
              第二次世界大戦中は、フィンランド、ノルウエーに移動するドイツ兵の国内
              通過を許すなど、柔軟な中立政策をとった。
 1976年       :高率の税負担と経済不況から、保守連合政権が誕生。
 1982年       :経済回復を見ないまま、再度、社会民主党が与党になる。
 1995年       :EUに加盟、ただし、通貨はスエーデン・クローナ


余談:
 40年前、仕事で初訪問、初印象は美男・美女の国。イングリット・バーグマン(1915年~1982年)の様な美女は何処にでもいるということでした。
商談相手は、男性ですが、金髪で空色の目をした相手と話していると、俺と同じことを考えているのかと不思議でした。そんな相手と突き詰めた話をしたのは初めてですから。

今回のツアーは、そんなことを考える間もなく終わりました。
王宮
市街地の王宮:正面 市街地の王宮:裏
手前の舗装が広く写してあるのは、観光客が近寄らないように、距離を定めているからです。
こんな所に、住むのが嫌になった王様の気持ちが分かります。
裏側は、広い公園になっていて、立ち入り自由です。今回は写してきませんでした。さて、40年前の写真がないか調べました。当時、宿泊したホテルから近く、朝陽に輝く王宮の写真がありました。
正面の、衛兵交代は興味がなかった様です。

手前の車、写っているのは3台ですが、日本車はありません。たった3台だから、日本車が写っていないのではありません。日本車が、ヨーロッパに輸出される前なのです。
王様のお住まい:
郊外の別荘がお住まいで、王宮までご出勤です。
王様のお住まい:
裏には、広い庭、池もありますが、入れないのは一部のみ。
この庭で採取した蜂蜜を売っていました。勿論、買いました。

蜂蜜参照下さい。 ここをクリックして下さい。
王様のお住まい:
裏庭、散策自由の地域
西洋菩提樹が満開でした。
ヴァーサ号博物館
 スウーデン最盛期に建造された戦艦。しかし、処女航海に出る直前に、ストックホルム港内に沈没。(1628年)
 しかし、こらが幸いで、完全な姿で保存されていた。戦艦に見事な彫刻が施されている。
デンマーク:面積:4.3万km2              人口:543万人(2006年3月)
            :グリーンランド217.6万km2 
デンマークの歴史一言

ヴァイキングの時代

 紀元前3000年頃:新石器時代始まる。
 紀元後800年頃 :ヴァイキングの時代
 970年頃      :デンマークをキリスト教化。
 1014年      :イングランドを征服。
 1016年      :クヌート大王がイングランド王につく。
 1028年      :クヌート大王がデンマーク王を兼ね、更にノルウエー王に推戴される。これを
             北海帝国と呼ぶ。
             やがて、王位を巡る内乱の時代。
カルマル連合と宗教改革
 1389年      :マグレーテ女王は、推されてデンマークとノルウエー王になる。その上、
             スエーデン貴族の要請で、スウーデン王を追放し、3王国を合一した。
 1448年      :クリスチャン1世がオレンボー王朝の開祖となる。

             内乱と30年戦争の介入と混乱の時代。

 1659年      :フレデリク3世は市民とともに、スウーデンの攻撃を撃退し首都
             コペンハーゲンを守る。
絶対王政の時代
 1661年      :絶対王政が始まった。
 1801年      :ナポレオンに与して、首都がイギリス艦の砲撃を受ける。
 1814年      :ナポレオン(フランス)の同盟国として敗戦を迎え、戦勝国とキール条約を結ぶ。
             ノルウエーをスエーデンに割譲。
独立後の時代
 1848年      :首都で無血革命が発生し、絶対王政は崩壊。
 1863年      :南部のスリーウエイ帰属でドイツ(プロイセン)と争い敗退し、この地をドイツに奪
             われる。
 1863年      :フレデリク7世没しオレンボー家はこれで断絶。クリスチャン9世が即位し、
             グリュックスボー朝始まる。
             この頃より、農業は穀物生産から酪農へ転換し成功した。産業革命で首都は
             都市化した。
 1872年      :社会民主党が成立、平和主義が内外政を規定していくことになる。
 1920年      :第一次世界大戦後、スリーウエーが住民投票でデンマーク帰属を決め、再び、
             デンマーク領に戻ってきた。
 1949年      :NATOに加盟
 1972年      :上院の廃止、女性の王位継承権を認め、女王マーグレーテ2世が誕生。


余談:
 今、40年前を思い出したいます。一番の違いは、以前、全く見かけなかったアジア人(日本、中国、韓国人)の多さです。他の北欧諸国も同じです。当時、三ヶ月ほど、北欧を回っている間に会った有色人種(嫌な言い方はですが、私も有色人種ですから)たった二人でした。懐かしいのか相手から話しかけてきた日本人二人です。
 コペンハーゲンの休日に、観光バスで会った大学教授、そして、ストックホルムのレストランで働いていた人、たった二人で今も憶えています。
フレデリクスボー城   角度を変えた城見学をどうぞ。
                コペンハーゲン北西に位置する町、ヒレロスにあり。
手前は菩提樹の大木
他のヨーロッパ各国からの学生の集団旅行先でもあります。
コペンハーゲン:人口108万人
           街の景観維持に為、建物の撤去は許可が出ないという。内装のみ改装し、街の
           景観を維持しようと言う試みです。
人魚姫の変遷:
 今度の旅で、40年の歳月を一番感じたのは、人魚姫近辺の賑わいです。
これが40年前の人魚姫です。アルバムから剥がしてスキャナーにかけようとしたのですが、台紙から剥がれてくれません。貴重な写真に皺が寄ってしまいました。可哀想に!
休みの日、タクシーを飛ばして見に行きました。ご覧の通り誰もいません。
平成18年(2006年)7月の光景
バスを降りて、道側から写そうにも人の山 観光船に乗って海側から写そうにも人の山
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