![]() |
|
5.世界の鯉釣りと旅情 |
||
| アルバニア | 西バルカン大紀行は、ここアルバニアから始まった。 オーストリアのウイーンから深夜に到着。 |
|
| ヨーロッパにおけるアルバニアの位置 | ||
| 隣の図書館で探し出した、数少ないアルバニアの地図です。 日本語表記に多少の違いがあります。 |
||
![]() 地図1 |
||
| 現地で添乗員さんから頂いた白地図 ヨーロッパにおけるアルバニアの地理的な位置を知っておくと、山がちで、沃野や天然資源に恵まれていないアルバニアが、何故、周辺列強の侵略の標的になったのか理解できます。 |
||
![]() 地図2 |
||
![]() 地図3 |
アルバニア: 面積:2.9万km2 人口: 370万人(2004年) 公用語:アルバニア語。イタリアとは歴史的関係もあ りイタリア語を話せる人もいます。 主な産業:農業(たばこ、ワイン)鉱業(クロム)、 軽工業など。輸出はイタリア向けが75%。 人種:大部分はアルバニア人、南部に一部ギリシャ人。 宗教:イスラム教6割、東方正教3割、ローマ・カソリック教1割。 かっては、70%がイスラム教徒であったが、共産党政権時代の宗教禁止で今は60%と言う。 |
|
| 歴史をちょっと: 紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。 南方の古代ギリシャの影響を受け、また、ギリシャ植民地も形成された。 3世紀にはローマ帝国の属州となり、東西ローマに分裂した後は、東ローマ帝国に帰属した。イリュリア人の統一国家を形成することも出来ず、14世紀以降、東ローマ帝国の衰退と共にいくつかの国に支配された。やがて、オスマン・トルコはいくつかのアルバニア人領主を隷属させることによって、アルバニア支配を確立した。 アルバニアは1912年オスマン・トルコ帝国より独立を宣告した。しかし、ヨーロッパの列強が、アルバニアの国境を定めたため、数百万のアルバニア人が隣国に取り残されてしまった。 |
||
![]() 地図4 |
![]() |
|
| 多くのアルバニア人を、アルバニア国外に残すことになる、列強による国境の設定は、後々まで紛争のもとになった。 | ||
| この後のアルバニアの変遷を書けば、一冊の本になるほど複雑である。ヨーロッパ列強による勝手な介入や侵略は、小国の悲哀を嫌と言うほど知らされる。 1914年に勃発した第一次世界大戦で、ドイツ貴族出身の国王は、国外に逃亡し帰国せず、無政府状態に陥った。 1925年、共和国宣言。1928年、大統領が王位につき再びアルバニアは王政になる。 1939年、ムッソリーニのイタリアに併合される。1943年ムッソリーニのイタリアが連合国に降伏、代わってドイツ軍が占領。 1944年、ドイツは連合国に降伏。 アルバニア内戦。 1945年、ホジャは共産党政権を樹立。 その後、親ソ連政策、反ソ連政策、親中国政策、すぐに反中国政策と国の政策は混乱を極め、共産圏も自由圏も関係ない、孤立政策となる。外国人の入国は出来ず、貿易禁止、国内に80万とも90万とも言われるトーチカを築いた。反対者は処刑される状況であった。 |
||
| 何処にもあるトーチカ。 耕作していた農民の話では、農耕の邪魔になるから撤去して欲しいと政府に要求するも、予算がなく出来ないという。 大きいトーチカは家畜小屋に使っていた。 沢山のトーチカを見たとき、作らせたホジャ共産党政権の異常を感じましたが、帰国して、アルバニアの歴史を読むと、限りない列強の侵略があり、さもありなんと納得しました。 Nさんご提供の写真 |
||
| 1985年ホジャ死去。アリアが指導者となり、多少の緩和政策だ導入されるも、ベルリンの壁崩壊、隣国ユーゴスラヴィアの崩壊と続き、さらなる民主化要求に抗しきれず、1992年、自由選挙で旧共産党が敗北。野党民主党のサリ・ペシャが首相となる。 |
||
| 第一日目 10月2日 深夜、日本よりウイーン経由で到着 | ||
| 第二日目 10月3日 アルバニアの首都、ティラナ周辺の散策,、ティラナ泊 | ||
![]() |
首都ティラナ:人口75万人 ティラナの朝。 首都ティラナの中心にある当地最高級のホテルに泊まり、朝明けと共に、窓からの眺めです。 |
|
| クルヤ城とアルバニアの英雄スカンデルベグ | ||
![]() |
アルバニアは今も昔も、英雄、スカンデルベグを語らずして終われません。 オスマン・トルコ軍は1389年、コソボの戦いで、セルビアを中心とするバルカン連合軍を破りバルカン半島へ進出した。当時のアルバニアはいくつもの領主に分割統治されていた。これら領主の師弟を、トルコは首都イスタンブールで教育、訓練しその中にはトルコ軍の将校になる者もいた。 そんな一人のスカンデルベグが、反トルコの反乱を指揮し、勝利を収めて、一躍、アルバニアの英雄として崇められるようになった。 共産党政権でも、今でも、英雄に変わりはない。 26回オスマン・トルコ軍と戦い、2回勝利、最後はイタリアに逃れ、マラリアで死亡。1468年。68才。 |
|
![]() |
クルヤ近郷に今も残る、スカンデルベグが築いた城址。 ここは海抜約600m。 クルヤの町を見渡せる絶好の位置にある。 クルヤは首都ティラナの北にあり、上記の地図1、または地図2参照。 |
|
| この観光名所の入り口に佇んで本を薦める紳士。 聞けば、クルヤとスカンデルベグにつき書いた自分の本を買って欲しいという話でした。 本の表紙をみて、アルバニア語は読めないというと、概略は最後に英語で記してあるという。本にサインを頂き買いました。 やっと、英語の部分を読みましたのは帰国してからです。 クルヤには、何度もオスマン・トルコの大軍が押し寄せており、軍勢は8万人から15万人に達したと言うから、千人単位のクルヤ軍で防戦するのは容易で無かったろうと推測しました。 |
||
| 表紙 | 著者の肖像写真は、本からの転写 | |
![]() |
![]() |
|
| 城址から眺めるクルヤの街。背後は石灰岩の岩山。 | ||
![]() |
![]() |
|
| この痩せた岩山の土地を見ると、近隣列強が侵略を重ねていたのは、何が目的であったのか、理解できなくなりました。 戦争や、侵略の動機は、経済的合理性では答えにならないのでしょう。 抜けるような青空、そして、今、平和です。 |
||
| 朝出発したティラナに戻ってきました。 | ||
| ティラナの中心にあるスカンデルベグの騎馬像。 偉丈夫です。 忙しげな交差点で、車を避けて写真を撮るのも大変です。 モスクやミナレットが街の中心にあるのも、イスラム教が主流のアルバニアの眺めです。 Nさんご提供の写真 |
||
| マザー・テレサとアルバニア マザー・テレサがアルバニア人(両親がアルバニア人)であることはご存じでしたか。しかも、生まれは、マケドニアの現在の首都スコピエです。当地の複雑な事情が分かります。 上の地図4を参照して下さい。アルバニア国外にアルバニア人が多いことは、周辺列強が、アルバニアの国境を勝手に決めたことが原因です。 |
||
![]() |
![]() |
|
|
この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。 |
ティラナの中心にあるマザー・テレサ広場にマザー・テレサの像があります。 この辺りには大学もあり、屈託のない女性の一団に会いました。英語も分かり、新しいアルバニアの担い手でしょう。 大学進学率60%、医学部、法学部等が人気。 |
|
![]() |
共産党時代の無機質、画一的街の美化運動の一環のようで、ペンキで飾ってあります。私の好みには合いませんが時代の流れとして受け入れます。 | |
| 第三日目 10月4日 朝ティラナをバスで発ち、ドユレス着 | ||
| ドユレス:人口15万人 現存するアルバニア最古の街の一つ。港町です。首都ティラナからバスで55km。 |
||
| 何故アルバニアは古代から現代に至るまで、周辺列強に侵略され続けたのか。これが、私の疑問でした。 しかし、博物館で見た一枚の地図で、疑問が解けました。 壁に大きく描かれた地図です。地名は小さくて読めませんがそれはどうでも良いことです。イスタンブールからアドリア海に抜ける街道を見れば、古代ギリシャ、ローマ、そしてオスマン・トルコにとってアルバニアの重要性はすぐに納得できます。 下の地図で、イタリアの近いことが納得できます。一番近いところで72km。 道路建設に優れたローマ人はイスタンブール(地図1)(トルコ)よりドユレス(地図3)(アルバニア)に通じる街道を建設した。(エグナティア街道) 地図2テッサロニキ(ギリシャ)は古代ローマ時代は中東方面への宿駅として栄え、バルカン半島貿易のルートとしても重要な位置にあった。 |
||
![]() |
||
| 博物館より海まで徒歩で。 | ||
| 海岸に面した宿泊ホテル | 夏のバカンスも終わり、閑散とした海岸 | |
![]() |
||
| 新しい高級住宅の建設が進み、同時に遺跡の発見、発掘も進んでいる。 先史時代のイリュリア人の石器、土器、鉄器の発掘。(~BC627年) ギリシャ・ヘレニズム時代(BC627年~BC218年)の二つの取っ手を持つ壺 ローマ時代(BC218年~AD5世紀頃)マイル・ストーン、当時は金より高価なガラスの壺。 博物館の展示は多彩でした。 |
||
![]() |
![]() |
|
| 夕方、ドユレス市街を見渡せる、丘の上の高級マンション(元カイザー・ホテル)の屋上で一休み。 林立するクレーンと建設中の高層ビルを見ると、やがて、欧米資本の高級ホテルや豪華マンションが建ち並ぶでしょう。 |
||
![]() |
||
| 第四日目 10月5日 | ||
![]() |
ホテルの前の小・中一貫校参観。 8年生の教室でした。授業前の忙しい時間帯に、校長先生はじめ諸先生方が応対して頂きました。 ふと、日本の学校を考えました。外国人の訪問に気軽に応対出来るのでしょうか?どんな質問でも、勝手に出来るのでしょうか? 生徒は、日本の事をよく知っていました。世界に知れ渡った高度の機械工業。そして、日本の抱える超高齢化社会。 日本の中学生は、どれほどアルバニアを知っているのでしょうか、クラス代表が英語で応対できるでしょうか。とても疑問です。 アルバニアの未来を開くこの子達に幸せを! |
|
| アポロニア遺跡 | ![]() |
|
| 紀元前620年、ギリシャ人によって建設される。 アドリア海まで12km、そして、街の下を流れるヴィiヨサ川(ビヨサ川)からアドリア海に出られる交通の要衝。 その後、ローマ、東ローマと引き継がれるが、五世紀の地震で、ヴィヨサ川(ビヨサ川)の流れが変わり、衰退した。 Nさんご提供の写真 |
||
| アポロニア遺跡は丘の上にあり、見下ろすとかなりの平野がある。 彼方にアドリア海。 人々の糧を得るのに好都合な位置にあったことが理解できる。 左右にある二つのドームは、ホッジャ時代のトーチカ。 |
||
![]() |
||
![]() |
丘にはオリーブの原種が繁茂している。実も小さい。 | |
| 丘の麓の教会では、幸せそうな光景に巡り会った。結婚式の前日に、花嫁の写真撮影の習慣があり、今日はカメラマンを連れて、写真撮影をすると言う。 早速、写させて貰った。 付き添いは、花嫁の姉と兄でした。兄はイタリアで働いており、英語は駄目ですが、イタリア語が話せるということで、イタリア語が役立ちました。 |
||
| 花嫁 | 花嫁の姪と甥(姉の子供) | |
![]() |
![]() |
|
| ベラット(城塞都市): ドユレスで昼食後バスで移動、ベラット泊。 | ||
| 丘と言うより山の上のオスマン・トルコ城塞 | ||
![]() |
![]() |
|
| 山の上の城塞より見下ろしたベラットの街。 山の斜面にトルコ風の家並みが遠望できる。 |
||
![]() |
||
「千の窓を持つ町」の異名を持つベラット |
||
![]() |
![]() |
|
| 10月は日没が早く、上記の写真も今ひとつ。 2008年(平成20年)、6月、近所のセミプロ写真家が撮られた写真を頂きました。 |
||
![]() |
||
| 第五日目 10月6日 | ||
| ベラットのホテルと周辺は社会主義時代そのまま。朝早くバスで出発。エルバッサンの街に着く。 エルバッサンの位置的重要性は、下の地図5で一目瞭然です。 |
||
| 地図5 | ||
![]() |
||
| エルバッサンの街:人口10万、古くからエグナティア街道の要衝。社会主義時代には巨大な製鉄所 も作られたが、最近は産業も衰え人口は減っている。 城壁の高さは15m近い。東ローマが創設、その後、やって来たオスマン・トルコ もこの城塞を利用した。 |
||
![]() |
![]() |
|
| 昔の浴場は今は喫茶店 | ||
![]() |
遅めの昼食は、アルバニア最後の食事です。 オリフド湖畔にて。 オリフド湖は500万年前地殻変動で形成された世界最古の湖の一つという。 オリフド湖はマケドニアとの国境にまたがっています。写真はマケドニアの部ににあります。 |
|
| マスの原種コラン とても美味しいです。 添乗員さんのサービスが良く、すぐ醤油が出てきます。折角、アルバニアにいるのですから、添えてあるレモンで味わいました。 何でも醤油をかけないと気が済まない人が多いですが、高いお金を払って、旅しているのですから、私は、現地の味が良いです。 でも人は様々、他人様にお節介するのは、旅の御法度。 |
サラダは殆ど同じスタイル。 生野菜とトマト、その上にチーズ。 トマトはどこで食べても美味しかった。 チーズは塩味がきつめですが、野菜と混ぜればほどよい味になります。 |
|
![]() |
![]() |
|
| 次の訪問国、マケドニアのオフリド湖ガイド・ブックより。 鱒の原種、コランの写真はやや不鮮明ですが、きれいなパールマークが写っています。 |
||
![]() |
||
| この鱒の原種、コランの写真を見て、日本の固有種、アマゴを連想しました.。体側にきれいなパール・マークがあり、とても美味です。陸封ですが、降海するのもあるようです。 | ||
![]() |
||
| 湖畔のレストランからオフリド湖岸に降りて、アルバニアから見たオフリド湖 | ||
![]() |
![]() |
|
| 美味しい昼食が済めば、バスで山越え、そして、マケドニアの国境へ。 | ||
| いつもの鯉と鰻の話しはマケドニアの部を参照下さい。 | ||
| 次の訪問国、マケドニアへ | ||
| ホームページ INDEXへ戻る。 | ||
|
Return to homepage INDEX
|
||
| 旅情:西バルカン大紀行 | ||
| Copyright© 2001stsuji. All rights reserved. |