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5.世界の鯉釣りと旅情 |
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| ボスニア・ヘルツエゴビナ | マケドニアから、当国への直行便はありますが、小型機で、一年以上前から予約必要とのことで、ウィーン(オーストリア)経由入国しました。 コソボを通る道路が使えないのは致し方ありません。 サラエヴォ空港のHPアドレス:リンクしています。 ウィーン乗り継ぎが便利。 http://www.sarajevo-airport.ba/ |
| ムスリム人(イスラム教徒)44%、セルビア人(セルビア正教徒)31%、クロアチア人(カトリック教徒)17%と言う複雑な構成で、国土はボスニア・ヘルツエゴビナ連邦51%、セルビア人共和国41%という、独自性の高い二つの共和国より構成される。 この上にある、日本を含む世界各国や国際機関が構成する和平履行評議会が強力な権限を持っており、一種の信託統治体制下にある。 と言われても、簡単には理解できない複雑な構成で平和が保たれ、今は戦火が収まっている。 |
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ボスニア・ヘルツエゴビナ: 面積:5.1万㎢ 人口: 450万人(2004年) 公用語:ボスニア語、セルビア語、クロアチア語よりなるが、実際には方言程度の違いという。 ただし、セルビア語はキリル文字で書かれています。ラテン文字には慣れているが、キリル文字を知らないものには戸惑いがあります。 主な産業:製鉄業、食品工業、林業。ただし、内戦後の復興は遅れている。 宗教:ムスリム人(イスラム教徒)44%、セルビア人(セルビア正教徒)31%、クロアチア人(カトリック教徒)17%その他 |
| 歴史をちょっと:旧ユーゴスラヴィアを構成していた六つの共和国の一つ。 紀元7世紀にこの地に移住したスラブ人は既に、セルビア人とクロアチア人が混在していた。この説明は分かりにくいが、セルビア人とクロアチア人の違いは、人種の違いでなく、宗教、すなわちセルビア正教とカトリック教の違いである事を知れば、納得できる。 14世紀、中世ボスニア王国が現在のボスニア・ヘルツエゴビナを事実上支配する。 1389年のコソボの戦い(進入してきたオスマン・トルコとの戦い)にセルビア側に援軍を送っている。 15世紀にオスマン・トルコが進入 1527年、オスマン・トルコの領土に編入される。 1875年対オスマン・トルコへの農民反乱が勃発。 1876年この反乱がバルカン全土に広がり、セルビア公国やモンテネグロ公国もオスマン・トルコ朝に宣戦布告 1877年機を見るに敏なロシアは、これに乗じてオスマン・トルコ朝に宣戦布告し、棚ぼた式に勝利。 第二次世界大戦の対日宣戦布告したソ連と似ていませんか? 1878年紆余曲折の後、ボスニア・ヘルツエゴビナは、なんとオーストリア・ハンガリーの占領下に置かれる。ヨーロッパ列強のパワーゲームの犠牲です。 支配者がオスマン・トルコからオーストリア・ハンガリーに変わったのみで、国民の多数を占める農民は、念願の土地改革から取り残され、各地で農民反乱が発生。 反帝国の機運の中で、青年ボスニア党が結成される。 1914年青年ボスニア党のメンバーの一人が、サラエボで、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺、これをきっかけに第一次世界大戦勃発。オーストリア・ハンガリー帝国崩壊。 1945年ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が誕生し、ボスニア・ヘルツエゴビナはその一国となる。この、いわゆる旧ユーゴスラヴィアも1991年に崩壊、ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争の泥沼の地となる。 歴史を辿るのも辛い小国の悲哀、大国のエゴ、人の心を救うはずの宗教による争い・・・・・・・・・・。 |
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| 第八日目 10月9日 本日、マケドニアの首都スコピエからウイーン経由で首都サラエボに到着 宿泊ホテルのホリデイ・インに22.15到着。長旅に疲れ果てただ寝るだけ。 |
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| 第九日 10月10日目 首都サラエヴォ:人口35万人(?諸説あり)、標高550m、周囲は山に囲まれた盆地に位置する。 多様な民族、宗教、文化が混在した近代都市。 1984年冬季オリンピックが開催された。 1991年ユーゴスラヴィアは独立を唱える各共和国と、それを阻止するセルビア主導の連邦軍との間で泥沼の戦争になる。 しかし、街の全てが瓦礫と化したわけではない。一部、復興も進み、写真と合わせ、現況をご覧下さい。 |
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| 朝ホテルを出て、すぐに市内観光。あーあ、今日も雨。 | |
| サラエヴォ郊外の空港近くのトンネル博物館より見学開始。 | ![]() |
| ガラス箱に収められた、砲弾 | |
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| サラエヴォは1984年に冬季オリンピック都市となる。 1992~1995年、セルビア連合軍に包囲される。 セルビア連合軍の攻撃の名目は、旧ユーゴスラヴィア連邦からの離脱、独立の阻止でした。 しかし、元来、ボスニア・ヘルツエゴビナはムスリム人(イスラム教徒)44%、セルビア人(セルビア正教徒)31%、クロアチア人(カトリック教徒)17%と言う複雑な構成であり、私には、今ひとつ、理由付けが理解できません。現地ガイドに、宗教の違いがあっても、平和に暮らし,宗教を越え、結婚する仲であったのに、何故、ある日、隣人同士が銃を取って殺し合いを始めたのかと訊きましたが、カトリック教徒の彼女は、自分にも分かりませんという優等生的答えでした。 苦しかった時代を思い出したくないのでしょう。一介の旅人に言いたくないこともあるでしょう。 包囲されたサラエヴォ、右上が唯一、セルビア軍が包囲していない場所です。でも、狙撃され脱出も不可、電気、水道は止まり、食料、医薬品等の供給のため、長さ800m, 高さ1.6m 幅1mのトンネルを掘削。弱った人の脱出にも使ったという。出口は、飛行場付近。今は埋め戻され、25mが記念に残っている。 |
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当時の状況をビデオで見せてくれます。 生々しい状況が出てきます。 |
| トンネル出口付近の民家。弾痕が残ったままで無人でした。 | |
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| 人間の争いとは縁無く、自然は自然です。 | |
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| こうして、サラエヴォの包囲戦で亡くなった人は、11千人、見渡す限りの墓標です。ムスリム人(イスラム教徒)セルビア人(セルビア正教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)、皆、同じように亡くなっています。 冬季オリンピックの屋外メーン・スタジアムは、今、墓標に埋め尽くされています。 |
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| サラエヴォ市内 | |
| 昔懐かしい路面電車です。 | |
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| オスマン・トルコは15世紀にこの地に侵入、ボスニア全土を手に入れる前にこの地を占領し、ボスニアの州都としました。 | |
| オーストリア・ハンガリー時代の19世紀より市庁舎として使われていたが、1950年より、国立図書館として利用されていた。 内戦の時の、猛烈な弾痕が今も残っており、外壁を残し、貴重な、多くの図書が焼失。 いっそ、記念のために、弾痕の残るがままに保存しようと言う案もあるそうです。 復旧は殆ど進んでいません。 |
旧国立図書館前のミリヤツカ川。 浅くて、ご覧の通りの汚れ川。 手が回らないのでしょう。 |
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| オリエントの雰囲気を色濃く残す職人街、パシュチャルシャ。見飽きない職人細工物が陳列されている。 | |
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パシュチャルシャ広場とイスラム水飲み場、セビリ。 テントの下はカフェで、早速、トルコ・コーヒーを賞味しました。 |
| 1557年建設の石造りの正教会 | 教会内部の輝くイコン |
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| サラエヴォ事件現場: 1914年6月28日、ボスニアを統治していたオーストリア・ハンガリー帝国の、フラッンツ・フェルディナンド皇太子夫妻が、青年ボスニア党のセルビア人青年に狙撃された現場です。この事件が第一次世界大戦のきっかけとなりました。嘗てはここに、靴跡や銘板、事件の説明をした博物館がありました。 今も博物館はありますが、当事者がセルビア青年であったため、今回のセルビア軍との紛争が始まるや、これらは撤去され、博物館も閉鎖されたままです。 |
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博物館の銘板は残っていますが、入館できませんでした。 事件のきっかけの青年ボスニア党は、出だしの「歴史をちょっと」をご一読下さい。 これも歴史の流れでしょう。 |
| 博物館の正面 | ガラス越に写真を撮りました。 |
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| 博物館に向かって右手、ミリヤツカ川にかかる橋。 この橋の名はプリンツィプ橋であったが、今は、ラテンスキー橋に改名された。 因みに、青年ボスニア党のセルビア人青年の名は、ガブリロ・プリンツィプ。 Nさんご提供の写真 |
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| 第十日目 10月11日:サラエヴォ -> モスタル この間135km |
サラエヴォのホテルをバスで朝、出発、サラエヴォとアドリア海を結ぶキャラバンルートをネレトヴァ川沿いに、モスタルに向かって南下します。 道はオスマン・トルコ時代のキャラバン・ルートで随分、蛇行しています。乗用車が、猛スピードで、対向車の確認が出来ないのに、私たちのバスを追い越していきます。 ツアーのご一行は、ご興味がないようでしたが、さかなの養殖いかだが、ネレトヴァ川に浮かんでいました。鯉か鱒の養殖でしょう。 |
| モスタル | |
| モスタルの象徴、石橋、Stari Most. 1566年、オスマン・トルコ時代に、木造の吊り橋からこのようなアーチ形の石橋に変えられた。 内陸のサラエボなどから海へ運ばれる、肉、獣脂、穀物、蜂蜜、羊毛、そしてアドリア海から運ばれる塩、魚、オリーブ、干し無花果等の中継地として、オスマン・トルコ時代に出来た宿場町。 橋はユネスコの協力で2004年復元された。 |
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| 1993年、内戦で橋は崩落、現地で買った絵葉書より | |
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| 自由参加の夜の散策で撮影 | 橋、下流・右岸のレストラン屋根越しより Nさんご提供の写真 |
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| モスタルのみならず、ボスニア・ヘルツエゴビナの象徴としての石橋、Stari Mostは完全に復元されたが一歩裏側に入ると、内戦の傷跡は放置されたままで、傷跡は深い。 右の写真は同行の「Oさん」が、早朝お出かけして、撮られたものを頂きました。 |
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| 朝8.00、モスタルのホテルをバスで出発。モスタルから南、約30分でポチテリの街で、オスマン・トルコ時代の狼煙台(15世紀)の写真ストップ。 この時間から人々はカフェでたむろしている。今日は回教徒にとって、断食開けのお祭りの日。 |
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| モスタルから、右に見て走ってきたネレトヴァ川ともお別れです。河口に近づき、今までの山道から、パット視界が広がりました。バスは疾走し、残念ながら適当な写真撮影の駐車場もありません。 肥沃な河口は、蜜柑畑が広がっていました。バスの運転手さんが、胸に抱えるほどの大袋に蜜柑を買って差し入れです。外は冷えており、冷たくて、甘い蜜柑でした。 |
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| よいよ、次の訪問国クロアチアの国境検問所に来ました。ボスニア・ヘルツエゴビナの出国とクロアチアの入国は簡単な手続きで完了。 | |
| 次の訪問国、クロアチアへ | |
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