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5.世界の鯉釣りと旅情 |
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| クロアチア | |||
| クロアチア: 面積:5.7万km2(九州の1.5倍) 人口: 450万人(2006年) 公用語::クロアチア語(セルビア語と同族)。文字はラテン文字。英語が通じ、ドイツ語、沿岸部ではイタリア語が通じると言いますが、試していません。特にドブロヴニクは観光地のせいか、英語がよく通じました。 主な産業:造船業、化学工業、観光業、精油業等。 人種:クロアチア人89.6%、セルビア人4.5%、その他ハンガリー人、スロヴェニア人、イタリア人、アルバニア人等。 宗教:ローマ・カトリック88%、セルビア正教等。 その他:実質、ユーロ圏に入ったクロアチアの物価は高い。特に最近の円の対ユーロ下落に伴い、日本人には厳しい観光地です。10年~20年前のヨーロッパの旅を知る者にとり、日本の国力の低下を思い知らされる旅でした。ヨーロッパ人、ロシア人の観光客が 多いのも、歴史の流れを知らされる旅でした。 |
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| 歴史をちょっと:旧ユーゴスラヴィアを構成していた六つの共和国の一つ。 6世紀頃、南スラブ人が移住してきた。 この南スラブ人は、部族や氏族単位で南下して来た。そしてブルガリア、セルビア、クロアチア、スロヴェニアの四民族へ発展する。 9世紀頃、クロアチア人は、キリスト教を受け入れ。 11世紀、東西教会分裂以後は、ローマカトリック地域となる。隣国ヴェネツイアとハンガリーが強力になる。 やがて、ハンガリー王国、その後の、オーストリー・ハンガリー帝国の支配下に置かれる事になる。 第一次世界大戦でオーストリー・ハンガリー帝国が崩壊、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人のユーゴスラヴィア王国を建設。 1939年ユーゴスラヴィア王国は枢軸国、独伊につき、1941年、ナチス・ドイツは傀儡政権ロアチア独立国を組織。 これに抵抗するクロアチア人組織を率いたのがチトーである。 1945年ナチス・ドイツ崩壊。ユーゴスラヴィアはソ連から社会主義体制を押しつけられるも、チトーは独自路線を貫く。 1980年チトーの死後は民族運動が頻発。 1990年クロアチア民主連盟が選挙で勝利する。 1991年クロアチア民主連盟党首が独立宣言すると、セルビア主体の旧ユーゴスラヴィア軍の猛攻を受け、1992年まで独立戦争は続いた。 1992年1月15日、クロアチア共和国として独立が認められる。 |
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| ドブロヴニクの歴史をちょっと: クロアチアと言っても実際はドブロヴニクの街を見学したのみです。ここで、ドブロヴニクの歴史に触れておきます。 こんな小さな、国にも成れない都市が、どうして自治を保つことが出来たのか、その一つは、商人的金銭感覚で強者に上納金を払った事です。 もう一つは、嘗て、重要であった地中海貿易が、喜望峰周りの航路開拓と共に、大西洋に地位を奪われ、列強の侵略の目標にならなくなったことです。 7世紀頃、ここに人が住むようになった。 12世紀末、東ローマから、自由貿易の権利を得た。 13世紀の初頭、独立を達成。ヴェネツイア共和国の管轄下に入る。 14世紀半ば、ハンガリー王国が強大化すると、、今度はハンガリーの主権を認め、自治を勝ち取る。 15世紀オスマン・トルコが台頭、戦って体力を消耗せず、宗主権を認め、自治権を与えられる。 地中海、黒海沿岸のオスマン・トルコの領土を活用した交易でますます栄えた。 1667年死者5000人を越える大地震に襲われる。 18世紀にはスマン・トルコが衰退、ヨーロッパの交易の中心も地中海から大西洋に移る。 1806年ナポレオンに征服される。その後は、オーストリー・ハンガリー帝国に組み入れられ、歴史的活動の表舞台から消える。 1991年独立宣言と共にセルビア連合軍の猛攻を受け、再び、世界の注目を集める。 内戦終了と共に、果敢に復興に取り組み、今は、ほぼ完全に修復されている。 |
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| 第十一日目 10月12日 | |||
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前泊はボスニア・ヘルツエゴビナのモスタル。 モスタルから、8.00バスで、昔のオスマン・トルコの隊商が開いた街道を一路南下。クロアチアのドブロヴニクに着きました。 |
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| 左上の地図を見て下さい。ボスニア・ヘルツエゴビナのモスタルから、一旦、クロアチアに入り、海岸縁の道を走ると、すぐに、また、クロアチアを出て、約8kmボスニア・ヘルツエゴビナを走ります。再度、クロアチアに入国。海岸を走って、目的地ドブロヴニクに着きました。 | |||
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モスタルから続くネレトバ川沿いの曲がりくねった山道を走り、肥沃な三角州地帯に出ます。 蜜柑の産地で、運転手さんが、路傍の蜜柑屋さんから買って、差し入れてくれた蜜柑は美味しかったです。 やがて見えてきたアドリア海。息の詰まる狭隘な山道が終わり、ホッとしました。 |
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| ドブロヴニクの旧市街に入る前の、入り口付近からの眺め。 半島に突き出た街が、昔からの旧市街で、ここに見るべき観光スポットがあります。 ドブロヴニク旧市街は1979年世界遺産に登録。 1991年からのクロアチア独立戦争の祭はセルビア軍主体の旧ユーゴスラヴィア軍に攻撃され、街も破壊された。戦後、復旧も進み、1994年改めて世界遺産に登録された。 |
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| 交易で栄えたこの街には良港が不可欠でした。、 | |||
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| 旧港の出口、見霽かすアドリア海。 かっては、ここに多くの貿易船が来た。 | |||
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| 夏の観光シーズンも峠を越えたはずなのに、ごらんんの通り。 アジア人より、キリスト教徒のヨーロッパ、南米の人にとってより関心があるのでしょう。 今日は豪華船が入港し、それで、街は裕福そうな観光客が多いとの事でした。 細かく見ればきりがないのですが、我々異教徒にとっては通り一遍になります。 |
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| この小さな街が、なぜ自由を享受できたのか、それは、交易により得た富を宗主に多額の上納金(献納金と言うべきでしょうが、昔も今も変わらぬ上納金が適当でしょう)として払い続けたからです。 しかし、ヨーロッパからアフリカの喜望峰を回って、インドに出る航路が発見されると、地中海貿易の重要性は急速に薄れていった。 ポルトガルのバスコダ・ガマは、1497年、ポルトガルのリスボンを出発。1498年インドに到達。多くの商人や隊商を患わすことなく、ヨーロッパ人は直接、インドやアジアの交易を手掛けることが出来るようになった。 |
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| 時間があれば裏の路地散策がお薦め | 世界で三番目(?)に古い薬局とのこと | ||
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| 我々日本人旅行者にとって、生活水準が高く、物価の高い当地は、長居不要です。見学後、すぐに、今日の宿泊地、モンテネグロのブドヴァに出発です。 写真スポットから、ドブロヴニク見納めの写真です。 |
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| 右下の花は夾竹桃です。海岸は強風でしたが、力強く咲いていました。 Nさんご提供の写真 |
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すぐに、静かな光景になりましたが、モンテネグロのアドリア海の海岸縁は、やがて、同じような高根の観光地になる予感がします。 ユーロの対円レートは、今や、導入時の約1.5倍です。円の値打ちはユーロに対し大幅に下落したのです。 さるヨーロッパ人のエコノミストが2007年秋、対ユーロの円安について言いました。人口が減少し、働くモラールが低下し続く日本に、明るい未来はないし、我々の投資の相手国でもない。 |
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