5.世界の鯉釣り
 旅情:西バルカン大紀行

  2007年10月2日~10月19日(18日間)

マケドニア
アルバニアからのバスを一旦降りて、徒歩で入国しました。ここでマケドニアのバスとガイドに代わる。
マケドニア・アルバニアの国境付近は緩衝地帯になっており、深く切れ込んだ谷間の狭い道にへばりつく国境事務所。
http://www.macedonia.org/ マケドニアの公式ホームページ
マケドニア: 面積:2.6万km2(九州の2/3) 人口: 205万人(2001年)

公用語:マケドニア語(キリル文字)。ただしアルバニア語、トルコ語を話す人も多いという。

主な産業:農林業と漁業が全体の71%
 内陸国なるも、オフリド湖などの湖の漁業あり。

人種:マケドニア人が半数以上。その他アルバニア人、トルコ人
キリル文字は地名の理解に役立ちます。
全くキリル文字が読めなくても、この対比表で地名を探しました。
旅するたびにもっと語学の知識がなければと痛感します。
歴史をちょっと:
 古代ギリシャ語でマケドニアと呼ばれていたことに由来する。
 1991年(平成3年)独立する際に、マケドニア共和国という呼称にギリシャが反対(ギリシャの北部にマケドニア人が居住している為)
 古代マケドニアは現在のマケドニアに加え、ブルガリアとギリシャの一部を含むアレクサンドロス大王の王国だった。紀元2~7年頃まで栄えたが146年にローマ帝国のバルカン進出に伴いローマ帝国の属州となった。
 当地は、山岳地帯で少数民族が混在。ここに、6~7世紀にスラブ人が大量に移住し、これがやがてマケドニア人となるに及んで事態はますます混乱。これをマケドニア人という民族として認めていたのは旧ユーゴスラヴィアのみで、ギリシャとブルガリアは今も認めていない。
 ユーゴスラヴィアというのは南スラブ人の国という意味で、何故、マケドニアという呼称が、旧ユーゴスラヴィアで認められたのか納得しました。

 395年東ローマ帝国の支配、9世紀後半はブルガリア帝国の支配下、1018年ブルガリア帝国滅亡。再び東ローマ帝国の支配。13世紀セルビア王国の興隆で、セルビア王国の支配下に。1389年セルビア王国は、北上してきたオスマン・トルコに敗れ、マケドニアはオスマン・トルコの領土に組み込まれる。以後500年オスマン・トルコの支配下に。

 ロシア・トルコ戦争、第一次世界大戦、いちいち書けばきりがないから止めます。

 マケドニアがマケドニア人の共和国として認められたのは、ユーゴスラヴィア連邦共和国が建国されてからである。
 1991年この共和国も解体。マケドニアは住民投票で9割が賛成し、幸運にも独立戦争や民族紛争にならず、独立した。
 2001年、旧ユーゴスラヴィアとの国境付近で、アルバニア系武装勢力と武力衝突が発生、NATO の仲介で停戦合意したが、現在も緊張状態が続いている。
第五日  10月6日    アルバニアから入国、ホテルには夕方5時半頃到着。曇り、既に夕闇が
                迫っている。緯度から見れば青森です。
ホテル前のオフリド湖
第六日目  10月7日  世界遺産のオフリド終日。オフリド湖と古い建物が1979年に世界                 遺産に登録されました。

                生憎小雨模様の天気。
 ホテルからバスで旧市街まで行き、ここで下車。ホテルから見える距離ですが、小雨模様で助かりました。
 先ずロータリーへ
古い家並みも、また、観光資源です。
バルカン観光で、必ず出会うのは、遺跡の発掘現場です。
旧ユーゴスラヴィア時代は、遺跡の発掘は捨て置かれ、民家が建ち並び、
発掘は大変なことと実感しました。
城壁の見える湖畔の家並み 城壁から見たオフリドの街
サミュエル城塞に登り、見下ろした城壁と街とオフリド湖。
ご覧の如く天気が悪く、写真も今ひとつ。
サミュエル城塞は10世紀から11世紀にかけ、ブルガリア帝国の皇帝サミュエルにより建設された。
サミュエルはオフリドをブルガリア帝国の首都と定めた。
城塞より降りながら写した聖ヨハネ・カネヨ教会。角度を変えて撮りました。
信仰の自由が保障されているシンボルとして、社会主義時代も保存されていたと言う。
故チトー、旧ユーゴスラヴィア大統領別荘近辺
路傍の草花

あまり花の咲いていない季節でした
バカンスの夏も完全に終わり、流れ込みに、ヨットやボートは繋がれたまま。
第七日目  10月8日 ツアーはいつも急ぎの旅。
        朝、オフリド湖畔のホテルを出発。首都スコピエに向かってバスは山間の悪路を
        ひた走り。
        これでは、独立したと言うより、他の旧ユーゴスラヴィアの国々から見放されたと
        いう噂がさもありなんと言う地勢です。
             
途中で、真っ赤に色づいたりんご園の脇道に出て、写真休憩です。
美味しそうな赤い林檎
ガリツイア:標高800mにて
農家の庭先で
ピトーラ:オスマン・トルコの佇まいを残す街
オスマン・トルコの注書き
1389年セルビア王国は、北上してきたオスマン・トルコに敗れ、これにより、オスマン・トルコは一気にバルカン半島を席巻した。そして、その版図は現在のブルガリア、ルーマニア、ウクライナも含む広大なものになった。
オスマン・トルコの呼称は、オスマン帝国とも言われ、オスマン一世が、東ローマの衰退に乗じ、アナトリアに建設した国家が、1453年、コンスタンチノーブルを攻略し東ローマを滅ぼす。16世紀に最盛、アジア、アフリカ、ヨーロッパに迄またがった。17世紀末から衰退、第一次世界大戦で敗れたのち、革命により滅亡。(1299~1922年)
16世紀のオスマン・トルコの版図
ピトーラの街
マケドニア最大のイコノスタシス 楽しい昼食はロール・キャベツ?
ストピの遺跡
紀元前3~2世紀、のヘレニズム時代の遺跡。
ヘラクレア遺跡(省きました)と並び、ローマ時代のイグナチア街道(トルコのイスタンブールとアルバニアのドレスを結ぶ街道)の要衝です。宿場町として栄えた。
ご覧の通り発掘はあまり進んでいません。
部分的に、浴場、裁判所、教会跡など雑多で、モザイクの美しさが印象的でした。
7000人収容の半円形劇場跡 大バジリカ
洗礼堂とモザイク 美しいモザイク
写真を並べて説明しても煩雑です。そんなことより、山麓辺りの高速道路に留意して下さい。
昔も今も、東西、エーゲ海からアドリア海に通じる街道の要衝です。アテネまで560kmの標識。
雨が降っています。傘をさしての写真です。
鯉と鰻
 このホームページで欠かせないのが、鯉と鰻と蜂蜜です。蜂蜜は単独の項目をご参照下さい。
 蜂蜜はここをクリックして下さい。 
鯉料理

 バルカンで、最初に鯉料理に巡り会ったのは、1976年(昭和51年)、仕事で旧ユーゴスラヴィアに来たときです。この時は、「薫製の鯉」というメニューでしたが残念ながら缶詰でした。
 今回の旅で、初めて鯉料理が出ました。16名の参加者の内、何名の方だ鯉を食べた経験があるのか、聞き漏らしましたが、おそるおそる料理の匂いを嗅いでいる方もいました。そして、「泥臭くない!」のご発言でした。鯉は川魚だから、泥臭いに決まっているという友人、知人に何度あったことか。これでは、鯉料理を味わう前の先入観で、とても、美味しいと思えないでしょう。 
 ご覧の如く、空揚げです。一番美味しい内臓は抜いてあります。一般に、欧米人は、鳥、豚、魚の内臓を食べません。(例外はありますが)
 その上、レモンが付いており、誰でも食べやすい料理になっていました。私には、物足りないですが。

鯉釣り:

 1976年(昭和51年)、仕事で旧ユーゴスラヴィアに来たとき、ドナウ川で一日鯉釣りをしたことは書きました。
 詳細は「5.世界の鯉釣りと旅情」をご参照下さい。旧ユーゴスラヴィアの項に詳細があります。ここからもリンクしてあります。クリックして下さい。
 
 今回の旅で、最初に着いたアルバニアの現地ガイドに聴きました。先ず、薦められたのが、マケドニアとの国境にあるオフリド湖などの湖でした。そして、今度は、マケドニア側のオフリド湖の事も聞きました。流れ込みがあり、多くの釣り人がいましたが、マスを狙っている人が多いようでした。マケドニアの現地ガイドの説明では、日釣りの入漁券があると言っていましたが、料金は知りませんでした。

市内のレストラン「リラ」にて夕食会。

ジプシーやトルコ音楽の影響を受けた民族音楽を聴きながら、鯉のグリルを味わいました。
鰻と鰻料理

 これも、今回の旅で、最初に着いたアルバニアの現地ガイドに聴きました。それどころか、鰻料理があれば、ツアーが行くレストランで食べたい。必要なら、そんなレストランに、個人的に行きたいと頼みました。
 親切なガイドで、調べてくれましたが、今は、シーズンでないから、鰻を入手できないと言うことでした。
 マケドニアでも、同じ質問を、現地ガイドにしました。
 そして、意外な、いや、当然の回答が来ました。このオフリド湖で、以前、夏場に鰻が捕れた。しかし、オフリド湖から流れ出す川に、発電用のダムが建設され、鰻の遡上はなくなった。やむなく、子鰻をオフリド湖に放流した。やがて、成魚になり、下降の途次、発電所の水車に切り刻まれ、それで、下降して、地中海から大西洋に下り、産卵する鰻の数がめっきり減ったらしいという。

 何処へ行っても日本と同じ状況です。
オリフドで入手したガイド・ブックより転載した鰻。ヨーロッパ種で、日本鰻と較べずんぐり形です。
第八日目  10月9日 首都スコピエ、人口65万人、標高200mに位置
        小雨で肌寒い。バスで市内観光へ。
見上げるカレ城塞(標高280m)。11世紀のヘレニズム時代のもの。
城塞から眺めたスコピエですが、あいにくの天気で、写真は????
左はムスタファ・パシャ・モスク

1492年のもので、バルカン半島に現存するオスマン・トルコによるモスクでは最大規模。

1963年の地震で傾いた高さ47mのミナレット(尖塔)を修復中。
左は、500年前、オスマン・トルコにより整備された大商店街。

年移り、人変わり、生憎の雨。昔を偲ぶのみの佇まいです。

雨をよけ、テントの下で飲んだトルコ・コーヒーは美味しかったです。昔の味を残したままでしょう。
この国では、石橋も貴重な観光資源です。オスマン・トルコ時代の石橋。
1963年(昭和58年)7月26日の大地震の傷跡
傷ついた人のブロンズ像。使用不能の駅舎の前。 使えなくなった駅舎。時計は地震の時刻を指している。


桑の巨木にびっくりしました。シルクロードのその先にある国でした。

当時の中国からは、桑の木も、蚕も持ち出し禁止のはず。商人力に驚きます。
気が付けば街は秋の色 そして、食欲の秋、バザールにて
次の訪問国は、ボスニア・ヘルツエゴビナですが、ここで、機上の人となり、ウィーン、オーストリアに出国。そして、又、飛行機で、サラエヴォ、ボスニア・ヘルツエゴビナに行きます。この旅程は周知の事。驚くことはありませんが、コソボを、バス で横切れない現況から致し方ありません。
コソボの問題は、当該国のセルビアの中で触れます。
次の訪問国、ボスニア・ヘルツエゴビナへ
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