5.世界の鯉釣りと旅情

 旅情:西バルカン大紀行

  2007年10月2日~10月19日(18日間)

最近のセルビア情勢:
 コソボの独立を機に、セルビア対コソボ、セルビア対各国との関係が、急に脚光を浴びるようになりました。
多民族を抱える国々は、民族浄化や独立運動に神経質になっています。
 EUでも、コソボの独立承認に、スペインは慎重姿勢、その他EUは積極賛成と別れています。国内に、複雑な民族構成がある、ロシアや中国はコソボ独立不承認の立場です。
 こんな中で、2008年(平成20年)5月11日にセルビアの議会選挙がありました。親EU派が第一党になったものの過半数に達せず、親EU対反EUの勢力は拮抗、セルビアは今後も不安定な政権になる予兆です。
セルビア セルビア: 
面積:8.8万km2(北海道とほぼ同じ) 

人口: 1019万人(2006年)(コソヴォを含む)
言語:公用語はセルビア語。その他ハンガリー語、アルバニア語

主な産業:製造業(鉄鋼、繊維、ゴム製品等)、農業(果実、小麦等)、商業、運輸業。ただし失業率20%。

人種:83%はセルビア人、ハンガリー人4%、アルバニア人。
 ただし、問題のコソヴォ自治州では、アルバニア人が90%

宗教:セルビア正教、イスラム教(少数)
歴史をちょっと:

紀元前からセルビア王国の成立とオスマン・トルコに破れるまで:

 ベオグラードは、ドナウ川とサヴァ川の合流点に位置し、また、中欧に広がる大平原に位置している。当然、紀元前より各民族の抗争の拠点であった。
 合流点の丘にあるカレメグダン公園は、紀元前4世紀に既に要塞があり、ケルト人、ローマ人そして6世紀以降、大量に南下してきたスラヴ人によりによりに占拠された。
 セルビア人も南下してきたスラヴ民族の一民族であった。当初は東ローマやブルガリア王国の支配下にあったが、12世紀にセルビア王国の基礎が出来た。
 14世紀には中世セルビア王国が、今の、コソヴォに誕生した。そして、アルバニアやマケドニアを含む広い地域を納めていた。
 しかし、国王ステファン・ドウシャンの死後、国力が衰え、難敵、オスマン・トルコと対峙することになる。そして、王国の拠点、コソヴォでセルビア連合軍を形成しオスマン・トルコと戦うも、1389年に敗退。
 これが、今日のコソヴォ紛争の基となった。

オスマン・トルコの支配から脱却し第一次世界大戦まで:

 露土戦争(1877~1878年)で、機を見るに敏なロシアは、キリスト教徒保護を名目に、国力の衰えたトルコを攻撃し勝利した。
 これで、セルビア王国とモンテネグロ王国は成立したが、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリー・ハンガリー帝国の支配下になる。このくびきから逃れようとオーストリー・ハンガリー帝国に対する抵抗運動が起き、青年ボスニア党が結成され、青年ボスニア党の青年が、サラエヴォでオーストリー・ハンガリー帝国の皇太子を暗殺。第一次世界大戦が起こる。セルビア王国も参戦するも連戦連敗、しかし、オーストリー・ハンガリー帝国が連合国に破れ崩壊。第一次世界大戦後も、東方正教のセルビア系とローマ・カトリック系のクロアチア系の仲は悪かった。
 1929年、セルビア出身のアレクサンドル国王の独裁によるユーゴスラヴィア王国が誕生。
 1934年、クロアチア人がアレクサンドル国王を暗殺。

第二のユーゴ誕生から現在まで:

 第二次世界大戦で、当初はドイツと手を組んだユーゴも、将校の反乱で、枢軸国側に攻め込まれ、これで、ユーゴはドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアによって分割される。
 クロアチアを手にしたドイツは傀儡政権を樹立し、ユダヤ人、セルビア人を迫害した。パルチザン運動が起き、1945年、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国成立、1963年ユーゴスラヴィア社会主義人民共和国と改称。

 1991年、ユーゴスラヴィア社会主義人民共和国が崩壊、民族や宗教により、六つの独立国が誕生した。

 そして、2008年2月にコソボがセルビアより分離独立を宣言し、事態はますます混乱し、細分化が進んでいる。
第十三日  10月14日: モンテネグロのブドバから長躯、セルビアのノヴィ・パサールに移動の日。
 朝、8.00、強風吹き荒れる、モンテネグロのブドバの街を朝8.00出発。途中に昼食、休憩等休みもありましたが310km、約8時間のバス移動で、午後6時頃セルビアのノヴィ・パサールに到着。
 ここは、ただ、眠るのみ。モンテネグロ国内の観光は、モンテネグロの項参照。
第十四日  10月15日: ノヴィ・パサールからノヴィ・サドまで途中に観光し移動の日。
 朝、8.00、ノヴィ・パサールのホテルを出発。吐く息が白い。 
早朝のノヴィ・パサールの家並み。

山の中の街。

トルコ人の街で、モスクが多い。文字はキリル文字でなくラテン文字で書かれている。

出発後、すぐに郊外へ。
 ノヴィ・パサールのホテルから10分足らずで着いたスタリ遺跡。これは、セルビア王国(1169~1389年)の王都があったところ。

 1389年はどんな年だったか覚えていますか。オスマン・トルコにセルビア連合軍がコソボで敗退した年です。そして、オスマン・トルコは、なおも北上を続けることになったのです。現在も続くコソボ紛争の根源はこの戦いにありました。

 観光客は我々のみ、崩れた煉瓦に、霜が真っ白に付いていました。
 また、15分も走れば、ソボチャ修道院です。コソヴォはセビリア正教会(キリスト教)の聖地です。現在は、東方正教会もロシア正教、ギリシャ正教等各国に分散した正教会となりました。イコン崇拝など神秘的な典礼を持っています。社会主義対体制下で、抑圧された宗教心が各国で復活していることを実感させられます。
朝は霜が降りていましたから、高地で寒い。

空は抜けるような青空、冬が近い感じで、ツアーはこれが最後から、二つ目でした。

1260年頃、セルビア王、ステファン・ウロシュ一世が建設。
バスの車窓からの眺め。本日の宿泊地、ベオグラード北80kmのノヴィ・サドに向けてバスは疾走します。
 ノヴィ・パサールとベオグラードの中間当たりのクラグエラッツで昼食。仔牛ののスープ、仔牛の煮込みでした。
昼食後すぐにオプレナッツの街の丘にある聖ジョルジャ教会を見学。(聖ジョルジャは聖ギオルギと同じ)

ここは、1804年、支配者オスマン・トルコに対して、セルビア人が峰起したところ。
モザイク画で有名ですが、教会裏手の見晴らしの方が印象的でした。
 バスはベオグラードのバス会社本社で一時休止し、給油。その間にコーヒー・サービスを受けました。しかし、のんびりする間もなく出発。

 オグラードの郊外に出れば、やがて大平原に出ます。今までの山道と違い、収穫を終えた畑の彼方に夕日が沈んでいきます。日没、現地時間17.55でした。

 疾走する車窓からの写真です。写りが悪いのはご容赦下さい。
ノヴィ・パサールからノヴィ・サドまで335km、18.30 ノヴィ・サドのホテル着。
ハンガリーのブダ・ペストまで347kmの標識がありました。中欧の大平原です。
第十五日  10月16日:
 朝、8.35 ノヴィ・サドのホテルを出発。快晴です。
 昨日、収穫後の玉蜀黍畑に沈む真っ赤な夕日が、今日の快晴を暗示していました。
オーストリア・ハンガリー帝国時代の面影を残すノビ・サド市の中心部。
ノヴィ・サド市民市場
 何処でも売っているキャベツやピーマンでなく、ドナウ河畔で売っていた鮒に注目しました。

 日本の鮒そっくり、鯉も鯰もいるのだから当然でしょう。

 料理方法は聞き漏らしましたが、甘露煮や味噌煮があるはずもなく、フライでしょう。
 ドナウ河畔に来ました。川を見るだけで、心が安らぎます。そして、大河は古来より交通路であり、国土防衛の要害にもなりました。
 対岸に見えるのはペトロ・パラディン要塞です。この要塞は、東に流れるドナウ川の右岸(南側)にあります。左岸(北側)はオーストリア・ハンガリー帝国の心臓部であるため、ここで、北上してくるオスマン・トルコを食い止める事が必要でした。
 最初の要塞は、ローマが築き、1692~1780年にかけてオーストリア・ハンガリー帝国は対オスマン・トルコの要所として、拡充しました。5層の建物は、6万人の兵を収容できました。
 朝の逆光で、写真は今ひとつ。
ドナウ川の橋を渡り、要塞に来ました。

対岸に見えるのはノヴィ・サドの街です。少し靄がかかっています。
 ノヴィ・サド郊外に出て、ワイン・セラーを見学。オーナー自らのご案内でしたが、ワインテイスティングより、尊父の蜂の研究や、蜂蜜販売に熱心で、私には好都合でした。多くの人が蜂蜜を買われました。
 庭にはご覧の通り蜂の種々の巣箱が並んでいました。
蜂の箱の上に乗っているのは、強風に備えた重しだそうです。

日本では気がつきません。
尊父がドイツ留学時に研究された蜜蜂の資料。
このワイン・セラーでテイスティングのあと昼食。

クルシェド修道院(写真や説明は省略します。森の中の静かな修道院でした。
ゲオルグテク修道院。旧ユーゴスラヴィア崩壊後の激しい内戦、NATOの懲罰的空爆で、長い社会主義時代にすっかり弱くなっていた宗教心がまた強くなってきたという。
旅も終わりに近くなりました。バスで最後の宿泊地、セルビアの首都、ベオグラードに向かう。

暮れなずむ大都会のベオグラードにつき、ホテルに着いたのは夕方6時前。
第十六日  10月17日: 長いと思った旅も今日が観光の最終日。
ベオグラード周辺の観光です。
 今回の旅の、私の主目的は、1976年(昭和51年)に来た、ここ、ベオグラードを流れるドナウ川との再会でした。
 今から30年余前のドナウ川も、既に汚染が進み、その上、国際河川であるため、汚染がどの国の責任かも不明確なまま、汚れるに任せていた感じでした。
 その上、旧ユーゴスラヴィアとルーマニアとの国境にまたがる、鉄門(Iron Gate)と称するダムが建設され、河川の汚染は勿論、生態系にも大きな影響がありました。
 ドナウ川は黒海に注ぐわけですが、黒海から遡上する魚類は、このダムに妨げられ、遡上が困難となりました。
鉄門(Iron Gate)と称するダムは、ベオグラードから約200km余下流のドナウ川本流にあります。
 午前中はベオグラードの市内観光でした。

 完成後は世界最大となる正教大聖堂を見学。正教の解説をすると長くなりますから、止めますが、セルビアにとり、セルビア正教の聖地、コソボの分離独立運動は、我々異教徒の想像外の苦痛でしょう。
 市内観光はこれでお終いとし、グループとは離れてドナウ川に向かいました。現地のガイドに頼んで、タクシーと交渉して貰い、ドナウ川見学中は待って貰い、昼食のレストランで合流することにしました。
 右ドナウ川左サヴァ川の合流点です。誰がみても鯉釣りのポイントです。
 
 そして、感慨は30余年の年月の経過でした。誰もいなっかった静かな釣り場は、夏のヴァカンスの名残を残す観光客相手の数々の水上レストラン。自然のままだった川岸は、無粋なコンクリート護岸になっていました。昔のアングルから写真を撮るにも、建物が建っていました。
 
右ドナウ川左サヴァ川の合流点 昭和51年(1976年)のほぼ同じ場所

コダックのカラー写真もセピア色に変色
少し靄がかかっています。
 夏の名残で営業しているレストランもありました。

 平成18年(2006年)、個人旅行で、ルーマニアのドナウ川に行ったことは、別項でアップしてありますが、あの、自動車道路もないドナウ川の河口付近ですら、ヨーロッパの釣り人が押し寄せ、釣り場の取り合いでした。
 ウィーンから、僅か一時間半のベオグラードですから、私の利根川行きのようなものです。出発前に、時間をつくって、竿を入れようかと思いましたが、これでは、竿など持ってこなくてよかったという思いです。
時間貸しの観光船もありました。
最後の夜は、水上レストランで、夕食を楽しみました。当然。川魚主体で、美味しかったです。
 ワインの差し入れがあり、これがグループ最後の晩餐会で、うきうきの気分です。よくあるもめ事もなく、無事、西バルカン6カ国を回り終えました。コソヴォの問題もあり、2回の飛行機による移動、バスの長旅も全員無事でした。
 最初に出てきたスープは絶品でした。各種の川魚のスープという説明でしたが、私はすぐに鯰のスープと解りました。確認のため尋ねると、鯰も入っているとのことでした。これを聞いていた人が、早速、臭い消しに粉胡椒をスープにかけていました。
 鯰は、日本の川魚料理屋で食べられますが、都内や周辺では先ず、天ぷらです。蒲焼きは群馬県や岐阜県のお気に入りレストランで注文しますが、鯰のスープを出すところは知りません。
 ルーマニア、ドナウ川河口の民宿の鯰スープは絶品でした。ご興味ある方は、ルーマニアの項をご参照下さい。
 ルーマニアの項クリックで開けます。
 料理人さんは手際よく、すぐにナイフが入り、慌ててシャッター押しました。少しアングル悪いですがご容赦下さい。
 かりっと空揚げにされた、パイク(pike)川マスです。小骨のない白身の美味しい魚です。
pike(川マス)とは:淡水に済む魚食魚です。日本には生息していませんが、ヨーロッパでは、釣りはもとより、食用魚としてもポピュラーな魚です。
以上の他にも多くの観光スポットを訪問しましたが何れ、差し替えや追記をします。
今回の旅にコソボは入っていませんが、概略、触れておきます。
コソボ自治州: 面積1.1km2(岐阜県とほぼ同じ)
人口:200~220万人
民族:アルバニア系(88%)、セルビア系(6%)、スラブ系ムスリム(3%)、ロマ系(2%)、トルコ系(1%)
面積:1.1万km2
首都:プリシュティナ
産業:主要産業は農業。大麦、小麦、トウモロコシ、タバコ。
    鉱物資源は豊かで、亜鉛鉱山は、ヨーロッパ最大級、その他、石炭、銀、アンチモン、鉄、
    ボーキサイト、クロム。
歴史をちょっと:

 アルバニア人がここに住みついたのは紀元前1000年頃と言われている。セルビア人がスラヴ系の民族であるのに、アルバニア人はスラヴ人ではなく、インド・ヨーロッパ語族の中でも独立しており、ルーツは解っていない。
 セルビア人は、7世紀頃南下した南スラヴ民族に属し、当時、この地コソボは東ローマの支配地域であった。10世紀にセルビア王国が成立すると、ここはセルビア王国に組み込まれた。
 セルビア連合軍が、この地で、1389年、北上してきたオスマン・トルコと戦い、敗れた。これにより、東方正教徒であったセルビア人も、宗教的理由でこの地を去り、北方に移住した。
 ここに、アルバニア人が移住して来た。

 旧ユーゴスラヴィアの中で、最も開発が遅れた地域で、イスラム教徒が多いアルバニア人は、言語も宗教も異なる他のスラヴ系地域からの分離や自治を訴え続けた。そして、濃淡の差はあるが、一応は自治区として認められる事になる。

 問題が一層複雑、先鋭化したのは、セルビアが、ボスニア、クロアチアの内乱で生じたセルビア系住民を1990年代後半に入ると、当地に、多数移住させ、既存のアルバニア人と紛争を起こしたことである。内乱が多発、セルビアの介入、これにEUやアメリカが反対、介入を止めないセルビアを、NATO軍が懲罰的に空爆し、セルビア軍をコソボから撤退させた。しかし、これがセルビアの憎悪を駆り立てることになった。

 一方、セルビア国内でも、将来のEU加盟を目指す一派と、親ロ派の対立が鮮明になった。

独立宣言:

 
2008年2月17日、コソボ自治州は一方的に独立を宣言した。

 2008年3月17日現在のコソボ承認国:独立1ヶ月後の独立承認国は27カ国。
  ただし、国内に民族紛争を抱えている国からは、複雑な目で見られており、ロシア、スペイン、ルーマニアは承認しないと宣言。

 我が国は3月18日、コソボを独立国家として承認しました。

 ここで、困難な立場に立たされたのがセルビアである。セルビアの対外貿易の60%はEUである。EU加盟国の対応も別れているが、セルビアのEU加盟が遅れれば、セルビアの経済的停滞は予見される。
 旧ユーゴスラヴィアの中でも、スロヴェニアは2004年5月EUに加盟済み。ユーロが自由に使えるクロアチアには、EU、アメリカ等から、多数の観光客が流入している。

 セルビアの世論調査では、7割がEU加盟賛成、7割がコソボ独立反対。コソボ独立に先導的役割を果たしたアメリカに対する国民の憎悪、2008年2月、ベオグラードのアメリカ大使館をデモ隊が襲撃。対応に苦慮したセルビア政府は5月に総選挙を実施することになった。
 緊迫した情勢が暫く続くだろう。

 状況に変化があれば、以下に追記します。
  
国旗 2008年5月現在の承認国は水色、赤は反対
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