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| 8.古典に出てくる鯉 |
幾つかの鯉に関する記事を拾ってみました。 |
| i.日本書紀 | 日本最古の勅撰歴史書。720年に成立。30巻。 |
| 景行天皇(第十二代)が美濃に行幸されたときの挿話の中で鯉の話がでてきます。 | |
| ii. とわずがたり「問はず語り」 | 鎌倉後期の日記。後深草院に仕えた二条(久我雅忠の女)の1271年ー1306年の間の日記。5巻。 宮廷関係の記述と共に、自らの複雑な三角関係を記述。後年、出家後の旅の紀行文に特徴がある。 |
| 院の御前で鯉を切る話があります。「とわずがたり」の作者は、後記の徒然草の兼好法師と同時代です。 | |
| とはずがたり巻二. 隆親、隆顕らの贖い、隆遍鯉を切る。 巻二の出だしで、作者の学ある文章を堪能して下さい。(新調日本古典集より) 元旦の感慨 ひまゆく駒(こま)のはやせ川、越えてかへらぬ年なみのわが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥(ももちどり)さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心のなかの物思はしさ、忘るるときもなければ、花やかなるもうれしからぬ心地ぞし侍る。 現代文: 戸の隙(ひま)を過ぎる白駒のように、早い時の流れの早瀬川を越えて、ふたたび返ってこない年波の、わが身の上に積もるのを数えてみると、今年ははや十八になってしまった。百千鳥(ももちどり)のさえずる春の日影ののどかなのを見るにつけても、何とはいわぬ心の中の物思わしさは、忘れるときもないので、御所のうちの花やかなのも、それほどうれしくない心地がする。 注:次田香澄氏の原注によれば、「ひま」は戸のすきま、『荘子』知北遊篇の「人の天地の間に生ずる、白駒の隙を過ぐるがごとし、忽然たるのみ」を踏まえた表現とのこと。作者の漢籍についての教養は『とはずがたり』の随所に現れているが、作者は白居易などの文芸作品のみならず『荘子』のような思想書も読みこなしているのである。 |
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| 以下、鯉を院の御前で切るくだりのみ。 | |
| 隆遍(りゅうへん)僧正が参上される。すぐ院の御前へ召されて、僧正はお酒盛の場へ参った。鯉が取り出されたのを、院は僧正に向って、「字治の僧正の例がある。包丁の家に生まれて、黙っていることはなかろう。切るように」ということを仰せられる。 | |
| iii. 徒然草 |
吉田兼好(1283?ー1353?)作。 鎌倉後期の随筆。 1317年ー1331年の間に成立か。 |
| 兼好法師は、鯉の吸い物を食べた日は、鬢の毛がばさつかないと言う。 | |
| 徒然草118段の原文 鯉(こひ)のあつもの食ひたる日は、鬢(びん)そそけずとなん。膠(にかは)にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。 注: あつもの:野菜や魚肉を入れて煮た熱い吸い物 |
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| 鯉だけは、天子の御前でも料理されるから、高貴な魚だという。魚の中でも別格扱いしている。 | |
| 徒然草118段の原文 鯉ばかりこそ、御前(ごぜん)にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。 注: 御前:天皇の御前 |
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| iv.南総里見八犬伝 | 滝沢馬琴(1767〜1848)作。98巻。106冊。1814−1842年刊。 28年の歳月を費やし、完成は馬琴が失明後、口述によるものだった。 八犬士が力を合わせて、里見家を再興する話 |
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| 登場人物のセリフに、安房の国(千葉県南部、房総半島)には鯉がいないのに、「鯉を釣らんとする労して功なき」を笑うくだりがあります。続けて、鯉は魚の王で一国10郡に充たぬ所には棲まないとさとし、しかし、陸奥(大部分は青森県、一部岩手県)は54郡なのにやはり鯉は棲んでいないと言っています。当時、陸奥には鯉はいなかったのでしょう。 左は新潮日本古典集成の表紙 |
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| 南総里見八犬伝の鯉にまたがる里見義実の挿絵 | |
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| 南総里見八犬伝の主人公は、室町時代(1392〜1573)末期の武将里見義実(生没不詳、架空人物説あり)です。 しかし、里見義実については、最近の調査で、鎌倉公方(鎌倉・室町時代の幕府の称)の足利氏によって、阿波平定のため送り込まれた人物であることが明らかになりました。当時、関東では鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が、特に、東京湾の海上権益を巡る争いがありました。ここでは、詳細は省略しますが、房総の市町の出している情報等で検索下さい。 |
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| 大房不動滝 | |
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1441年、下総の国(茨城県)、結城(ゆうき)で、戦に敗れ、阿波の国に逃れてきた里見義実は、大房不動滝で身を清め、不動尊に武運を祈っています。(最近、異説があります) 元の滝は、地形変動で欠け落ちたのを、平成7年、新たな二代目が誕生しました。(環境庁、千葉県) |
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鎌倉(A)と大房不動滝(B)との位置関係。 この地が東京湾の海上交通の要であることは一目瞭然です。 そして、鎌倉(A)の鎌倉公方(鎌倉・室町時代の幕府の称)の足利氏によって派遣されたのが、近臣の里見義実と言う、最近の調査結果に納得性があります。 |
| 山形県南部に位置する米沢藩の上杉鷹山(1746〜1822)が1802年に鯉を移入して、養殖を始めた故事よりして、これより北には、これ以前に、鯉はいなかったのでしょう. | |
万葉集、古今和歌集の中では、鯉に関する叙述は、確認できませんでした。鯉に関する叙述があればご教示下さい。 以下、未完成。 |
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