
寺山あきの 女流作家の紹介
運営ブログあきの70路を語る 運営サイト寺山あきの作品集 2004長野文学賞一次選考通過
一万六千トンのフェリーに駆け込みで間に合ったとき、息をはずませながらジャンバー姿の七十絡みが言う。
「さすがに戦争体験者は頼もしいね」
まわりの皆が首をたてに振りながら笑った。
動悸が治まると、チケットに書き込まれた部屋番号B2を探しあてドアを開ける。真ん中に通路が五メートルほど奥へ伸びて突き当たりが窓。両側に五台ずつ二段ベッドが並んでいる。そこへ、ぞくぞくと二十人が入室したから、船室はたちまち人と荷物でごった返した。
の悦子とわたしは住まいが東京・横浜と離れているので普段は滅多に会わない。今回も電話で旅の相談をし、当日羽田空港で待ち合わせた。気楽に旅ができるのは昔の職場仲間だからである。
「私、下の段にしたいけれどいい?」
言い終わらないうちに、悦子の荷物はすでに下段に入る。スカートの悦子が上段はもちろんむりなので、パンツ姿の七十ばあさんの方がベッドに垂直に立つ鉄梯子を五、六段よじ登って荷物を納めた。
それから、ふたりは一目散に甲板へ。
「ポーッ」
船が宮崎の港を離れる。明日の夕方川崎に着くまでの短い船旅だが、外国へ出かけるように幸せそうな顔が並んで感傷に浸っていた。
黒く藻がついた海底には、体の透き通ったクラゲが波の動きに身を任せている。それは濃紺のゆかた地に涼しげなクラゲがたくさん描かれているのに似ていた。
太陽は手前の山の後ろ側にまわって、山の端をこがね色に輝かせ、雲を茜色に染めて空を高く見せている。
船が外海に出ると、ゆったりと甲板を移動しながら写真を撮る人、ベンチに座ってものを食べる人、おしゃべりに夢中なグループなど、みんな船旅がめずらしいようで興奮気味であった。
目が覚めたので、ベッドの小さなスタンドをつけて時計を見ると三時半である。
エンジンの音が微かに枕の下に聞こえる。船上でぜひ星が見たいと楽しみにしていたわたしは、ウインド・ブレーカーを手に、音を立てないよう用心しながら部屋を出て人気のない甲板へ行った。
真っ暗な海は船のエンジン音だけ。風に吹き飛ばされそうになりながら、あちこちにつかまって、ようやくベンチへたどり着く。抵抗をすくなくするためベンチに仰向けに寝ると、水気を含んだ冷たさが背中にしみて五月の夜は寒かった。
空を見つめる。目がなれると星が見え出す。星は自然に昨日行った知覧へと思いを戻した。
戦争末期、自分の身を犠牲にして闘った若者たちのいる場所へ行ってみたいと長年考えていた。ようやくそこへ行けたのである。
鹿児島飛行場で、迎えの観光バスに乗り南下した。左手に桜島を見ながら、かなり走って、長い坂を登り出す。知覧飛行場があった場所は山の上だった。
平和観音堂へ行くまっすぐな道は整備され、桜並木に石灯籠が端正にならんでいる。飛行服の特攻銅像が出迎えてくれた。特攻平和観音堂には千三十六柱がまつられているという。
零戦はここを飛び立って、開聞岳を目印に西南に向かって飛んで行ったはずと眺める。沖縄までは六百五十キロ、約二時間の飛行距離だった。お国のためと、勇んで飛び立ったようすが陳列された遺書から分かる。確かにお国のためと書いているが、そう書くことで、死を自分に納得させようとしたのであろう。
写真、遺書、遺品を見ているうちに、咽の奥がひりひりして泣けてしまう。こんなに立派なもの言いばかりでなく、ほんとうの胸の内は別にあったはずと感じる。最後の晩に去来したのは、きっと故郷や父や母、兄弟そして恋人、それに小川やそこで遊んだ日々ではなかったかと。
出撃の時が決定すると、知覧町の富屋食堂でくつろいだ隊員たち。鳥浜とめさんをおかあさんと呼び、私の残りの歳をあげますから長生きしてくださいと言って未練がましいところはなかったと、とめさんが話している。
特攻隊員に選ばれると、松林のなかの三角兵舎に隔離され、ここで四、五日を過ごした。半地下式のバラックは真ん中が通路になって、両側の木の床に、わら布団と毛布だけの簡素なもの。折り鶴が壁に掛けられていた。
知覧高等女学校の生徒たちが勤労動員として三角宿舎で料理、洗濯などの世話をした。
少女たちとの交流は、安らぎを感じたらしい。
わたしには、それがせめてもの救いに思えた。
こんな証言をしている。
《おれのばあさんいい人でな。災難よけの豆をくれたんだよ。これを毎晩寝る前に一粒ずつ食べて寝るんだ。おいしいぞと言って隊員は、飛行服の内ポケットから私に三粒下さいました》 《もう最後だと言うとき父が面会に来た。だんだんと老いゆく父を見て、自分は特攻隊でゆくのだとはどうしても言うことができなかった》
《刻々時刻はせまり、十二時半には兵舎御出発でしたので、十二時に兵舎で別れの乾杯を御湯飲みに、酒盛りをなさいました。整理がすまれた後、自分のわら布団の上で横になって静かに時の来るのを待っていらっしゃいました。その御姿、今日はもう靖国の軍神となられると思いますと、いてもたつても居られぬ気持ちで一杯でした》
手塩に掛けて育てた子は、最後まで親を思いやっていたことを書き残している。
佐藤新平留魂録
《特攻隊の事も早く知らせて呉れれば、手紙でも出して激励してやったのに、とお母さんは残念がるかも知れませんが、お母さんの気持ちは新平には解り過ぎる位解って、何時も感謝して居りますから余計な事を心配しないで下さい。私としてはどうせ直ぐ解る事ですから、早く知らせて心配かけてはと思って知らせなかったのですから悪く思わないで下さい。決して気を落としたりして、体をそこねられない様御注意下さい》
うみやまにまさるめぐみにむくひなく
道をゆくなりいさみいさんで
ハンケチで目頭を押さえているわたしに、
「肉親を亡くされているのですか」
と隣の人が問いかけた。
人の世は別れるものと知りながら
別れはなどてかくもかなしき
『きけ、わだつみのこえ』に真っ先に出て来る上原良司の遺詠である。上原は、わだつみのこえにこう書き残している。
『人間の本性たる自由を滅する事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つという事は彼のイタリヤのクローチも言っているごとく真理であると思います』
『空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格も感情もなく、もちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら、実に考えられぬ事で、強いて考え得れば、彼らが言うごとく自殺者とでも言いましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何も言う権利もありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです』
上原は慶応大学からの学徒出陣であった。
零戦が展示されていた。片側に二百五十トンの爆弾、片側に往路だけの燃料を積んでバランスをとりながら飛び発った。自分たちが犠牲になれば銃後のみんなが幸せになると信じて散ったのは、十七から二十二歳までの若者だった。
ビデオが会場の一隅に流れている。突撃現場が放映されていたが、米軍が撮ったものだろうか。飛び立った飛行機のほとんどは、敵機敵艦の包囲と迎撃に遭って空しく空中散華している。敵の弾丸飛雨の中では計画に無理があったはず。でも少数だが、見事に敵艦に体当たりした者もいた。
夜明け近くなり、甲板はますます冷えてきた。起き上がってドアの方へ帰ろうとするが風が強くて難しい。一歩、一歩を闘うつもりになって、ようやく入り口までたどり着いた。
船内はまだ静かだった。階段をゆっくり下りてロビーに行く。
暗い光の下で本を読んでいる若者がいた。
ドキッとする。
その人が上原良司に見えたからだ。 (了)
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