小説 ◇◆鍵◆◇
著 末森拓夢
「おはよう御座います」
「ああ、おはようしたぁ」
私の家から数えると、四軒ほど離れた家に住む人で、何時も職人らしい挨拶をする。 私の父とは同級生で、可部の工場で働いている、と聞いた記憶がある。今日もホームの真ん中で新聞を広げ、顔を隠す様に持って、読んでいた。
特に話題が見つからず。「今日は少し暖かいですね」そう言う私の吐く息は、まだ白い。「ああ、そうだな」そう言って新聞を少し下げ、私の顔を見た。なぜかうれしそうに見える。
「おじさん。暖かくなると、何かうれしい事でもあるのですか」
「ああ、うめぇ、がねぇ」
もともと広島の人は、独特の話し方をするのだが、この人は特に変わっている。と言うよりは、わざとそんな感じで発音している。そんな気がしてならなかった。それに『うめぇ』の意味が解らない。
「うめぇ、って何の事ですか」
「うめぇじゃ無くて、うめぇじゃ」
私に言わせると、大した発音の差では無いと思うのだが、その人に言わせると、私のうめぇは、気になる発音らしい。この人が新聞を読んでいる時は愛想が悪い。何時もの事だ。そう思った時に彼の指が動いた。ホームの向かい側を指している。その方向を辿ると、梅の木があった。その枝にいくつもの、小さなつぼみが膨らんでいる事に気がつく。
『あっ、そうか。うめぇ、ではなく、梅だ』
その梅を見ていると、私の頭に、去年の情景が浮かんで来た。毎年、新学年のはじまる頃、この駅では三色の花が咲く。太い幹から伸びる枝に咲く、白いサクラ、いや白では無く淡い色。たとえるなら、女性の化粧だろう、顔につける淡い頬紅の色。その横に、少し低めの、桃の木が寄り添っていて、花びらは、真っ赤な口紅を思わす、ピンク色。その仲を取り持つのがレンギョウで、その葉が黄色く色づく。
見事なまでにそれらが同時に咲き乱れ、この駅の春を迎えるのだった。それをバックに、四両編成の列車が止まっていく瞬間が、マニアの間では有名な事らしい。その証拠に、毎年その頃になると、カメラを持った人や、観光に訪れる人、その訪れる人を撮るカメラマン。そんな人達が、大勢押し寄せていた。
その風景も、今年で見納めだ。その事を知っているのは、うろついている猫と、駅舎に飾ってある写真。その位だろうか、ほとんどの市民は知らない顔をしている様な気がする。
少し寂しさを覚えた。
ふたたびおじさんを見ると、新聞で顔が見えない。すでに新聞を持つ手は硬く握り締めるようにしていた。その握り締めたような手と、おじさんの持っている新聞が、今日はなぜか妙に目を引いた。何時もならそんな物は、私の視野に入って来ない物なのに。見える面はテレビ欄で、それを眺めた所で、特に何も思う事は無い。
それよりも、その新聞に目を惹かれている、自分自身の事が気になった。その時、まだ見えぬ列車の、近くで鳴る汽笛が辺りに響いた。駅のはずれに見える踏切の警報機が鳴り出す。ほぼ同時に見え出す列車が、今日も定刻通りにホームに滑り込む。
列車がホームの中央まで来ると、今度は駅の上り方向に見える踏切の警報機が鳴り出す。そして何時もの様に、列車に乗り込む乗客は私達ふたりだけだった。列車に乗り込むと今日の乗客は結構多い。空いてる席に、おじさんと並んで座わる、二年ほど前からの決まり事みたいになっていた。
それまでの通勤は車だった。それが父の命令で、いやこの場合は父のお願いだろうか、JRに乗ることに決めたのだった。
『乗って残そう可部線を』
その運動の一環だった。父はその運動の世話人になっていたからだ。
ところで、私が列車に乗るのも、今日で最後になる。別に廃線が早まった訳では無く、私が退職をする訳でもない。今日から、ひとり暮らしを始めるからだ。
「ああ、今年はどうかのぉ」突然おじさんが話しだす、たぶん野球の話しだろう。
「さー、毎年この時期は、優勝、優勝と騒いでいますけどね」
最近ペナントレースの事を、かなり気に掛けている。おじさんが持つ新聞に目をやると、何時も見ているスポーツ欄だった。そのスポーツ欄を読もうとした時、携帯が一回鳴った。彼女からのメールだ。
そのメールで気が付いた。今朝、おじさんが持つ新聞が、妙に私の目を引いて、それを気にする自分。その理由が分かったのだ。
彼女からのメールは、ホームにいる時間に届く事が多い。その返事もホームでおこなう。以前彼女が、私がホームに立っている時間を聞いてきて、そのあとこう言ったからだ。
『列車内、携帯、禁止だよ』
今朝、そのメールが届いていなかったから、駅のホームでやる事が無く、その代わりに、おじさんが持っていた新聞が気になったのだ。「おはよう。今日の新聞の十四面の真ん中辺りを見てね」
何があるのだろう。そう思っておじさんに頼んで新聞を借り、十四面を開いた。するとそこには、彼女の投稿記事が載っていた。彼女の喜んでいる顔が頭に浮かぶ。それだけで自分もうれしく感じる事ができた。
その文章を読み終える頃「ああ、どうかしたんやぁ」「これ、彼女なんですよ」
私はその新聞を返し、記事の中にある読者のコーナーを指差した。
「ふーん。あー、あー、有坂ひとみねぇ。そうかぁ、そうねぇ。ふん、ふん」
おじさんがそう言うので、私の彼女を知っているのかと思い「知っているんですか、私の彼女」と尋ねる。なのに返ってきた答は「ああ、知らん」
知らないのなら、知っている振りをしなければ良いのに。と思っていたら「ああ、なかなか良く書けちょるよ」
「えっ、何がですか」
「この文章がよぅ」
そう言って新聞を指で軽くたたく。
「へー、そうなんですか」
文章とか、作文だとか、手紙などがそんなに得意では無い私にはよく分からない。ただ彼女がいろいろ書いている事は知っていた。その彼女の書いた文章が、良く出来ているという事らしい。
「わしゃ、小説をかいちょるが、なかなか良い文章というもんは書けないもんでねぇ……。実はわしゃ、この新聞の、短編文学賞に出そうと思っているんじゃ。だがのぅ、なかなか良いアイディアが出てこんでのぅ、可部線の事でも書こうかぁ、と思っているんじゃ」
「ふーん、可部線ですか……。でもそれって、誰でも書く題名じゃないですか。皆と同じような話の展開にしか、成らない。そんな気がしますがね……。それよりは誰もが持っている携帯なんかはどうですか。今は当たり前の物ですけど、それだからこそ、かえって面白い物が出来上がるような気がします」
私は思いつくままに言葉を並べた。それは彼女の影響と、メールを始めてからの、私の中に現れた、少しの変化だろう。
「うーん」と黙り込んでしまったおじさん。その横で彼女にメールを返信しようと考えていた。そして私も考え込んでしまった。なんとメールを送れば良いのやら。
『何時もどおりでは駄目だ。私も喜んでいる。そんな表現が欲しい』
確かにおじさんが言った「文章は難しい」の意味が、私にも判ったような気がした。それでも何とか文章を作り上げ、彼女にメールの返事を送る事が出来た。おじさんは、まだ考え込んでいるようだ。私の言った、携帯という題名が気に入ったのだろうか。そう思うと少しうれしくも思う。
万一その作品が入選でもしようなら、私にもその権利はあるはずだ。いくらかの賞金が出るだろうから、何か奢って貰える様に、新聞をチェックしておかないと。だが、私の思いは遠く何処かに飛んでいた。
「ああ、やっぱり鍵はこの男だなぁ。今年なぁ、この男がエラーさえしなければねぇ。かなり期待が持てるよねぇ。エラーしたら、即二軍行きだわなぁ」
そう言って私に新聞記事の一部を見せ、その選手の写真を軽く叩いていた。このおじさん本気で小説を書くつもりがあるのだろうか。ちょっと心配だ。直ぐに彼女からメールが来た。
「ありがとう。それと今日はうれしくてメール送るの少し時間がずれちゃった。ごめんね。それから今日の約束忘れないでね」
思わず顔をほころばす自分が恥ずかしい。
『次も、良いメール内容を送ろう』だが、私の頭に浮かんできた言葉は『携帯とは何者だ』
携帯を持つようになって三年位だろうか、私が営業に配属されてからだ。今の社会は携帯無しには仕事が出来ない。それはだれでもが思う事だろう。ただ気になる事は記憶力だ。どんどんその記憶力が衰弱していく気がしてならない。
学生の頃は自分の家は当然の事、友人や、その頃の彼女、それら全ての電話番号が頭に入っていた。だが今は、その自分の家の番号が思い出せない。082627までは覚えている、その後の四桁が思い出せない。その事に気が付いた時、念のために手帳に記入しておく事にした。万一携帯が無くなったら、二度と思い出す事は出来ないだろうから。
そんな事を考えていたら、良い文面が浮かんで来なくて、適当にメールを送った。おじさんを見ると、新聞を見ながら、何か考え込んでいるようだ。やはり小説が気になるのだろうか。そう思うと自分も始めてみようか、という気にもなる。私だったら、何を書くだろう。そう考えていると、先日出合った友人の話が、頭に浮かんできた。
「俺ね、この前、車から鞄を取られちゃって。中身にたいした物は入っては無かったんだけど、アドレス帖と仕事に使う書類を中に入れていて。結局見つからずに、上司には怒られるし。アドレス帳は、作り直さないといけないし。大変だよ、鞄が無くなったら」
確かに私もそう思う。だから私はひと時も肌身離さず持つようにしている。ところで私は鞄を使い分けている。仕事の時はアタッシュケースのタイプで、プライベートの時はセカンドバックのタイプにしている。そうすると気分が乗るし、中身を入れ替える事で愛着もわく。そう考えているからだ。
仕事の時とプライベートな時とで、鞄の中身を移動させるものはそんなには無い。財布に手帳と免許証、それから最後に鍵、その四種類だけだ。それさえ間違いなく移動させると、大丈夫であった。
「ああ、ところでのぅ、この女性とは、どんな所までいった関係やぁ。それに確かぁおまえねぇ、今日から一人暮らしだろうがぁ」
おじさんが私の彼女の事を話しだす。近所の人だから直ぐに分かる事だ。
「彼女とは結婚しよう。と思っています」
「ほぅー。ほんじゃもうしたのかぁ、あれー、何だったっけ、ほれほれ、あれじゃ」
「ひょっとして告白のことですか」
「いや、違う。……いやぁ、違わん。がちがうんじゃ。今の若いもんの言葉じゃのうてのぉ、昔の言い方じゃ」
「プロポーズですか」
「そう、そう、それじゃ、ブロポーズ。そりゃもう相手にゃー、したのかぁ」
告白もプロポーズも同じ意味では無いか。やはりおじさん、すごい拘りがあるようだ。
「いえまだです。今日あたり、言おうと思っては、いるんですが」
「ああ、そうかぁ。ほんで指輪はぁ」
「それはもう用意してあります」
おじさんの言うとおり、大事な物である。婚約指輪だ。そのサイズが分からなかった。そこで私が考えた作戦は、私が偶然知り合った、彼女の上司に頼む事であった。先月より何回か、彼女の会社の前を、わざとデートの待ち合せの場所にした。そこで待っていると彼女の上司に自然と会えるからだ。丁度うまい事に、彼女の上司に会う事が出来、そして頼んだ。
「指輪のサイズを教えてくれませんか」
直ぐにその話には乗ってくれたが、その代わりにひとつだけ約束をさせられた。
「私にも男性を紹介して下さいね」
背と腹は変えられない。いや腹と背は変えられない。あれっどちらが正しい。どうでも良い事だ。結局その上司から、彼女の指輪のサイズだけを聞きだす事が出来た。
「ああ、頑張らんにゃのぅ、まだ若いんじゃけん。それとのぅ身体にゃー気つけて仕事せえよのぅ。まだまだ先はあるんじゃけん」
そう言って、持っている新聞を棒のように丸め始めた。可部駅がすぐ目の前だった。今後このおじさんと、今日の様にゆっくり話す機会はそんなには無いだろう。そう思うと寂しく思う。それにおじさんは、この線が廃止になると同時に退職をすると言っていた。
その後は、農業に専念すると話していたが、本当は、最近の不景気で、新しい仕事に就く事が難しい事を知っていて、私に向かって、そんな風に言ったのでは無いだろうか。そんな事を考えながら、先に降りるおじさんの後を、続けて降りる。かなり早足で歩く人だ。その彼が改札口の近くで歩みを止める。
振り返りながら、丸めた新聞をゴミ箱に投げ入れ、私に別れ際の言葉を言った。「ああ、携帯も良いがのぅ、携帯に振り回されんようにせんとなぁ」
結局その日も、その週末も、私の告白は無かった。仕事が忙しいのと、自分の部屋の片付けに追われたからだ。本当は、彼女と話をしていても、言う雰囲気にはならなかったし、いざ彼女を目の前にするとなかなか言える事ではなかった。意気地無しの私だった。
だがそんな事を、何時までも言っている訳にはいかない。次の金曜日だ。
そう私の中で決めて、彼女とデートの約束をした。そしてその日行く店も決めて予約までした。料金は二万円。前払いだ。どうだ。見ろ。この度胸。ここまですると、自分の中に熱いファイトが涌いてきて、燃える。
『絶対彼女を嫁さんにするぞ』
その日の予定は順調だった。あと残す仕事は、夕方六時からの打ち合わせだけだ。私の勤める会社は建築資材の関係だが、新規の現場には最初に営業が出向き、荷物の降ろし場所、トラックの搬入経路、その他いろいろと確認しておく必要があった。その現場で業者の人や、時には施工主さんと打ち合わせをするのである。時間にして、長くても一時間有れば終わる。それからタクシーを飛ばして行けば、今日のデートには間に合うはずである。そう考えていた。
無事に打ち合わせが終わり、時計を見た。夜の七時、少し前である。何とか間に合うぎりぎりだった。と言うよりは計算どおりだった。タクシーを止め、飛び乗って行き先を告げる。
「流川入り口の横、デパート前に有るライオン像のところまで」
そう言ったが、この現場から行くと、少し遠回りしてもらう事になる。
「ああ、すいません。そのライオン像の反対側の、噴水の所で良いです」
走り出したタクシーの中で、取り敢えず今の現場の図面を書き出した。あとで勘違いをしながら書くよりは良い事だ。それは会社の指示でもあり、何時もの癖でもあった。
私が乗ったタクシーが、右横を走っている路面電車を追い抜いた。
普段ならそんな物は見慣れているはずであったが、今日は妙に気に掛かる。
先ほどの現場で、施工主さんが言っていた。
「珍しいよ。路面電車が走る姿は。他の都市で見かける事は少ないよ」
そういえば新聞で読んだ記憶がある。
広島の路面電車は、あちらこちらの都市から集めて来ているものだと。それに古めかしい電車が、この白島線を走っていたが、それはどうなったのだろうか。
そんなことを思っていると、目的地が直ぐ目の前に近づいている事に気が付いた。慌てて図面を鞄に入れて、財布を探す。間が悪いとは、こんな時を言うのだろう。タクシーが角を曲がる時、携帯が鳴った。彼女からだ。着メロだけで分かる。慌てて携帯を取り出す私の脳裏に、嫌な予感が走った。
「ごめん、少し遅れそうなの。急に仕事が入ってきたんだ。他の業者が原稿飛ばしちゃってね、うちに廻ってきたんだもん」
彼女は出版関係の仕事をしていて、今みたいな急な仕事は月に五回位はあった。つまり残業である。それも半端では無く、遅い時は朝帰りということもあるそうだ。
「どの位遅れるんだよ」
そう私が訊ねる前にタクシーは止まった。料金メータは九百七十円。左手で携帯を持ち彼女と話を続けて、右手で何とか鞄の中の財布から千円札を取り出し、運転手に渡した。何時もならこんな事はしない、一旦彼女に断ってから料金を払っている。だが今日は自分にとって大事な日だ。その相手と話をしている最中で、両方を一度に済ませたかった。
運転手から、右手でおつりの三十円を受け取りそのままタクシーを降りた。無意識に三十円をポケットに入れ、人ごみに混じって歩き出す。周りが歩いているから自然と足を動かしたのだ。当然彼女との話は続けていた。
「それでねぇ、どの位遅くなるのかぁ、今は分からないのぉ。詳細がはっきりしていないんだもん」
彼女の甘えるような声が、私を刺激する。頭の中にはこれしかない。
『今日は絶対に決めてやる』
だが彼女は、そんな事は知らない。
「分かったらぁ、携帯するからぁ」
そう言って携帯を無情にも切ってしまった。
肩を落とす私に、大変な事件が起きていた。それに気がついたのは、自分の携帯のアンテナを畳んだ時だ。
「しまった。忘れた」
そう声に出して、振り返った瞬間、次の事件が起こった。後ろから、付いてくる様にして歩いていた男性がぶつかってきた。当たり前の話で、前を歩く人が突然止まり、振り返るのだから。
「おんどりゃー、何しとるんやぁ。」
辺りに怒鳴り声が響き、思わずひるんだ。その時に、自分の携帯が何処かに飛んでいった事は、分かっていた。ぶつかった衝撃で、手から滑り落ちるような感触があったからだ。
その男性に丁重に断りを入れて自分の携帯を探す。見当たらない。もしやと思って車道を見ると、それらしい影がある。車が途切れて近寄ると、私の物だった。だがそれは、車に踏まれ、殆んど原形を残していなかった。
これでは彼女との連絡がつかない。今日の残業は何時までなのか、約束はどうなるのか。
それよりは鞄だ。よりによって今日は仕事用のものだ。現場からの直帰なので型が違う。大事な仕事の書類を入れている。慌ててタクシーを探すが、いるはずが無い。
直ぐに新天地の交番に走った。
「タクシー会社の名前も判らないのなら、探しようは無いですね。一応東署の方にも訪ねて見ますが、中に現金が入っているのなら、見つかる確立は十%も無いでしょうね」
そう答える警官が鬼に見えた。
『ちくしょう。なぜこんな目にあうのだ』
気がつくと、ポケットの中の十円玉を握り締めていた。私がいるこの場所は、彼女と約束したライオン像のまえだ。無意識のうちに私は足を運んだのだろう。我に帰り自分の腕時計を見る、すでに9時が近かった。
『今の状況を冷静に考えなくては』
先ずは彼女の事である。今日は遅くなると言っていた。彼女の話し振りから、かなり遅くなると見ていいだろう。もう来ないかも知れない。だがその事を確認したくても、携帯は車に惹かれ、使えなくなってしまった。
それに予約していた食事もパーだ。すでに時間は過ぎていて、払った料金も悔やまれる。次に、今からどうすれば良いかという事だ。お金が無いから喫茶店にも入れない。それどころか帰る為のお金も無い。今日は自家用車を会社の駐車場に入れたままだ。
動くための手段も無いと言う事だ。
それに鞄の中に入っている書類だ。会社に帰ればパソコンにデータがあるからそれは問題ないが、その書類を同業者に見られた時だ。ひょっとしてくびになるかも。うな垂れる私の頭にひらめく物があった。
『そうだ誰かに金を借りよう』
いい案だ、自分でそう思った。それに、この時間だと、まだ何処かのキャッシュディスペンサーが動いているはずだ。頭の中でその場所を思い出してみた。
『近くにある』
全力で走り出したが、直ぐに気が付いた。カードは財布の中だ。それに免許証も鞄の中に入れたままだ。自分の身分証明さえなかった。それで先ほどの警官の態度や、私に対する言葉使いにも納得がいく。ポケットから十円玉を取り出して見た。
『電話だ。十円玉で電話が出来る』
誰かに電話して金を借りよう。それよりここまで来て貰い、そのまま家まで連れて帰ってもらおう。どちらも良い考えだ。自分の頭に感謝しよう。
だがそれも直ぐに気が付いた。電話番号が思い出せない。住所が判る所はある。自分の実家だ。だが電話番号を聞くためには百二十円必要だ。どう考えても三十円だと足りない。だがこの三十円は最後の砦、自分を守るためのものだ。大事にしなくてはいけない。
『やはりここで待つか』
そう決めた時、気がついた。
『私の部屋の電話だ』
彼女が私の携帯に掛けても、つながらないと、その次はアパートの方に電話するはずだ。その時訳を言い、アパートまで来てもらおう。そうだ、そのまま部屋で直ぐに告白しよう。
『ここで俺と一緒に暮らそう』
そう思うと自然と足は自分のアパートに向いていた。何も考えず走った。さらに走った。本当は歩いた。人間そんなに走れるものでは無い。時々走っただけだ。寒いから、手をポケットに入れたままだ。その中にある十円玉を握り締めて歩く。それでも額から汗が噴出してくる。腕時計を見ると深夜の十一時を少し廻ったところだ。すでに一時間以上、歩いている計算だ。いやこの場合なんと言うのだろうか。走ったり、歩いたりしている。
頭の中でアパートまでの道順を浮かべる。そして計算する。今のペースだと、あと四十分位だろう。歩く足にも一段と力がはいる。そして十二時前、アパートの前についた。顔は車の排気ガスと自分の汗でドロドロしているのが分かる。下着も汗でべとべとだ。早く部屋に入りシャワーを浴び、着替えなければ。そう思ってポケットから手を出した。手のひらには十円玉が三枚乗っている。
『あれっ? 十円玉だ』
直ぐに気がつく、大事な物は今日も鞄に入れたままだ。こんな時は本当に口から声が出るものだ。と、私が感じた時には叫んでいた。
「鍵も無いよー」
【了】 著 末森拓夢
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