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鳴り出した携帯電話を手に取り、猫があくびをする姿の着信画面を見詰める。表示された名前は下田、中学からの付き合いが続く悪友である。たまにしか顔を出さないのだが、桜が咲く今頃の季節になると必ず我が家にやって来て、私が設計した風呂に入る。
自慢する訳ではないが、二階のベランダに増設した風呂は屋根がない。つまり露天風呂という訳だ。しかも嬉しい事に、隣の庭に咲く桜が目の高さに広がり、たまに浸かると旅行気分を味わえる。彼が電話してきた理由はその件だろう。
私の推測は見事なまでに当たっていて、下田は我が家のすぐ近くまで来ていた。たまたま私が自宅に居たから良かったものの、もしも自宅に居なかったなら、どうするつもりだったのだろうか。彼の考慮ない行動に、疑問を持ちながら玄関まで迎えに出る。
久し振りに見る下田の姿に少々驚く。彼のあごひげに白い物が混じっている、それも半端ではなく、サンタクロースと言っても良いぐらいだ。薄かった彼の頭髪はますます磨きをかけ、ついに頂上部分は一本の毛も生えていない。
下田は仕事着を着ていて、何でもないような顔で立っているが、おかしな研究者に感じる。研究者に感じる理由は、彼が着る白衣にも有るようだ。片方だけ襟を立て、ちょうちんの様なズボンを着るからおかしいのだ。彼の仕事がら白衣を着るのは当然だろうが、せめて私の家に来るときぐらい、別のジャンバーでも羽織ってくれば、と思う。
「そんなに嫌な顔するなよ、末森。俺は風呂に入りに来ただけなんだから」
「心配しなくても大丈夫だ。十五分も掛からず一杯になるよ」
下田と一緒に湯船に浸かりながら思う、風呂を作って正解だったと。湯船はふたり入る事を想定してやや大きめに作り、ゆったりした気分になれるし、蛇口から流れ出るお湯が岩を伝い、湯煙に落ちる情景も想像通りだ。白く濁った入浴剤も気分を盛り上げる。
それに何と言っても桜だ。きっと、江戸時代より昔に生きていた侍は、今の私と同じように、湯に浸かりながら散りゆく花びらを見て、自分の生き方を考えたに違いない。だからこそ、潔く散っていく侍のイメージが出来上がったのだろう。
「末森よ、何を考えている」
手のひらで湯を掴み、自分の顔を洗う下田が問う。
「桜の木を見て潔く生きる侍の姿を頭に浮かべていた」
「そうか……。だがな、日本人が風呂は入るようになったのは最近になってからだ。それに元々、桜は日本を代表する木でもなかった。つまり侍は、湯船につかり桜の花を見ることはなかったということだ。勝手なイメージを持たないことだな」
風呂から上がると下田は、濡れた身体をタオルで拭きながらビールを要求する。ビールぐらい私も飲むから構わないが、それよりも薄くなった頭をタオルでゴシゴシと拭く方が気になる。下田は気にしていないのだろうか、残り少ない髪をいたわるとか、これ以上抜けないよう大切に扱う、とかの気配をまったく感じない。
差しだすコップにビールを注ぎ、さて私が注いでもらう番だ、などと思いビール瓶を置き自分のコップを持つ。ところが下田は私を無視するようにビールを飲み始める。いつも医学書ばかり、あさるように読むから、こんな無頓着な男になったのだろう。
一瞬の間を置くと私は諦めを覚え、無理を承知で左手にビール瓶を持ちコップに注ぐ。
「末森よ、お前に言った事はないが、むかし知美という女がいてな」
予期せぬ展開の話に思わず下田の顔を見る。握ったコップを見詰めながらも彼の視線は宙をさまようようだ。意味が分からない、何が言いたいのだ。
「知美は何かにつけ天女になりたい、と俺に向かって言っていた。どんな意味があると思う? 天女なんて、誰が聞いても本気だとは思わないよな」
聞かれても、見たこともない女性の心理など咄嗟には答えようがない。
「だけどな、黄色いじゅうたんが敷き詰められた小高い丘の上で、自分がしていたスカーフを羽衣に見たて、ひとり嬉しそうに舞い踊る知美の姿を見たとき、彼女は本気で天女になれると信じているんだな、と思ってさ」
天女になりたい、の意味が分からず問いかけようとしたが、自分の思いしか言わない下田。
「桜の季節じゃない、菜の花が咲く頃だ。……あれからもう一年経つのか、悲しいな。お前にも分かるだろ、俺の悲しみ、いや切なさを」
そう言われても、知美と下田の関係を知らないし、どんな理由があって天女の話が始まるのか、それに菜の花が咲く頃に何が起こったのか知る由はない。
「お前の気持など分からない」と答えるしかない。
「そうか。俺の言葉だけでは俺の気持ちまで伝わらないか。男同士だから言わなくても気持ちは通じると思っていたのだがな。実を言うとな、知美が隠していた事実を知ったのは梅が咲く頃の話でな、アサガオが咲く頃、彼女は本当に天女になったのだ」
そこまで言うと、下田は飲みかけのビールをグイッとあおった。
ふと下田の目に涙が浮かんでいる事に気付いた。私には分からないが、下田にも下田なりの人生があった訳で、時には深い悲しみを受けたり、時には苦しんだりした事もあったに違いない。だからといって私は、彼の悲しみを分かち合えるほど、器用ではない。
下田の表情が気になり目線を彼の顔に向けた。と突然、下田は口を大きく開き、息が止まりそうな欠伸をひとつする。続けて近くのティッシュを取り寄せ、汚げな音を立てながら鼻をかむ。
「末森よ。人の悲しみなんて笑い飛ばせば良いんだ。考えてみろよ、人の不幸ほど笑える事はない。なぁ、そうだろ」
そう言いながら新たなビールの栓を抜き、私にビール瓶を渡す。いい気なものだ、自分は私のコップに注がないくせに、人には注がせようとする。この性格だけは直してもらいたい。
「人の不幸は面白いだろ。さぁ、思い切って笑え」
下田の考える事が分からない。本人を前にして人の不幸を笑えるはずはない。それとも彼は、他人に笑ってもらう事により気分を紛らわす、とでもいうのだろうか。
「末森よ、不幸とは何だと思う。幸せとは何だと思う」
難しい質問をする男だ。不幸とは、悲しみであり耐え難い時の事をいい、幸せとは、嬉しいことがあり何事にも前向きな姿勢が取れる時の事、そんなものだろう。
「幸せは笑いであり、不幸とは泣くことだな。不幸な時でも笑えば幸せを感じる。実はな、お前に面白い物を見せてやろうと思っていたんだ。これは魔法が掛かったもので、お前はこれを見ると間違いなく幸せになれる」
下田はそう言うと自分のバッグを手繰り寄せ、中から新聞にくるんだ手紙らしき物を取り出す。そのまま意味深な目線を私に送り私に向かって突き出す。手渡す以上、私に中身を見ろと命令している訳だ、遠慮なく手渡された新聞を広げる。すると中からは三枚の宝くじが出てくる。
「新聞に重要な意味があるんだ、良く見ろよ」
新聞? 新聞には重要そうな事は書かれていないが、何を指しているんだ。あれっ、宝くじの当選番号が書かれている。ひょっとして、もしかして、この宝くじが当っているとでも言うのか。
「末森、慌てなくてもいいから、良く見ろよ。さすがに一番上じゃない、三番目に書かれた百万のところだ」
下田は、この宝くじが当っていると言いたいのか? ウソだろ。冗談じゃない。お金なんて、真面目にこつこつと働き、稼ぐものだ。否定する自分がいて、心臓の高鳴りを感じる自分がいて、羨ましく思う自分がいる。
宝くじに印刷された番号は連番。43組の163891から三枚分だ。新聞に載せてある当選番号は、3組の1638……駄目だ、ドキドキしてきた。下田は本当に当てたんだ。何てヤツだ、普段真面目に仕事をしないくせに。これが運のいい男と言うのに違いない。クッソ、面白くない。
「末森よ、最後まで確認したか」
確認? ただ自慢したいだけだろ、最後まで確認する必要があるのか。3組の163895が当選番号だろ……。
「末森よ、お前いま、人の不幸を見て笑ったな」
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