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手術中という文字が赤く浮かぶ表示板は明かりが点いたままだった。先ほどから目の前を小さな蚊が一匹ほど飛び回り、目障りに感じる。だからと言って、その小さな命を手のひらで叩き潰すような気持ちにはなれなかった。
お前も一生懸命生きているんだよな、と蚊に向かって話しかけたが、答が返って来ることはなく、人間の命と蚊の命にはその重さに違いがあると思った。
クリーム色にほんの少し緑色を混ぜたような色使いのドアが、ガチャリと静かな音と共に開いた。大きく白いマスクで口元を隠した、四十歳前後の男性が出てきて、怒った様な顔つきで僕を睨んでいる。
「君は吉田裕也君の兄弟?」
その男性は、曇ったような声質で僕に向かって質問した。いや、男性と言うよりは医師と言った方が良いだろう、白い衣服も身にまとっている。きっと裕也を助けようと頑張っている医師に違いない。
いえっ、違います。と僕は答えたつもりだった。だが、目の前に立っている医師に通じたかどうかは、分からなかった。はっきりと答えなおそう、と思ったのだが、僕の視野には、裕也のお父さんが立ち上がるのが見えていた。
裕也のお父さんは、死神と対立しているかのような顔付きのまま、医師の無機質なそれでいて怒った表情に向かって、助けを求めるような声で叫んだ。 「裕也は? ……裕也は助かるのですか?」
不思議な光景が頭のなかで渦巻き始めていた。裕也のお父さんは医師に向かって「助かるのですが」と質問したのに、医師はその質問を無視するように「裕也君のお父さんですね? 現状では血液が足りません。お父さんの血液型は?」と尋ねたのだ。
不思議な光景は、グニャリという音と共にさらに歪んだ世界へと変化していった。血液型を聞かれたはずのお父さんは「プラスです」と答えた。僕は、裕也のお父さんが何かと勘違いして答えたんだと思った。だけどお父さんはそのまま、頭を手のひらで押さえながら力なく床にしゃがみこんだ。
お父さんの陰に隠れるように座っていた裕也のお母さんが、亡霊のようにふらつきながら立ち上がった。そのまま二歩ほど足を動かして僕に近づき言った。 「拓夢君、あなたが近くにいながらどうして助けてくれなかったの」
裕也のお母さんは僕の心が動揺している事を見抜くかのように、僕の目線に視線を絡めてくる。……責められるのも無理はないと思った。裕也がこの病院に運び込まれた事を、彼の両親に伝えたのは僕自身なんだから。
何か答えないといけないのだろうか。そう考えたときに裕也のお父さんが、お母さんに向かって話し掛けた。 「芳子、よさないか。拓夢君は私達に教えてくれただけで責任はないだろう」
助かった……。お父さんは分かってくれている。僕が裕也の姿を見たときには既に刺された後であり、刺された時に一緒にいた訳ではない。当然そこには時間の壁というものが存在する。つまり僕が裕也を助ける事は不可能であった。だからと言って僕にまったく非がなかった訳ではない、とも思う。
裕也は今日の昼過ぎ、僕の携帯に電話を掛けてきて「あの女性に会いに行く」と言った。女性に会いに行っても別に悪いことではないと思う。僕達はもう高校二年生だし、来年の夏休みになれば受験勉強に追われる。今年の夏休みが高校生活をエンジョイできる最後のチャンスだろう。
ただ問題なのは、その女性を裕也に紹介したのは僕だという点だろう。ちょっとした、いたずらのつもりだったんだ。裕也をからかったら、面白いだろうって考えて……いいや本当は、僕がその女性に会いたかったのかも知れない。
僕はまだ経験がないけれど、クラスの中にはもう経験したって言う奴がいる。女性の胸を触るとまるでマシュマロのように柔らかく、女性の身体を抱きしめると、母親の身体の中にいるときのように宙に浮かぶって言っていた。海に漂うような自由と、相手を束縛する快感が残る、とも言っていた。
最後のクライマックスは闇の中に放り出されるような感じで、何も見えないところに自分自身の姿を見つけることが出来るとも言っていた。
闇の中に放り出される……闇の中……闇の中か。今の僕には闇の中から助けを求める裕也が必死になって手を伸ばしている姿が見える。だけど僕の姿はどこにもなく、その代わりに女性が走るときの足音だけが聞こえる。
カツッカツッカツッと。……いやよく聞くと、早足で歩くようにも聞こえる。早足で歩く女性は、白い帽子を頭に乗せ薄い生地で作られた白衣を着ていた。やがてその女性は、周りに遠慮しながら、医師の前で立ち止まり、何かを伝えている。僕には聞こえた。間違いなく女性が話す声が聞こえた。正確に言えば女性が話す口の動きで、何を言っているのか理解できたのだ。 「岡山の血液センターにもB型のRHマイナスは在庫がないそうです」
背中を僕に向けている医師が、何と答えたのか、それは理解できなかった。だけど裕也のお父さんには聞こえていたのだろう、立ち上がってしきりに質問をぶつけていて、ふたりの会話が成り立っていた。
専門的な知識が僕にはないから、その会話がどんな内容なのか分からない。勝手に推測すると、どうやら裕也の血液は特殊な型らしい。僕が住む広島にはその血液型と合う血液は無いようで、大阪からヘリコプターで運んでくるようだ。
大阪からヘリで運んでくるのであれば、そんなに時間は掛からないだろう、一時間か、せいぜい二時間ていどで着くはずだ。僕は思い切って医師に質問をした。 「裕也は助かるの? 助かるんでしょう」
怒ったような表情だった医師は、今度は困ったような顔つきになり、先ほどと同じようにやはり曇ったような声質で、首を横に振りながら答えた。
「判らない」
「どうして? どうして判らないの。お医者さんだろ、判らない事があっても調べるのが役目じゃないのか!」
僕の頭に血が登っている事には気づいていた。だけど怒りというものは自制できないからこそ、怒りがこみ上げるのであって、例えそれが自分自身が原因となっていても、その怒りを相手にぶつける事は誰にでもあるだろう。
「やめないか! 拓夢君。落ち着くんだ、頼むから落ち着いて行動してくれ。頑張らないといけないのは、拓夢君ではなく、私でもなく、裕也本人なんだ」
「す、すいません」
自然と口から言葉が出てきた。裕也のお父さんは僕の背中を優しく押しながらイスに座るように催した。そして僕が深く腰掛けると「裕也の血液型はB型のRHマイナスといってちょっと珍しい型なんだ」と話し始めた。
「RHマイナスといってもそんなに驚くほどのことはない。日本人の場合だと二百人にひとりの割合で、RH因子がマイナスの人がいる。だからB型の血液でRH因子がマイナスの人は二千人にひとりの割合だ」
「とは言え、そんなに簡単に手に入る血液型でもない。その為、血液センターでは常時、その血液型の在庫を持っている。だが今回の場合、裕也の出血がひどくてその在庫を全て使い切ったんだ。だから大阪から取り寄せることになった」
「大阪から血液を取り寄せるんだったら、助かるんじゃないの?」
「そう、そこが問題になるんだ。裕也の出血は収まってきたとは言え、完全に止まっている訳ではない。少量では有るがまだ出血は続いている。血液が届くのが先か、それとも血液がなくなるのが先か。つまり時間との戦いなんだ」
助からないかも知れない。そう思った途端に体中の力が抜けていくように感じた。僕に責任があるんだ、とも思った。僕がいたずらさえしなければ裕也はあの女性に会いに行くことは無かったし、こんな事件に巻き込まれずに済んだに違いない。本当ならば僕があの女性に会いに行く事になっていたかも知れない。
あの女性から僕が持っている携帯電話宛に、写真付きのメールが届いたのは二週間ほど前のことだった。ちょうど期末テストが終り、夏休み前ということもあって、学校の教室でクラスのみんなと他愛無い雑談を交わしているときだった。
僕の携帯電話がポケットの中で誰からかのメールが届いたことを知らせていたが、それよりも、みんなと話していた話題の方が興味を惹く事だったので、メールの件はすぐに忘れていた。なにしろ話題になっていたのが、ひとりのクラスメイトが、女とやった、と威張って話しまわっているという事だった。
当然のことながらみんなが話す焦点は、本当にそのクラスメイトは女性と性交渉を持ったのか、という点だった。多くの友人は否定的な見方をしていて、ありもしない証拠をでっち上げては、だから彼の話はウソだろう、と結論付けていた。
だが僕は、彼がウソを言っているとは考えられなかった。まず、彼自身の口からはっきりと、女性の胸はマシュマロみたいに柔らかかった、と聞いたのだ。その上性交渉の相手は、家庭教師として家に来る女子大生だ、と明言していたからだ。
実際、僕が住む七階の部屋からは、彼が住んでいる普通の一軒家が見えていて、たまにだが、女子大生風の人物が彼の家を訪れている場面を見かけている。さらに誘ってきたのはその女子大生の方だった、とも聞いた。
僕らが女性に対して興味を持つように、女性が男性に興味を持っていても不思議ではない。さらに年齢が上の女性が年下に当たる僕らを性の対象として選んでも、不思議ではない。いや、不思議というより、年下の方が誘いやすいとも考えられえる。
だから僕は、自宅のマンションに帰って、忘れていたメールを何気なく開いた時、胸の鼓動が高ぶることを抑え切れなかった。送られてきた女性の写真は誰に見せても、きれいな人だと言うに違いないし、例のクラスメイトが話していた。女子大生風の家庭教師と言っても通用するように思えてならなかった。
幸いな事に父も母も仕事が忙しいようで、自宅に帰る時間は夜の八時を過ぎるのが普通だった。三歳ほど離れた兄は大学の講習か、何かに夢中になっているようで、やはり帰宅は夜の九時を過ぎることが多かった。つまり僕は、誰にも束縛されない自由な時間と、誰もいない空間を愉しむ権利を、ほんの束の間ではあるが与えられていたのだった。
いま思い出せばすごく恥かしい事ではある。誰も見ていないのを良い理由にして、一心不乱にその女性を見つめていたのだ。一緒に送られたメール文には「掲示板を見てメールを送りました。暇だったら一緒に遊びませんか?」と書かれていた。
もちろん僕の中では疑惑心と、期待する感情が入り混じっていた。だいたいこの女性は掲示板を見てメールを送ったと書いているが、その掲示板とは何を示しているのか分からなかった。それに一緒に明記されていたサイトのアドレスをクリックしたところ、携帯メールのアドレスを記入するようになっていた。
不自然な仕組みだと思う、僕の携帯にメールが送られてきたのだから、この女性は僕のメールアドレスを知っているはずだ。なのに、どうしてメールアドレスを記入しないといけないのだろう。その時ふと、父が言っていた言葉が僕の中に浮かんできた。
「よく聞けよ、拓夢。携帯電話を使うのは良いが、スパムメールが時々届くようになるから、メールに対して返信をしたり、サイトのアドレスをクリックしたりするなよ」
駄目だよ、お父さん、もう遅い。僕はこのメールに書かれていたアドレスをクリックした後だ。…・・・いや、この女性は本当に僕と遊びたがっているのかもしれない。このメールがスパムだとは断言できないのだ。だからと言って、この女性が本当に僕と遊びたがっているのかも判断できない。
無視をすれば良いのだが、それだと後ろ髪をひかれるようで、まったく相手をしないのは損な気がする。もしかするとこの女性と仲良くなり、例のクラスメイトのように僕も女性の身体に触れる事ができ、初体験できるかも知れないのだ。
マシュマロのような手触りの胸、その言葉が頭に残ったままだった僕は、この時ちょっとだけいたずら心を起こした。アドレスを記入する欄に裕也のアドレスを書き込み、送信ボタンを押したんだ。
数日後、終業式の日だった。普段は真面目くさった顔付きの裕也にしては珍しく、その時は、携帯電話を振り回しながらニヤリニヤリと変な笑みを浮かべ、自慢するかのような口調で、話しかけてきた。 「おい! 拓夢。良いもの見せてやろうか?」
もったいぶって話しかけてきた時ほど、期待するほどたいした物じゃない。とは思ったのだが、やはり気になってしまう。 「何だよ、もったいぶらずに教えろよ」
ヘッヘッ、と鼻を鳴らしながら、さらにジャーンと擬音を口にする裕也。彼は持っていた携帯電話を開き、画面を僕に押し付けるようにして見せた。
あっ! と思った。僕の携帯にメールを送ってきた女性が、裕也が持っている携帯にも写真として記憶されていたのだ。
「どうしたんだ、その女?」
自分で自分の声が震えている事に気づいたが、裕也は気付くようすはなかった。
「お友達さ」
「お友達?」
「そう、この人から一緒に遊びませんかってメールが来たんだ。だから俺、メールを送り返したんだ。それからだよ、この女性とメール交換をするようになったのは」
僕はこの女性からメールが来た晩に、父から新たな知識を得ていた。父の話によれば、本当は男なのに女性の写真を送りつけ、あるていど親しい関係になった頃、いかにも生活が苦しいと言ったあと、さりげなくお金などを求めてくるらしい。
「どうだ、拓夢。羨ましいだろう。俺もアイツみたい上手に話を進めてさ、この夏休みに童貞とはバイバイするさ。拓夢も早く男になってみんなを見返すようになれよ」
「なに言ってんだよ、裕也」
と答えるのが精一杯だった。それ以上詳しい話は聞けなかったし、ネットって危ない世界だから気をつけろよ、とも指摘できなかった。僕が裕也のアドレスをあの人物に教えたのだから。全てのはじまりは僕のいたずらからだった。
夏休みに入って数日が過ぎていた。僕は日課のように午前十時前になると部屋からベランダに出てアイツの家を観察していた。女子大生風の家庭教師が訪れる時間は、不思議に感じるほど規則正しく決まっていた。アイツひとりが、毎日のように年上の女性に誘われてマシュマロの胸をさわり、欲望という名の本能を放出しているのかと想像すると、やるせなさ、と言うよりは切なさ、ばかりが頭に浮かんでいた。
そんなつまらない事を考えている僕はと言えば、三ヶ月ほど前に買ったバイク雑誌を眺めては、規則という名の下に固められた学校生活をうらやんでいた。十七歳といえば成人している訳ではないが、法律ではバイクの免許を取れる年齢である。だのに学校側が免許取得を禁止しているが為に、こうして自由な生活を送れない事態になっている状況を理不尽だと、自分自身に訴えていた。
僕の携帯電話がメールではなく、本来の電話機能として、誰かが電話を掛けてきていると着信音を鳴らした。自分でも驚くほどの速さで携帯電話を持ち上げ画面を開く。少しだけがっかりと肩を落とす自分がいた。中学生の頃から仲が続く裕也からの電話だった。
拓夢、元気かよ。と携帯の向こうで話す裕也は明らかに元気が無かった。
「どうしたんだ、裕也。元気ないじゃないか」
「いや、そのー、ちょっと拓夢に頼みたい事があってさ」
「何だよ頼みって」
「その……言い難いんだけど、金を貸してくれないか?」
その言葉を聴いた瞬間から、僕の脳細胞の中でポリシロンという情報伝達物質が駆け巡った。さすがにこの状態はまずい事になっている。そう判断した僕は言った。
「やめろー。その女は女ではなくて男かもしれないんだぞ。裕也! お前はだまされているんだ、気づけよ!」
「分かっているさ。俺も悩んだし、深く考えたんだ。だけど今日子さんに限っては、ウソじゃない。彼女は本当に苦しんでいて、俺に助けを求めてきたんだ」
「馬鹿! 止めろ これ以上、あの女と深い仲になるんじゃない」
「拓夢。お前には何を言っても俺の真意を分かってもらえないようだ」
そう言って裕也は電話を切った。そして、今日の昼過ぎに最後の電話が裕也からあった。僕の期待を裏切るかのように「女に会いにいく」と言い残して。
僕は、裕也に対して何を言っても無駄な言葉に終わると感じ、彼の行動を否定することなく電話を切った。だけど、僕の中では「後悔」と言う文字が、まるで雪が降り積もる時のように高く積み重なっていく。どこまでも高く、天を乗り越え、宙と言う見知らぬ世界まで伸びていくように感じていた。
天界に立つ人間には、下界の音が全て聞こえてくる事を知った。裏通りで、ひ弱なサラリーマンの襟元を掴み、肩が触れたと粋がるチンピラ。愛と言う言葉の意味さえ考える事なく愛情を捨てた女性が、結婚願望の強い男性に、愛と偽って愛を囁いている。
安全を捨てた会社が、当社は安全に対して最新の注意を払っていますと偽り、事故を起こす企業。気づいてからでは遅い、降りかかる火の粉はすぐに払い除けないと、自分の身に危険が押し寄せる。
裕也と呼ばれていた少年が、その後どのような生活を送ったのか、誰も知らない。拓夢という少年が現在どこに住んでいるのか誰も知らない。新聞の片隅には、この事件の一部が、全容として報道されていたが、それが全てで無い事を知る人はホンの数人である。
普通に送られてくるスパムメール。誰もが迷惑だと感じているが、知識の無い人物にはそれがすべて。本当にこの世で起こっている真実のように思えてくる。無理も無いだろう、心無い人物が真実のように偽って送りつけてくるのだから。
あなたが事件の被害者にならない事を祈って……。
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