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▲▽▲ 大好きがいっぱい ▲▽▲



映画「ブロークバックマウンテン」を勝手に読み解く

久しぶりに映画を観てどうしても書き留めておきたい気がして
ゆっくりと考えればまた違ったものになるかも知れないが、今、どう思うかを書いてみることに
そうしたら大層な分量になってしまった


まず、生活が描かれている、そのことに圧倒されてしまう。
人はへとへとになりくたくたになっても生きて行かなくてはならない。
そのへとへとくたくたの中で、泣いて笑って怒って、産んで生まれて病んで死んで、そして差別もしている。
主人公の年齢は私より少し上、と言うことで、自分の年齢と、その年齢当時の自分の周りと照らし合わせながら観ることに。
愕然となる。
当時の日本人の意識として、日本は戦争に負けた国でまだまだ何もかも遅れている、そして、アメリカと言えば遙かに遙かに日本より進んでいる、と誰もが思っている状況だった様に思う。
当時のアメリカの様子はあんなだったのだろうか?
洗濯板で洗濯しているのにビックリ、第一、アメリカにも洗濯板は在ったのか!
我が家に洗濯機が来たのはいつだったのだろう?

とにかく当時の生活に圧倒される。
生活することは、大きな自然を相手に戦うこと。
毎日毎日、来る日も来る日も、働いて働いて、生活を作り出していく。
自分の手で作っていかなければなんにも無いのだ。
そういった中で、一人でではなく、伴侶を選びともに生きていく道を誰もが選ぶ。
でも、お互いに愛し合い、他の誰彼ではだめ、この人でなければ、という思いに駆られて一緒に暮らすことになっても、生活を生み出すことは何も変わらない。
生活を作っていくことを片時も休むことは出来ない。
同性愛者であろうと無かろうと、生きていくことはこんなに大変だったのだ、という思いがどっと押し寄せてくる。
羊は何頭いたのだろうか?1000頭を超える数だろうか?想像が付かない。
その羊の群れを牧羊犬とともに馬に乗って山の斜面を追っていく様は、雄大ではあるが、ため息が出てしまう。
ついこの間まで、我々はこうやって生きてきたのだ、と。

イニスとジャック
イニスもジャックもちゃんと生きたいと思っている人間だ。
金銭や行きずりの相手で済ませて、日常に戻っていく事になんの痛みも感じない人間ではない。
ちゃんと恋をしてちゃんとしたパートナーに巡り会いたい。
そしてともに苦楽を分かち合いたい、ともに人生を作っていきたい、そうやって生きていきたいと思っている。
そこからイニスとジャックの悲劇が生まれる。

イニスはジャックとともに(またはジャックに導かれて)、自分が足を踏み入れるとは想像だにしなかった世界に踏み込む。
(個人的に、あの初めてのシーンはいささか唐突すぎないだろうか?。夜中にふと目覚めて横にイニスがいたことに気付くことから始まると思うのだが。背後にイニスの息づかいを感じてわき上がってくる欲望にジャックは驚き、それでも押さえられない、ためらいながら少しづつ触れていく。そして遂に抗いきれずに…。そういう方が好きかなぁ〜。大事なシーンなんだから、もっと細やかに、時間掛けても、と思うのは私だけかな?)
一度限りと思った筈がそうはならず、自分がジャックを求めて居るのに気づいた。
イニスはその事実をどう思っただろう。
ブロークバックマウンテンでの仕事が急遽終わらされ、ジャックとの突然の別れ。
声を挙げて泣き崩れるイニス、自分をさらい込む様に襲うその感情を、イニスはどのように受け止めただろう。

いずれにしても、イニスは帰ってからアルマと結婚する、予定通り。
ジャックとの出来事が、予定変更を思い起こさせる様なことは無かった。
若者が人生のこれからを思い浮かべる時、ぼんやりとした形であったとしても誰もが当然のごとく結婚を組み込むはず、いや組み込まされていると言った方が正確かも。
イニスにとってだって同じ。
選択肢としてこの結婚を取りやめる事など思い浮かべようがなかったに違いないと思う。
ジャックへの想いが、あるいはジャックによって目覚めさせられた同性への想いがどのように深かろうと、それはどうにかなるものだ、と信じていたに違いない。
当然、此まで愛を育んできたアルマと何の疑いもなく結婚する。
そしてそれは、その通り、穏やかで幸せな生活だった。
隣人や仕事仲間と、家庭のちょっとしたいざこざ、女房への不満なんかを、「そうだ、うちもおんなじだ」としゃべり合える。
みんなと一緒、みんなとおんなじ、それで十分幸せだ、と思っていた、疑う隙間なんか無かった。
ジャックから葉書が来るまでは。
イニスは葉書を読み、4年ぶりにジャックと再会し、ジャックへの想いが抗いきれないものだと言うことを知る。

イニスとアルマ
ベッドの上で避妊を要求したアルマ。
ジャックの存在を知ることなく、イニスに愛されていると信じていたとしたら、アルマは子を望んだろうか?
「俺の子を産もうとしないおまえとはもう寝ない」という言葉はあまりにも残酷。
映画は、イニスに気持ちが添うような作りになっているので、深く考えずに行ってしまいがちだが、本当は大変に残酷なことを言っているのだ。
イニスは、アルマが自分とジャックのことを知っている、または疑っている、と認識してそう言い放ったのだろうか?
どうであれ、あの生活の中で女が子を宿し産むと言うことがどんなに大きな事か。
子を産むと言うことは、いつだって命と引き替えになる危険を孕んでいるのだ。
来る日も来る日も洗濯板で洗濯をし、子どもにご飯を食べさせ、本を読んでやるアルマ。
夜なべには編み物をしている。
その間イニスはソファーに寝そべってビールを飲んでいる。
生活するということは、男もへとへとだが女もへとへとなのだ。
そこに、思いが至らないのは、イニスの心がアルマから離れているからか、同性愛者であることで、女性への理解が不足しているか、嫌悪があるからか……。
アン・リー監督は、なんて良く見て居るのだろう!

ブロークバックマウンテンにて
ブロークバックマウンテンでそれぞれの妻を偽って定期的に会う二人。
山の中、誰も来ない、誰に見られる心配もない、初めて出会った時のように火を焚いて思う存分楽しみ、愛し合う……。
でも、希望がない。
背景にブロークバックマウンテン、物言わぬ自然、それが次第に誰も何も手をさしのべてくれない象徴のように見えてきて、見ていて息が詰まる。
二人にあるのは思い出。
今この時も、「今」を二人で作っているのではない、「あの時」をもう一度味わおうとしているだけ。
二人で語る将来が無い、二人で作る生活が無い、二人の行く手には希望が無い。
山頂からの俯瞰、川辺に戯れる姿が小さく見える……、いっそうそういう二人を際だたせる。

ジャックは、二人で新しい生活を始めようとイニスに持ちかけ、説得を試みる。
だがイニスは首を縦に振らない。
イニスは善良な人間なのだ。
してきた事の責任は取らなくてはならないと思っている。
イニスは、始めから自分に蓋をして結婚した、と監督は設定しているのかな?
そうであるのならなおのこと、アルマとの生活を始めてしまってから、真実の自分に気が付いたのだとしても、自分はアルマに真正面から向き合っていない、ちゃんと愛してやれなかった、と思っている。
何の罪もない一人の人間、アルマを巻き込み、不幸にしてしまった、そう思っている男として設定されていると思う。
子どもに対しても、父親としての役割をきちんと果たそうと努力していて、それを当然第一番になすべき事と思っている。
其処にまた、ジャックとの関係を作ろうとする方向に行けないイニスがいる。

もし私が監督だったら(おこがましい限りだが)、アルマの出産シーンを入れるかな、と思う。産気づいたアルマをポンコツのトラックに乗せて病院に連れて行き、生まれるまで心配で廊下をおろおろと行ったり来たり、とか、難産でやっとの思いで生まれるとか…。そうすると、イニスが、夫として父親としての責任を果たそうと思って、ジャックとの生活を考えられないというのに、より説得力が増すかな、と。
もう一点。
再婚したアルマの家に呼ばれ、食事が済んでからの台所でのシーン。
「つり道具の使われた形跡がなかった、みんな魚が好きだったのに持ち帰ったことが無かった」となじるシーン。
離婚が成立して、もう新しい結婚生活に入っていて、そこにイニスを招待した場面で、ああいうことを言うかな?と。
私なら、離婚に至るエピソードとして挿入するかな……。
そして、あの場面では「結婚すべきだ」と言う台詞のみかな、と。
だとしても、イニスは十分に縛られるはず。

ラリーンとジャック
私が台所でのアルマに望んだあり方、監督はそれをラリーンに担わせている、と2度目に見て気づいた。
ラリーンは、夫が同性愛者であって同性の恋人が居る事を知っている、と、ジャックの死の様子をイニスに電話で話すシーンで思った。
承知していて、夫として、子どもの父親として、ラリーンはジャックを愛している、と。
自分の父親が夫をないがしろにする場面で、言葉には出さないが、ちゃんと夫の肩を持っている。
ジャックが一方的にお友達(イニス)の所に行くのは不公平、こちらにも呼ぶべき、と言っているのは、おそらく、単なるお友達の所に行くのではない事に気づいている、と言うことを言っているのだろう。
ラリーンの胸の内はどうだろう。
決して満たされることのない寂寥感、漠々と果てしない。
相手が女であれば戦いようもあろうというもの。
だが、男では、太刀打ちのしようがないではないか。
しかも、愛しているのだ。
ラリーンが淡々と、しかし涙を湛えて、自分が決して太刀打ちできなかったその恋人に、夫がどのように死んでいったかを伝えるシーンは、幾重にも涙を誘う。
ラリーンは嘘をついているのだから。
男性であれ女性であれ、同性愛者が自身のセクシャリティーを知られたくないが為に相手に告げずに結婚する、と言うことはどんな言い訳をしても許されるべきでは無いと個人的には思う。
だが、相手が同性愛者であると知っていて、自分が一番の存在になり得ない事を承知でなお愛し続けること、結婚し続けること、それはその人の自由だ。
人間は複雑で、美しい。

ジャックの両親
ちょっと息切れがしてきたので、簡単に
親は、子がどうあれ可愛いのだ。
どんなに納得がいかなくても、どこかで許し子の側につく、そう言っていると思った。
でもそれもまた、「大方は」という注釈付きだろうとは思うが。

I swear...
映画の掲示板で、最後の言葉が話題になっていた。
私だったらどう訳すだろうか…。
「やっと二人になれたね…」
かな?

いずれにしても、イニスもジャックも自分の子どもに出会うことが出来た。
それはそれぞれの妻のおかげだ。
ラリーンはしっかりとジャックの子を守り育てるだろう。
そして、いつの日か、出会った頃のジャックそっくりに成長した姿で、イニスの前に現れるかも知れない。

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思い出す人が何人かいる。
Sさんはどうしておられるだろう?
結婚してから、ご自分のセクシャリティーに次第に気づかれたようだ。
妻と子のいる家庭をとても大事にしている。
とりわけ妻を大事にしていて、家事でも何でもこなす。
仕事にも熱心に取り組んでいて地位もおありになる。
時々横道にそれることがあって、そんな時は痛々しいほどに悔いておられる。
本当に誠実な方だった。
どうかお幸せにと祈らずには居られない。

(2006年5月21日)



再びイニスとジャック
イニスを煮え切らないとする意見を見かけたが…。
そうだろうかと考えてみた。
イニスはジャックのあの誘いで、ともに生きていこうと決意できただろうか?
ジャックは、「女房の父親が自分を嫌っていて離婚させたがっている、だから手切れ金をはずむはずだ、それで二人で牧場を持とう」と言っているのだ。
此でイニスがOKをするようなストーリー展開だとしたら、なんと薄っぺらいものになってしまっただろうと思う。
おそらく、アカデミー賞を逃して多くの人が憤慨するような映画にはならなかったに違いない。。

イニスは離婚して、子どもの養育費を捻出するのに苦労してしている。
だが、自分の力で稼ぎ出そうとてしているのだ。
真っ当なあり方ではないか。。
イニスがジャックに会うのはそんな中で会っているのだ、どんな思いをしてでもジャックに会いたいと思っているのだ。
「俺を楽にしてくれ」というのは、ジャックへの想いが断ち切れない叫びだ。
そしてその想いには希望がない。
ジャックがこうでも言ってくれたら…。
「自分も死にものぐるいで働くよ。
幸い今女房の親父の仕事は順調だ。
自分もそれなりの仕事をしているから給料だって結構貰えている。
だがこれからはもっと頑張る。
そして貯め込むよ、離婚したら俺も養育費を払わなくちゃならないんだから。
今すぐって言う訳には行かないが目鼻が付いたら一緒になろう、二人で牧場をやって三人分の養育費を稼ごうじゃないか」
たとえばこんな風に言われて、なおかつイニスが首を横に振ったら、それは、イニスを世間をおそれる意気地なしとでも何とでも…、と思うのだが。
でもまぁ、此では物語は成立しないのかも知れない。

ああ、いつまで経っても抜けられない…。

(2006年5月23日)


日付が変わってしまったので昨日になるが、ラリーンを見つけた。
映画のラリーンよりきっと幸せ。
「精神的に愛されていると実感できるので、一緒に生きていくことを決めました」と言っておられる。
ジャックも自分のことをちゃんと話している。
お互いに信頼関係が築けているのだ。
どうかいつまでもお幸せに。

(2006年5月24日)

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