ほころびとつぎあて 2001年01月分
2001/01/31(水)
毎日ゴチャゴチャ書いてるけど、時事ネタが少ないよなー。まァ、ワザとそうしてる部分もあるんだけど、それにしてもさ。デイリーにはデイリーの意味があるべきだ、ってなもんでさ。なンか「引っかかる」部分でもなけりゃ、どこの誰とも知れないヤツの繰り言なんざ、わざわざ読みたかないやね、フツー。
ましてや日記「系」コンテンツだよこれは。「系」っていうか(まだこだわってたりしてな)。Webページにはこの日記「系」てのが花盛りなワケなんだけど、だってそりゃ更新ラクだもんな。ホームページを作ろうってやつなら、日本語なんて大抵書ける(あるいは書けてると思ってる)んだろうしな。
でもオレはさー。芸もへったくれもないエッセイもどきとか、オレにとってさしたる意味もない誰かの日々の行動記録なんか読みたくないワケよ。だから実際読んでないけど。逆に言うと「精選して」読んでるってコトだけど。「現代国語標準問題新講」ってカンジだよ。意味不明か。
で、誰でも書ける日本語を芸にするのは、そりゃタイヘンな作業だろ? ってオレは思うけど、どうよ?(ま、どうでもいいよな、そんなコト)
このテキストだって芸にはなってないけどさ。まァそのうちなんとかなるだろうと思って、今日も打鍵を続けてるわけだな。
あ。ところでフジテレビの「HERO」ですが…、なんつって、時事ネタのヘンリンを見せたところで幕。いやらしいよなオレって。
2001/01/30(火)
きのうの日記で、「(シナリオの)テキストファイルはHTMLにしなくちゃなんないじゃん?」と書いたら、放送作家であり、生キャプテン・ラヴであるところの岡野 勇さんからご指摘をいただきました。つまり「ワンフェス、再開するみたいよ?」と。 違うか。違いますね。教えていただいたのは、「テキストファイルでもブラウザでちゃんと表示されますよ」ってコトでした。…そっか。そういや昔、原稿を送るときに、そういうリンク貼ったコトがあったような気が…。なんか先方、ブラウズはできるけどメールの送受信はできないというワケ分かんない環境で。それで、ダウンロード用にWebページ作って、トップからテキストに直リンク貼ったんだ、確か。戻る時はブラウザのボタンでね。
すっかり忘れてました。まァ、BGとかフォントとかの指定は出来ないんだろうけど、それをすれば確かに「早い」よね。岡野さん、どうもありがとう。ウィズラブ。ちゅっ。(要りませんか?)
…ところでさー。アップしたいシナリオの中にさー、「コミック・ウルトラマン」のホンてのがあるんだよねー。昔、リム出版で「円谷プロ創立30周年記念 コミックス★ウルトラ大全集」というのをやった時に書いたやつなんだけどさ。オレ、そのうちの3本書いて、1冊が出版されたところでリム出版が倒産しちゃったから、残りの2本は(結果として)未発表のままなんだよね。
んで、出来たらこれも公開しちゃいたいんだけど、そのためには多分円谷プロに許可取らなきゃいけないんだろうなー。で、多分許可はおりないんだろうなあ…。ダメモトでお願いメールを出してみようかな?
2001/01/29(月)
軽いハナシをしよう、たまには。今、重苦しいシナリオを書いてることでもあるし。
ここのコンテンツを充実させるために、むかし書いたんだけど結局発表の機会がなかったシナリオなんかもアップしようと思ってるんだけど、そしたら当然、そのテキストファイルはHTMLにしなくちゃなんないじゃん?
けど、いちいちタグ入れてくのはメンドいじゃんか。だから、試しに「ワード」の「Webページとして保存」というコマンドを使ってみたのよ。そしたらどうなったと思う?
ウン、そりゃもちろん、ちゃんとしたHTMLが出来たんだけどさ。驚いたのはそのサイズのデカさよ。160kbばかしのもんが、イキナリ700kbくらいになってんだもん。ソースを調べてみたら、なんか一行ごとにフォント指定をするようなタグ(だと思う、多分)がついてたけど。
どうよ? どうよって言われても困るか。なんかオレ的にはねー。美しくないって気がした。700kbなんて、今の(一般的な)マシン環境だったら、読み込むのにもそんなに大したコトないサイズなんだろうけどさ、タグを直打ちしてったら、絶対そんなバカみたいな大きさにはならないよなァ。シナリオなんてどうせ、そうたいしたレイアウトにしなくても読めるんだしさあ。なにより、軽いページの方がいいじゃん。
…てなワケで、当コンテンツは基本的に直打ちです。HTMLの冒頭に、いちおうドキュメントタイプなんかを宣言してますが、果たしてその通りに書けてるかは定かではありません(フレームを使えないバージョンだってことだけは分かってる)。直打ちなので、シナリオ作品のアップが遅れてたりするわけです。で、もちろんこれは言い訳です。「ワード」を使おうが何だろうが、早くアップするのが正解なら、そうするべきだと思います。ハイ。
2001/01/28(日)
昨日の続き。…ちゅうわけで考えてみたよ。オレだったらどーゆー時に人を殺すのか。
まず、自分が殺されそうになった時だな。生き残るために、オレを殺そうとしたヤツを殺しちゃうかもしれないな。
それから、妻と子に危害を加えるヤツも、最悪の場合殺すね。もし妻子が殺されようもんなら、オレは残りの生涯を賭けてでも犯人を探して殺すな。例えそれで、オレ自身が裁かれて死刑になってもだよ。
うーん。もし妻子がオレを殺そうとしたらどうするんだろう…? とりあえず逃げとくか? …つーか、単なる可能性の問題としてのこういう「例えば」の挙げ方ってあまり意味ないかもな。
まァ…、読者の皆様には、オレのこういう決意の在り方を理解していただければそれで充分ってカンジですか。
(それにしても、もっと明るく楽しいコトを書けないものかねオレ?)
2001/01/27(土)
乳幼児虐待で思い出したけど、こないだテレビ東京で『人間の証明2001』ってのやってたね。うん、なかなか上手い具合に、現代版にアレンジしてたと思う。感心しました。
どこがどう現代版かというと、登場人物たちの「戦後」ゆえの設定を「沖縄」に置き換えたあたり。さすがに「戦後すぐ、駐留してたアメリカ兵にボコボコにされた親父を持つ刑事」なんてのは、時代的にムリがあるもんな。
…つーか。原作なり映画版なり(あるいはかつてのテレビシリーズ版なり)を知らない人にはとっても不親切な文章になってるよなコレ。原作小説は森村誠一。角川映画版は監督:佐藤純彌、脚本:松山善三、主演は岡田茉莉子。テレビシリーズ版は…、ゴメン、よく覚えてないや。
この物語をカンタンに(敢えてカンタンに)説明すると、「子殺しをした母親を、人間不信の刑事がオトす話」ってコトになるかね。犯人を追いつめるも状況証拠しか集まらなくて、結局刑事は「泣き落とし」で自白をさせるのよ。人間不信のクセに。まぁ、だからこそそのシーンが感動的なんだけどさ。
なんだか、人を殺すのに理由はいらない時代になっちゃってるみたいだしな。「太陽が黄色かったから」なんて、もし殺人者が本気でそれを主張するんなら、まだ可愛げがあるってもんだ。
オレたちは、自分が人を殺すんだとしたらその理由はナニか、ナゼそうするのか、考える必要があると思うな。
(だからオレは『コナン』より『金田一』の方が好きだし、『人間の証明』ってお話も〜いつまで経っても〜好きなんだと思う。)
2001/01/26(金)
ん〜。モーツァルトの伝記は無かったなあ。中原区の図書館には(川崎市の)。誰かが借りてたのかもね。…代りに、小林一茶の伝記を立ち読みしてホロホロしてたよ。『もういちどせめて目をあけぞうに膳』とか。
…ところで最近、毎日のように乳幼児虐待のニュースが流れてるけど、あんなのは氷山の一角なんだろうなァきっと。なんつーかね、そういう親って、どっか本能が壊れてるんじゃないかと思う。「ススムちゃん大ショック」(永井豪)の世界は、もはや現実と化してるね。このマンガは、ある日突然「親」がオカシくなっちゃって子どもたちを殺し始めるというSF短編なんだけど。角川ホラー文庫なんかにも入ってたよ確か。
彼ら・彼女らが子どもを虐待する理由をさ、彼ら自身の幼少期の体験に求める向きもあるようだけど、で、それは本当のことかもしれないけど、でもだからと言って子ども殺しちゃいかんだろ。ヘタクソなテレビドラマやアニメなんかでもさ、登場人物のそういうトラウマを描いて、ハイこーゆー理由だったんですよ、彼らがあんなコトしたのも無理ありませんね的にオトしてるのがあるけど、ンなのは単なる「キャラ設定」であって、それがすなわち「ドラマ」になる、なってると思ってんならバカすぎだよね、作家として。
話を戻して…。でもなー。ホント、どうしてなんだろうなー。聞き分けのない我が子を叱って、わんわん泣いてるのを見て、ある種加虐的な喜びを感じるってのは…、実体験としても分かるんだ。暴行・虐待ってのも、実はその延長線上にあるのかね? もちろんオレは自分の子も他人の子も殺しやしないけど。だから、そういう感覚と殺人に至る行為とには明らかな一線があると思ってるけど。人によっては見方も違うかもな。
ともあれ、たとえ殺されないしろ、虐待癖のある親の元で育った子どもには何らかのカタチで悪影響が残ると思うから…、その意味で、まさしく歴史は(家系は?)繰り返すワケだから…、どこかでその根を断ち切って欲しいと思うんだ。まァ…、それは相当にシンドい仕事だとは思うんだけど。
2001/01/25(木)
伝記の話なんだけど。子どもにさ、偉人の伝記を読ませる親や先生っているじゃない? あれってやっぱ、「こういう立派な人になりなさいよ」とか、そういう意図があるんだろうかね。あるんだろうな。
…んー。今でも覚えてるんだけど、オレが小学生の頃、同級生だった女の子の家にはマンガ本が一冊も無くて、その代わりポプラ社の「世界の偉人伝」シリーズがずらっと並べられてたんだよな。ほとんど全巻揃ってたと思う。
マンガが無いのはまぁいいよ(オレは不満だったけど。そいつんち行っても読むもの無くて)。でも、子ども向けの小説とか、童話とか、科学読み物とか、そういうの一切なくて、でも偉人の伝記はずらっ! 山ほどあるんだぜ?!
それって、どういう本の与え方だよ。本棚を見たとき、子ども心にも何か異様な圧力を感じたけど、いま考えたって、やっぱりちょっと、オカシイよな。
…今度、子ども向けの「モーツァルト」の伝記を探して読んでみようかな。彼のスカトロぶりとか、生活無能力者ぶりとか、どんなふうに書いてあるのか興味あるもんな。つーか、そういうこと、ソモソモ書かないのが子ども向けの伝記だとは思うんだけどさ。
んで、親や先生もさ、モーツァルトに限らず、偉人たちのダークサイドっていうかさ、しょーもないトコロっていうかさ、そーゆーとこキチンと押さえてて、その上で「こういう立派な人になりなさいよ」だったらオレはいいんだ。
「手塚治虫って人がね、あんまり安い値段でテレビアニメを始めちゃったもんだから、後の世代の人たちはたいそう苦労したんだって。でも、それはそれとして、彼は立派な人だったのよ」とかさ。
でも、そういうの抜きにして、ただただ成した結果だけで「偉人化」しちゃうのは危険よ。いろんな意味で。ダメ人間にしか成し遂げられない偉業っていうのが、世の中には確かにあったりするしさ(念のために書くけど、コレは手塚治虫がダメ人間だと言ってるワケでは全然ないよ)。
「子どもの夢」とか「子どもへの目標の与え方」を茶化すつもりは無いけれど、どこかでそういう線引きはしといた方がいいような気がしてる。彼や彼女がそれをするために、いったい何を犠牲にしたか。せざるを得なかったか。結果としても覚悟のそれとしても、そういうのキッチリ、教えとくべきだと思うんだよな。(なんか今日は中途半端だな)
2001/01/24(水)
近松門左衛門の電気を読む。いや違う、伝記だ。電気読んでどうすんだ。今日のビリビリは流れがいいのォ、とか。
さ・え・ら書房 少年少女伝記読みもの『近松門左衛門』 河竹登志夫著。ブックオフで100円で買った。
その後で、日本古典文学全集の『近松門左衛門集1』(小学館)も読んだぞ。『曽根崎心中』だけな。
近松っていうと、むかぁし紅白歌合戦の裏でオンエアしたという、つかこうへい作の「つか版忠臣蔵」を思い出しちゃうんだけど。
萩原流行さんの演じた近松な。『曽根崎〜』のお初、徳兵衛は、なかなか心中しようとしないので自分が殺した、と風間杜夫の主人公に語る辺りなんかは、もうゾクゾクくるんだけど。
そこまでしても受けるものを書く、書かなきゃならないという、既にキチガイの域に達した近松の創作意欲。こういう視点があるから、つかという人はスゴイんだよなと思う。
で、その伝記を読むまで知らなかったんだけど、『曽根崎心中』以前の歌舞伎や浄瑠璃には「時代劇」しか無かったんだって。つまり、過去のある時代を舞台にしたお話しか無かったということ。題材は最近起こった出来事から採るにしても、当局の目を逃れるためとかあるいは慣習とかで、必ず「昔の話」として描いていたんだってさ。ところが『曽根崎〜』は、(当時の)現代劇であったと。つい最近、本当に心中した男女の事件を、地名や人名もそのままに劇化した、初めての作品なんだって。今で言えばワイドショーを見る感覚かね?しかも、心中事件から初演までがわずか一ヶ月! 筆も早いけど仕込みも早いやね。むかし『ザ・ハングマン』を見てて、「あ。あの事件、もうドラマにしてる!」なんて思ったことあるけど、そういうカンジだったのかもな、当時の人たちにとっては。
2001/01/23(火)
浄土真宗がマイブーム。親鸞とか蓮如とか。
ふむ…、真宗の教義がどうこうと言うより、彼ら宗教者たちの生き様がおもしろいのかもしれないな、オレ的には。
「他力本願」という言葉は、いったいいつから間違った意味で使われ始めるようになったんだろうかと考えると、
そりゃやっぱり、人々が阿弥陀仏の悲願を信じなくなった時からだろ? って気はするな。
ソモソモ当てにならない救いだなんて思ってしまえば、そりゃ、「他力」は「他人まかせ」にも通じちゃうってなもんだ。とかさ。
いや、オレは阿弥陀仏の救いはあると思ってますよ。人はやっぱ、死んだ後には、西方浄土に行くんじゃないかなって。
うん…、なんか、呼び方はどうあれ、そういう、魂の落ち着き先はあるような気がしてる。
天国って言うか。丹波哲郎的に言えば大霊界って言うか。「2001年宇宙の旅」的に言えばスターチャイルドって言うか。あ? べつにボウマンは死んでないか?
ともあれ、だから最近、死ぬのはあんまり怖くないかも。先に逝った彼らのいる「場所」を怖がってるというのもどうかと思うし。親として。
2001/01/22(月)
なんか、こう…。イタシカタないカンジでの、日記系コンテンツ。
「系」であって、日記ソノモノなんか書くつもりないけど。
ん? 毎「日」、「記」すから日記っていうのか。してみれば、内容は私生活の告白じゃなくても
連続して書き続けてれば「日記」って言われちゃうのか?
…なんて、およそどーでもイイ定義なんかにふと疑問をめぐらせちゃうトコロが、既に末期と言えば末期。
ナニの末期かといえば、自分つう人間のくだらなさ、その一面について。
こまけえトコにこだわってんじゃねえよ、というね。
ああ…、でも、そんなトコにこだわっちゃうようなオレだからシナリオなんか書いてるのかもしれないなァ、なんて思ってみたりもした、今。
構成の美しさは、細かいトコにこだわる美しさに、その行為の見苦しさはともかくとして通じるんじゃないかな、とかな。
まァ、オモシロイものが書ければ、見苦しくても何でもイイんだけどさ。
|