「連載自分史エッセイ」


私本 芦屋の浜のつれづれ草
ー(武蔵の里よりアジアの国々へ ある薬剤師の海外ビジネス回想記)ー


夏季臨時号(21・22・23・24)
9月号(第25・26・27話)
10月号(第27・28・29話)
11月号(第29・30話)
秋季臨時号(30・31・32話)
12月号(第32・33・34話)
1月号(第34・35話)
新春臨時号(36・37・38話)
2月号(第38・39・40話)
自分史エッセー 3月号

写真右のmenuで希望の号を閲覧下さい (05年1月開始、毎月1日に追加記載)。7月号以前のURLはhttp://homepage3.nifty.com/sumikozo/ 。 宜しく。
写真は2005年春、宇治の平等院で撮影
URL:http://homepage3.nifty.com/sumikozo/ Email は fwpb5856@mb.infoweb.ne.jp 友人・知人にご紹介下さい。

8月号(第20・21・22話)

(第20話の続きから)

 熱心に新型竃と人工薪の有利性を説明して、
 「この人工薪はなあ、製材所のおがくずを固めて作るんじゃー。へーで、安い上に火の通りが良うて火力が強ぇんじゃ。へじゃあけん、この新型の竃とこの薪を使かやあ三年もすりゃぁ、ゆーうに元が取れるんでー」
と人工薪の見本を手にとって見せる。円筒形である。新兵器売り込みの講釈を、店先のセメント床に蝋石で絵を描きながら、
 「三年間使かやあ元が取れるけど、三年経たん前に新しいのと変えたら損するがな」
と興三さんは何となくふに落ちぬ思いで聴いた。いま使っている釜戸は二年前に新設したばかりである。新型竃の便利さは別として、節約という経済効果で投下資本を一定期間内に回収する計算は、いわゆる原価消却の問題である。興三さんはこの財務管理の本質を子供心で感じ取っていたのである。後年、仕事で経費投入を検討する度に、この時の光景を思い出していた。


21)双葉は臭くて芳しい
 寿林寺の近くに佐藤のマーチャンという女性が住んでいた。年の頃は三十才半ばであったろうか。日本舞踊のお師匠さんで、遠く山陰の温泉町にまで芸者さん達の出稽古に行くと町内の子供たちでさえ知っていた。細面の色白の美人で黒っぽい地味な着物に角帯を締め下駄を履き扇子を片手に品をつくって町内を行き来していた。その艶めかしい仕草や話ぶりは女性をさえ魅了した。銭湯でも自他共に認めて女湯に入るが、実際には男性である“男女(おとこおんな)”あった。佐藤のマーチャンが男である、と友達から聞いた時のショックは今も鮮明に残っている。興三さんのヰタ・セクスアリス(性の履歴)の始まりであったのかも知れない。

 ある日、上町を友達と二人で歩いていると小川の小父さんに呼び止められた。小川の小父さんは小さな農業の傍ら、葬式の世話をしていた。
 「この鐘を振って鳴らしながら町内を走って一周してくれんかなー。」
と鐘の取手を持って鳴らして見せてくれた。葬式の始まりを町内の人たちに伝える合図の鐘である。金額は忘れたが、相当額の駄賃であった。
 「ええでー」
と二人は二つ返事で引き受けた。学校での郵便貯金の残額を競う二人であった。思わぬ大金を手にしたその夜、父が
 「おめーゆー子はなんちゅうことをするんじゃぁー。子供が葬式の手伝いなんかするもんじゃぁーねぇー」
と説教を食らった。父に叱られた二回目の出来事であった。こうして興三さんは少しずつ経済の本質と金儲けにも種類があることを、日常の生活を通じ体験的に学んでいった。

 小学六年生の9月に二泊三日で奈良と京都へ修学旅行に出かけた。奈良では大仏殿の大黒柱の穴くぐり、正倉院の校倉造り、春日大社の灯篭。京都では三十三間堂の通し矢、清水寺の高い舞台、知恩院の大本堂、平安神宮の鳥居の太い柱、二条城の鴬張りの床などが印象に残っている。宿泊は池田屋で幕末に勤王の志士を新撰組が襲った旅館であると先生が教えてくれた。部屋の鴨居に刀の跡が残っていた。この修学旅行に持っていける小遣い銭の額は上限が決められていた。二、三百円であったかと思う。しかし、林野に帰ったとき興三さんの財布の中には、そっくりそのままの金額が残っていた。一銭も使わなかったのである。これが皆の話題となり授業中に先生から何故かと問われた。興三さんは
 「せえでも大仏の小さな模型を買ってもつまらんけん。大仏は大きいから値打ちがあるんじゃー。 金閣寺もおんなしじゃー。金で作ってるけん、えんじゃー。なーんも欲しいもんが無かったけん、買わなんだだけじゃー」
とまじめ顔に答えた。本心であった。子供らしく無いというか可愛げの無い発想であったが特にケチった訳では無かった。

 前にも述べたが妹の桂子を連れて二人で勝手に神戸まで行った時には、貯金から自分で二枚のキップを買った。中学三年の初めには腰掛式の勉強机が欲しくなって、一人で勝手に中村タンス店に行って腰掛けと勉強机を自分の貯金で買った。1700円であったかと思う。机と椅子が突然運ばれて来て両親は事態が飲み込めずとまどった。この机と椅子はその後、神戸から林野へ、そして静岡へと旅を重ね大学卒業まで興三さんの勉強を支えてくれた。お金の稼ぎ方、貯え方、そして使い方に子供らしくないところがあったようである。後年、会社に入って一年目の冬のボーナスで流行のステレオを現金で買った。月賦払いが流行っていた頃である。それを見た先輩の女性に
 「角さんは先ずお金を溜めてから、現金で買うタイプなんですねー。」
と妙な感心をされた。事実であったかも知れない。生涯で借金をしたのはマンションを購入した時だけである。スミ薬局が卸業を始めて以後、毎日毎日、手形手形と追い立てられる父を見て育ったせいかも知れない。母の手に触れ父の背中を見ながら興三さんは屈託なく育った。栴檀(せんだん)は双葉より芳しいというか三つ子の魂百までというか、いま振り返ると良くも悪くも成人後の性格と興味の対象が、子供の頃に既に現れていたようである。

 興三さんには三つの左ぎっちょ(左利き)がある。お札の数え方、鍬の使い方、自転車の乗り方である。自転車はショーウインドーの傍にいつも同じ向きで自転車が停められていた。今風の自転車と異なりスタンドで支えて停車させる為に、停車状態で騎乗し自転車を漕いで遊べる。興三さんはこの自転車漕ぎが大好きで一人機嫌よく遊んでいた。左側にはショーウインドーがあるので、乗るのはいつも右側からであった。これが習慣化したのであろう。お札は普通左手で支え右手で数えるが、興三さんは逆の手を使う。また鍬は右手を前面にして体の左側に鍬の柄を出すが興三さんはこれが逆である。お札と鍬の扱い方だけが左ぎっちょである理由は明らかでない。思うに札の数え方は父の手つきを、鍬の使い方は母の姿を正面から見て真似た結果ではなかろうか。文字通り両親を鏡に育った結果だと、自分史を書きながら思いついた。

 小学六年生の2月の学芸会で興三さんが選ばれて「ペチカ」を独唱することになった。北原白秋作詞、山田耕作作曲のゴールデンコンビによる日本の名曲である。小学校生活の最後を飾るに相応しい晴れの舞台であった。
   ♪ 雪のふる夜は たのしいペチカ
       ペチカもえろよ お話しましょ
     むかしむかしよ 燃えろよペチカ ♪
当日、舞台で歌い始めたが声が思うように出ない。講堂一杯の父兄を前に上がったわけでもなかった。恥ずかしい思いで舞台を下りた。数日後に声変わりが始まっていたことを知った。こうして興三さんの腕白な幼年期が終わり、中学校に通うことになった。お向かいのいたずら仲間の竺原の賢ちゃんが、東京の中学校に入学するために、家族と別れて一人林野を後にした。

V.中学高校時代

22)二つの怪我
 中学校は小学校のすぐ裏手にあり中学生になったとの実感は乏しかった。それでも近郷の湯郷、豊田、豊国の小学校からも生徒が集まり、クラス数が四組に増え新しい友達も出来た。彼等の家に招かれて里山でワラビを採り草餅をご馳走になった。中学生になっても実を入れて勉強することもなかったが、算数から数学に教科名が変わり少しは内容に興味がわいた。新教科の英語には数年前のアメリカ博の思い出が重なり、アメリカ生活に関心を覚えたものの、身を入れて学習するわけではなかった。英語の先生から
「角君は絵が上手じゃけん、絵を描いてくれんかなーあ」
と頼まれた。教室の黒板に貼って教材に使うためであった。ジャックとベティーと両親の顔、本とペンと鉛筆、花と花びんなど、各課の登場人物や品物や情景を一生懸命模造紙に描いた。肝心の英文を暗記し単語のスペルを覚えねばならないとの自覚は乏しかった。未だに学校は遊びの延長にすぎない日々であった。

 野球部に入部し日が暮れるまで泥にまみれて練習したがそれほどうまくはなれなかった。中学一年生の夏休み7月31日に大原町へ野球の練習試合に行った。宮本武蔵誕生の里である。試合中にフォアボールで出塁の選手が後ろに放り投げたバットが跳ねて、次打者の興三さんの足首を直撃した。痛みに耐えられずその場にへたり込んだ。選手交代を告げられベンチで踝(くるぶし)を水で冷やすはめとなった。局部が次第に腫れびっこを引きながら帰宅し湿布を貼って寝た。

 幸い骨には異常がなかったのか翌日には小山の靖っちゃんと水泳に行った。いつもの様に竹薮の崖上に登り、飛び込みを楽しんでいるときに、切り倒した竹の古株を踏みつけた。痛みが走り左足の土踏まず辺りから出血した。濡れていたので血は止まらず大出血の様相であった。昨日は足の表側を強打し今日は裏側を突き破る傷であった。
 「痛いなあ。しもおたなあ」
とは思ったが、泣きもせず靖ちゃんの肩を借りて爪先で歩いて帰宅した。調剤室に入り脱脂綿にオキシフルを沁み込ませ、丁寧に消毒し赤チンを付けて自分で処理した。そばで靖っちゃんが心配そうに覗き込んでいた。

 さすがに水泳は諦めて一週間自重していたが、傷口は一向に治らなかった。母に勧められて近くの大川病院へ行った。。

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最終更新日: 2006年4月28日


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