私本 芦屋の浜のつれづれ草 |
私本 芦屋の浜のつれづれ草
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夏季臨時号 (第22・23・24話) |
22)二つの怪我(8月号の続き) 田舎の町医者にしては珍しく帝大卒の外科医で電話番号が一番の町内の名家である。局部を見たり押さえたりしながら、 「竹片が残っているんじゃないかなぁー」 と老先生は言い、局部麻酔を注射し外科手術となった。小さな手術が終わって 「これが残っていたで。これですぐ治るじゃろう」 と外科用の金属皿を差し出した。血にまみれた小さな竹片が1つ乗っていた。病院が貸してくれた松葉杖を使って帰宅した。今度ばかりは怪我をした実感が沸いてきた。 しかし、その後も傷口は塞がらず浸出液が何時までも続いた。二、三週間経って林野駅の近くの山尻外科に行った。医師に問われるままに7月31日にバットで踝を強打したこと、翌日の8月1日に竹の古株を踏んで同じ左足裏を怪我したこと、一週間後に大川外科で手術を受けたことなどを説明した。 「竹の破片が出てきたんじゃーなー」 と山尻先生は念を押した後で 「骨にひびか何か異常がおこったんかも知れんなー」 と言って足首から爪先近くまで包帯を丁寧に巻き、その上から熱湯に浸したキブス用の石灰包帯をぐるぐると巻き付けた。ギブスの先から五本の指先だけが覗いていた。傷口からの浸出液を排除するために足の裏からキブスに穴を開けて、傷口にガーゼを詰め込んだ。こうして毎日ガーゼ交換のために、兄が運転するホンダのオートバイの後ろに乗って医者通いが始まった。既に夏休みは終わっていた。 何時までも学校を休むわけにいかず、店員の高田さんに背負われて学校への坂道を通った。遅刻早引けの通学であった。傷口からの浸出液に膿が混じるようになり、顔から血の気が失せ青白くなっていった。遅刻早引けの通学さえも体力的に無理となり、休学して裏の二階で寝起きする完全な病人となった。食欲が落ち微熱が続いた。肺病の心配から保健所へ行った。当時レントゲン機は町内では保健所にしか無かった。受診後に、 「レントゲン写真じゃあ肺の異常は無いでぇー。へじゃあけど血沈の速度が異常に早えけん、軽い敗血症みてぇじゃのー」 と医師が言った。 その夜から「ペニシリン」の筋肉注射と「ロジカル」(葡萄糖とカルシウムの混合剤)の静脈注射が始まった。注射器具を煮沸消毒し店の商品を兄が毎夜注射してくれた。ペニシリンはご存知の通り青黴(あおかび)から偶然に発見された。終戦も濃くなった昭和19年(1944)1月下旬、“ペニシリン、チャーチル英首相の命を救う。二日で肺炎が完治”の外電で世界の注目を集めた特効新薬である。この頃には既に日本でも大量生産が可能になり安価になってもいたが、製剤としての完成度は低く、現在ような透明な溶液と異なり乳白色の油性液であった。臀筋に注射すると油成分が局所に残りしこりが痛い欠点を有していた。「ロジカル」の静注後に時折ひどい悪寒と震えが襲って来た。これは注射液中に混入している異物のパイロジェン物質が原因と後に大学で習った。パイロジェン物質とは元来水中に生息していた微生物の死骸片から浸出した目に見えぬ極小物質であるが、当時の製造技術では完全には除去ができない正体不明の物質であった。幸いにもペニシリン注射を始めてから膿は止まり血色も回復し一命は取り止めた。しかし傷口は完治せず滲出液は続いていた。 23)回復へ向かう 山尻先生の勧めで岡山まで出向いて大学病院で診察を受けた。これまでの経過を説明してギブスを付けたままで受診した。 「このままでもう少し様子を見ましょう」 と言われ特別の説明は無かった。母は 「大学病院のくせになあー」 と不満をあらわにした。母が初めて口にするとがめの言葉であった。ペニシリン注射を中止しても小康状態を保っていた。靖ちゃんが時折見舞いに来て臥したまま将棋をし、学校の話を聞かせてくれた。すでに日本シリーズの中継放送をラジオで聞く季節になっていた。巨人と南海戦で名将水原茂と親分山本一人の戦いであったかと記憶する。今でも日本シリーズになると当時を思い出す。カーゼ交換のために山尻外科への通院は相変わらず続いていた。帰りに定森の貸し本屋に立ち寄り、借りてきた本を読むだけが楽しみの日々であった。秋の夜長に貸本とラジオだけを友とする生活はさすがに寂しく、裏の二階で一人寝ていると 「このまま寝たままの一生になるのではないか」 と心細くなった。 ♪ よもすがら秋風聞くや裏の山 ♪ (松尾芭蕉、奥の細道、加賀市全昌寺) ♪ 戦死した哲夫兄に 「助けてください」 と祈り、母に勧められて生長の家の「甘露の法雨」を毎日声に出して読んだ。生長の家のバイブルであり、口語で書かれているので良く理解できる。排他的宗派色はなく道徳的で生き方を教えていた。 「感謝の気持ち忘れるな。願い事や到達点をイメージして言動すれば、実現する」 と説いていた。近年話題の“イメージによるマインドコントロール”に似た自己啓発の教えでもあった。 毎年11月3日の文化の日に開かれる商工会の運動会には参加できずギブスを付けて見物した。それから暫く経った晩秋のある日、山尻先生が 「もう一度開いてみようか」 とポツリと言った。大川外科で手術をして竹片を取り除いたのであるが、まだ残っている可能性があるとの説明であった。看護婦さんが円盤状の電気回転ノコを使ってギブスを縦に切っていった。ギプスを装着する時にまず包帯を巻いた意味が三カ月後のいま、やっと判った。電気ノコが進み過ぎて皮膚を傷つけるのを防ぐためであった。汚れや悪戯書きが残る愛着のあるキブスが割れて垢にまみれた足首が現れた。右足と比べると相当細くなっていた。この再手術については、岡山大学の先生から、診断結果と意見が郵送された結果かも知れないと後年気がついたが、真相は不明である。 今回は足の裏からメスを入れて広範囲に調べる大そうな手術になると、事前に説明を受けた。 「筋肉が広ろー腐っとたでぇー。うめぇ具合ぇーに奥の方にこの竹片が見つかった。足の裏から徐々に移動したんじゃろーなー」 と山尻先生が黒くなった竹片を見せてくれた。もちろん直ぐに歩けなかったが、手術は成功し家族全員が安堵した。包帯姿で正月を迎え傷が治った後はリハビリの日々であった。温かいお湯で足湯をして筋肉を和らげて毎日少しずつ歩く訓練をした。訓練が終わると駄賃に中村屋のメロンパンか揚げパンか蒸しパンを買ってもらった。今でも懐かしい味である。三学期から高田のお姉さんに背負われて再び通学を始めた。本当に良く助けてくれたと今も感謝している。松葉杖を使って坂道を自分で通学できるようになったのは、安養寺の会陽が終わった立春の頃であったかと思う。 ペニシリンのお陰で命拾いはしたものの代償は小さくなかった。今でも左足の大腿の周囲は右足より細く、意識すれば左足首に違和感を感じる。左足の裏には大きな手術跡と筋肉壊死の窪みが痛々しく残っている。サウナなどでマッサージを受けるたびに 「どうしたのですか」 と遠慮がちに聞かれる。可愛いマッサージ嬢であると、これこれしかじかと説明して話が弾むが、男性やブスのマッサージ師に対しては 「子供の時にちょっとケガをしまして・・・」 で終わらせる。体質のせいもあろうが、兄と比べると胸板は薄くひ弱である。青春の育ち盛りに長患いで運動を欠いたせいだと思う。 この時期に習う中学一年の学科が完全に欠落している。理科の星座と天気図、社会の地理と民主政治、国語の文法などである。欠席日数が多く進級の可否が職員会議の話題になったそうである。ある程度は勉強ができたので落第は免れた。何よりも遅刻早引けで出席日数を稼げたのが大きかったのと、田舎の学校で融通が効いたのだと思う。春休みには奥西先生の家で国語の文法を、遠縁の森本先生には数学の分数を補習してもらった。英語の遅れはいかんともし難く、当時習った水曜日、誕生日、クリスマス、友達などの簡単な単語のスペルに自信がなく、BとV、TとTH、LとRの発音の区別はいい加減である。こうして英語の苦手意識が芽生えたかと思う。 24)愛ちゃんは太郎の嫁になる 中学二年生になる春休みにやっと松葉杖を手放すことができた。学校生活に慣れ足が回復するに従い、本性の悪戯心が芽を出してきた。定森の政(まさ)と中野進と同じクラスになったことがそれを助長した。定森の政は勉強が苦手であったが、体格が縦横ともずば抜けて大きく運動神経も抜群であった。中学を卒業したら都会の会社に就職してノンプロ野球の選手になる夢を持っていた。クラスでは番長格であった。クラスの席は背の高さで前から順に並んでいたので、背が高い興三さんはこの二人と一緒に教室の最後尾の隅に座っていた。小学校の八人組の一人である難波の泰治も一緒であった。 中野進は小学五年のときに転入してきた。満州から引き上げのために二学年遅れということであった。家庭を支えるために下校後は銭湯と映画館で働いていた。銭湯では釜焚きが主な仕事であるが、時には番台に座り浴室の世話もしていた。当時は脱衣場での盗難防止が重要な任務で、番台からは男女更衣室の両方を見渡せた。映画館ではフイルムの調達が主な役目であるが、人手が足りないときには映写の助手もした。女湯の情景や前夜の恋愛映画の名場面をこと細かく報告してくれた。語る方も聞く方も熱が入った。成り行きで初級性教育の講師に早変わりすることもあった。 定森の政は流行歌が得意であった。当時流行った春日八郎の「お富さん」や鈴木三重子の「愛ちゃんはお嫁に」などを教わった。興三さんが流行歌にのめり込むきっかけである。お陰で中学から高校時代に流行った歌は今でも大抵歌詞まで覚えている。悪戯話は休憩時間だけでは足りず次の授業にまでずれ込み、歌詞を書いたメモが廻って来た。私語が昂じて注意されることも一再ではなかった。それでも興三さんは感が鋭いというか要領が良いというか、先生が怒る直前で身を引き難を逃れた。ある日、ソロバンの授業時間に嘱託の女性教師が 「願いましては」 と数を読み上げ始めたとたんに、悪ガキたちが ♪ さようなら さようなら 今日限り ♪ と歌い始めた。興三さんも唱和したが、そこで止めた。悪ガキたちが ♪ 愛ちゃんは太郎の 嫁になる 俺らのこころを 知りながら ♪ と続け、 ♪ でしゃばりお米(よね)に 手を引かれ ♪ と歌ったところで、この若い女性教師の堪忍袋の緒がキレた。数人の名前を呼んで今にも泣き出さんばかりの涙声で 「廊下に立っていなさい」 と命じた。当時の生徒は今日と違いまだ従順で、先生の命令にはしぶしぶながら従った。興三さんの名前は無かったが、放課後の教室で担任の奥西先生に注意された。その翌日に席替えが発表されて悪ガキ達は離れ離れの席となった。 ♪ 愛ちゃんは太郎の 嫁になる ♪ (原 俊雄 作詞) 一番の最後の歌詞が今もほろ苦く響いている。 林野から岡山への中間地点に銅山の町、柵原町がある。この吉備高原の一角の海抜320メートルの高地で古墳が発見された。雪が積もると山頂がドーナツ状に雪解けすることから“月の輪山”と呼ばれていた。山頂を取り巻いて埋められた埴輪のせいであることが判明し“月の輪古墳”と命名された。四世紀末から五世紀初頭に構築されたこの山頂古墳からは、刀剣など多数の鉄製品が土出している。1953年に村内外の住民・教師・学生・生徒など一万人にも及ぶ人たちが参加して発掘した。興三さん達も自転車を一時間余り漕いで参加した。全員整列し言われるままに竹ベラを使って与えられた範囲を少しずつ掘った。発掘された素焼きの埴輪があちこちに転がっていた。貴重な経験で古代に思いを巡らす契機となった。 日本経済が復興し生活に余裕が出てくると、この田舎町でも寺小屋塾が流行り、小学生の興三さんも習字、ソロバン、絵画塾に通わされた。しかし習字とソロバンはすぐに止めた。手先の不器用さがここでも致命的であった。ある時、父が 「ソロバンと習字と簿記はちゃんとやっとけよ。将来どんな時にもきっと役に立つからなぁー」 と言った。興三さんは、 「誰かにしてもらやぁえーがな」 と即座に答えた。特に意図がある訳でも大志がある訳でもなかった。ソロバンや習字が嫌いなだけであった。いま半生を振り返れば結果的には運良くソロバンと習字は概ね避けて通れたと思う。自分でソロバン玉を弾き、縦と横の足し算の合計が合致せず四苦八苦した。冠婚葬祭の記帳では下手な字で恥ずかしい思いもした。しかしながら計算機が発明され日常業務では英文タイプを使い、外国駐在となってからは秘書に清書や計算をしてもらうことで難を逃れて来た。中学二年の職業の時間に簿記を習った。日頃、店先で耳にする赤伝、小切手、仕訳(しわけ)などの商業単語に出会い興味が沸き、珍しいことに真面目に勉強した。その後、時を経て50歳の頃、二年間日本で勤務した時に、将来のためと簿記の夜間教室に三カ月間通った。その後、香港で子会社の社長をした時、この簿記の基礎知識が多少役に立った。現地会計担当者の報告を聞く時には、物知り顔に質問をしては判った振りをして、伝票にサインすることしばしばであった。現地人に帳簿を誤魔化された日本人駐在員の噂を耳にしたとき、父の意見は正しかったのかも知れないと思った。 その頃、母は毎週の如く近郷の村や町へ出かけた。兄の結婚相手の釣り書きを片手に“聞き合わせ”のためであり、驚くほど熱心であった。夕食後に母がこと細かく父に報告するのを、興三さんは興味深く横で聞いていた。母が最も光っていた時であり、両親の役割分担の息が一番合った時であったかと思う。秋の運動会にはびっこを引きながら走った。11月に兄の結婚披露宴が裏の家で行われた。NHKのテレビ放送が始まった昭和28年(1953)のことである。昭和30年に長男が生まれた。その年にMO乳業の徳島工場で製造した粉ミルクでヒ素中毒事件が発生した。多数の乳幼児が脳性マヒなどの被害を受け大きな社会問題となった。偶々その年、競合会社のME乳業が実施したシール集めの景品欲しさから、義姉はME社のミルクを使用した。これがヒ素中毒の難を免れる幸運に結びついた。甥にとってはラッキーな運命の分かれ路となった。 (閲覧有難う御座いました。 9月号は写真右のmenuをクリック下さい。) |
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