私本 芦屋の浜のつれづれ草 |
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9月号(第25・26・27話) |
25)旅立ち 年が明けて冬休みに妹の桂子と一緒に義姉の里に招かれた。郵便局長の家庭で義姉は六人娘の長女であった。商家の我が家とは違い落ち着いた雰囲気であった。トランプなどをして歓迎してもらった。 二年生の三学期の期末テストの成績順位表が張り出された。成績順位の掲示など初めての経験であった。学年で11番であったかと記憶する。これまで何のくったくもなく過してきた興三さんにとって、学校の成績に順位があるなど思いもしないことで、晴天のへきれきであった。その学年順位のことで義姉と何か話をしたさい、 「阿久里は勉強ができるんでぇー」 と言った。興三さんと一歳違いの妹のことである。その時なぜか 「僕でもやればできるんでぇー」 と言った。かつて小学五年の時に、太田先生が 「角君のオッチョコチョイが無くなったら、ええ成績がとれるんじゃーけどなー」 と父兄会で言われたのを思い出していた。興三さんが勉強に目覚めた時であった。数日後に一人で中村タンス店に行き腰掛けと机を買い、1700円だったかを自分の貯金から支払った。 春休みに修学旅行に行った。大部分の生徒は京都奈良へ行ったが、林野小学校の卒業生は既に経験済みなので、希望者50名ほどは広島県の鞆が浦へ行った。美しい瀬戸内海の島々に感動した。子供の頃に町内会旅行で行った鷲羽山と共に最も美しい、瀬戸内海の景色であると興三さんは思っている。旅行後の春休みに、父の書棚にある吉川英治の太閤記を読みふけり、ゴールデンウイークが終わる頃に12巻全部を読破した。“下知(げち)”、“解(げ)せぬ”とか“美濃”など初めて出くわす単語や地名に感激し、藤吉郎の活躍に心を躍らせた。戦国時代への興味は日本史への扉を開き、それは他の教科へと関心が広がっていった。新品の机に向い、三年一学期の中間試験に熱が入った。 岡山大を卒業したばかりの道満先生の英語の授業にも興味が沸いた。道満先生は小中学校を通して印象に残った数少ない優秀な先生であった。戦中に多くの青年が戦場へ送り出された結果、戦後の田舎の学校には高等教育を受けた教師は殆どいなかった。新制大学卒の道満先生の着任は、新しい時代の幕開けであった。この道満先生がこんな話を聞かせてくれた。 「中秋の名月のある夜、米国の青年が日本からの留学生を散歩に誘った。二人は申し合わせたように小さな筒を持ってきた。米国青年の筒は望遠鏡で満月を覗く目的である。。一方、日本の留学生が持つ筒は横笛であった。名曲を友に名月を鑑賞する為であった。西洋文明は細部を緻密に観察するのに対して、日本人は自分を自然に融け込ませその一体感を楽しむ。西洋と東洋の文化の相違である」 との説明であった。今も忘れられない感動的な講話である。 この頃であったと思うが、 「大きくなったら医者になる」 と口にした。足の怪我と手術が導いた言葉であったろう。 「興三さんは大学に行くんじゃーてぇー」 と生徒仲間で話題になった。それほど田舎は遅れていた。一学期の中間試験は学年七番で期末では四番に上がっていた。 夏休みに那岐山に登った。理科の先生が同好の生徒二人を連れて昆虫採集に行くことになった。一級下の近所の大崎君が声を掛けてくれ、門外漢ながら参加させてもらった。海抜600メートルのところにあるキャンプ地の菩提寺をさけ、少し離れた谷川べりにテントを張り飯盒炊をした。冷たい渓流を黒い影が行き交っていた。初めて見るヤマメであった。何とか獲ろうと素手や即席の釣具で挑戦したが徒労に終わった。夜は漆黒の闇ながら、空には星が輝き渓流の音だけが響いていた。初めて経験するテント生活のロウソクの明かりで、先生が語る広沢虎造の浪曲「石松三十石船」に耳を傾けた。 ♪ 旅行けば 駿河の国に 茶の香り 名代なるか東海道 名所古跡の多いところ 中に知られた羽衣の 松と並んで その名を残す 街道一の親分は 清水港の次郎長の あまた身内のある中で 乱暴者と異名をとる 遠州森の石松の 金比羅参りのお粗末を 悪声ながらも勤めましょう。 ♪ 翌朝、海抜1200メートルの頂上を目指した。息を切らせ汗を拭きながらブナ林を抜けると、木立は徐々に低くなり、熊笹と這松と石径の山道となる。頂上に到着し周りを見渡した時の達成感と爽快感は何物にも代えがたい。登山好きとなった日であった。思えばあの怪我から良くここまで復帰できたものである。今では林野中学校の先生方と仲間たちの名前は殆ど覚えていない。途中で転校して卒業アルバムが無いせいかもしれないが、どうも林野中学校の印象は乏しい。その中でこの那岐登山は怪我や愛ちゃん事件とは違い楽しい思い出である。 夏休みに入ると一級上の従姉の洋子が神戸から来て二週間ほど過ごして帰っていった。夏休みが終わりに近づいたある日、父が 「お前、神戸の和田の叔母ちゃんの所へ行って、神戸の高校へ入らんか」 と言った。父の説明では洋子ちゃんが神戸へ帰って 「興三さんは勉強ができるらしいよ」 と報告したところ、 「林野にいてはだめだ。神戸に寄越せ」 と叔父さんが言ったらしい。戦前に長兄の哲夫を自宅から鳥取二中に通わせた下地があった。竹馬の友の竺原賢が中学一年から進学のために一人で上京したことを、興三さんは思い出した。こうして神戸行きがすんなりと決まった。二学期の始業式のあと級友へ別れの挨拶をし、翌日一人で林野駅から上りの列車に乗った。 ♪ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷 こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷 ♪ 大正3年に生まれた有名な「故郷」の一番と三番である。 26)御影中学校と神功皇后 叔母の家は神戸市の東端、御影にあった。川向いに進学率が高い中学があり越境入学を勧められたが、問題が多いと諦めて学区内の御影中学校に転入手続きをした。既に9月に入り二学期が始まっていたが、1週間待つように区役所の職員に言われた。数日後、区役所の職員が和田の家を訪れ、興三さんが実際に居住しているかを確かめて帰っていった。進学熱の高まりから名目だけの居住届けをして、越境入学する生徒が増えているとのことであった。余談ながら岡山県では越境入学の過熱を避ける目的で、高校入試に“五パーセント制度”をその翌年に導入した。入学定員の五パーセントまでは学区外からの入学を認める制度である。仮に定員が400人であれば20人までは学区外より受け入れる。一級下の魚取りの友達がこの制度を利用して岡山市にある県下一の朝日高校へ入学した。逆に津山高校へ入学が難しい学生がこの制度を利用して林野高校へ入学する例もあった。 こうして三年生の9月中旬から御影中学校に通うことになった。“御影”の地名にふれておく。神功(じんぐう)皇后が新羅征討のおり、芦屋の浜を船出し住吉神社で航海の安全と戦勝を祈願した。この時、泉のほとりで休息し化粧を直した。水面に映った美しいお姿に因んで、この地を御影と呼ぶようになった。その泉は“沢の井”と名づけられ、阪神御影駅の近くで今も枯れることなく泉が湧いている。 神功皇后は『記紀』(古事記と日本書紀)に記載される伝承上の人物である。仲哀天皇の皇后で名を息長足姫(おきながたらしひめ、気長足姫)という。名前より海中に潜り魚貝を獲る海人族の血を引くと考えられている。天皇に連れ添い新羅に征討の途中で天皇が筑紫で神のたたりで急死し、臨月にも拘わらず自ら出兵した。いわゆる“神功皇后の新羅征討”の伝承である。勝利を得て帰国し筑紫の宇美(うみ)で王子を出産する。その王子が応神天皇として即位するまでの69年間も政治を執ったと伝承されている。 これに対し歴史は、661年に百済の要請を受け70才近い斎明女帝は中大兄(なかのおおえの)皇子や大海人(おおあまの)皇子らを率いて出兵するが、渡韓を前に筑紫で崩御する。 この遠征日本軍は663年に百済の白村江(はくすきのえ)で破れ、百済は新羅に併合されたと伝える。因みに、第35代の皇極女帝は37代の斎明女帝として二度即位している。干支二運(えと、120年)を下げれば、この伝承と史実はほぼ同時期となる。この時代は神話から歴史への移行期であり、伝承と史実が混在し想像と好奇心を駆り立てる時代でもある。この神功皇后こそ若き日の皇極女帝であり、老いて百済救済に乗り出した斎明女帝の姿でもあると興三さんは考えている。 ♪ 熱田津(にきたず)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな ♪ 熱田津とは伊予の道後であり、温泉を示唆している。万葉の女流歌人、額田王が斎明女帝に代わって読んだ万葉集の有名な歌である。 戦後、古事記や日本書紀の内容を単なる神話として軽視する風潮が生まれた。単なる神話がこうまで種々の遺跡や神社や民間伝承を残すであろうか。中国では司馬遷の「史記」が虚構と考えられていたが、記述通りに殷墟が発掘された。また、西洋ではホメロスの「イリアス」の記述を信じ心血を注いだシュリューマン氏がトロイ遺跡を発見したことは、つとに知られている。400年ほどの短い歴史しか持たぬ米国流歴史観への追従を止め、肯定的視点で日本の古代をもう一度検証してもらいたいものである。 歴史の主役が揃ったところで、中大兄皇子を中心にいま少し寄り道を続ける。645年藤原鎌足は大極殿の蹴鞠の会で中大兄皇子の知遇を得て、蘇我入鹿(いるか)暗殺を密議し、高句麗・百済・新羅三国の使者を朝廷で迎える儀式の場で入鹿打倒に成功する。蘇我氏から藤原氏へ歴史の大転換となった史上名高い大化の改新へ続くクーデターである。その後、中大兄皇子は天智天皇として即位し、667年近江大津宮に遷都する。翌年、琵琶湖の東岸蒲生野(がもうの)において壮大な野外の宴を開く。 ♪ あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖ふる ♪ 額田王 ♪ 紫草(むらさき)のにおへる妹を憎くあらば 人妻ゆへに吾恋ひめやも ♪ 大海人皇子 この二人は十代半ばで結ばれ十市(といち)皇女をもうけている。 歴史の皮肉か万葉の大らかさか、その後額田王は天智天皇の側室となるが二人の関係は密かに続いていた。万葉集の中でひときわ輝く「人目をはばかる恋」の相聞歌はこの時期の歌である。ただ最近の学界では、この歌は宴席のざれ歌にすぎないとの見方に傾いているそうであるが、興三さんは旧来の解釈を信じたい。 病を得た天智天皇は枕辺に大海人皇子を呼び寄せ死後を頼む。しかし、聡明な大海人皇子は兄の甘言の裏を見抜き本心を明かさない。 「皇后に後事を託されたい。政務は息子の大友皇子に任せるのが良しかろう」 と、固辞し出家して吉野に隠遁する。しかし、その年12月に天皇が病死すると一周忌を待たず挙兵し、甥の大友皇子を殺害し即位する。672年の壬申(じんしん)の乱である。日本で初めて天皇の称号を採用した天武天皇の誕生である。その宮殿こそ飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)であり、そこに張り詰めた敷石は古代ペルシャ帝国の敷石都市を想起させる。 ♪ 大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ ♪ 大君は神ゆえに沼地に(石を敷き詰めて)都に改造したと、万葉集は讃えている。万葉集と日本書紀のハイライトのさわりである。 2003年の秋、興三さんはウオーキング仲間と飛鳥の史跡を散策した。JR桜井駅を出発し談山(だんざん)神社、石舞台、飛鳥寺、安倍文殊院を経てJR桜井駅へ戻る22キロの行程で、近年にない長い歩行距離であった。談山神社まではだらだらうねうねとした長い峠道で、全員声をだす体力も気力も使い果たし昼なお暗い杉林の中を黙々と歩いた。談山神社は藤原鎌足と中大兄皇子が大化の改新の幕開けとなる「乙巳(いつし)の変」を談じた山、談山(かたらいやま)の故地として知られている。粛然とした雰囲気の中に立つ樹齢500年を超える巨杉、古色蒼然たる檜皮葺きの社殿、木造としては日本唯一の十三重塔の隙間を、大小の紅葉が埋め尽くしていた。石舞台は蘇我入鹿の祖父、蘇我馬子の墓と推定されている。石舞台の下は石棺を収める広い玄室である。1400年もの長い歳月を地震洪水に耐えた力学構造を目の当たりにして言葉を失った。途中で板蓋宮の伝承地(後の浄御原宮跡)、岡本宮、山田寺跡の傍らを通った。飛鳥寺の釈迦如来坐像は仏師鞍作止利(くらつくりのとり)の作として名高い。第5話で紹介した「巨勢山のつらつら椿、つらつらに見つつ偲(おも)はな、巨勢の春野を」という万葉の歌が、境内の椿に掲示されているのを発見した。巨勢寺跡から苗木を移植したからであろうか。“犬も歩けば棒にあたる”の例えの通り、足で稼いだラッキーな拾い物に喝采した。 御影中学に転入すると直ぐに興三さんはクラスメートと仲良しになった。物怖じしない人懐っこさが幸いしたのであろう。作州弁丸出しであったためか“白猿”という渾名を頂戴した。高校に入ってからのことであるが、中学一年で進学のために単身上京した竺原の賢ちゃんに会った時に、彼は当時を振り返り 「方言丸出しで恥ずかしい思いをしたでぇー。“なんぼや”と渾名を付けられて、いじけてしもおたがなー」 と言って苦労話を披露してくれた。“なんぼ”というのは“幾らか?”と言う意味の岡山の方言で買い物の時などに使う。長兄を頼り単身上京したのだが 「中学一年の少年にとって、苛酷な試練であったに違いない」 と、興三さんは自分の経験に照らして思ったものである。 参考文献: 歴史よもやま話、日本編・上(池島信平 編)文芸春秋社 日本の歴史1、神話から歴史へ(井上光貞)中央公論社 日本の歴史2、古代国家の成立(直木孝次郎)中央公論社 27)高校受験 驚いたことに、転入先の御影中学校での授業はまだ二学期だというのに三年の課題をほぼ終えて、受験準備に入っていた。林野ではまだ習っていない課題がここでは既に終了していた。 数学では初級因数分解やピタゴラスの定理、英語では関係副詞、不定詞、分子構文、動名詞などで、その名称さえ知らなかった。 「やっちゅもねー」 と思わずつぶやいた。自信などはなから無かったが落ち込むことも無かった。(閲覧有難う御座います。10月号に続きます。) |
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