私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 10月号(第27・28・29話)

27)高校受験 (9月号の続き)
 生来深刻に考えない性質であったのだろう。9月末の実力試験は惨めな結果であった。学年で47番だったかと思う。近所に住む大西君が自宅に招いて参考書や問題集を紹介してくれた。早速それらを買い求め毎日それに埋没した。林野で三年の一学期に多少は机に向かったが、今回は生まれて初めて自主的な勉強であった。

 二学期の終わり頃にクラスで白鶴美術館へ遠足をした。“白鶴”は灘五郷の一つ、御影に生まれた銘酒である。17世紀半ばから本格化した灘の酒造りは18世紀後半になって急成長する。海運の便も得て大消費地江戸への主要供給の地位を得る。明治の初期当主、嘉納次郎作が家業を発展させる。その義弟、七代目治兵衛が昭和九年(1934)に白鶴美術館を設立した。特に中国と日本の古美術で名高い。なお、次郎作の三男嘉納治五郎は講道館の創始者であり私立旧制灘中学校の初代校長としても知られている。

 御影中学校は阪神御影駅のすぐ北にあった。そこから北へ列をなして歩いた。国道2号線を横断しさらにJRの踏み切りを渡ると、この辺りから風格のある邸宅が目立つようになる。御影は芦屋とならび阪神間の高級住宅地として知られている。芦屋は浜側にも高級別荘が多いのに対し、御影は山手に偏在し各戸の規模はこちらの方が大きい。静寂な高級住宅街を通り阪急電車のガードを潜ると坂道は次第に険しくなる。狭い街路をうっそうとした木立が覆い、歩道から見えるのは大きな岩を重ねた石垣の塀だけである。その向こうに建っているはずの大邸宅は樹木に隠れている。一つひとつの邸宅がお城のような超高級住宅の側を歩きながら、興三さんは
 「大きくなったら、こんな家に住みたいなあー」
と思った。それがどんなに野望かとは思いもしなかった。その夢の家は年を重ねるに従い少しずつ萎(しぼ)んでゆき、悲いかな今は小さなマンションの片隅でパソコンに向かっている。人生なかなか思うようにはいかない。

 三学期に入ってからの実力試験で30番台、その次が20番台で最後が12番であったかと記憶する。目指す高校が有るわけではなく、近くの御影高校に進学するものと漠然と思っていた。最後の実力試験が終わった時、村田先生が神戸高校を受験するように勧めてくれた。戦前は神戸一中と呼ばれ今も県下一の進学校と聞かされた。灘高校など私立高校が興隆し公立高校の衰退が始まるのは、この数年後からである。叔父は喜んだが、
 「落ちたら困るなあー」
と興三さんは思いながらも先生の勧めに従うことにした。御影中学校は半年足らずの腰掛生活に過ぎなかったが、先生にも友人にも恵まれ実り多い半年であった。卒業式を新築の体育館で迎える幸運にも巡り会えた。

 広い校庭から見上げる黒く大きな校舎の威容に圧倒された以外には、受験当日の記憶は乏しい。どの位が合格ラインかとも分からぬまま神戸高校を受験した。発表の当日、友人たちと一緒に神戸高校に出かけた。多くの港町と同様に神戸もまた坂道が多い。摩耶六甲連山を背に瀬戸内海に面し東西に長い。神戸高校は摩耶山の麓にあり、阪急線の王子動物園前駅で下車して真っ直ぐな坂道を半キロほど登るとバス道と交差し神戸高校前のバス停がある。そこから坂道はさらに急勾配となる。最後の200メートルを地獄坂と呼んだ。夏には汗にまみれ、冬には六甲下ろしの向かい風に吹かれながら、三年間毎日坂道を登った。正面に大きな正門があるが、途中の右手に副門がある。これは神戸一中時代の正門を移築した由緒あるもので、鵬門と呼んでいた。その鵬門を右にくぐると眼前に校庭が広がる。この広いグランドの隅に合格者の名前が掲示されていた。幸いにも興三さんの名前が600余名の中にあった。一緒に来た友人たちと喜び合った。

 校庭の南側は高い石崖に支えられ、眼下に神戸の市街、工場群や神戸港が広がり晴れた日には大阪湾の南端、和歌山県との県境近くの“友が島”まで見渡せた。校庭の山側にはコンクリートの階段があり、運動会やスポーツ大会ではアルプス式の観客席になった。その階段を登りきったところに四階建の校舎が威容を誇っている。全生徒1800余人の教室を始め分野別の特別教室、職員室、講堂、食堂などの諸施設を収容する大校舎である。田舎の木造校舎の比ではない。その校舎の西端には洋式の城郭がひときわ高くそびえ、“ロンドン塔”と呼ばれていた。昭和13年(1938)に建設された当時にはベージュ色であったが、戦時中に空爆を避ける目的で黒色に塗られたそうである。戦時下に林野の民家や土蔵の白壁を煤墨で黒く塗った日を思い出した。この校舎は興三さんが卒業後に元のベージュ色に塗り替えられ、平成14年(2002)には全面的に建て替えられた。東半分が5階建築と一階分高くなった以外は、ほぼ以前と同じ外観で思い出の“ロンドン塔”もかつてと同様に、摩耶山の山腹にそびえている。春休みのある日、全員登校し英語、数学、国語の三科目だけの実力試験を受けた。試験問題は難しくチンプンカンプンの難問もあった。経験したことの無い惨敗を感じた。春休みに久しぶりに林野に帰った。家族や幼友達が名門校への合格を祝福してくれた。
  “桃酒甘く父と交わしし初帰省”
これは大学に入学した年の夏休みに帰省して、父とビールで乾杯した日に、高校入学の春を思い出して作った俳句である。父は嬉しそうに褒めてくれた。

 入学式の日に阪急六甲道から神戸高校前までバスに乗った。今日だけは特別にバス通学である。興三さんは吊り革を持って立っていたが、眼前の座席で制服姿の娘と着物姿の母が楽しそうに談笑していた。良家の子女を感じさせ、田舎では出くわすことのない華やかな光景である。セーラー服の襟(えり)の周りは黒い二本の紐状ブレードで縁取られ、スカートの裾(すそ)も光沢のある黒いブレードで飾られている。胸には黄色の小さなバッチが揺れていた。一年が黄色、二年が赤、三年が青で三年間同じ色分けである。男子生徒の襟章も同じ色分けで、神戸の中高生には憧れの制服姿であった。その女生徒とはある年に同じクラスになり、ほのかなときめきを感じた。しかし真面目な大学受験生にはそれだけのことで終わった。恋心といえば、林野での最後の試験で興三さんの上位であったS嬢に関心をいだき、御影中学に転校後に林野から手紙をくれた女性もいたがバスに同乗したこの女性が最も惹かれた女性であったかと思う。そう言えば、小学一年生の担任の杉山先生に似た印象であった。


28)地獄坂の風景
 通学は近所の中島君と一緒であった。毎日出迎えてくれるが、興三さんは朝寝坊をしてしばしば門前で待ってもらった。また試験の前夜遅く自宅に押しかけて数学を教わった。父親が外国航路の船長であったので、中学時代からテンマ君と学友から慕われていた。伝馬船の略称であろう。温厚な人柄でいやな顔一つせず付き合ってくれた。今もたまたま同じ市内に住み、時折のカラオケを誘い合っている。担任は色白で大柄な数学の池本先生であった。学生自治会の先輩男女2人がクラス担当として学内規則や施設を紹介し、高校生活の心構えなどを指導してくれた。男性先輩の記憶は乏しいが、女性先輩は端正な顔立ちと落ち着いた語り口が印象に残っている。“オリエンテーション”は初めて耳にする英語であった。辞書を引くと新入生や新入社員に対して行う“適応指導”と書かれていた。また朝の校庭での集会を“アッセンブリー”と呼と英語で呼び、号令ではイチ、ニ、サンをアイン、ツヴァイ、トライとドイツ語で言った。これらの外来語はポット出の田舎者には新鮮で伝統ある神戸高校に入学出来たのだと実感した。

 クラス全員が一人ずつ自己紹介をする時間もあった。最初に立ったA君はクラシックが趣味でモーツアルトについての薀蓄(うんちく)を述べた。続いてデキシーランドジャッズ、西洋映画などの趣味を披露する生徒、漱石や龍之介など日本文学の巨匠への見識を語る者、シートン動物記や西洋文学の読後感想を述べる者、囲碁の面白さを強調しボーイスカウト活動の楽しさを述べる生徒など林野での経験とは異質の世界に驚いた。興三さんは岡山県北の林野から出てきて間がないことや、田舎での渾名は“マンモス”で、御影中学に転校してからは“白猿(しろざる)”と呼ばれたことなどを悪びれることもなく話した。休憩時間に
 「僕は戦時中に岡山県の周佐(すさい)に疎開していた」
と池上君が話しかけて来た。周佐は林野から岡山へのバス路線沿いの田舎町である。興三さんは親しみを感じ、その後何かと話し相手になってもらった。彼は誠実で良識のある人柄であった。東大法学部から自治省に入局し環境庁を経て、現在は弁護士を開業する傍ら摩耶六甲連山の美観と環境の保全に尽力している。梶君も林野の近くに疎開していたそうである。隣の江見駅から武蔵の里へのバス道にある五名という村であった。彼は高分子物理が専門の京大名誉教授となった。趣味で始めたサンスクリット語(梵語)を日本語のルーツと考え、退官後はその検証に日夜研究を重ね既に二文を公表している。興三さんは日本人のルーツに興味があり、何時か彼に「自分史エッセイ」の誌上で講義をお願いしたいと密かに期待している。

 高校生活に少し慣れた4月末のある日、春休みに受けた実力試験の成績が発表された。数学が200番台の前半、国語が200番台の後半、英語に至っては400番台と低位で、三科目の総合が300番近くであった。覚悟はしていたが、現実に順位表を突きつけられると惨めであった。それでも冷静に考えると1番もいれば600番もいるはずで驚くに当たらない。泥縄式に問題集に取り組み、手っ取り早く理科や社会や音楽図工で点を稼いで合格した側面もある。当時学区内に何校中学校があったか知らないが、仮に25校として単純に計算すると、1校当たり24番目までが神戸高校へ入れた計算となる。中学最後の実力テストが12番であったのだから、丁度真ん中くらいで妥当な順位である。
 「自分の実力からすると、こんなものかなあー」
と思い納得した。その日、池本先生が
 「これから諸君は頑張って欲しい。定期試験で60点以下は不合格で落第もある。特に半分以下の生徒は要注意だ」
と言って脅すように叱咤(しった)激励した。林野から送り出してくれた両親の顔が浮かんだ。その日から興三さんは真面目一途の生徒に変貌した。というより必死で全教科60点を目指す、受験目的からは要領の悪い生徒として3年間を過ごすことになる。それでも楽天性のお陰でいじけることも惨めと感じることも無く、それなりに楽しい高校生活を送った。

 神戸高校は戦後の新教育制度で昭和23年(1948)に、戦前の神戸一中と県一高女が合併して発足した。当然の結果として神戸高校は県下一の受験校として知られる一方、男女共学を旨とし男女比の目標を六対四程度としていた。“ロンドン塔”の名が示す通り、神戸一中は英国のパブリックスクール、イートン校の紳士教育を目指した。加えて、日本最初のジャズ、ゴルフ、ハイキングコースの発祥地、ハイカラ神戸の影響を受けている。それらの伝統を引き継ぎ「質実・剛健・自重・自治」の四綱領のもと、高山忠雄初代校長が文武両道を目指していた。
 「女性も大学を目指しなさい。結婚し家庭を守ることだけが貴女たちの人生ではない」
と教える先生も少なくなかった。

 いま卒業写真を開くとクラブ活動が50種類もある。運動部ではサッカー、ラグビー、バトミントン、野球、硬・軟式のテニス、男女バレーボール、男女バスケット、剣道、柔道、水泳、ボート、山岳、陸上競技、機械体操など合計20部を数え馬術部まであった。サッカーは全国のトップレベルで、他にインターハイ(全国高校総合体育大会)に出場のクラブも多くあった。馬に乗った関君の雄姿を印象深く思い出す。彼は長身で運動会ではいつも最前列で組み体操のオウギやピラミッドなど興三さんの仲間であった。卒業以来ずっと同期会の世話役をし、今は神戸高校同窓会の事務局長として活躍している。

 文化部では合唱、吹奏、美術、文芸、演劇、地学、化学、生物、物理、工学、社会、茶道,華道、書道、筝曲、弦楽、写真、弁論、速記、放送、新聞、図書、ESS、ドイツ語、海事研究、海外文通など30の部や研究会を数える。学校が「文武両道」を目指せば、生徒も多士済々であったことを窺(うかが)わす。当時、合唱部は柳井先生の指導のもと全国優勝を成し遂げるなど入賞の常連校であった。一学期の終わりに声楽の試験があった。柳井先生が弾くピアノの両側に生徒が一人ずつ立って“帰れソレント”を歌った。数日後、合唱部の上級生が来て入部を勧めた。思わぬ誘いに驚き嬉しくもあったが迷った末に入部を断った。“落第”の二文字に呪縛されていたし、入部すると何かと物入りになろうと危惧した。田舎から勉強に出してもらっているとの気持ちが強かった。しかし、だからと言って猛勉強に明け暮れる体力も根性もなく、ただ真面目に通学しているだけの生徒であった。もし後年に事件でも起こせば
 「真面目で目立たないごく普通の生徒でした」
と学友の談話が紙面に載る程度の平凡な生徒であったと思う。冬の10キロロードマラソンには泣かされた。男子生徒は全員参加しなければならない。やっと学校近くまで帰り着いてもあの地獄坂が待ち受けている。加えて女生徒が道の両脇で応援しているので、歩くわけにはいかない。戦前戦中に行われていた“一中と二中の対抗試合”の伝統を引き継ぎ、神戸高校と兵庫高校の対抗試合があった。早慶戦の高校版である。春は野球の冬はラグビーの対抗試合に全校生で応援に出かけた。伝統と言えば一中時代には臨戦態勢の教練として、全生徒が校庭で弁当を立って食べていた名残が、興三さんの頃には2時間目と3時間目の休憩時間に弁当を立ち食いする悪習として残っていた。


29)鬼とハナヨと猿田彦神
 松本君に誘われて御影の自宅に遊びに行った。銅版葺きの三角屋根の下に飾り窓があるクラシックな木造の洋館であった。屋内には絨毯が敷かれ、大きな応接セットやガラス書棚に洋式の暖炉もあった。初めて見る洋間に目を見張った。
 「ここからサンタクロースが来るのだなあー」
と西洋の童話を思い出し将来の我が家に思いをめぐらした。

(閲覧ありがとうございました。以下は11月号に続きます。)



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