私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 秋季臨時号(第30・31・32話)

30)胡椒と霊魂のために(11月号の続き)

 「恐怖の報酬」は高山の油田で起きた火災を火薬の爆風で鎮火させるために、大量の火薬をトラックで運搬する話である。運転手役をシャンソン歌手でもあるイブモンタンが好演していた。漆黒の闇の中、ヘッドライトだけを頼りに険しい九十九(つづら)折(おり)の山道をうねりながら登ってゆく命がけの仕事である。ぬかるみに車輪をとられ立ち往生するなど、ハラハラドキドキと手に汗握る緊張の連続である。無事運び終えて大金を手にした彼は、翌朝ルンルン気分で下山の途中に運転を誤り脱輪して死亡する。生涯出あった名画の一つである。たまたま、その数日前に古文の徒然草で「木登りの熟達者」の話を習っていたので一層印象深く残っている。
“高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、高き木に登らせて梢をきらせしに、いと危うく見えしほどは言ふ事もなくて、おるるときに軒(のき)長(たけ)ばかりになりて「あやまちすな。心しておりよ」と言葉をかけ侍(はべ)りしを、「かばかりになりては、飛びおるるともおりなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき、枝危うきほどは、おのれが恐れ侍れば申さず、あやまちはやすき所になりて、必ず仕(つかまつ)る事に候」といふ。”
木に登る時には黙視していて、下りで着地寸前になって初めて「気をつけなさい」と注意したという話である。

 長姉の泰江は神戸に嫁いでいた。高校一年の時であったか、悪阻(つわり)が酷(ひど)く和田の家に来て養生していた。日々悪阻が激しくなり枕元の洗面器に嘔吐を続けていた。濃い緑の嘔吐物も混じっていた。おそらく胆嚢から搾り出された胆汁であろう。胎児への悪影響と母体に危険が迫り往診の医師が限界を宣言した。姉は泣きながら
 「絶対産むんだー」
と喚いていた。悪阻の症状は各人各様らしいが、激しさと恐ろしさを目の当たりに見た。幸いにもその日を境に徐々に収まってゆき、無事元気な女の子が誕生した。

 和田の叔父さんは恵子叔母の亭主である。戦後二年ほどして林野の西が浜に復員して来たことは既に触れた。自治省のキャリアー組みであったが戦地に赴き、復員した時には本省には空席がなく兵庫県の職員となった。県庁では岸知事の下で順調に昇進を重ねていた。自治省出身で本省に顔が利いたためかも知れない。しかしながら好事魔多しである。人生どこに落とし穴があるか分からない。部長職を目前に岸知事が選挙で破れ、社会党や共産党が推薦する坂本知事に代わった。前知事の取り巻き幹部の一人として報復人事の対象となり、淡路島の福祉事務所長に文字通り島流しの左遷となった。単身赴任し毎週土曜日の夕方に帰宅し、月曜日の早朝に帰任の生活となった。公務員としての出世をあきらめたのか、毎週日曜日には叔母と二人で買い物篭を下げて市場(いちば)通いを楽しんでいた。興三さんは世の中の一面を垣間見て宮仕えの厳しさを知った。

 後年、興三さんが武田薬品に入社し外国事業部に配属になってしばらく経ったある日、叔父さんは
 「わしはなあ、戦争中に南方のジャワ島にいた」
と話し始めた。
 「1942年に日本軍はオランダ領インドネシア全土を占領し統治下にした。その後、高まる独立要求を抑えきれず44年9月以降に独立を認める約束をした。日本の敗戦の結果、独立は自然に成立したが、それ以前に独立を約束していたことはインドネシアの心象を良くした。加えて戦時中には善政をしき、戦後にはオランダからの独立戦争に元兵士たちが同士として参戦した。だからインドネシアは親日的なのだよ」
と教えてくれた。続けて
 「台湾でも比較的善政をしいた。しかし、韓国では風俗習慣言語が日本と似ており、お互いに腹の中が読める上に、秀吉の朝鮮征伐の恨みから激しい抵抗に会い統治に失敗した」
とも話してくれた。子供の頃読んだ島田啓三の漫画「冒険ダン吉」の“南洋”の場面が浮かび、海の彼方に思いをはせた。また叔父さんは興三さんが入社後暫らくして、
 「お前は人が良すぎる。会社勤めは人を信じ過ぎてはいかんでー」
と戒めてくれた。役人勤めで煮え湯を飲まされた叔父さんの言葉だけに現実味があった。商人では掛売りのような例外を除き、お客様は全て善人として接する方が望ましい。しかし会社員のように組織の一員として働く場合には、個人と組織の利害が絡むので一様にいかない。まして外国で現地人を使う立場になれば、性善説に立つか性悪説に立つか微妙で重要な問題となる。後年、現地責任者として外地で仕事をしたとき、「善政」という二文字と叔父さんの「お前は人が良すぎる」との忠告を思い出しながらその任に当たった。


31)大学受験と浪人生活
 二年生が終わった春休みに修学旅行で北部九州を周った。二泊三日の旅である。船から見る瀬戸内海の夕日、別府の地獄めぐり、阿蘇の火口、熊本城の忍び返しの石垣、長崎のグラバー邸が特に印象に残った。三年生のクラスは理科系であった。結果的には早稲田の政経学部や関学の経済学部に進学した文科系の学友もいたが、多くは理工学部や医学部に進学した。個性豊かな面々であった。机と腰掛2組を窓から外に運び出し教室内の空席を無くし、先生の目を誤魔化して欠席者かばう智恵者もいた。後年、国立大学の医学部長や工学部教授、テレビ局の会長、胃がん手術やリウマチ治療の権威医師など著名人となる多士済々であった。中でも柴山君は特筆に価する。彼は当時話題となった映画「王様と私」で世界的大スターとなったユルブリンナーに容貌が似ていた。数学の能力は群を抜き、数学の時間には先生公認で一人校庭の木陰で数学原論のような高度の本を読んでいた。原子物理を専攻するとかで京大に入学したが、事情により退学してしまう。その後、苦労はしたと思うがコンピューターの時代となり、電子部品の会社を興しソフト関係の会社へと拡大し、その方面で知られる会社に育て上げた。ITベンチャービジネスの先駆である。三学期になり受験を控えたある日曜日に、クラスの多数が参加して六甲山にハイキングに行った。それを知った担任の高橋先生が翌日
 「こともあろうに、大事な時にハイキングなどとんでもない」
と涙ながらに説教したのは忘れられない。

 興三さんは岡山大学の医学部を受けることにした。受験科目は英語のほか、数学は解析T・Uに幾何、国語は現代文・古文・漢文、理科は二科目、社会までも二科目のフルメニューであった。これは東大や京大と同じ科目数である。出来もしないのに科目数だけは頑張った。ある友人が興三さんの受験科目から京大医学部を受験すると誤解して
 「角君そりゃあー無理だ。止めたほうが良いよ」
と親切にも忠告してくれた。毎日の睡眠時間が四時間では合格できるが五時間も寝ていては落ちる、という“四当五落”の受験地獄である。能力と体力と気力が共に備わっていなければとても受験競争に勝ち残れない。三年間の努力の甲斐も無く学年順位は入学直後の実力試験から100番足らず上ったにすぎず、岡山大学の医学部合格には遠い順位であった。林野に帰りマイペースで浪人暮らしをして再挑戦すると決めていた。受験の日には母が一緒に旅館に泊まってくれた。中学や高校の入学式にも卒業式にも一人で出席し、受験校さえ自分一人で決めたがこの時はさすがに嬉しかった。ただ有名な軽音楽のBS楽団が地方公演で同宿し夜遅くまでドンチャン騒ぎをして眠れないのには往生した。数学は多少出来たが英語は惨敗であった。加えて聴取試験(ヒアリングテスト)があった。関西の大学では英語のヒアリング試験は無いので、全く訓練をしておらず大いに面食らった。

 この年の神戸高校の大学入試結果は東大が9人、京大が19人、阪大が27人、神戸大が77人で、神戸商科大が22人で、その五校だけで合計154人であった。その後は校区が狭まり私立高校が隆盛して、現在の進学者人数は激減し、クラブ活動も停滞し特色の無い高校になったようである。卒業式はまたも新築の体育館で行われた。神戸一中の先輩で中国文学の碩学、吉川幸次郎京大名誉教授が作詞した我が愛する校歌を記述して神戸高校の項を終える。
 ♪ わこうどは  まなびやをたかきにぞおけ
     きみみずや  六甲のけわしきおいて
   わがにわと  ながむるちぬのうみづらに  
海(かい)彼(ひ)のゆめをいざないて  しおさいとおく  みちくるを ♪

 こうして久しぶりに林野に帰り、単身浪人の生活が裏の二階で始まった。足の怪我で四カ月間一人寝起きした思いでの部屋である。使い慣れた机と椅子が神戸から里返りして元の場所に納まった。家族の者たちは
 「一人で勉強して大丈夫か」
と心配したが、興三さんは生き生きしていた。マイペースで英語を伸ばすことだけが課題と決めていたので心配はしなかった。それよりも手形で追われる父と兄の会話を耳にしていると、卸業が順調でないことは明らかであった。医学部へ行っても良いのかと内心心配をした。

 竹馬の友の小山靖夫は香川大の経済学部に進学した。この小山の紹介であったかと思うが、林野高校卒の浪人三人と友人になった。彼らと一緒に津山高校の浪人生の補習クラスに入れてもらい毎日列車で通った。津山高校の模擬試験も受けさせてもらった。山名と森岡と興三さんは大体同じくらいのレベルで、遠藤は少し上位であった。通学時間が勿体ないので津山行きは一学期だけで中止したが、神戸と津山の比較ができた上に良い友人にも巡り会えた。山名は広島大の教育学部に、森岡は徳島大の応用化学に入学した。遠藤は初心を貫きもう一年浪人して京大の工学部へ進学した。

 神戸高校の親友永田君と郵便で練習問題の添削を交換し合うのも楽しみであった。受験生のバイブル、各教科の“傾向と対策”や“原仙の英文精選”や旺文社の通信添削指導を頼りに頑張った。いつしか季節は初冬になり、裏の障子を開けると山鳥や小鳥たちが柿の実や名も知らぬ大木の赤い実をついばみに集まっていた。先日来、渡り鳥か見慣れぬ色彩豊かな小鳥の大群が遊んでいた。退屈まぎれに鴨居に掛けていた空気銃を取り狙いを定めて引き金を引いた。静かな冬山に銃声が響き小鳥の群れは一斉に舞い立ち、その日を限りにもう訪れては来なかった。
 「あんなことさえしなければ、その後も毎日、毎年集まって来たものを!」
と後悔している。年が明け、受験雑誌の勧めに従いミカン一箱を部屋の隅に置き体調維持のために毎日食べていた。英語はそれなりに手ごたえを感じていたが、ヒアリング試験の訓練は出来ぬままであった。
 「今年は小手調べではない。必勝合格!」
の決意から、ヒアリング試験がなく射程距離の一期校・鳥取大の医学部と二期校・兵庫県立医科大学(現神戸大学医学部)を受験することにした。山口、和歌山、奈良、岩手など合格の可能性が高い公立医科大学があったが、私立ほどではないが学費が結構高く受験したいとは言い出せなかった。

 パスできそうな国立大学の歯学部もあったが、
 「歯医者なんか、散髪屋と同じようなもんじゃー」
との父の言葉で選択肢から外れた。たまたま隣の家に間借りしている巡査の奥さんが歯医者であったので飛び出した不用意な一言が決め手となった。歯科医師への認識が甘く将来性を予測できなかったのと、手先が不器用で歯科医には向かないと勝手に思い込んで判断を誤った。滑り止めとして一期校と二期校の間に受験日がある県立静岡薬科大に願書を提出した。さらに最悪の場合に備えて二期校の山口大学の数学科にも願書を送付した。もし静岡薬科大にも合格できなかった場合には、二期校の医学部受験を中止して山口大に入り数学の先生になるつもりであった。

W.大学時代

32)田下駄と黒い砂浜
 多少の手ごたえを感じたが医学部は両大学共に落ちた。兵庫県立医大は2年間の教養課程を県立姫路工大に委託し、入学試験は姫路工大と共通であった。たまたま和田の叔父さんがこの大学の事務局長をしており、受験結果を調べてくれた。
 「合格に14点足りない。興三君は漢文が苦手か? 30点の配点がゼロ点だった!」
と教えてくれた。
 「そんなバカなー。漢文と現代文のいずれか選択と書かれていたのに・・・」
と興三さんは絶句した。問題を読み現代文を選択し漢文の問題には手をつけなかった“その時”の状況を思い起こしたが、全て後の祭りである。小学五年の時、担任の太田先生が
 「角君のおっちょこちょいが直ったら、良い成績がとれるんじゃーけどなー」
と注意してくれたが、大事なところで決定的なミスを犯してしまった。今でも納得のいかない深手である。工学部の応用化学科の合格点は超えていたので、
 「応用化学に行きたければ、なんとかなるかも・・・」
と叔父さんが言ってくれたが、その時には県立静岡薬科大学の合格が決まっていたので、姫路工大・応用化学科への入学は止めにした。いま冷静に当時を振り返れば、最初から一期校を捨てて二期校の兵庫県立医科大学の一本に絞れば、社会科二科目の勉強が不要な分だけ合格の可能性が高くなったであろうと思ったりもする。宿泊した旅館は昭和33年(1958)に売春禁止法が施行されるまで遊郭であったところで、中庭を囲んで部屋がありそれを結ぶ廊下の朱色の欄干や粋な屋内装飾など、いま思い出すと悩ましい雰囲気であった。そこで神戸高校3年のクラスメートの岩崎君に出会った。彼は応用化学科に合格し卒業後に日本触媒に就職した。人聞きは悪いが彼とは遊郭仲間である。

 県立静岡薬科大学は一期と二期の滑り止めに受験した。受験科目は化学、物理、英語に数学は数TとUだけで数Vと幾何は除かれ国語と社会は無かった。鳥取大医学部の教科数の半分で、片肺飛行のハンデを背負っての受験であった。幸いに不得意の英語は何とか出来た。数学と物理は完璧、と自分では思った。化学は難しかった。恐らく化学は不合格のレベルであったろう。理系学部の理科は物理、化学、生物のうち一科目が必須で残り一科目の選択が一般的であるが、この年の静岡薬大は物理と化学の二科目が共に必須科目となった。この特殊事情のために、この年の静岡薬大には一期校と二期校に滑った工学部や医学部などの第一志望に失敗した受験生が多く集まった。翌年からはまた元の“化学必須、生物と物理から一科目選択”に戻った。
(閲覧に感謝します。12月号に続きます)



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