私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 12月号(第32・33・34話)

32)田下駄と黒い砂浜(秋季臨時号の続き)

 試験日の当日、旅館の小母さんが
 「富士山が綺麗に見えるだよー」
と大声で呼んでくれた。急いで屋根の上の物干し場に上ると、早春の紺碧の空一杯に雪を頂いた雄大な富士山が眼前に迫っていた。すごく感動して
 「是非、合格しよう!」
と意欲がわいた。

 兵庫県立医科大学が不合格となり県立静岡薬科大学へ進学を決めた。思えば中学一年の時の足の怪我がきっかけで医師になろうと思い神戸高校へ進学してから、将来は林野に帰って入田で開業することを夢見て四年間頑張ってきたのである。
 「全てはこれで終った」
と一抹の寂しさが残った。その時には林野高校に進学し身の丈にあった受験勉強をした方が医者への道は近かったかも知れないと悔やみもしたが、神戸へ出なければ魚捕りの延長のような日々を送ったに違いない。後追いではあったが、多才な友人に揉まれながら必死で過ごした神戸高校での三年間は決して無駄では無かったろう。何よりも高度の教育環境の下で、現代文・古典・漢文・日本史・世界史など幅広い学科に取り組んだことは、その後の人生で広い視野を持つのに役立ったであろうと、今は思っている。

 静岡薬大へ進学を決めた翌日、寂しい想いで縁側に座りぼんやりと裏庭を眺めていると、母が近づいて来た。内緒話をするように
 「興三さん、お前もう一度、医学部を受けてくれんかなー。医者になったら林野に帰って来れるけんなー」
と言った。思いつめたようで泣いていた。手元から離すのが寂しかったのか、同年代の長男哲夫を戦争で失ったことを思い出しているのか、或いは
 「長い家系なのに角家には分家がない」
と言う父の口癖を斟酌してのことか、その理由は判からないがこんな弱気な母を見るのは初めてであった。しかし興三さんは受験生活に疲れていたし、内心
 「無理をして医者になっても、ヤブ医者ではいけんしなー」
と中学一年生の時、医者のミスでひどい目に会ったことを思い出していた。後年、中山の伯母に、この時の様子を話しながら
 「もっと受かりそうな公立の医大があったけど、学費が高いけん諦めた」
と言ったところ
 「そう言ってくれりゃー良かったのに、冨さんも久さんも遠慮しじゃけんなー」
と言った。父と母のことである。中山の伯母夫婦には子供がいなかったので、頼めば学資を借りられたであろう。こうして県立静岡薬科大学への入学手続きを終えた。

 4月に皇太子殿下のご成婚があり世間はミッチーブームに沸いた。秋には岩戸景気が喧伝され消費ブームが始まった。昭和34年(1959)のことである。3月末に静岡薬大を訪問して下宿先を紹介してもらった。ドシャ降りの日であった。静岡駅に降り立ち静岡薬科大学への行き方を二、三人に訪ねた。一人の小父さんが
 「ああ、薬大なら競輪場の近くだでよー。ヤッカイ大学とゆーずら。」
と教えてくれた。駅前からバスで曲金(まがりかね)経由「競輪場行き」又は「小鹿(おしか)行き」のバスに乗るとのことであった。後で知ったことであるが一般市民には競輪場の方が馴染み深く、多額の税金を使う県立薬科大学は“ヤッカイ大学”と揶揄されていたそうである。下宿先が決まり布団袋や生活用品を送った。その中に例の勉強机と椅子もあった。静岡へ出発の日に店先で義姉と撮った写真が残っているが、4ヶ月後の夏休みの写真と比較すると人相がすごく悪い。受験生活の厳しさを物語っているのかと見る度に懐かしく思う。

 長崎出身の老夫婦が退職後に新築して始めた賄い付きの下宿に落ち着いた。二階に四回生が1人三回生が3人サラリーマンが1人で、興三さんだけが一階であった。窓を開けると刈入れ後の田圃が広がり遥か先に小鹿村の民家が見え隠れしている。右手は日本平の山裾に繋がり茶畑と蜜柑畑である。正面には雪を頂いた富士山がそびえ、頂上から麓まで完全な雄姿を見せていた。3年間この下宿でご厄介になったが、四季折々に眺める冨士の美しさは興三さんの筆力では伝えきれない。朝焼け夕焼けを映して刻々と変わる色合いを窓枠に腰掛けて飽きず眺めたものである。同級生は80名で二組編成であった。例年は四割ほどが女性であるが、その年に限り女性は僅か17名に過ぎなかった。入試科目の理科が化学と物理共に必須となったためである。同級生の中に見覚えのある顔があった。神戸高校の同級生の五島君でお互いにその奇遇に驚いた。彼は優秀な成績で卒業し修士課程に進み後に母校で環境科学研究所の教授と所長になった。

 クラス全員で富士五湖周遊を楽しんだ。日曜日や連休に付近の名所を一人で訪れることもあった。静岡市の南、海岸近くにある登呂遺跡は昭和18年(1943)に軍需工場建設中に偶然発見され、戦後になって大々的に発掘調査された弥生時代後期の農業村落跡である。安倍川下流の沼地での稲作作業を可能にするために工夫された田下駄(たげた)に興三さんは惹かれた。雪の中を歩く時に履く“がんじき”と同じ発想でのめり込むのを防いでくれる。下駄や草履(ぞうり)の原形で西洋には無い日本独特の履物である。日本平には一面茶畑が広がりその先に残雪を頂いた冨士が霞んでいた。梅蔭禅寺では銅像の清水次郎長に出会った。近代日本の将来を見据えたその眼差しは鋭かった。久能山は徳川家康が好んだ場所で訪れた日に食べた天ぷらに食中(あた)り命を縮めたそうである。遺命により久能山に葬られたが風水思想と北の守りの目的で、後に日光に改葬され日光東照宮となったそうである。久能山の石垣いちごが有名になりつつあった。石垣の保温力で早春に甘く大きな粒が実るそうである。始めてわさび沢を見た。
 「面積当たりの収穫金額が日本最高の作物だでよー」
と小母さんが説明してくれた。三保の松原の砂浜が真っ黒なのには驚いた。白い浜を見慣れた瀬戸内海の出身者にはこれが砂浜かと疑う風景である。沖縄の砂浜は珊瑚礁が作り出し、瀬戸内の白い砂浜は花崗岩から生まれ、静岡の黒い砂浜は冨士の火山灰によると聞いて納得した。所変われば常識が異なる好例と良い勉強をした。


33)小鹿生活と倭建命
 バスケット部とコーラス部とESS(英会話)同好会に入った。高校時代に運動部にも文化部にも入部しなかった反動である。同期の石野君、寺田君、有光君、前島君、永井君、五島君もバスケット部に入部した。特に石野君と寺田君はインターハイで活躍した実力の持ち主で春の県内同好会の交流試合で優勝してしまった。これまでは最後尾(テールエンド)が指定席であったから顧問の石坂先生が狂喜した。その夜の優勝祝賀コンペが盛り上がったのはいうまでもない。当時はまだ一気飲みの言葉はなかったが、先輩たちは優勝カップにビールをなみなみと満たし一人ずつ飲み干していった。興三さんも勧められるままに少量を口にした。入学後幾日も経たず二十歳直前で飲酒経験は初めてである。たちまち酔いが廻りゲーゲーと嘔吐を繰り返した。ビールへの恐怖心は長年尾を引くことになった。多くの学生と同様に遊びはその頃覚えた。タバコは少量ではあったが退職するまで続いた。マージャンは下宿で先輩たちと卓を囲み、時折近くの水上荘に他流試合に出かけた。マージャンの腕前は人並ではあるが好きな遊びである。理論的で公平で確率を競う高度な室内ゲームだと思う。パチンコ屋には数回出入りしたがバカバカしくなり直ぐに止めた。囲碁を教わる機会があった。入門テキストを買い込み暫く熱中したが、夢の中で白黒の石がちらつき始め、ノイローゼになっては大変と止めてしまった。囲碁を諦めたのは悔いが残る判断であった。

 バスケット部は同好会型からハードな練習に明け暮れる本格的運動部へと変貌した。基礎体力も運動能力も劣る興三さんは明らかな二軍選手で、五島君と二人で続けるか否か相談している内に少しずつのめり込んでいった。東海・北陸・関西地区にある薬科大学と薬学部が関西薬科大学連合、通称“関薬”の組織で運動部や文化部の交流試合をしていた。厳しい練習の甲斐あって毎年最下位の静薬バスケット部が7月の“関薬”で準優勝をしてしまった。四年間の受験生活から開放され、バスケットとコーラスの二足の草鞋にのめり込み、勉強どころではなかったが充実していた。血の汗を流す練習をしてこそ本物の趣味に到達できると知った。
 「やはり七難八苦が人を鍛えるという東洋の思想は正しいようだ!」
とも思った。体育の実技試験がバスケットで筆記試験ではこの考えを書いた。バスケット部の顧問である体育の石坂先生が
 「角君は優だよ」
と評価点を教えてくれた。小学校以来、運動で優を頂戴するとは初めての珍事である。人生とは偶然に左右される部分が大きいように思う。夏休みに帰省した時に作った俳句が
  “桃酒甘く 父と交わしし初帰省”
で、季語を春に変えた理由は既に述べた。

 静岡薬大の近辺を小鹿と呼んでいた。近くにはかつてプロ野球がキャンプ地とした草薙球場がある。草薙、曲金、小鹿は学生時代の私生活の場である。懐かしい響きで青春を思い出させてくれる。65歳の年に同窓会のついでに付近に立ち寄った。大学は日本平に移転し跡地は静岡県立大学・短期大学部になっていた。下宿付近の入り組んだ小路は以前同様に残っていたが住宅が立ち並び、興三さんの下宿や級友数人が住んでいた水上荘は判別できなかった。学生の溜り場であった小食堂の“ながおか屋”も無くなっていた。年輩のご婦人が犬と散歩をしていた。
 「40年ほど前に住んでいた者ですが、この近くから冨士山は見えませんか?」
と尋ねたところ、いかにも気の毒そうに
 「すっかり変わってしまったでよー、この辺りからはもう冨士山は見えなくなってしまったがよー」
と親切な対応を頂いた。久しぶりに静岡訛を聞き石川啄木の歌
  ♪ ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみのなかにそを聴きにゆく ♪
を思い出し啄木の心境を改めて思った。

 その草薙に少し寄り道する。興三さんは「古事記」が好きである。とりわけ高校古文の教科書で読んだ倭建命(ヤマトタケルノミコト、日本書紀では日本武尊)の東征物語に惹かれる。西征における須佐之男命(スサノオノミコト)が凶暴な人物であるのに対し、東征のタケルは中央の体制から締め出され、諸国を放浪する悲劇の皇子であり、死後は白鳥に化して天空を羽ばたくロマン的な主人公である。日本人が愛惜する源義経に通じる悲運の英雄でもある。斎宮のヤマトヒメから授かった「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を携えてタケルは東征に旅立つ。

その後、足柄を越えて甲斐を出たところで、
  ♪新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる♪
と歌うと、火焚きの老人が続けて歌う。
  ♪かがなべて 夜には九夜を 日には十日を♪
東国をさまよい心身の疲れを表す名歌である。東征の帰途タケルはミヤズヒメのもとに立ち寄り約束に従い結婚する。翌朝、伊吹山の荒神を討ちに出立するが歓びのあまり姫のもとに草薙剣を置き忘れる。これがあだとなり荒神の化身である白い猪にまどわされほうほうの体で下山する。疲れた体をひきずり、杖を頼りに伊勢国に入り能煩野(のぼの)にたどり着く。今も亀山市田村町に王塚と能煩野神社がある。このときミヤズヒメのもとに残った草薙剣が熱田神宮の御神体である。
  ♪倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 
      山隠(ごも)れる 倭しうるはし♪
  ♪命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 
   平群の山の 熊白梼(かし)が葉を 
      髻華(うず)に挿せ その子♪
  ♪愛(は)しけやし 吾家(わぎ)への方よ
      雲居立ち来(く)も♪
  ♪嬢子(おとめ)の 床の辺に わが置きし
       つるぎの太刀 その太刀はや♪
この四首の歌は古事記の歌謡の中でも珠玉の名歌である。望郷の歌であり、我が家への愛惜の歌であり、剣を置き忘れた悔恨の歌であり、そして辞世の歌でもある。歌い終えてタケルは息絶える。タケルのなきがらは能煩野に葬られるが、その魂は八尋白智鳥(やひろしろちどり)という大白鳥になって天空高く飛び立ち、河内に舞い降りる。そこに陵を造りタケルの魂を鎮め白鳥の御陵と名付けた。

 ヤマトタケルの東征悲劇の背景については諸説があるが、7世紀以降の朝廷内の権力闘争で葬りさられた非運な皇子たちへの、民衆の同情と鎮魂の気持ちを反映しているとの説がある。先に紹介した壬申の乱で叔父の天武天皇(大海人皇子)から死を賜った大津皇子や、それより15年前、従弟の中大兄皇子との天皇位争いに破れ、謀反人として絞首台の露と消えた有間皇子もその一人であろう。
  ♪家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 
      旅にしあれば 椎の葉に盛る♪      万葉集 有間皇子
紀伊へ護送される途中で詠んだ歌である。旅心を表すこれほどの名歌も少ないと思う。因みに有間皇子が有馬温泉へでかけたことが「書紀」に見え、有馬温泉の名称の由来とも言われている。

       参考文献:古事記 倉野憲司校注(岩波文庫)
       古事記への旅 萩原浅男(NHKブック)


34)大山と蒜山と帝釈峡
 夏休みには林野に帰省し家業を手伝った。当時流行のホンダのオートバイ250ccに乗り、近郷の薬店や開業医に薬や衛生雑貨を卸して廻った。現在では薬業界の外務員の仕事は、拡張(製品説明)・受注・配達・集金と夫々分担となっているが、当時の弱小卸屋では一回の訪問で一人が全てを担当していた。四点セットの業務である。
 「へー薬大へ行きよりんさるんか」
 「ほースミさんの息子さんが、大(おお)ーきゅーなりんさって」
などと歓迎はしてはくれるが、武田、三共、塩野義など大手製薬会社と取引関係が無い弱小卸業である。扱う品物はかさばり重く利益率は高いが金額は張らず利益額は少ない。売掛金の回収が滞り配達を止めている顧客も少なからずあった。店員は顧客に嫌われたくないから、販売には力を入れても集金には消極的である。
 「長年の付き合いじゃーけんなー、あんまりきつうゆうたらいけんでー」
と父は忠告したが、
 「買掛金が溜まるとお客は発注を控え、うちは受注を抑えるがな。ほんなら無理してでも回収が先じゃー」
と興三さんは考えた。こと商売になると熱心であった。主人と言い争い奥さんに泣きつき足繁く通って売掛金の回収に精を出した。 (来年1月号に続きます。 引続きご声援下さい)



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