私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 1月号(第34・35話)

34)大山と蒜山と帝釈峡(12号の続き)
 
 砂利道の県道で重い積荷にタイヤを取られ危うく崖下の吉井川へ転落しかけた。あわててハンドルを逆に切り反対側の山肌にぶつけて、辛うじて命拾いした。大きな注文を貰ったあと、ルンルン気分で近くの食堂で食べた冷やしうどんの味が今も舌にしみる。

 夏休みのある日、昼寝をしていて障子の外の縁側で父と兄が会話をしているのが耳に入った。
 「それで、山本はホンダと何ぼの昇給を要求しとるんじゃー。」
と父が問う。
 「給料を千円上げて、新しいオートバイが19万円で維持費が月1万円以上で、原価償却の期間を5年として経費が今よりひどを上がるなー」
などと兄が説明している。従業員の山本氏が津山の卸業者から引き抜きを受け、ホンダの新車と昇給が認められないならば辞職するとの要求のようである。
 「それじゃー結局、うちはセールスマンの養成学校になってしまうがなー」
と父がぼやく。中卒を採用し二、三年で一人前に育てた頃に、津山のマヤ薬局や岡山の林薬品などの大きな卸屋に引き抜かれることを嘆いていた。弱小問屋の悲哀である。大塚製薬がオロナイン軟膏を、小林製薬が胃薬オフトを、富山化学が駆虫薬オーミンを新発売した頃である。利幅が良いのでスミ薬局もこれら新商品の販売促進に力を入れていた。興三さんは富山化学の販売員のスクーターの後ろに乗せてもらい、近郷の医者を訪問した。業界で言うところのメーカーと卸業者の同行拡張である。
 「大塚と小林は商売上手だ。富山は開発力があるけど販売力は弱いなー」
と父は言っていた。40余年経た今日の三社の姿は皆さんご覧の通りである。父は慧眼であった。こうして春夏冬の休暇には田舎に帰って家業を手伝った。後年フィリッピンに駐在し、医療用医薬品を拡張販売する現地のMR(医薬情報担当者)を管理監督する職務に就いたときに、林野での経験と同じ状況に出会った。日本では大手の武田薬品といえども、国外では弱小メーカーであり取扱い製品は知名度不足であった。その意味で林野での経験は大いに役に立った。

 大学一回生の夏休みに岡山県、鳥取県、広島県の県境にまたがる後山へ登り帝釈峡で遊覧船を楽しんだ。幼友達の小山、竺原、池田に浪人生活を一緒に過ごした山名と森岡に、林野高校卒業の大畑、谷口、室井嬢たち九人であった。竺原は早稲田大学に池田は大阪医大に入学していた。大畑さんは小学校時代の恩師の妹で奈良女子大生、室井さんは短大生、谷口さんは東京で働いていた。小山は室井さんに熱を上げていたが、興三さんは家庭の事情で進学を諦め上京した谷口さんの明晰さに惹かれた。夜はテントの中でトランプをして楽しんだ。トランジスターラジオからペギー葉山の“南国土佐を後にして”が流れていた。帝釈峡の洞窟には古代人が生活した可能性があるとかで発掘が始まっていたが、水成岩のせいで骨が溶けてしまったのか、40年余り経った今日まで古代人骨発見の報告はないようである。

 登山が流行し、ダーク・ダックスの「雪山賛歌」と「山男の歌」やボニージャックスの「山のロザリア」と「山小舎の灯」などが歌声喫茶で歌われていた。安倍川上流の南アルプスに憧れたが体力的に無理と感じたし、何よりも夏休みには帰省して家業を手伝いたいとの思いから中国山脈の山々を選んだ。翌年、二回生の夏休みには小山、森岡と中学時代の同級生、水島の4人で大山に登った。伯耆大山と呼ばれる山陰の名山である。中国山脈の最高峰ながら1729メートルとそれほど高くない。つい一万年前まで噴火していたので、頂稜はナイフエッジで日本アルプス同様に岩肌が露出した険しい山である。崩壊が激しく今は尾根の縦断は禁止されているそうである。山岳仏教の対象であるため、今も手付かずに残る落葉樹林が名山を引き立てる。そこを更に登ると灌木帯となり視界が広がり爽快な気分である。頂上に至り尾根を縦走中に小山が足を滑らし岩肌の急斜面を10メートルほど滑り落ちた。指の間から血が噴出した。救急手当てで左手を吊って帰宅し十針も縫った。登山には手袋が欠かせないと肝に銘じた。

 三回生の夏休みには小山、森岡、中川と中国山系の蒜山高原に登った。今は乳牛の放牧地として知られ一大遊園地となっている。中川は小学一年の学芸会で興三さんの狸に騙された和尚役の幼馴染である。二浪して関西学院大学の経済部に入学した祝賀慰労会でもあった。何もない広大な草原の真ん中にテントを張りながら、浪速商業の怪童尾崎と法政二校の好投手柴田が甲子園の準決勝で投げ合うのをラジオで聴いた。岡山大学の女子大生二人とも親しくなった。
  ♪山のまし水 汲みおおて 
     微笑み交わし 摘んだ花
   山鳩の声 聞きながら
     行きずりの 君と共に
   下りたと峠の はろけさよ ♪      (作詞:大倉芳郎)
伊藤久男が一世を風びしたラジオ歌謡の名曲「山のけむり」の三番である。


35)60年安保と太宰治
 一年間の浪人生活で英語に少し興味を覚えたのが、ESS同好会に入会した動機であった。英語の中村教授と鵜飼学長が顧問をされていた。お陰でお二方の知遇を得た。東京では学生運動が激しさを増し、新制薬科大学の基礎固めに情熱を燃やす鵜飼学長は、我が大学への飛び火を危惧し頭を痛めておられた。
 「こんな掘っ立て小屋の様な溜り場は学生の心を荒(すさ)ませます。もっとサロン風の憩える喫茶室に改造すべきです。」
と興三さんは直言した。鵜飼学長は同意しつつも
 「予算の獲得が難しくてねー」
とおっしゃったが二年後に新装された。また、別の機会に
 「図書館に学術書のほかに、せめて世界文学全集くらいは置いて下さい。」
と学長におねだりをした。神戸高校の整備された図書館を思い出し、受験時代に十分出来なかった読書に憧れていた。ほどなく筑摩書房の世界文学全集が書棚に並んだ。

 翌年は60年安保の年である。1月に新安保条約が調印された。二回生に進級した新学期に自治会長に担ぎ出された。どの様な成り行きからであったか既に忘却の彼方である。5月に衆議院本会議で強硬採決。アイゼンハワー米大統領の訪日を前に、学生の反対デモは先鋭化した。国立静岡大学の学生が静岡市街をデモ行進した。我々県立静岡薬科大学生も参加すべきかどうか、クラスで議論が沸騰した。
 「我々は薬学の徒である。人には夫々与えられた天分がある。政治や経済のことはその道の人たちに任せ、我々は薬学の勉強にいそしむべきである」
と興三さんは論議をまとめた。6月15日の夜、全学連のデモ隊が国会に乱入し東大生が圧死する事故が起きた。神戸高校出身の樺美智子と報道されていた。興三さんが神戸高校に入学したとき、オリエンテーションをしてくれた憧れのお姉さんではなかったろうか、と思った。結局、アイゼンハワー米大統領の訪日は中止された。後年、「学生でありながら、勉強を犠牲にするのはもったにないじゃないの」という母親に対して「でも私たち以外のだれもやってくれない以上、仕方ないじゃないの」と彼女は応えた、との記事に出会った。
  ♪ アカシヤの雨にうたれて このまま死んでしまいたい
    夜が明ける 日がのぼる 朝の光りの その中で
    冷たくなった わたしを見つけて あの人は
    涙を流してくれるでしょうか♪         (作詞:水木かおる)
西田佐知子のヒットで“60年安保の挽歌”とも言われた「アカシヤの雨がやむとき」の一番が聞こえてきます。

 自治会活動では太田さんと原沢君が両腕となって助けてくれた。太田さんは入学当初に、学校側が推薦した男女夫々二名の学級委員の一人であった。きっと優秀な成績で入学したに違いない。バランス感覚豊かで小柄な身体に似合わず思考は大きかった。江戸っ子らしくハキハキした物言いは魅力的で田舎者の興三さんは少し気後れを感じた。東京に憧れる始まりであったかも知れない。原沢君は高校時代に新聞部であったと聞いたかと記憶するが確かではない。大人っぽい柔軟性を備え一本気な興三さんとは良いコンビであった。ある夜、原沢君に誘われて小さなスナックバーに入った。スタンドに並んで腰掛けハイボールを注文した。暫くして小さなワイングラスに入ったヨモギ色の飲み物が出された。原沢君が注文した甘いカクテルと思って一気に相当量を流し込んだ。ノドが焼け苦い味が残った。思わずノドに指を入れると爪の先に白く変色しただれた粘膜が付着していた。70度のアルコール分で蛋白変性を起こしたのである。フランス原産のアブサンという飲み物を初めて口にした日であった。
 「角君は身も長いが、心も長いなー」
と彼が言った。安保問題への対応を討議した時に、発言を聞きながら皆の意見が出尽くすのを辛抱強く待っていた状況を指していた。子供の頃のオッチョコチョイとは違う面があった。後年、仕事で判断が必要な時には結論を急がず慎重に問題点を頭の中で幾度も転がすように考えた。数時間、数日、場合によっては数ヶ月かけて考えることもあった。そして結論に至ると実行に移す。ただ、口に出してから実行を急ぐきらいがあり、初めて耳にした同僚や上司にはせっかちと映ったかも知れない。その点では日本的根回しは下手であったろう。三人三様がうまくかみ合い一年間の自治会活動を無事に終えた。

 コーラス部にも首を突っ込みバスケットとESSの三足の草鞋(わらじ)を履いた。熱心な部員ではなかったが、それでも毎年の“関薬”(関西薬学連合大会)や学生祭などのイベントには参加した。入部当時はテノールであったが、バスの部員が少ないとの理由で2年生の中頃からバスに転向した。三回生になると部長を引き受けねばならない。常連の部員は興三さんと北原さんだけである。興三さんは固辞して北原さんに役目を押し付けた。早速、彼女は音楽の先生について指揮法の個人レッスンを受け始めた。ある日、大学近くにある彼女の家に招かれ母上にもお目にかかった。残念ながら他意はなく、
 「これから部活をサポートして下さい」
との挨拶替わりであったろう。二人で音楽談義に花を咲かせた。その日お茶を飲みながら耳を傾けたバッハのブランデンブルグ協奏曲は思いで深い曲となった。それを契機にこれまで見せていた彼女の乙女チックな雰囲気が消え闘志を秘めたリーダーに変貌していった。その年の関薬で或る大学の勝手な申し入れで出番が急遽変更となり、我が大学は発声練習がないまま出演した。皮肉なものでその大学が優勝し我々が準優勝となった。
 「出場順位変更の要請を断れば良かった」
と彼女は悔やんでいた。その彼女は卒業後、歯科医師と結婚し改めて歯科大学に入学し立派な歯科医師になった。生来頑張り屋であったのであろう。「フィンランディア」「二人のてきだん兵」「夕べの鐘」「バイカル湖のほとり」などが思い出深い曲である。
送別会では男性先輩に「出船」や「惜別の歌」を、女性先輩に「さくら貝の歌」や「忘れな草をあなたに」などを贈り、コンパでは「人を恋うる歌」を好んで歌った。
 ♪ 妻をめとらば 才たけて
     みめうるわしく 情ある
   友を選ばば 書を読みて
     六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱 ♪ 
 二回生になってバスケットの練習はさらに激しさを増した。つてを頼って他校の体育館を借り合宿もした。翌年の関薬は京都薬科大学で開催された。常勝の岐阜薬科大学と京都薬科大学を破り優勝した。この旅で一回生のA嬢と知り合った。彼女は津山高校卒の院庄出身であった。院庄は5月臨時号で述べた児島高徳の故事で知られた土地である。同郷のよしみで直ぐに親しくなり住所を聞き、夏休みにホンダのオートバイで仕事のついでと称して彼女の家を訪れた。農家の軒先で暫く話をしたがお互いにぎこちなかった。
 「中間試験の準備をするので早めに静岡へ行くけど、良かったら遊びに来てください」
と下宿先の住所を教えてくれた。8月の下旬に少し早めに林野を出立し薬大近くの彼女の下宿を訪れた。薄手のTシャツに白のショートパンツ姿で出迎え、部屋に通してくれた。白い太ももが眩しく目のやり場に困った。読書家なのか西田幾太郎の「禅の研究」など難しい本が書棚に並んでいた。その後も二度ほど彼女の部屋を訪れた。彼女に誘われるまま太宰治を読んだ。その魅力に惹かれ次第にのめり込み、殆どの著書を読み終えた。冬休みが近いある日の夕食時に突然興三さんの下宿を訪ねてきた。今度はプラトンの「ソクラテスの弁明」と三木清の「哲学ノート」を薦められた。前者は何とか読み終えたが、後者は全く理解できず途中で投げ出した。色白の津山美人の頑張り屋ではあったが、理屈っぽく勝気な性格であった。薬学より文学か新聞記者に向いた思考の持ち主で、問題意識が強いとの印象であった。喫茶店「ウイーン」でクラッシク音楽を聴きながら人生を語りあったりもした。しかしながら年が明けて期末試験の季節になると、どちらとも無く互いに足が遠のき半年程の付き合いで終わった。太宰治の中毒になった青春のひと時であった。

 ESS同好会に入会はしたものの熱心ではなく、コンパに参加するのが楽しみ程度の会員であった。同学年では野呂君が入会した。彼は大人しい人柄で、規格はずれの興三さんに良く付き合ってくれた。卒業後は修士課程に進み後に母校の教授になった。二回生の時、英文毎日が主催する全国英語弁論大会の東海北陸地区大会への招待状を受け取った。人材不足からやむなく興三さんが参加した。場違いな所に来たとの思いをいだきつつ「青年と自信」の演題で発表した。バスケットの練習や苦手な英語が多少面白いと感じるようになった経験から
 「何事も努力し進歩しこそ自信が生まれる。スポーツであれ勉学で自信を持てて初めて楽しめるのである」
との趣旨で原稿を書き顧問の中村先生に修正して頂いた。初めて訪れた名古屋駅前の食堂で、きし麺を注文して驚いた。醤油ではないかと見まがう真っ黒いスープの中に真っ白い数十本の帯が浮いていた。初めて見るきし麺であった。三保の松原で見た黒い砂浜と同様に、常識の危うさを感じ日本国内でも地理や文化がこうまで違うことに興味を覚えた。


(新年おめでとう御座います。今年もご支援宜しく願います。1月15日の新春臨時号に続きます)



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