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2009年7月のてくてく
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■09/07/30/thu
◇古典映画学習期間
最近の映像逃避は、何をいまさら的映画シリーズになってきた。
『欲望という名の電車』 エリア・カザン監督 1951年のビビアン・リーとマーロン・ブランド出演作を何気なく手に取った。原作はもちろんテネシー・ウィリアムズ。まだ見ていなかったし、『ガラスの動物園』はリーディング・アサイメントかなにかで読んだものの、こっちは読んでもいなかった。『風と共に去りぬ』とは、まーったくちがうビビアン・リーに驚く。原作者の背景からにじみ出るような登場人物の一人一人と当時の社会が折り重なって、鈍い痛みの残る名作だと思った。
そして、畑仲さんは『バージニア・ウルフなんかこわくない』で知ったエリザベス・テイラーの怪演にひっぱられるように『熱いトタン屋根の猫』をふっと借りていた。こちらもテネシー・ウィリアムズの原作で、別々に借りておきながら「似たもんナントカ」さ加減にもほどがある。こちらは明日にでも見る予定。
『隠し砦の三悪人』 黒澤明監督 1958年にこれかー、と見終わってつくづく感嘆した。なんとなく黒澤明を避けてきたので、まだ『赤ひげ』『生きる』に継ぐ3本目。日評時代、上司に「黒澤明は見ておくといいよ」と言われたんだったなぁ。すみません、それから20年後くらいに見てます。
『イーグル・アイ』 D・J・カルーソー監督、スピルバーグ製作総指揮 ものすごいドンジャカうるさい映画なのに寝た。ドリームワークスのスキルアップのための映画かなぁ。
あ、『バージニア・ウルフなんかこわくない』も翌日、午前中にしっかり見た。でも午前中に見る映画ではない気がする。ど〜んよりした気分にさせてくれる、すごい力のある作品だと思うのだ。
◇サウナ読書
諸般の事情で、3泊草津湯浸り計画が直前にふっとんだ。あまりにかわいそうな私たち。
どうにか確保した畑仲さんの1日の休みは、半日ラクーア汗かきかきコースとなった。代替草津。いや、それはあまりに悲しすぎる。べつもんとする。
でも久々に低温サウナで寝ころんだ。汗をかきかき読むためのお供は、『ナタリー・アンジェが魅せるビューティフル・サイエンス・ワールド』(ナタリー・アンジェ著、西田美緒子訳、近代科学社 →[bk1|amazon])。なんだか、最初の方の印象が驚くほど『おかしな科学』(渋谷研究所X・菊池誠著、楽工社 →[bk1|amazon])に似ている気がする。とくに「サイエンス・ワールド」の1章2章かな。
そして、ここのところ足利事件のDNA鑑定話などから、「確率的な事柄についてどう判断するかというトレーニングは、統計的データの扱いのトレーニングとはまた違うんだろうなぁ」と感じていたので、いろいろ納得しながら読んだ。「統計は大事だよー」と思って、畑仲さんが大学院に入った2004年4月に「何を履修しようかな♪」と楽しんでいたとき、「絶対に統計の講義だけは取ったほうがいい」と強くプッシュしたところ素直に橋本ゼミを取ってくれた。そしてSASのさわりを覚えていた。らっきー。
でも「確率」って、なんとなくの印象では統計よりやっかいだ。そして大事だ。確率・統計を大学時代に2度も落とした私がいうんだからまちがいない(無根拠)。とくに裁判官は統計以上に確率をお勉強しておいたほうがいい気がする。
アンジェ本に戻ると、その後の物理パートの話はちょっと飽き気味だったけど、続きを現在読書中。
■09/07/25/sat
◇居場所
よく、キッチンはお母さんというか主婦というかの「お城」的言い方をされる。「ビフォア・アフター」とか「建物探訪」とかでも、お母さんが長くいる場所という紹介をされることが多い。
「ええー? そうかなぁ」と、正直なところこれまで思ってきた。
でも、ちょっとしたリフォームのためもあり、引っ越してからそろそろ4年目になろうというこの頃、台所の整理をやらざる得なくなった。いままで、引っ越し後に業者さんがつっこんでくれた場所をベースに、ちょっとだけ手直しするくらいでやってきた。というか、ほっとんど台所を使わずにきた。
加えて、外食も飽きてきたので、家でちょこちょこ自炊している。コメも買った。調味料も前のように再びそろえた。
そしたら、たしかに台所周辺にいる時間がものすごく増えた。いまは整理をしていることも影響しているけど、3食、家で食べるとそーなるのねー。なるほどねー。ローに入る前から、これまでずっと、3食とも家で食べることはなかったもんなぁ。
そうなって思うこと。キッチンの近くにパソコンがほしい。そして、メインのPCと別マシンだとファイル操作が面倒になりそう。複数マシンで共有できる設定にしないと使えないな。
……あれ? パソコンの環境の話ではなくて、「台所という居場所」のことを考えるつもりだったのに、自分仕様だとこういうところに来てしまった。おかしいなぁ。
ちなみに、畑仲さんは「火元の神様」なので、ご飯直前にしゅわっと登場することが多い。フライパンをあおるのは私よりうまいんで(なんか悔しい)、おまかせすることにした。
◇引き続き映画備忘録
『裁かるるジャンヌ』 カール・ドライヤー監督 1928年の映画。当然サイレント。この監督を私は、ロー1年生の夏休み、ロー映研上映会で知った。ものは『吸血鬼』。1920年代の映像をしっかり見られることも感動したが、その映像の強さに驚いた。いろいろな映画で使われているようなカットがたくさんあった。ということは、ドライヤーが先。そして今日見た『ジャンヌ』は、ジャンヌ役のルイーズ・ルネ・ファルコネッティが音がないことを忘れさせる演技で圧倒した。もちろん、その映像もやっぱり1928年という時間の隔たりを感じさせない。ストーリーは、審問会にかけられ、処刑されるまでのジャンヌの1日のみを凝縮して描く。「聖人」面が強調されやすいジャンヌの心の揺れを映し出すのは、異端審問の「問い直し」ではなく、その後の人たち自身を問い直す作業のように思う。
ロー1年の夏学期試験後、当時仕事をしていた先の上司に、「ローで何勉強したの?」と聞かれ、「えーっと、カール・ドライヤーというすごい監督がいたこと」と答えたら、「はっはっは。それならカール・テオ・ドライヤーっていわなきゃ」と切り替えされたことが懐かしい。こういう切り返しをしてくれる人は楽しい。
『バージニアウルフなんかこわくない』 マイク・ニコルズ監督 1966年、エリザベス・テイラー主演の作品。すみません、途中で寝ました。すごそうなんで、どうにかまた見ます。
『民族の祭典』 レニ・リーフェンシュタール監督 1938年にヒトラー政権下のベルリンで開かれたオリンピックの映画。その映像たるや、いまの機械制御したハイテクカメラに比肩するものと感じる。使われたであろうカメラの台数とその撮影技術もさることながら、アングルや編集も見事で、さすがこの時代にヒトラーというパトロンを得た監督というのが第一の感想。そしてその映像は、おそらくいろいろな意味で効果的な使われ方をしたようだ(→参考:【ヒトラーにより、政治的かつ劇的に利用された、最初のオリンピック】と【レニ・リーフェンシュタール「民族の祭典」監督が語る”政治とオリンピック”】)。
『チェンジリング』 クリント・イーストウッド監督 アンジェリーナ・ジョリー主演のこの映画は、1928年に実際にアメリカのロスアンジェルスで起こったゴードン・ノースコット事件がベースとなっている。連続少年誘拐殺人事件だ。この事件について詳しくは適当にぐぐっていただくとして、単に誘拐殺人だけが問題になったわけではなかった。アンジェリーナ・ジョリー演じるコリンズ夫人は、行方不明となった息子の捜索のため、腐敗したロス市警と戦うことになる。その詳細は映画にゆずるが、コリンズ夫人の子が行方不明になったのは1928年。ロス市警が信じられない捜査と市民の扱いをしていたのは、いまから100年も経っていない20世紀初頭なのだ。その後、アメリカも日本も、そのほかの国も、どれだけ当時のロス市警から変化したのだろうか。そして、カール・ドライヤーが『裁かるるジャンヌ』を撮影したのも1928年。「手続」という視点で見比べるのも面白い。
『ヴェロニカ・ゲリン』 ジョエル・シュマッカー監督 こちらも実話モノ。舞台は1996年のアイルランド・ダブリン。畑仲さんがアイルランドに行ったのは1992年だったから、この事件の前なんだ。アイルランドの麻薬犯罪をおいかけて、CPJ(The Committee to Protect Journalists:ジャーナリスト保護委員会)の「International Press Freedom Awards」を1995年に受賞したヴェロニカ・ゲリンというジャーナリストを描いた作品。彼女は、受賞後の1996年、麻薬組織の手によって殺害された。ということを知って見てもなんの問題もない。そこから話が始まる映画だから。私の場合、大きな問題は、監督がジョエル・シュマッカーだということかも。たいてい後から「ああ、この人だったんだ」と知るのだけど、どうにもこうにも肌が合わないみたいだ。どうでもいいようなことに文句を言いたくなる。
あとなんだっけ〜。思い出したらまた追加しよう。
■09/07/24/fri
◇ぬけた
やっと抜けた気がする。
試験から2カ月。あんまり活字はみないで、映像中心にぽけらーっとして、家のメンテナンスなんぞをし始めて、問題と時間に追われない生活をした。
なんというか、かなりしんどかったんだと思う。とくに試験前の3カ月くらい、つまり今年の2月くらいからは、しんどいというより、「とても変な人」になっていたと思う。自分の頭の中だけが肥大化しているというか、世界がそればっかりになっているというか、余裕もなくて、感覚もおかしくて、4月くらいからは「私はこの試験勉強を来年まではできない」ということを理解して、「来年は受けない」と決めた。
つくづくと、司法試験の勉強を何年もできる人はすごいと思う。
もちろん、合格しない場合、止めるタイミングを逸する問題もある(旧試験の場合)。でも、勉強のペースは人それぞれだから、必ずしも何回、何年というものでもないとは思うし、新試験は5年以内3回までしか受験資格がなくて、そのプレッシャーは法曹資格をどうしてもと思っている人にとってとてつもなく大きい。えー、つまり、人によって勉強に必要な年数とその耐用年数はちがうだろうけれど、その年数が何年であっても、何回もチャレンジできる人はすごいなーと思うのだ。
と、私はそう思うわけで、それくらいに変な状態だった。
もともと若干(か、すごくかはわからない)「変な人」の部類にいることはいるけれど、振り返ると、試験前の自分はほんとに変だった。たまに泣きながら問題解いてたし。「みー」とか「ふぇ」とか声出してたし。家のこともお金のことも何も考えなくていい、こんなに恵まれた環境にいるのに、昨日はできた問題が、今日はあやふやだと気づくと、情けなくて、ふがいなくて、涙が出てきた。そういう環境を作ってくれている畑仲さんには、顔向けできない。とてもしっかりした先生たちにたくさん習ったのに、親身に教えてくれたのに、全然活かせていなくて、それも申し訳なかった。いまごろになって「1年や2年のときの話は、ああ、こういうこと?」とか感じる自分のバカさ加減が悲しくて。若い優秀な子がぼやんぼやんした私の疑問にたくさん付き合ってくれたのに、全然覚えてなくて。
心がたくさん痛かった。仕事でもいろいろきついことはあったけれど、質が何かちがうみたいだ。そして、私は試験勉強の痛みにはあまり強くないみたいだ。
心が痛すぎて、感じ方とかいろいろ変になっていたところが、試験後徐々に抜けていったように思う。まだちょっと変なフラッシュバックがあるけど。試験そのものより、試験前後に思い出した「よくないこと」が定着気味なのかも。
ただ、どうせなら知識だけは抜けないでほしいものだが、「変な感覚」が抜けるのと一緒に、いやそれよりも早くきれいに抜けていってしまうのだね。とほほ。
◇らいぶ
【植木不等式さん】に教えてもらって知った【<東京の夏>音楽祭】に行ってきた。【22日の「<海を渡った移民ソング>桃源郷へ〜ハワイ生まれの日本民謡「ホレホレ節」】というプログラム。
沖縄民謡も好きだけど、やっぱり【ソウル・フラワー・モノノケ・サミット】が出ると知って、いてもたってもいられなくなった。
沖縄出身のハワイ移民一世たちが、厳しい仕事の傍らに歌ったというホレホレ節についてレクチャーがあり、八重山出身の沖縄民謡歌手・大工哲弘が歌ったあとの第3部。中川敬の歌声が聞こえた瞬間、【ああ、この声が好きなんだ】ということを改めて確認した。
何をどう言うより、「どうしようもない」という表現がぴったりくる感じに好き。
意識的には初めて聞く生の中川敬の声。おそらく前に一度聞いたことがあると思うのだが、当時の記憶がはっきりしない。92年か93年か、もしくは両方で寿町のフリーコンサートに行ったはずなので、もし93年ならおそらくソウル・フラワー・ユニオンが出ているからだ。ステージ風景は覚えているのに、音と出演者の記憶がない。
前に畑仲さんが、「この演歌歌手の声は中川敬に似てない?」と言ってきたことがあった。聞いてみると全然違うと思ったので、そう答えた。そうしたら、「きっと歌詞やメロディも含めて好きなんだろうね」と言われた。図星だと思う。もし中川敬の声でも、全然違ったら、こんなには惹かれなかったんだろう。
それに、95年の震災後、きっとどこかで聞いていたはずだ。そのときにはいまのようなのめり込み方をしていない。それも不思議だと思う。何かのタイミングがいろいろ重なって、「すごく好き」ということを発見できた。
音楽は全体的に不案内で、途中から無理だと悟り、あまり気にしなくなった。ただ、90年代の最初のころ、なんとなく民族音楽が気になっていた。それが、音への新しい関心として自覚する最後の記憶だ。ちょうどその頃一緒にいるようになった畑仲さんも、もともとのジャズ好きから、ケルト音楽というかアイリッシュにはまり始めていた。そこからどんどんルーマニア音楽とかそういうのが家のCDラックに増えていった。私は打楽器系で、アフリカのCDとかを聞き始めていたが駆逐された。【私の音楽のキャパは小さい】。
そういうちゃんぽんな音楽生活(ただし低レベル)を送ってきたからか、ソウル・フラワー・ユニオンもしくはソウル・フラワー・モノノケ・サミットのような、あれこれ無節操に取り入れちゃうバンドは、それだけで琴線をかき乱されるみたいだ。たぶん【戸川純の「東京の野蛮」が好き】なのも同じ理由かもしれない。
しかもソウル・フラワーは、ドヤ街に行ったり、震災地に行ったり、戦災地に行ったりしている。そういう「地べた」な感覚で仕事をする人に対するあこがれも強いみたいだ。
一昨日、生で中川敬の歌を聞いたとき、思ったこと。
「いまつつかれたら、即座に崩れ落ちるな」
音はずるいよね。ダイレクトに身体に入ってくる。当分、ソウル・フラワーのライブは一人で行くしかなさそう。東京は8月30日吉祥寺と9月19日恵比寿っと。
■09/07/20/mon
◇CATV視聴〜邦画学習日〜
そういえば、昨日昼頃、CATVの映画系チャンネルをつけた。
久々のメグ・ライアンが出ていた。「フレンチ・キス」。話はどうということもない。顔が変わった気がするけれど、整形でしょうか? それとも私がしばらく見ないうちに忘れただけ?
終わって、そのまま「ビッグフィッシュ」が始まった。あまりピンとこなかったので、チャンネルを変えると、日本映画系で室井滋の「ヒロイン!」。これも話はなんということもないというか、明らかにベタすぎ、というものだったが、「これって、おばさん版ウォーターボーイズかなぁ」とか思っていたら全部見てしまった。もしくは「浪速版フラガール?」。室井滋はエースアタッカーなのに、バレーボールが下手すぎる。彼女はたいていなんでもやりこなす系だと思っていたけれど、あれはわざと? 演出? 上野みさという大阪の女優さんが経験者らしくキレのある動きをしていて、「うーん、エースがちがうよぉ」と思わせることこのうえない。というところとは別のところにこの映画のメインがあるのはわかってますー。劇団新幹線の役者さんとか、関西小劇場系の役者さんがいっぱいでていて、懐かしさも味わえるけどー。
と、終わったら、いきなり「喜劇駅前団地」が始まって、つい見てしまう。土地を売って金を手にする農家たち。伴淳三郎の下品さがピカイチ。森繁は若い頃、あんなんだったんだー。そしてフランキー堺の3人揃って「駅前シリーズ」。「駅前団地」は1961年ですか。ウィキペディアによると「土地問題」という舞台設定なんだが、当然のことながら家族や社会階層が高度成長期という背景ににじみ出ていて、「へぇ」とか「ほう」とか言いながら見入る。「喜劇」という要素は、いま(48年後)の私にはほっとんどない。でも、それがまた興味深くて、時の流れや社会の変化を感じるよい機会になるのでした。
と思っていたら、「化粧師KEWAISHI」ですって。椎名桔平。で、見た。化粧という道具を上手く使ったいわゆるファンタジーですかね。映像がテレビではもったいないくらいきれい。途中で、これって、あいかわももこの「コスメの魔法」的な感じなのかなぁと思ったが、映画の原作であるという石ノ森章太郎の「八百八町表裏 化粧師」は「コスメの魔法」よりはるかに前だし、逆かも。映画としての「化粧師」は、「コスメの魔法」よりあとだけど。岸本加世子が演じていた貧乏長屋のおかみさんが椎名桔平に化粧をしてもらったとき、亭主役の岩城滉一が「なんだよ、化粧なんてしてみっともない」みたいなことを言ったのが新鮮だった。場面や文脈によって女性の化粧は、するとみっともないものになったり、しないとマナー違反になったり、忙しい。たぶんこれはいまもそうかな。
家ではあるが4本立て。1日が終わった。
そして、日本映画系のチャンネルの朝早くは、けっこう古くて興味深いのをやっていることもわかった。洋画系よりも掘り出し物が多そう。でも朝っぱらから成瀬巳喜男やら溝口健二はけっこうたいへんだろうな。
◇虹がつなぐもの
昨日、虹を見た。
家で寝転がっていたら、上の方の窓に、虹が見えた。
とても鮮やかだった。
窓を開けた。
目の前に、ほぼ半円の虹があった。そして、私の記憶のどの虹よりも鮮やかにみえた。
ああ、と思った。
ゆっくりと眺めると、外側にもうっすらと虹が残っていた。
二重の虹の輪。
外側の虹は少しずつ見えにくくなっていった。
でも、内側の虹は、なないろの、いやもっとたくさんの色をもった帯のまま、ずっとそこにありつづけたかのようだった。これからもずっとありつづけるようかのようだった。
虹が「なないろ」に見える理由を、私は知っている。三角形のガラス、つまりプリズムに光をあてると、分光されるのと同じ仕組み。そして、人間の目が見える光の色の範囲について感じ取っている。
でも、ブロッケン現象とのちがいや関係をきちんとわかってはいない。
それに、虹がどのあたりにできているのかも知らない。地上からどれくらいのところにあるのかも、どのくらいの範囲で見えるのかも、雲との位置関係もわからない。
写真で見るプリズムで分光された光の色の並び順と、目の前の虹の色の並び順が同じむきかどうかもわからない。なぜ目の前の虹は、赤が上で紫が下なのだろう。
そんなことを考えながら、きれいだなと素直に思う。
半円の虹はせまってくる。まるで駆け上れそうな虹だから。
ふと、虹について物理的な不思議さを思いめぐらせながら、虹に不思議さの確認とは別の理由で見入る自分に気づいた。両方とも私のなかにある。切り分けられない状態で、両方ともある。
「月の美しさは、質量や大きさや物理的な知識とは関係ない。そういう理解ではない」といった友人の言葉を思い出した。
そうかもしれない。そういうところもあると思う。
でも、虹を見て、美しさに漂う自分と不思議さと戯れる自分と、両方があった。片方だけではない。割合すら問題にならない。虹のスケールにわくわくして、「あの赤い帯はどれくらいの幅なんだろう。実測値はあるんだろうか」などと思いながら、目の前の虹そのものに駆け上がる姿を空想する。両方の私が遊んでいる。
きっと月の文学的な美しさを愛でる友人も、月食で欠ける部分が地球の影だということをわかっている。その月と地球の関係という知識も、月の美しさを文学的に味わう大事な要素になりうるだろう。
同じ虹を見たけれど、【畑仲さんの見た虹は30度分くらいだった】。一夜明けて、朝ご飯を食べながら、畑仲さんは「上空からどう見えるんだろう」とつぶやいた。
私は、日曜日の夕方、一人で半円の虹を見上げながら、「一緒に見られたらよかったな」と思ったことを思い出した。
きっと虹はいろんなものを、いろんなことを、つないでくれる。
■09/07/17/fri
◇ヱヴァ破
やっとこさ見てきました。【ヱヴァ序】に続く、ヱヴァ破。序と同じく、木場までぶぉんと車で往復。なぜ木場に行ったかというと、同じ建物に鶴橋のお好み焼きチェーン風月があったから。先日の大阪行き主要目的であった天満・菊水のお好み焼きが、このうえなく残念なことに菊水閉店という衝撃的な結果で終わってしまった。とうていその代わりにならないけれど、とりあえずはお好み焼きを食べたくなっていた気持ちを静めたかった。とりあえず新劇ヱヴァはお好み焼きとセットになっている。
んー。見たという以上のことは書けない感じだが、ほんとうに別の物語なんだなと理解した。序では、まだけっこう同じで、旧版の記憶そのままに見に行ってもそれほどの違和感はなかったと思う。でも、破はちがった。違和感というのではない。別なんだ、と。
それはそれで全然かまわないけれど、そういう意識がまったくないままに見たもんで、しんどかった。ATフィールドを張らずに接してしまった感じというのかな。だからか、途中から受け止めるのに必死になっていたように思う。必死ゆえに、よけいにしんどく感じたのかなー。
その昔、旧版が話題になっていた頃、文枝師匠が三枝師匠に「三枝君、エヴァンゲリオンちゅうのが流行っているらしいがそれはなにかね」と聞いたのに対して、三枝師匠が「子どもさんがロボットに乗って敵と戦わはるマンガですねん」と答えて、文枝師匠は「ほー、君はなんでもよぉしっとるなぁ」と言ったとかいう話を聞いたことがある(ほんとかどうかは知らない)。その三枝師匠の説明が、旧版のときよりも直裁的に響いてくる気がする。
今回の破をみながら、頭の中に「嫌われ松子の一生」がなぜか漂っていた。正確には2回ほど。音と映像のバランス的に連想する場面があった。内容的にも「しんどさ」が通じるように思える。この「しんどさ」は「突きつけられる」ような感覚で、私は「ごめんなさいぃ、もっといー加減がいいですぅ。つきつめないで〜」と思うみたいだ。
にしても、具体的でなく書いてなんの意味があるんでしょうねぇ。まぁ、自分用のメモということでお目汚しお許しください。こんな書き方でもさらなる続編「Q」を見たときに、自分の感覚をもしかしたら思い出せるかもしれない可能性にかけて、とりあえず。つまり、次も見て、それからまた感じることにする。「読み解く」という作業は苦手(というか、できない)なんで、最後まで見て、見たまま感じるしかない。
あ、映像がやっぱり、ものすごくものすごくカッコよい。序よりもさらにカッコよいかも。押井もカッコいいと思うけど、方向性の違うカッコよさ。
そして、クレジットに「あさりよしとお」の名前を発見して驚いたこともメモ。前もあったっけ? それとも見間違い?
■09/07/15/wed
◇備忘録・その後の映画
早いところ劇場に「エヴァ破」と「精神」と「選挙」(まだやってる?)を見に行かないと。でもこの前まで雨降っていたり暑かったりして、じっと家で見ることがやっぱり多い。ちょっと頭がいっぱいになることがあって、オバカ系中心にみていたらタイトルすら思い出せなくなりつつあるのでせめてタイトルだけでもメモメモ。
「エヴァ序」 庵野秀明監督 テレビでやっていたので復習。畑仲さんの台詞先取りが面白かった。よく覚えているなぁ。先取りしすぎて「間違えた」と落ち込むと直後に台詞が出てきたり。そして発言がいちいちヲタク。私は「序」と前の劇場版とビデオで見たテレビ版がごっちゃになっているというのに。でも、劇場で見た「序」の映像力というか、その画のすごさはテレビでも感じた。さて義務モノ「破」のお供をしないと。
「4ヶ月、3週と2日」と「やわらかい手」 両方とも最初の方を見逃しているので「見た」というのはおこがましいが、いちおう。ついつい「ああ、ラッキーホールね」と解説するのは昔取った杵柄? 話したことを思い出すためには、【畑仲さんの感想】をリンクしておこう。
「スクール・オブ・ロック」 リチャード・リンクレイター監督 引き続き、ジャック・ブラック作品。これと「ナチョ・リブレ」が評判いいみたい。まぁ、たしかに。
ああ、ダメだぁ。あと3〜4本は見ているはずだけど、まじにタイトルすら思い出せない。ほんとにしょーもなくて思い出せなくていいのが2本くらいあったような気がする。あ、あとミハエル・ハネケの何かがあった。というか、環境映像になっていたかな。いわゆる実験的映画はわりと好きなんだけど、ハネケとは相性が悪いらしい。どうしても途中で寝るんだよねぇ。あとなんだっけ。思い出す労力が高すぎて放棄。
そういえば、ここのところ地上波のテレビ、とくに民法……(おねがいやめてもう解放して)、民放もつけるようにしていた。見分けがつかないなーと思った。その理由がわかった。やっている番組が、ドラマ・スポーツ以外だとよほどの長寿番組以外、局を超えて「ダイエット関連」「伊東家の食卓の亜流」「芸人登場クイズ系番組」「高額ギャラ司会者によるトーク番組」のどれかでしかない。2週間くらいですでに飽きたかも。
◇つかえる!
そうか。土曜日に学校へ通ったかどうかで、年代がわかるのか。
【はてブ:学校が土曜日休みになったのっていつから】
えーと。私は、小学校1年生のときだけ土曜日に学校へ通っていました。小学校2年生から土曜日と日曜日が完全に休み。
ということは……、1994年生まれ。いま15歳じゃん! うーむ。サバを読むにもほどがある。「つかえる!」と思ったが、「つかえる?」くらいにトーンダウンしちゃう。
あ、こっちを使えばいいのか。小学校1年生のときは土曜日登校していた。ということは1984年生まれ。ふっふっふ。いま25歳! つかえる!
実際は単なる私立小学校で、なぜか四半世紀以上前から土曜完全休みでした。
公立の妹はずっと土曜日に学校があったもんで、「私立=土曜休み」という理解を個人的にはしていたんだけど、ちがったらしい。しかも中高に至っては、前期後期の2期制だったし。だから試験は中間と期末あわせて年4回だった。
でも、去年の秋頃だったか、私立中学校に子どもを通わせる親と話していて、「え? 土曜日休みじゃないの?」と言ったら、「いまどき土曜休みなんて私立じゃありえない」と言われて驚いたのでした。このときは、微妙に会話の位相がずれていたけど(私「私立は元から土曜休み」v.s.相手「私立は土曜登校」)、明確に「私立=土曜休み」が明後日な思いこみだとわかりました。
土曜日に学校へいかない分、月金はけっこう遅くまで授業があった。中高の水曜日は7限目があったからなぁ。ほかは当然6限までみっしり。……だったような気がするけど、意外とこういうことが朧気になっているもんだなぁ。いまも母校は週休2日なんだろうか。だろうな。変える必要ないもんね。
■09/07/14/tue
◇読書
試験から約2カ月。あんまり本が読めていないのが悔しい。活字より映像に走っていたからなぁ。とりあえずマンガと【イシメール・ベアの『戦場から生きのびて』】以外では、下記を読んだ気がする。記憶があいまいなのは暑いからとかなんとかいってみたい。
『橋本治という考え方』(橋本治著、朝日新聞出版 →[bk1|amazon])
→読んだ。いつも通りな気がした。ゆえにこの本自体の印象が薄れている。テイスト含め好きなんで、どうしようもない。……しかし、手元に本がないと、マジに中身が思い出せないぞ。今度パラパラめくり直そう。という価値が、私には十分あるので。
『一粒の柿の種』(渡辺政隆著、岩波書店 →[bk1|amazon])
→6月に大阪京都へ行ったときの行き帰りで一気に読了。1ページごとに語りたい内容がつまっていて、なにか書き出したらとまらないという危惧を覚えている。気分的には勝手にシンクロして、「科学で遊ぶ」っていいよね、とふかーくうなづく。っていうか、“「学」も「知」も「遊び」でいいじゃん”とベースで思っているので、「遊びましょ」的な誘惑満載なことがうれしい。そして、それはたまにいわれそうな「科学全面肯定」という姿勢ではないことももちろん。
『おかしな科学』(渋谷研究所X・菊池誠著、楽工社 →[bk1|amazon])
→7月の大阪行き帰りで読了。すごく直近の話題までフォローしてあって驚いた。ノリが何かに似ているのだけど、それが何かが思い出せなくて、小骨のように気になってしまった。それは個人的事情なので無視。【亀さん】の話し相手である六さんがニセ科学含めアヤシイ系全般にやたらと詳しい。これって理想的対話相手だろうなと思いつつ、現実はどうなんだろうなと考えたりした。現実の六さんはやっぱり全般的に六さんなんだろうか? それとも局所的に六さんなんだろうか。
疲れてきた。ほかにも清水義範とか、ガリバー旅行記(始めの方)とか、ちょこちょこ読んだはずなのに、思い出せないんですけど。これはまずい〜。
◇SWな井戸端
週末に勢いで大阪へ遊びに行ってしまったため書き損なったが、久々のSW友の会が金曜日にあった。ここのところみなさんバタバタしていたので、今回も古典課題図書は特になし。というか、私がバタバタしていたことに巻き込んでしまったのだな。やっと落ち着いたので、次回は温故知新しましょう。
あっと。テーマはあった。
M美大のMさんが教授に昇進! めでたい! そして、【由紀子さん】と私が、今年の試験を終わらせたので、おつかれ! 最後に私の内定もくっついた! というわけで、基本お祝い。でも例の如く、話があっちこっちに飛びながら、サイエンス界隈や出版界隈の話が、まるで井戸端のようにエンドレスで続く。こういうの、飢えている〜。何があるわけじゃないけど、楽しい〜。
今度は、ぜひスノー読みか、ガリバー読みでいかがっしょ?>みなさま
■09/07/11/sat
◇理由
「やらない」というための理由は、具体的にいくつでも出てくる。
一方、「やる」というための理由は、出てきにくい。
でも「やる」と決める。まるで残り少なくなった歯磨き粉のチューブを絞るように、勇気を振り絞って。具体的な理由はあげられないけれど。
■09/07/10/fri
◇くらくら
昨日、最近知り合ったつばめX号くんと、渋谷の【東急文化村】ザ・ミュージアムで開催中の【奇想の王国 だまし絵展】に行ってきた。学割がきかなくなって、ちょっとさみしい。
当然、エッシャーなんかも好きだし、仕事でもちょこちょこエッシャー作品の紙焼き貸出(時代が忍ばれるな>紙焼き)をお願いすることがあったり、【東京タワーのトリックアートギャラリー】も行ったり、わりとこの手のは好き。でも、知識は全然ないので、今回の解説で「トロンプルイユ」という単語も初めて知った。フランス語で「目だまし」という意味らしい。
エッシャーやマグリットあたりの現代的だまし絵だけでなく、古い古典的なものから、日本画のものなど古今東西の広い意味でのだまし絵がそこそこの数集められていた。
個人的には「充分な数」だった。なぜなら、好きなわりには平衡感覚が弱いのか、距離感や水平垂直感覚が混乱してすぐ酔っぱらうから。錯視も大好きだけど、前に【北岡明佳氏の錯視のページ】を面白がってみているうちにすっかり酔っぱらったことがある。
視覚情報に頼りすぎているのか、三半規管の機能が弱いのか、よくわからないけれど、平衡感覚の弱さは感じていた。そういえば、最初に気づいたのは、阪神大震災の取材で摂津本山を歩いていたときだったように思う。何本ものビルや家が少しずつ傾いて、1日の終わりには少し酔っていた。わずか半日程度の滞在でそうだったのだから、住民に与えた影響は意識に昇らないものだとしても、大きかっただろうなと思う。
そんなわけで、すっかりくらくらしながら、このだまし絵展も見ていた。ただし、「これ好きー」とか、「この人はきっとこのハサミを描きたいがために他のところも描いたに違いない」とか、好き勝手なことを言い合いながらなので、ありがたくも楽しいくらくらだった。
そしてトドメが最後にどっかーん。【パトリック・ヒューズ】という作家さんの「水の都」の前で、倒れそうになる。反対側の作品を見ていて、ふっとそのまま振り返ったら、自分の視線の先にある世界がぐにゅーーっと動いてついてきた気がした。何を見ているかもわかっていないのに、なんかぐにゅーっとする。「え?なになに?いまの?」と、改めてその場で横に移動すると、水路に建つ建物の角がずっと私に向かってとがっている。
これは、たぶん写真で見てもわからない。実物を前にしたときのあの驚きを、知らない人にはぜひ体験してもらいたい。
ちなみにこの「水の都」は、パトリック・ヒューズのサイトの右下の方にある。建物の向こうの空の部分が、じつは小さな正方形でそこが手前に出っ張っている。四角錐のてっぺん部分を切り取った形が3つ突き出ているのだ。
いろいろな高さや距離、角度で見ても、この見え方はかわらない。かなり真横に近い位置に立ったり、真下に近いところから見ない限り、みんな同じように見えるらしい。私は2枚の絵を重ねてみる立体視ができないが、その私でもぐにゅーっとなったから、おそらく人も選ばない。
これが不思議でならない。人の目の間の間隔や立ち位置が影響しないのはなんでなんだろう?
思いっきりくらくらパンチを食らった後は、ブラジル料理のランチでお腹いっぱいになった上に、昨日の朝のNHK生活ホットモーニングによると「フランスのお好み焼き」だというガレット(それは無理矢理すぎると思ふ)を【ガレットリア】でデザートにいただく。パンケーキ風季節のガレット。えっと、くらくらしていたので食べ過ぎていることに気づかなかったことにしましょう。
■09/07/07/tue
◇我が家の自炊に必要なもの
ここのところ、頭のなかをいっぱいに占めることに追われていた。
という理由で、試験も終わったのに、自炊をすっかりさぼる日々が続いた。
試験後はちょぼちょぼと買い物に行っては、家でご飯を作って食べていたのだけどなぁ。
ところで、自炊がしにくい理由の筆頭がよくわかった。うちには、米がない。正確にいうと4年近く前に引っ越しの見積もりで業者さんがくれた手みやげ「1キロのお米」がずっとあった。古古古米。それを炊いて食べてみたら、ものすごくまずかった。冷凍したものの、チャーハンにしないと食べられない。
炭水化物を抜くダイエットをすればいいのだが、そこまで極端にするつもりもないと、ご飯がないと食卓が落ち着かない。
それでもなんとなく自炊は続いていたものの、段々暑くなったり、雨が降ったりして、結局買い物が億劫になった。
我が家で自炊ができるかどうかのキモはここだった。
ひたすら買い物をコンスタントに続けられるかどうか。
そして、買い物が億劫になる理由もわかった。ジャガイモやタマネギや大根やその他何でも、野菜はたいてい重い。コメなんぞ2キロは最低でもある。ミソも重い。果物も高くて重い。食パンはかさばる。そんなものたちを、えっちらおっちら10分かけて持って帰ってくる。
これを日々続けるのは、限りなく拷問に近い。
そうこうしているうちに、家の冷蔵庫がふたたび「サプリのための箱」になった。
食材は皆無。棚はからっぽ。野菜室にはワインボトルとコーヒー豆のみ。
結局、私の場合、自力買い物を続けようと思うと、自炊が不可能なのだ。
考えたら、少し昔は、三河屋さんがご用聞きに来て、米屋さんが米を運び、牛乳は牛乳屋さんが配達してくれたではないか。
決意。宅配を利用するぞ。
そう思って実家が使う「生活クラブ生協」を調べると残念ながら対象区域ではなかった。昔の同僚が利用していた「らでぃっしゅぼーや」を思い出して、「野菜」「宅配」でぐぐると、いやー、とてもありがたい世の中になっていた。
【大地を守る会】
【らでぃっしゅぼーや】
【おいしっくす】
【パルシステム】
【ミレー】
このあたりかなー。【宅配サービスランキング】なんてのもある。とりあえずいくつかお試し利用をしてみよう。面倒なんで、基本セットがあるようなのがいいかなー。
アッタリマエの情報でしかないものをつらつら失礼しました。こうやって書いておけば、注文するかなと思ったからです。
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