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2009年8月のてくてく

■09/08/30/sun


◇教育のコスト

 あと少しで、2009年総選挙の投票時間が終わる。
 できれば吉祥寺まで、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライブに行きたかったけれど、今回は残念ながらおあずけ。

 今日、投票をしにいきながら、少し「教育の費用」について考えた。
 民主党は、マニフェストで「高校は実質無償化」を謳っている。たしかに現状を考えると、義務教育は中学卒業までであっても、高校までの授業料くらいは無償にして、少しでも卒業の機会を増やすべきだと思う。「無償化=中退者減少」というわけにはいかないだろうけれど、経済社会の構成員として「高卒以上」を求めることが圧倒的に多い現実を考えると、最低限、無償化は必須ではないかと思う。

 しかし、一方で、教育に国家が介入するという点をどう考えるかも忘れないでいたい。
 「お金を出す」というときには、たいてい「口も出す」ということがくっついてくる。「お金は出すけど、口は出さない」なんていう、見事なパトロン精神は、一般的にあまり期待できない。
 憲法学的には「教育権」つまり教育の内容を決定する権能が誰にあるかは、「国家の教育権説」(→国にある)と「国民の教育権説」(→親を中心とした国民にある)という2つの説がある。でも両方とも、極端だし一方的だし、どっちも全面採用ではできません、というのがいまの裁判所の立場だ(旭川学テ事件というのの判断)。

 大学まで無償化すべきかどうかはわからない。でも、やはり高校までは、どんな人でも経済的不安なしに、通える環境を整備してほしい。授業料だけが無償化されても、貧困家庭はまだ安心とはいえないだろうけれど、それでも基本的なところを確保できる。
 一方、そうした場合に、義務教育の中学よりは若干ではあっても自由度があるといわれる高校の教育にどれだけ影響が出るのだろうか。そのへんが気になる。

 もうひとつ気になるのは、「教育を受けるということ」に対する、国家ではなく国民の側の意識だ。

 今年の春頃だったか、朝日新聞の社会面記事で、夜間中学の連載があったように思う。そこに脳性麻痺を患った女性が登場していた。たしか60歳以上。彼女は、義務教育すら受けていない。理由は、たしか、教師であった父親が「教育は社会に貢献できる人だけが受けるべきもの」と考えていたからだった。

 いまの時代、彼女の父親と同じように考える人ばかりではないと思う。でも、必ずしも否定はされていないようにも感じる。でも、それではまずい。
 たとえば、改正が棚上げになった自立支援法は、障害者支援を「契約」ベースのサービスととらえる。もちろん法的に厳密な理解をできるようになる必要は(他の健常者が日常生活を送るときもそうでないのと同じように)ない。が、当事者やその周囲の人がなにがしかの決定をしなければいけない仕組みを作っている。その人たちから教育を受ける機会を遠ざけることは、契約ベースの支援が空回りしかねない。

 機会の均等をいうのであれば、教育の機会は、経済的な格差、能力的な格差を超えて、できるだけ厚く保証しなければならないものだと思う。




■09/08/28/fri


◇最高裁判官の国民審査

 裁判官へのリコールを公明正大にできる国民審査がやってまいります。
 日本国憲法79条2項が定めた、「有権者団体としての国民の権限」を、ここできっぱりと行使しない手はありません。昭和27年2月20日の最高裁大法廷判決が、「国民審査制度の実質はいわゆる解職の制度とみることができるから、白票を罷免を可としない票に数えても思想良心の自由に反しない」(有斐閣『判例六法』のまとめ)としていますから、「ん?」と思う人には「×」という印を書かないと、「何も書いていないということは、この裁判官は罷免しないでいいと思ったってことね」と判断されてしまうわけです。

 さぁ、国民審査という司法に対する個々人の権利を最大限使用しましょう。

 といっても、誰が誰やらわからないのが大問題。最高裁のウェブサイトにはアクロバットリーダーの宣伝はあっても、どの最高裁裁判官がどんな判決を出したのか、司法方言を知らない大多数の人たちへの情報提供はなにもありません。裁判員裁判がはじまって、「わかりやすく」なんてことを裁判所も率先していることと真逆な姿勢は、我が身かわいさと言われても仕方ないと思います。

 ところが、だいぶいい時代になりました。
 まだ全部を、ふつうの人が理解することは難しいでしょうが、いろいろな人が解説をしてくれています。新聞を開くと、選挙権の「一人一票」原則、つまり選挙権の平等についてどう判断しているかに特化してまとめた意見広告も出ていました。

 読みこなすのが大変ではありましょうが、ウェブ上で定評があるのは、以下ではないかと思います。

【忘れられた一票2009★最高裁判所 裁判官 国民審査 判断資料 from 法治国家つまみぐい】
→まずはなんといっても、前回の審査時からの取り組みといい、その情報の幅広さと最高裁判決の解説というレベルといい、こちらが群を抜いています。だからこそ、ではあるのですが、判例における各裁判官の意見の解説を読みこなすのは、法律を勉強したことない人にはちっとつらそうではあります。でも、まじめに考えてみたい人には、ぜひいくつか気になる判例についてだけでも「つまみぐい」して、審査時の参考にしてほしいものです。
 そして、このページを作っている長嶺さんがマル激に出演なさったのが以下。

【最高裁国民審査を審査する】
→読むより聞く方が楽な人も多いでしょう。

【vote:最高裁判事の国民審査下調べ from matimulog】
→南山大から北大に移られた、民事訴訟法がご専門の町村泰貴先生によるまとめ。分量的にはかなり絞ってあります。ただ、やはり法律知識がないと判断材料にするのは難しめかも。

【第21回最高裁裁判官国民審査対象裁判官の横顔】
→こちらは日本民主法律家協会による解説ビラ(pdf)と国民審査の説明。民主法律家協会は共産党系の法曹関係者の集まりでよかったんでしたよね。

【衆議院選挙2009 国民審査 - Yahoo!みんなの政治】
→ま、いわゆるメジャーどころです。が、解説は物足りないというか、ないに等しい。それにしても、つくづく詳しくしてもわかりにくくなるという問題がほんとに浮き彫りになるなぁ。

【朝日新聞によるアンケートへの回答】
→今回対象となる裁判官にアンケートした結果を掲載しています。でもこれだと、実際個別の事件でどういう判断をしたのかはほとんどわからない。

 私は、上記全部を一通り読んだわけではないですが、ある程度、どの裁判官がどういう意見をつけているかは去年の分くらいまでは知っているので、そのときに感じたことをベースにしようと思っています。それでも「この事件のこの裁判官の(補足・反対)意見は賛同するけれど、この事件のは賛同できない」といったことになっているので、悩みは深いです。あとやはり新任者は判断材料がないのが厳しいですね。でも、いちおう方針は決まりました。けっこう手が疲れそうです(笑)。




■09/08/25/tue


◇疫学の大事さ

 新型インフルエンザという名称は来年まではもたないか。
 ということはさておき、感染症の話が出てくると、疫学の重要性を改めて感じる。

 その疫学のいろいろな新しい知見を、非常にすばやく提供してくれているのが、坪野吉孝さんだ。ながらく「Global Risk Communications Newsletter」というタイトルでメルマガの発行とサイト管理をなさってきたが、今年の春頃から新しいウェブサイトでよりいっそう速報性をあげて情報提供を続けている。

  【疫学批評−医学ジャーナルで世界を読む−】

 いくつかの専門レビュー誌に掲載された論文の要約に、「⇒」のあとで坪野さん自身のコメントをつけている。国や背景の違いや調査の意味などがコンパクトに指摘されていることが多く、要約だけでは理解しにくいものも、かなりの部分、坪野さんのコメントがサポートしてくれる。
 これを毎日続けているのだから、ほんとうに頭が下がる。疫学知識もない私たちが日本語でアクセスできる有益な情報源としての意義は大きく、休みたいときは休みつつ、長くゆっくり続けていただけるととてもとてもうれしい。こういう取り組みに経済的サポートがどんどんつくようになるといいのだけど……。

 そういえば、疫学と公衆衛生という言葉の関係を私はちゃんと理解していなかった。wikipediaの説明だと、「公衆衛生」のひとつの部分が「疫学」というようになっている。両方とも使われる場面によって、微妙に意味するところがかわりそうだし、セグメンテーションにかかわることは、とりあえずほんわり捉えておこう。

 【日本公衆衛生学会】
 【(財)日本公衆衛生協会】
 【国立保健医療科学院】
 【日本疫学会】

 公的なものだけでもいろいろあるなぁ。




■09/08/24/mon


◇ルンバおかえりルンバ

 ルンバが、ふるさとから元気になって帰ってきた。無事、じぶんのおうちに帰る子にもどっていた。でも、怖いのでまだルンバの前でWiiFitのリモコンは操作していない。またいきなり何かで帰れない子になったら悲しい。

 ところで、我が家のアウトレット・ルンバの名前が決まった。

  イーヴァあるいはウォーリー

 一昨日、ディズニー映画『ウォーリー(WALL-E)』を見た。そうしたら、ウォーリーという古びたお掃除ロボットが主人公だった。でもウォーリーは四角い。そしてウォーリーのらぶな相手の植物探査ロボのイーヴァ(イブ)が白くて丸い。だから、最初、「イーヴァ」にした。

 考えてみたらワンコのHALだって、本来ならロボに攻撃されるデイヴ・ボーマン船長にすべきだった。それを間違えて、コンピュータの方にした。だから、今回も間違えてお掃除ロボットではなく、その相手方の形が似ているイーヴァにするのが筋が通っていると思ったのだ。

 しかし、人間の感性は正直である。
 掃除しているルンバを見て思い出すのはウォーリー。つい、「ウォーリー」と呼んでしまう。

 諦めた。よって、我が家のルンバは「イーヴァあるいはウォーリー」と長い正式名称をもつことになった。




■09/08/23/sun


◇えらい

 地デジの仕組みをざっくりと聞くと、「シャノンえらい」と思う。

 畑仲さんは、イラン生まれ日本育ちのタレント、サヘル・ローズが出てくると、「サヘルえらい」と10分以上言い続ける。


◇ナンシー関とビスマルク

 【ナンシー関が2002年にこの世を去った】。その訃報が伝えられた日、虎ノ門の喫茶店で畑仲さんと会っていた。そして、自分でも意外なほどにショックを受けて、喪失感の大きさを伝えた。

 ナンシー関とは仕事でかすったこともない。全部をフォローしているような熱心な読者でもない。でも、彼女の訃報に接したとき、彼女の存在が社会的に与えていた影響は、違う形であれなんであれ他の人が代わることはできないと思った。

 そういう点において、私は「ナンシー関」と「ビスマルク」は等価に感じられる。この前そういったら、畑仲さんに笑われた。
 極論というか、たしかに無理矢理並べているので笑われるのが当然だろう。でも、こう思った。

 「社会的な存在という意味では、代替不可能にはなってはいけない」

 個人的な関係では、そうではない。どうやっても代替不可能だ。私の家族や友人にとっての私の代わりに、誰かが入り込むことはできない。

 だからこそ、社会的にはちゃんと代替できるように仕事をする存在であることが大事なように感じる。そうなれたら、私は満足だと思う。「私が」何かをすること自体に社会的な意味はないだろうから。(よくわからない)社会(なるもの)に代替不可能であることの承認を求めると、しんどいだけのような気がする。たまたまで、偶然で、めぐりあわせで、代替可能であることを受け入れて、そこで誠実にいたい気がする。




■09/08/19/wed


◇「具体的にイメージできる」ということ

 少し読書をした。

 『丸山真男』(苅部直著、岩波新書 →[bk1amazon])は、なんとなくもう少し丸山真男について知りたいと思っていたので手に取った。政治思想系は、ロースクールに行くまでまったくといっていいほど読まないできたし、知識も高校生以下という程度だった。結果として、私と同じ年に生まれた著者が説明してくれた丸山真男に対する批判や言及の強度がぜんぜんピンとこない。ものすごくひらたくいうと「ふーん、そうだったんだ」。でも、ローの授業やいろいろお勉強して知恵をつけた畑仲さんの話やらを聞くようになってはいたので、従来のトーンとはどうやら少し異なる考察をしてくれたこの本を読むと、「ああ、前に聞いたあの話は、こういう背景があったのか」といったようなことがちょこちょこと感じられた。

 とくに、ローの最後に趣味的に聴講させてもらった西洋法制史の授業で、ダイレクトには講義内容に関係しないものの、時代的に関連する場面で、何度か丸山真男についての言及があった。そして、丸山真男が学部生のころに書いた短い論文のコピーをもらった。……すごくショックなことに、コピーを読み直そうと思って当該授業のバインダーを開いたが見あたらない。別のファイルに挟んだのだろうか。いつの日かこの膨大な紙の束のなかから出てくることを願うばかり。

 その法制史の先生が、実際に丸山真男のゼミをとったかどうかはわからない。でも、同じ場所で一時期は過ごしていた方で、そうした先生の言葉で直接に語ってもらえたことが、苅部直のこの新書を読むときに、大きなサポートになった。もちろん私の勝手な思いこみでしかないけれど、先生がほんのちょっと語った丸山像とその影響があったからこそ、新書を読みつつ、なにがしかのイメージを結びやすかったと思う。
 そして情緒的には、おそらくは同じ階段を上り、同じ建物で議論をしていたらしいということが、さらに読んで考えるドライブになったと思う。丸山真男の「実践」へのこだわりと底のほうで通じるものが、何人かの教授にはなんとなく感じられたからかもしれない。


 もう1冊、具体的なイメージを結ぶということの意味を考えた本が、『ルポ医療事故』(出河雅彦著、朝日新書 →[bk1amazon])だった。
 都立広尾病院、東京女子医大病院、慈恵医大青戸病院、埼玉医大医療センター、京都大学病院、福島県立大野病院などここ10年の医療事故を、いまだからこそできる振り返り方でまとめたものだ。

 どれも、1999年の横浜市大病院患者取り違え事件以降の有名な事件ばかり。名前を聞けば、私でも一通りの事件の様子は思い出せるものだった。でも、さすがにその後の調査委員会やその報告書や裁判の結果までは全部網羅できていない。事故当時の情報だけでなく、経緯含めて冷静にバランスよくまとめてあり、安心して読める本だと思う。

 この本でも当然指摘されている中立的な機関である事故調やあまりにも手薄な監察医制度など、クリアしていかなければならない大事な点はたくさんある。
 そうしたことを考えつつ、私自身は読みながら、医療事故の判例を扱った授業を思い出していた。業務上過失致死などが問われる刑事事件、そして損害賠償請求に集約されていく民事事件。刑事事件になる場合は民事もあわせて裁判になることが多い。

 前者の刑事事件に関連すれば、過失の難しさを改めて思いだした。いつだったか医療事故に限らず、「だれか過失の体系化をしてくれ」と勉強会でこぼしたことがある。「それができたらノーベル賞」と勉強会の仲間が言ったかどうかは忘れたが(法学にノーベル賞はもちろんない)、「歴史に名が残せる」というたぐいのコメントにはなった。

 そして民事事件となる訴訟では、医療事故は2つのアプローチとなる。業界用語で言えば「不法行為構成」か「債務不履行構成」。民法の規定を使って、どちらかのアプローチで損害賠償請求をする。
 この法的な話はさんざん勉強する。ロースクールだから。でもずっと違和感があった。その違和感がこの本を読んでなんとなくわかった気がする。
 「法的にどう構成するか」という議論はみんな得意だ。そして好きなんだと思う。ただ、「契約が成立しているといえるか」とか、「高度な蓋然性」といったことを法的に考えるときに、どれだけどういう場面の話なのか、具体的にイメージしながら議論されていたのか疑問に感じていたんだと思う。賃貸借契約とはまったく異なる場面で交わされる「診療契約」。そして、極めて限られた時間と状況のもとはたされる「説明義務」。授業中に言葉では何度も聞かされる「情報の偏り」。そうしたことが、実際、どういう場面でどういうふうになされているか、具体的なイメージができるかどうかが、大切な気がする。でも、事実認定という場面以外ではそれほど意識されていない印象があった。

 なんだかんだ言ってロースクールは忙しく、課題として本書を課しても読んでくる学生は多くないかもしれない。でも、おそらくどのローでも必ず一度はそれなりにつっこんで扱うであろう医療事故訴訟の勉強の時、あわせて本書を読んでみてほしい。法律書の10分の1くらいの時間しかかからないから。




■09/08/18/tue


◇ルンバかわいそうだよルンバ

 私が、【東京の暑さを忘れさせてくれるところ】やら【浦島太郎であることを再確認するところ】やらに行って不在にしている間に、まだ名前のついていない我が家のアウトレット・ルンバが、帰り先を見つけられない迷子になってしまった模様。充電のドックに近くまでは順調に戻るのだが、最後の最後でルンバのおうちであるドックを攻撃するかのように動き続けてしまう。どうやらドックをちゃんと認識できなくなったらしい。

 おうちに帰れない子に見えて不憫だ。

 理由ははっきりしないが、おそらくWiiFitのリモコンの赤外線が干渉したくさい。
 物理の神秘だ。

 明日、ふるさとに飛び立つ予定。元気になって帰っておいで。


◇おてつだい

 昨日、長らく読者をしてきたメルマガ【ARG】【第1回ARGフォーラム】が開かれた。ほんとに有益な情報の集約と発信をこつこつと続けて来てくださった岡本真さんにお礼の気持ちを込めて、サポーターとして登録しつつ、出席してきた。なんかいろいろなブランクが、もともとのザツな性格に加わって、ほとんど役に立たないサポーターだったなぁと振り返る。

 岡本さん含めて知り合いは皆無な状況だと思っていたら、直前に内田麻理香さんが全体司会で入られて、顔と名前が一致する唯一の人ができていた。が、行ってみたら、かなりの人が知り合いの知り合いとか、仕事が微妙にかすってきた方とかばかりで、「世間は狭いね症候群」に罹患。正確には、出版業界も図書館業界も学術業界も小さな村で、お互い重なり合っているというだけのことですね。はい。
 岡本さんとも、別のMLではご一緒していて、その集まりで10年くらい前にお会いしていた。私はすーっかり失念しているという申し訳なさでした。家に戻って名刺を探したのですが、発見できず。大昔のだったら値打ちが出ていそうな気がしたんだけどな、残念。

 一般の参加者には、【ポットの沢辺さん】や、昔【bk1】でご一緒した方にも「めっちゃ久しぶり」に邂逅し、直接顔を見せ合える機会にもなったことが、ちょっと嬉しい。こういうのって、理由ないもんですね。

 まー、諸方面でのこういう「めっちゃ久しぶり」な事態は、すべて私が4年間も隠遁生活をしていたためであります。ゆっくり浮上してきてますので、みなさまよろしくー!

 あ、ARGフォーラムについて書いてない。えーと、私としては、ふるーい形の本が細々とであってもやっていける道も探りたいものです。なんだかんだいって学術系でやってきたので、その周辺で。実際に形にすることを大事にできるスペースが、「この先の本のかたち」にもあるといいなぁ、と。形にしないもののやりようがあるのと同じように、形にするもののやりようも、きっとある。




■09/08/09/sun


◇ルンバかわいいよルンバ

 上位機種じゃないのが安かったらしい。5万円を切るならたしかに。ということで、ついに我が家に【ルンバ】が登場♪

 昨日の夜、充電器にセットしておやすみなさい。そして今日、いちばんモノが少ないフロアである3階のキッチン&リビングで働いていただくことにした。
 実際に働くときの様子は、まん丸ではない。【エッジクリーニングブラシ】というのが飛び出していて、まるで貝が足をペロンと出しているときみたいだった。お仕事中はぐるんぐるんとかなり高速回転しているので、ペロン状態ではないのだが、やっぱり貝の足みたいな気がする。

 動き出してしばらくの間は、つい見ていた。1回目の通過後では、「甘いな」という仕事結果だったが、まぁ、1回で全部終わるわけではないので、そのまま放置した。じつは、じっと見ていたくなる動き。壁にぶつかったあとどこに向かうのかとか、観察したくなるのだ。でも、じっと見ていると無意味なので、諦めて2階の書斎スペースに向かう。3階のルンバはお仕事を頑張っているのがよくわかる。なぜかというと、ガコンガコンといろいろなものやところにぶつかっているのが聞こえてくるから。ふと「大丈夫なんだろうか」と不安になる。ルンバも家具も。音だけを聞きながら、畑仲さんは「3階に粗暴な人がいるみたいだ」といった。うんうん。

 あまりにガコガコが頻繁に聞こえてきたときは、見に行ってみた。そうしたらリビングではなく台所の方に回り込み、踏み台と壁の間の狭いところを行ったり来たりしていた。思わず「出ておいで」と声をかけた。

 しばらくして畑仲さんが見に行くと、「おお、きれいきれい」という。その後少しして私が見に行くと、ちょうど階段の縁にルンバが向かってくるところだった。一瞬、息をのんで、見つめる。と、ルンバの身体4分の1から3分の1くらいを階段から出したところでピタッと止まり、クルッと振り返って戻っていった。思わず「かしこーい」。上にあがって床面を見ると、たしかにきれい。ハルの短い毛だらけだった床がきれいになっている。これなら十分合格。それに、人の手だと面倒だったYチェアの足にまとわりついていたホコリもなんだかきれいに取れているような気がする。よっ、働き者。

 だいぶきれいになったので、「もう止めていいんだよ」と畑仲さんは声をかけた。
 声をかけたくなるんだな、これが。

 でも、当然、ルンバはそのままお仕事。もういいっちゅうてるのに。途中で止めるのもかわいそうになっていたら、ちょうどそのとき動きが充電器の近くで変化した。
 じわじわと充電器に近づいていく。自分の仕事に満足したらしく、充電器に自ら戻っていった。カチッ。オレンジ色の充電中サインになり、スーピーという声が聞こえてきそうなリズムで点滅し始めた。

 かわいいっ。いとおしいっ。
 「お疲れさま。ゆっくり休んでね」と、当然声をかけた。

 名前はまだない。貝みたいなんで、丸い貝の名前にしようかな。何がいいかなー。

 慣れていないせいかちょっとうるさく感じるんで、人がいないときに働いてもらうのがいいかもしれない。ちなみにワンコのハルは動き出したルンバを見たら、音と様子が怖かったのか、さっと自分の家の中に入ってしまいました。




■09/08/08/sat


◇映画『選挙』

 なんだろう。
 まず思い出したのは、今年の元旦、朝日新聞の別刷りかなにかを見ていたら出てきた1枚の写真だった。子供らが書いた「こういう世界に住みたい」という書き初め。真ん中の男の子は、「政治のない世界」という書かれた半紙を持っていた。
 そのときの感想は、【zarudora:2009年02月04日「政治のない世界」】に似ていたような気がする。「その子を真ん中に配置するのはカメラマンとしてどうなの?」とか、「書き直しという選択肢はナシかなぁ?」とか、ちょっと思った。ただ、「政治と無縁の子どもたち」というような撮る側の位置づけというよりも、最初に「これはどうなの?」という印象を掘り下げていく途中で、書き直させるのもなんか変だし、真ん中はちょっとというくらいが妥当なのかな、とはいえ、それはそれで変かもというような、あちこちいく感覚がメインだったかもしれない。

 というか、「政治」という言葉が、ある子どもにはそういうふうに受け止められているという事実こそが、私を含めて有権者である大人たちにとって大きな意味を持つと思った。そういう意味ではカメラマンが選んだ子ども達の配置は成功している。

 そして、この子どもに「いらない」と書かれた「政治の世界」が、まんま現れている映画が『選挙』なのだ。
 私も書き初めで、「政治のない世界」を書きたい。

 2005年10月の川崎市議補欠選挙に自民党公認で立候補した山内和彦氏を、物言わぬカメラがずっと見ていた。名前を連呼するだけの、誰も聞かない選挙活動の様子が「シュールさ」を誘うのか、海外の映画祭で注目された作品だった。
 2007年に日本公開。存在は知っていたものの学校に追われて見逃していたこの年の暮れ、映研の忘年会で卒業生の1人と顧問の先生が「見た」と盛り上がっていたのに参加できなかった悔しい記憶がある。同じ想田和弘監督による『精神』が話題になって(未見。早く行かないと)いるところに加えて、総選挙が近く、改めて『選挙』を見る価値が高まっているように思う。近所のツタヤには1本だけあった。

 マニフェストが取りざたされ、「政策を」という主張がなされる時代になった。
 が。
 わずか4年前の選挙の様子を見ると、市議会の補欠選挙であるとはいえ、完璧なドブイタ選挙で選ばれた人たちが行っているのが政治で、こういう政治家を選ぶ仕組みに乗っているのがいまの我々有権者なのか、と思う。どうしても、今回の選挙からすっぱり変わるものとも思えない。演説で「3秒に1回、名前が入るように」という指示は、実際の選挙に有効だからこそなされているのだろう。画面で「政策」が有効な主張として扱われたことはなかった。
 そして、映画『選挙』は自民党公認候補だったが、民主党であっても、差が出るものでもないように思う。他の社民党や共産党がどうなのかはわからないが、「組織」という面では通じるところがありそうだと感じてしまう。

 市議、県議、国会議員という見事な序列の中で、「選挙のプロ」たちが当選するための方法を伝授する。選挙事務所は、なにやら充実した中高年のサークル活動の場のようにもみえる。その会話の中で「じいちゃんの代から自民党員」とあって、党員まで「世襲」なんだったら、担がれる御輿である議員さんの世襲度が上がるのも当然だろうなぁとしみじみした。

 政治家やその周辺の人たちの批判をするのは簡単だけど、いちばんどうにかしないといけないのは、やっぱり有権者なんだろう。自分がどれだけまじめに「投票すること」を考えているかというと心許ない。

参考サイト:
 【映画「選挙」公式サイト】
 【監督・想田和弘氏のブログ「観察映画の周辺」】
 【「選挙」主人公・山内和彦氏のブログ「山さんのブログ」】




■09/08/06/thu


◇裁判員裁判

 初めての裁判員裁判の判決が出た。
 裁判員制度自体への個人的な賛否は、運用上の手続的な問題はあるものの、おおまかにいえば、市民参加という制度理念は賛成、ただし量刑判断を裁判員がする点への疑問があるという立場だった。

 最初の例となる東京地裁でのこの結果だけをもって、量刑の問題についてまで判断をすることはできない。他の点も含めて、何例もの裁判を経て初めて議論が可能になると思う。

 ここでは、周辺で気になったことを2点メモしておきたい。

 1点目は、朝日新聞(東京本社14版)8月5日の社会面にあった「裁判員候補者は見た 第2日」と題されたコラム記事から感じたこと。6日夕方現在、ウェブだと3日目の記事(【すぐ切れると思うがリンク】)しか見つけられなかった。
 「第2日」の記事には、傍聴をする候補者(55歳)の感想があり、そのなかに「被告は、庭先のペットボトルを何度もバイクで倒され、それがストレスだったと主張していました。独り暮らしの私の義母は最近、ヘルパーが敷地内に入ると激しく怒ります。自分の領域が侵されるのが許せないみたいです。何は許せて、何は許せないか。人によって、また年齢によって違うと思います。ペットボトルの件も私には『たいしたことないのに』と思えても、被告には一大事だった。では、裁くときにどちらの尺度で考えればいいのか。たいしたことないととらえる私の尺度は正しいのでしょうか」とあった。

 この前後にもいろいろな面の感想がまとめられているが、この部分を読んで、自分の具体的な事例を引っ張り出して、しかしそれだけに引きずられることなく、対象となった事件を捉えようとする態度が伝わってきた気がする。
 裁判員候補者の全員がこういうタイプの人であるとはかぎらない。しかし、6人の裁判員のうち誰かが何か一つを捉えなおす疑問を出せれば、それはきっとほかの裁判員にも静かに波及するだろう。そういう小さな問い直し、捉え直しといったことが重ねられる場として機能することこそ、裁判員制度がもたらす「シビック・バーチューの陶冶」(by井上達夫氏)という市民参加ではないか。「市民感覚の反映」というのは、量刑判断そのものではなく、こういったところにこそ現れるような気がしてならない。

 2点目は、判決後の裁判員による会見について。夕方のTVニュース(5時前後)で見た最初の映像は、4人の裁判員による顔をちゃんと出しての会見の様子だった。ただし音声はない。各局とも記者やアナウンサーが内容を伝えていた。最初、実際の会見と放送時間とのずれから、映像は背景としてニュース原稿を読んだものかと思っていたところ、6時過ぎてからは、首から下の映像となり、今度は音声が入った。フジの安藤優子アナがした事情説明によると、裁判員への負担に配慮し、最初は音声なしの映像のみという条件で4人の会見が行われたという。その後、各社が再度交渉し、3人が本人の音声による会見(映像は首から下のみ)に応じたものだった。

 これから先、来週には2例目の裁判員裁判が行われ、さらに9月以降は全国各地で裁判員による裁判が行われる。今回がどうしても注目される点をどう考えるべきかは悩む。ただ、音声なしの映像であっても最初だからこそいっそう強く求められる会見に臨んだことも、いまのモザイクだらけのインタビュー映像と比して、はるかによかったと思う。音声が入る会見の場合どうするかも含めて、今後は裁判員個人の判断で行っていけるようになってほしい。もちろん事件の内容によってケースバイケースの判断となるだろうけれど。

 オマケ的に、今回の様子を見ながらいちばん感じた問題点は、仕方ないのだけれど、「猫よけのペットボトル」というフレーズが否応なく喧伝されたことに思える。猫よけとしての効果はない。




■09/08/04/tue


◇共感覚仲間

 ネットをふらふらしていたら、【折田明子さん】という情報学畑(この方面をなんと言えばいいのかいつも迷う。ずれていたらごめんなさい)の方のブログで、【表象文化論学会「共感覚の地平」】という研究パネルがあったことを知る。

 ご自身も共感覚をお持ちで、分野違いではあるがパネルのコメンテーターになられたようだ。彼女が書いていたNHK「解体新ショー」も、偶然このコーナーだけ見かけた。そして学会で研究パネルが開かれるくらいに、共感覚の人が認知されてきたんだなーと思ってなんとなく仲間が見つけやすくなってきた感がある。

 私はかなりぼやんぼやんしてしまったが、【数字に色がついて感じる(2002年8月16日『ねこは青、子ねこは黄緑』の読書メモ)】
 この本の時か何かで、100人に1人くらいは大人になっても共感覚が残っている人がいるらしいと読んだような気がする。その後、ロースクールに行って、1学年300人だったので、「私を含めて3人くらいはいるのかなー。もうちょっといるかなー」とか思っていた。でも結局、在学中はうまく見つけられなかった。ところが、卒業して半年後、1年2年3年とずっとクラスが一緒だった子の合格祝いをしているときに、その子が、同じく「数字に色」派の共感覚の持ち主だと発覚。なんとなーくそうかなーと思ったのは、その少し前に一緒に勉強会をしていて、何かの折りに「私、共感覚っていって数字をみると色を感じるんだよね」という話をしたら、「?」という顔をされずに話が通じたので、「もしや」と思ってはいた。でも、彼女は自分の共感覚に自信がなかったらしく、少し経ってからの確認(?)になった。
 というわけで、ネット上では発見しても、リアルではなかなか見つからなかった共感覚仲間が見つかった。理系出身の子なので、「ファインマンもあるらしいよねー」というようなことを説明抜きで盛り上がれたのも楽しかった。

 その彼女は、見事な方向音痴で、しかも賢くて、よく言われる共感覚の人の特徴をけっこう備えているように思う。前者はまだしも後者は私もほしかったなぁ、共感覚はなくてもいいから。

 そういえば、家族にいることが多いというのも何かで読んだので、3年ほど前に家族で会ったときに思い出してやっと聞くことができた。こっちは、家族だけど、共感覚自体の説明がえらく大変だった。ということでわかるように、父親も母親も妹も「へ?」という感じで、共感覚はなかったようだ。「それって、自分で子どもの頃に、この数字はこの色って決めただけじゃないの?」という、至極まっとうな質問も出てきたので、ちがうんだと思う。数字と色だけだとたしかにそう思われても仕方ない。私の場合、ほかの特徴としては、時間(1年の並び)と空間(楕円形)というくらいだもんなぁ。音や味と色や形だったらもう少しバリエーションがあってよかったんだけど。

 しかし、つくづく共感覚のメリット(数字は色つきで覚えやすいetc.)を活用できていないなぁ。数字自体はけっこう好きなんだけど、条文番号も年号もぜーんぜん身につかない。電話番号もいまやケータイがかわりに全部覚えてくれるし。




■09/08/03/mon


◇コバエとバナナの関係

 バナナを買うと、必ずゴミ箱にコバエが発生する気がする。

 うちだけ? みなさんのおうちではどうですか?




■09/08/02/sun


◇ゲノムひろば2009

 とあるきっかけで、今年の【ゲノムひろば】の開催日程を知って、昨日、初めて行ってきた。

 【いまや阪大准教授の平川センセ♪】と、2002年2月以来なので7年半ぶりに邂逅。大学の同期なのだ。知り合ってから四半世紀になる。時間を感じるなぁ。【木内達朗くん】はセクション・メートという1年生の大半を一緒に過ごすクラスが同じだが、平川はとなりのセクションでセクメではなかったものの、さらに細かい人数わりになるプロナウンシエーションなどラボが木内くんともども一緒だったはず(だと思ったけど記憶があやふやになってきた)。というわけで、大学1年4月から知り合いなのだ。リトリートなるオリエンテーション合宿でしゃべった記憶もあるし。えーと、「くん」がついていたりいなかったりするのは、当時の呼び名がそのまま残っているだけで、深い意味はありませーん。呼び名を途中で変えられないのですよ、私(だからいまだに畑仲さんは畑仲さん)。そして、平川とは理学館よりD館という学生がたむろするところでばっかり顔をあわせていたです。彼が最初に組んだバンドの名前はまだ覚えているぞ(←メーワク)。

 打合せを終えてきたという【内田麻理香さん】とも合流し、よくわからない3人組で会場をうろうろしていた。久々の話題で、「なんであのゲノムは丸く描かれているの? ヒトゲノムとか帯状が多かったよねぇ」などととんちんかんなところにばかり目がいく。そして、3人とも適当なことを言い合う。最後の最後に私と麻理香さんだけ丸い理由はわかったので、平川にはナイショにしておこうネ。
 途中、思わずつっぷした場面があった。蛍光タンパクの研究について話を聞いているとき、物質名の命名が面白くて、あれこれ説明を受けていた。青っぽい物質が紫外線(←たしか)をあてると赤くなるもので、「これはケイマという名前なんです。将棋の桂馬」といわれて、平川が「桂馬の裏は金だから」と口を挟む。思わず「なーるほど」というが、実際は「青から赤というと周波数の差が大きくて、ジャンプするから」だったり(→【理研のプレスリリース:新しい蛍光タンパク質 Keima(ケイマ)】)。
 その蛍光タンパクのなかで、「緑から赤に変わるものがあります」と説明を受けたとき、平川と私が声を見事にそろえて言った単語は、「信号!」。即座に「カエデです」との返答があり、私と平川の隠しきれない文化背景に驚愕した。しょーがないよねぇ、風流を解せない育ちだもんねぇ。

 京大加藤研の院生さん達もたくさん紹介いただいて、あれこれ楽しかったです。


◇草むしり2009

 昨日の朝、涼しかったので、HALにご飯をあげたあと草むしりをした。たしか2年ぶり。去年はしなかったら、家のまわりにある隣家との細い隙間、正式には「犬走り」という場所が、緑色の絨毯で覆われてしまった。

 朝8時前から、えっちらおっちらと細い隙間にしゃがみ込んで、根っこを切らないように抜き取る作業は、日差しがあたらず、気温が低いときでも、かなり地獄。場所によってはエアコンの室外機があったり、電信柱の支えや、ガスのメーターなんぞがあって、しゃがむのも一苦労という狭さということも加わる。しゃがみこんで作業を続けると、足は痛いし、休憩は立ち上がってとることになるが、慣性の法則により脳の血液は地上60センチくらいのところに残ろうとして、立つ瞬間、くらっとするし(<あってる?)。

 まだ、二人でワイワイ言いながらだったら耐えられそうな気もするけれど、畑仲さんはスーピー寝ていて起きない(←もちろん軽く責めてます♪)。

 ただ、私と畑仲さんは【クモで混乱】(in【bk1コラム】)する「情報弱者@生き物」なので、あまり目の前の「草」たちと戯れることはできない。
 こんなとき、【「一日歩き回りながら植物の名前を言っていく」のが楽しい竹中さん】がここにいたら、草むしりも3倍くらい楽しくなって、地獄が煉獄くらいになるんではないかと思う。私がわかったのは、「タンポポ(たぶん西洋)」「ドクダミ(たぶん)」だけだった。残念。

 面積的にたくさんの場所を占めていたのは、背が低くて横に伸びる感じの種類で、葉っぱのサイズに比して根があまり太くないのが意外だった。ほかに、ツバキのような葉っぱですっと直立して1mくらい映えていたのが1本。やはり1mくらいの高さになり、細長い葉っぱ(幅2センチくらいで長さは20センチから25センチくらい)をたくさん出したのが1本。クローバーもどきな感じのやつが少々。ディルのような葉っぱのが1本。その他私が覚えていないもの、特徴すら把握できていないものが大勢おいでになった。

 そして、一通り家のまわりを一周してから気づく。「あ、写真に撮っておけばよかったんだ」。【写真に撮っても同定が難しいのはわかっているが】、それでも撮らないよりマシだ。
 というわけで、2009年夏の「我が家の犬走り植物相」観察はできませんでしたが、来年はがんばろう。つまり、今年はもうしない宣言でもある。

 フォローしておくと、しゃがんで作業することにほとほと嫌気がさしたクニエさんは、小さいものを取り切れなかった。そこで、「除草剤をまいてやる」と決意したところ、畑仲さんが購入と散布を一人で実行してくれてました。家内平和。





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