野宿者として生きていく中で見えてきたもの−山内勇志さんに聞く 【2002年3月】
私たちは、野宿の仲間と共に、排除と収容に反対して野宿の仲間の権利と守る闘い、そして新自由主義と戦争に反対する闘いを進めてきました。このたたかいを、共に進めてきた、扇町公園で野宿をされている山内勇志さんに、お話しをうかがいました。(これは、山内さんにうかがったお話しをSYNが編集しました。したがって、内容を含むすべての責任は、SYNにあります)
●まず最初に、山内さんが野宿するまでの経過を教えてください
僕は、4年ぐらい前まで、パチンコ屋で住み込みで働いていました。仕事や生きることに何の希望ももってなかったので、仕事は何でも良かったんです。住み込みで働けることや当時のパチンコ屋は客にペコペコしなくていいことが魅力的で、この仕事をしていました。
ところがひょんな事から、大金を手にしました。ナンバーズという宝くじで170万円を当てたんです。これで仕事をやめ、170万円を使い切るまで遊んでいました。釜ヶ崎のバクチなどに手を出し、約半年で、170万円を使ってしまいました。
とたんに生きる気力を失い、自殺をしようと思って、扇町公園に来たんです。当時の扇町公園は工事の前で、木々がたくさんあって、自殺にはうってつけでした。首吊り、飛び降り、入水・・・。いろいろ試みましたが、根性がなくてどれもダメでした。だから、何もしなくて死ねるように、餓死をしようとしたんです。死のうとする時までなまけものです(笑)。そして、28日間、ダンボールに入って飲まず食わずで過ごしました。でも、死ねないものですね。ちょっとした事で、死んでしまう人もたくさんいるのに・・・。28日で、体重が78kgから48kgにまで減ってしまいました。ちょうど正月の5日、ダンボールから這い出して、街を徘徊しているとクリスマスケーキを見つけて、むさぼるように食べました。そうして生き延びたのです。運動と知り合うまでの3年間、そうして食べ物を拾いながら生きてきました。
●そのよう中から、どのようにして活動に参加したんですか?
3年目で、どうして生きているんだろうと頭が真っ白になった時に、野宿者運動に取り組んでいる釜パト(釜ヶ崎パトロールの会)のビラにぶち当たったんです。運動に参加するきっかけは、そんな立派なものではなくて、扇町で野宿している自治会の会長に「釜パトの活動に参加しなければ、ここから出て行け」と言われたからです。だから、最初は仕方なく参加したんです。
一番、最初に参加したのが越冬に向けての会議です。でも、当事者である野宿者はぜんぜん発言せずに、支援の人ばかりが話していました。だから、「絵にかいたモチみたいなことばっかり言ってるな」と批判し、ケンカばかりしていました。でも、だんだん面白くてのめり込んでいきました。
活動に参加してから今までの1年間は、それまでの50年の人生より何倍も充実しています。今までは、仕事をしてても目的はなく、税金とかを取られるのも気に食わなかった。しかし、活動に参加して、はじめて自分の意志で生きている、そんな気がします。活動を通して、他人を助けることが、自分を助けることだと気付いたんです。全国の野宿の仲間やアジア・韓国の仲間と出会えたのは、本当に良かった。
長居公園のシェルター(一時避難所)の問題にも取り組みました。驚いたのは、シェルターに入っている人を、名前ではなくて番号で呼んでいたんです。−さすがに今では改善されたようですが。まるで刑務所です。まさに、一時避難所ではなくて、収容所です。長居の現地闘争団として、炊き出しを中心とした活動に参加しました。お金にはなりませんが、ものすごく充実していました。
野宿者の東アジア交流として、韓国と香港にも行きました。アジアの野宿者の現実を見て、野宿は社会によって強いられているものだと思いました。交流を通す中で、新自由主義の問題にぶち当たったんです。
アフガニスタンでの戦争に反対する活動もしました。この戦争は問題外。軍需産業と石油・天然資源の権益のための戦争でしょ。オサマビン・ラディンがやったという証拠すらまともに示していない。アメリカは自国民の命と他国民の命を差別しているんです。金儲けのためにアフガンの弱い人たちが犠牲になっているのは、野宿者が生み出される構造と全く同じです。
●現在、野宿者が置かれている情況はどんなものなのですか?
自分はなまけもので野宿になったが、夜回りをしていると「仕事をくれ」と訴える人が多いのには驚いた。仕事がなくて、野宿をせざるを得ない人がたくさんいるんです。だから、野宿は強いられているんだと思いました。野宿者は住所がなくて仕事に就けない、仕事に就けないから部屋を貸してくれない。いったん野宿になると、仕事も家も永遠に手に入らない。野宿者の8割が仕事をしたいのに。
行政や警察の対応も最悪です。野宿者を人間とは思っていないんです。夜中に歩いていると、警察に職務質問をされました。他にもたくさん人は、たむろしているのにです。抗議すると、交番に連れていかれて、「税金も払わずに公園に中にテントを建てて、迷惑だ」と言われたんです。警察は弱いものに対する態度と、強いものに対する態度がぜんぜん違いますよね。
行政も同じです。平気で私たちにウソをついたり、約束をやぶります。野宿者を人間だとは思っていません。扇町公園の公園事務所も最初、公園の丘の上を工事する時に、そこに住んでいる野宿者と「団体交渉をし、個別で説得はしない」と約束しました。しかし、一軒一軒まわって、排除していきました。北区の福祉事務所も、生活保護申請をした時に、仕事がないから生活ができないのに、「仕事がないので生活保護を受けるということにはならない」と申請すら受け取りませんでした。後日、やっと受け取らせましたが・・・。
自民・公明・民主などによってこの国会に提出されようとしている野宿者支援法案も、このような発想の延長上にあります。この法案によって、野宿者が存在していることを認めさせる、という積極面はあります。しかし、野宿者を汚いものだとして排除・収容しようとするものです。この法案が通ると、野宿者は犯罪者として扱われてしまします。長居公園のシェルター建設が象徴的です。
●山内さんが考える野宿者の解放とは、どんなものですか?
仕事をする人、生活保護を受ける人、施設に入る人、それでも野宿する人・・・。いろんな選択を自由にできるような社会になればいいですね。まず国が野宿者を出していることを自覚すること、野宿者が社会の犠牲者であるということを認めることからはじまると思います。その上で、自由な選択をできる社会にすればいい。戦争をする金があるなら、公園や公共機関の掃除などをし、職がない人をやとえばいい。その方が、建設的ですよね。
(1月21日 大阪市・扇町公園にて)
【参照】資料・情報−公園を住所として認めろ!〜山内勇志さんに聞く
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