「姑は岡崎家の         

                                                                                                 岡 崎 靖 子  

「私よりはるかに背の高かった母はこんなに縮んで」  
「容姿端麗美人で通っていた母はこんなにしわくちゃに」
「あんなにはっきりものを言っていた母は無口無表情に」
 時は人を変えていきます。

 私の主人の母は、今年満101歳になります。岡崎家の一人娘として生まれ大切に育てられ婿養子をとりました。そして二人の息子は公務員に、二人の娘は医者に嫁がせ、何一つ不自由なく、自由奔放に生きてきました。

 そう言った家庭の中に二男の嫁として嫁いで来たのが私でした。母は嫁に行ったことがない人間ですので私の立場は、理解できない日々の連続でした。月日の経つのは早いものです。あっと言う間に40有余年が過ぎ去りました。

 ところが、それまでしっかり者で通っていた母が、90歳過ぎよりおかしな言動が起こり始めました。
食後直ぐ「ご飯を未だ食べとりゃあせん」。
娘からの小包を「あんたが、隠したんじゃろう」。
「財布がねえ」。
浴槽の底に何か黒い固まりがあり、私はそっと手でつまみ持ち上げると「キャアーうんこじゃあー」。

 親孝行な主人は母が退屈しないように又、感動を与えようとドライブによく連れて行きました。
ところが車の中はいつもアンモニアの臭いで一杯。

 ウンチン騒動と言えば、私がちょと買い物に出た留守、廊下へポテポテ、様式トイレの便座の外へベットリ山盛りの便。
堅い便はつまめば直ぐ取れますが、柔らかい物はなかなか掃除出来ず、その上臭う事この上なし。

 こんな事も有りました。朝食を作ろうと台所へ行ったとたん
「臭い!エエッ!」。ツルー!。
「びちうんこじゃあー」。
私は悲鳴を。
そのうんこは母のベットまで続き、行き着くところベットの横へうんこの山。

 また、こんな事もありました。
母は「腹が減ったー。腹が減ったー」。
私は「これ以上食べると胃袋がパンクするよ」と。
親孝行な主人は「食べる物位は思いっきりしっかり食べさせてあげようよ。」
ちらし寿司・魚の煮物・すまし汁・野菜の和え物・甘酒・栗・蜜柑・饅頭と、よくぞこんなに食べられる事と感心していた矢先、見る見るうちに顔が真っ青、嘔吐すること洗面器に四杯。

ここで私のつけていた介護日記を紹介してみます。

 平成9年1月5日(日)   雪   

  朝9時の会話

  「おばあちゃんが待っとる。早よう帰え  らんとー。」  
      (おばあちゃんとは自分の母親の意味) 
主人「おばあちゃんは大昔に死んだあ」 
   「うそをつかれえ」
主人「おかあちゃんの母親が何で今、生きている訳がないがあ。お母ちゃんが96歳なのに」
        主人が大声で言っているのが応接間ドアー外まで聞こえてくる。 
  「死んだんかあ」
      「知らなんだあー」
      「どうして教えてくれなんだんでえ。」 
     ーーーーーー20秒ーーーもう忘れて!
  「おばあちゃんが待っとる。早よう帰え  らんとー。」
主人「おばあちゃんは大昔に死んだあ」
  「うそをつかれえ」    
      全くエンドレステープそのもの。

 再び、主人は仏壇からお位牌を持参。又又、お位牌を前にして説明。お位牌騒動だ。主人と母の葛藤続くこと2時間。耳もほとんど聞こえない母に、主人は声をからして何度も何度も丁寧にお位牌の説明をいている。

 平成9年1月6日(月)晴れ 

夜11時の会話

   「わっちゃ、ご飯を食べとらん」  
       やれやれ今日も付きっきりの介護がやっと終わったと思った矢先の事。
  「わっちゃあ、ご飯を食べとらんわー。   あんたー食べたんかあ」 
      ああ、あ。又始まった。
  「みんな揃って今夜はお寿司を食べたがあ」
  「いや、わっちだけ食べとらん」
  「今夜は七時に、私が作ったちらし寿司を3人揃って食べたよ」
       ーーーエンドレステープが回っているーー

 何度繰り返して言っても理解できないので紙に書いて読んでもらう。それもいったん思い込んだらどうしようもない。ご飯。、ご飯、ご飯と。  夕食は主人や私よりも沢山食べた。しかも母はお代わりまでした。その後、お菓子果物まで食べ、今でも「ウエッツ!」と、えっぷが出ている。すでに胸につかえている状態なのに、これ以上欲しいからと言って食べさせてあげては、以前のように嘔吐で苦しむ。

 「あんたー、ご飯はねんかなあー。」 
 「ちいたあ残っとるじゃろう。」
 「三合でも炊いたんかあ。」
 「なあ食べさせてちょうでえ。」   
      なんてひもじい情けない事を言うのでしょう。又、みかんを持って来てあげる。  
   ーーーぺろり!ーーー
  「ご飯がなきぇりゃ、あんパンでもええのになあ。」
  「あんたーパンもねんかなあ。」
  「パンを買うてくれりゃあ、はよーこうてーなあ。」
  「あんたー、パンを買うて来てー」
      側でパソコンを打つ手を止めては、説明ひとしきり、うなずいたり、ごまかしたり。
  「はよー買うて来てー」
  「今は夜の12時、店は開いてないわ。」
  「そうか。困ったなあ。」 
 私 「時計を見て御覧。」
  「ありゃあ12時かあ。」
  「和雄はどけえ行ったんでえ」
  「明日仕事で勤務するから、寝ておいてもらわないとぶったおれるがあ」
       主人は目を充血させて疲れている様子なので無理矢理寝てもらったのだ。
      ーーーー20秒ーーー
  「和雄はどけぇー行ったんでえ。」
 私 「寝てるよ。」    
        もう忘れている。
 母 「そうか、困ったなあ。和雄がおりゃあお金があるんじゃあけえなあ。」
  「お金がありゃあ、パンが買うて来れるのになあ。」
  「パンじゃったらそねーにおかずをせーでも直ぐ食べれるからなあ。」
  「そうなー」
  「昭子(娘)に買うて来てもらおうかあ」
  「千葉県に住んでいるので無理よ」
  「早智子(娘)に買うて来てもらおうか」
 私 「高知県に住んでいては無理よ」
 母 「早智子にお金をかろうかー。ありゃあお金をよーけえー持つとるからなあ」
       側で吹き出し笑いをする私。なるほど。その通り!

  「やっぱり和雄が一番ええわあ」
  「腹がへったなあー」
 母 「あんたー買うて来てー」
        とうとう時間稼ぎにのどへつまらない程度の小さなアメをあげた。母は応接間へ午前3時まで起きて    いた。背筋をピント伸ばし、目をぱっちり開けしっかりした姿は鉄人のようだった。 
以上介護日誌の一部でした。

 一般に痴呆性老人の介護は、「説得より納得」とか、「総てを肯定しその状況にそって演劇して行く」とか、「空想のドラマを広げていく」とか、「話題をそらせる」とか言います。しかし、理論と実際は違うものです。

  さて、恵風苑本館へお世話になったのが平成7年9月、脱走、夜歩き数々のご迷惑をかけ1ヶ月後、恵風苑別館にお世話になりました。そしてまる7年間の間、デーサービス、ショートステイ、入退院等を繰り返しながらも現在は恵風苑別館で大変元気に毎日を過ごさせていただいています。これはひとえに、恵風苑職員の方々の手厚い介護のたまものと、深く感謝いたしています。

 母は、今までに、生命の危機が4度もありました。しかし、医者がさじを投げていた体もクリアー出来、この様に元気でおれると言うことは次の事だからだと思います。

 一、出来る限り家族との会話を持つ事。 
      入院中など朝、夕と一日に2度も顔をのぞけました。  
 二、感動を与える。
      歩行が出来る時は、車であらゆる所へ連れて行きました。
      恵風苑に入所してからは、恵風苑宛に160通からのハガキを娘むこから受けています。それも一目   で分かるように写真入りの温かい便りです。
 、親戚との共通理解。   
      母の様子を平均2日に一通のわりでファックスでやりとりをしています。
      ファックスの文章は千通をはるかに越えます。  
      最近では、デジカメで撮影した母の写真をメールに添付して送信します。
      新鮮な生の様子が直ぐ伝わります。

 我家にとって一番ありがたいのは「主人の姉妹をはじめ、義兄、義弟が、こんなにまで理解があり、全面的に協力してくれる」と言う事です。この主人と姉妹を生み育てたのはです。
「母あっての子」
主人は母を大切に大切にしています。

 先だって「不老山長生寺」へ行きました。
私は母のため「長寿御守」をそっと買い求めました。

  母のために一生懸命になっていれば念力・パワーは必ず伝わるのだ
「念ずれば通じる」と言う事が、だんだん分かってきました。母が元気で居てくれることは、我々を守ってくれているのだと感謝している今日です。
母は岡崎家の宝です。

平成13年11月 介護教室研修でパネラーとして発表した原稿 
平成14年7月24日 享年103歳にて永眠