「紙への道」 コラム
73,紙・板紙「書く・包む・拭く」シリーズ(8)
段ボール原紙と段ボールについて(その2)
続きです。今回は段ボールの歴史について触れていきます。
段ボールの始まり・・・発祥の地はイギリス
段ボールの発祥は、イギリスです。紙を抄く機械である抄紙機の発明もイギリスですが、イギリスのフォードリニア兄弟が今につながる長網抄紙機(フォードリニアマシン)を作ったのは1807年のことです。その後、主として厚紙である板紙を抄くのに適している丸網抄紙機も1809年にイギリスのディキンソンが発明しました。そして板紙は1817年にイギリスで市場化されましたが、このときの製紙原料は麦わらでした。このような状況下で段ボールが誕生しました。
19世紀後半のイギリスでは、シルクハットという円筒型の高い帽子が流行しました。この帽子を被る時の汗取りとして、1856年、エドワード・チャールズ・ヒーレイとエドワード・エリス・アレンの2人によって段ボールが生まれました。
段のついた2つのロールの間に紙を通す手動の機械で、紙に段(波状)を作ったもので、当時は包装材としての目的ではなく、波状に折ったボール紙(板紙)をシルクハットの内側に貼り、頭と帽子の間に隙間を作り、風通しを良くするとともに、内側の汗を吸い取るために使いました。これが段ボールのはじまりです。
なお、この波状を「フルート」といいますが、形が古代ヨーロッパの朝廷の侍者の衣装に付いているひだのある襟に似ているので、フルート(flute)と名付けたといわれています。右の写真、特に人物の襟元に注目してご覧ください。これは安土桃山時代に描かれた狩野内膳(かのうないぜん、1570〜1616年)の「南蛮屏風」(神戸市立博物館所蔵)の一部ですが、その当時日本に渡来した南蛮人(南方の野蛮人の意、特にポルトガル人・スペイン人などを指す) が着ていた洋服の首回りの布が波形の襟になっています。これが「フルート」で段ボールの中しんの形が似ていたためフルートと呼ばれるようになりました。
その後、1871年にアメリカにおいて、アルバート・L・ジョーンズが波状の紙を水薬等のガラス瓶やランプのほや(火屋)のガラス製品を衝撃から保護する緩衝材(クッション材)として使用したのが、現在のように包装資材として利用されるようになった始まりです。特許を取得しており、その中で波状の紙の上にビンを並べる方法、波状の紙で箱を作る方法、ビンに波状の紙を巻き付ける方法が図で示されているとういことで、その利用は今の段ボールの用途に合致していることから、これを段ボールの誕生とする説もあります。
そして1874年にはアメリカのオリバーロングが、段状の紙にもう一枚紙を足して、段が伸縮しないようにし、扱いやすくしました。片面段ボール(single face corrugated board)の誕生です。波状のフルートだけでは段が伸びてしまい強度がないので片側の面に「ライナ」と呼ばれる補強用のボール紙を接着しました。これが現在でも使用されている「片面段ボール」といわれているものです。ところで英語のライナ(liner、ライナー)はこのように裏面に紙などを貼って丈夫にすること、すなわち裏打ちという意味です。
さらに1882年には、アメリカ人のロバートH.トンプソンが両面段ボールの特許を取得しています。当初は内装用の緩衝材として使われていた段ボールですが、1894年になると段ボール箱が考案され、外装用の木箱等に取って代わる輸送容器としても使われ始めました。これも最初は蓋、胴、底と3つのパーツに分かれたスリーピース型で、後に現在のような折り畳み式に進化を遂げていきます。そして本格的に外装用に用いられるようになると、段ボールの実用性・利便性が産業界、特に物流の分野で注目されはじめ段ボールの需要が一気に高まっていきます。
わが国での段ボールの開発
それではわが国ではどうでしたでしょうか。段ボールは、日本では明治時代末期から作られるようになりました。最初は片面段ボールでしたが、アメリカで片面段ボールが誕生してから、遅れること35年のことです。
ところで、欧米から紙(洋紙、西洋紙)が伝わったのは明治時代ですが、板紙がわが国で初めて作られのは、1876(明治9)年10月のことです。手漉きでしたが、今日の大日本印刷株式会社の前身となる秀英舎の創業者である佐久間貞一がそれを手掛けました。輸入品の板紙を分析しての試験結果を経て、小規模工場を設け、麦わらを原料にして自分で考案した手漉き器具で板紙を製造しました。そのきっかけは冒頭に「天は自ら助くるものを助く」と謳っている、当時特に青年たちに人気があり、ベストセラーとなっていた「西国立志編」(イギリス人サミュエル・スマイルズの著書「Self
Help」(自助論)の訳本…木版刷りの和装本)を活版印刷による洋装本で再版する仕事をすることになったことです。その表紙に洋式の板紙が必要であったわけです。これがわが国における手漉きによる板紙製造の最初とされています。
その後、機械抄きによる板紙生産が行われるようになりましたが、やはり佐久間貞一によってでした。そのために1886(明治19)年にわが国最初の板紙生産会社である東京板紙会社(資本金1万円)を設立しました。そしてその10月に埼玉県新座郡片山村(現、新座市)に工場を新設、これが第一工場ですが、洋式機械により麦わらを原料にして板紙製造(日産1t)を開始しました。しかし、立地条件が悪く、当時は河川の水量も少なく、冬期は渇水・凍結などで条件にも恵まれず、失敗に終わり中止せざるを得ませんでした。
そのため1887(明治20)年に資本金を17万円に増資して新工場の建設を計画し、翌1888(明治21)年6月に東京府下千住南組に第二工場が竣工しました。ここに英国から輸入した抄紙機(日産8t)を設置するとともに英国人技師を雇って、1889(明治22)年6月に操業を開始し、稲わらを原料として板紙(ボール紙)の生産しました。稲わらを原料にして製造した板紙を黄板紙または黄ボールといいますが、書籍の表紙や、紙器容器、蒸気車および馬車の切符用紙などに用いられました。これがわが国における本格的な板紙生産の始めとされており、現東京都荒川区南千住6丁目のこの地が板紙発祥の地とされています。そして今日の板紙業の先駆けとなりました。
前書きが長くなりましたが、このような中で段ボールが日本で初めて作られるようになったのは、わが国で板紙の本格生産が始まってから20年後の1909(明治42)年のことになります。開発者は井上貞治郎(ていじろう、明治14年〜昭和38年)という人で、この試作した板紙を新たに「段ボール」と命名し、後に段ボールの大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、現在のレンゴー株式会社の創業者であり、「段ボール工業の創始者」とか「日本の段ボールの父」と言われています。その経緯を次にまとめます(ホームページレンゴーの歴史、日本経済新聞「私の履歴書」井上貞治郎)。
井上貞治郎は、1881年兵庫県姫路市郊外の農家に生まれました。高等小学校を卒業すると、「商売を覚えて偉うなったろ」との志を立てて、神戸の商家へ丁稚奉公にでましたが、志はいつも空回りだったとのことです。洋紙店、回漕店、活版屋、中華料理店(横浜「聘珍楼(へいちんろう)」)、銭湯、酒場、パン屋、散髪屋、砂糖屋、洋服屋、材木屋、板問屋、石炭屋、・・・・。「段ボール」を作り始めるまでの14年間に転職は三十数回におよんだようです。この間、神戸から横浜、大阪、京都へ移り、韓国へ渡り、満州(現中国東北部)へ足を伸ばしたものの、「新天地で一旗揚げよう」という夢は叶わず、やがて大連から上海へ、さらに香港へと渡ったが、ついに日本へ戻ることになります。そして井上貞治郎は人生の再出発を決意します。それは1909(明治42)年の春のことです。ホームページレンゴーの歴史によれば、「1909(明治42)年、井上は帰国すると、春爛漫の東京・上野公園にやって来た。そのうちふと、一本の桜木の下で足を止めると、こう考えた。「商売を覚えて偉うなったろと故郷を離れたが、挙句の果てはこの有り様か。無駄な人生を過ごしたものだ。しかし、待てよ。人生はまだある。よし、裸一貫からやり直そう。独立自営を目指して進もう」とあります。その日は1909(明治42)年4月12日。井上貞治郎が人生の再出発を決意したこの日を、後にレンゴー株式会社の創立記念日として定めています。実際に事業を興した日ではないのですが、会社の創業記念日としたわけです。他社に類例の無い特異なレンゴー株式会社の創立記念日の由来には、こういう謂れがあったのです。
話をもとに戻しますと、帰国後、井上貞治郎は一念発起して間もなく、東京・上野御徒町で紙箱道具や大工道具を売る店に勤め、その注文取りを始めました。この時に道具屋で見付けたのが「手回しの綿繰り機のようなもの」でした。それは樫の木で作られた円筒形のロールに段々が付けられており、紙にしわを寄せる道具でしたが、それをきっかけに、しわを寄せた紙がガラス製品などを包む緩衝材として使われていること、「電球包み紙」「なまこ紙」「浪形紙(なみがたし)」などいろんな呼び名がついていること、ブリキ屋や焼芋屋が片手間に作っていること、ドイツ製の輸入品は高品質だが高価であることなどの知識が日増しにふえていき、その道具のイメージは脳裡から消えなかったということです。
この当時日本で作られていたのは、もとはブリキに段をつけるロールにボール紙を通したもので、正式な名はなく一般に「電球包み紙」といわれていとうことです。これは一枚の紙を山型のジグザグに折った三角形のもので、ほとんど弾力性はなく、押えればぺしゃんこになってしまうものでした。外国製品はわずかな量が日本に輸入されており、「馬喰町のレート化粧品などで使っていたドイツ製品は、波型紙をさらにもう一枚の紙にのりづけしてあり、しかも波の型が三角形でなく半円形で、弾力に富むものだった」と「私の履歴書」井上貞治郎には記述されています。これを俗に「しわしわ紙」とか、「なまこ紙」(英語でcorrugated board paper)と呼んでいましたが、この国産品を造ろうと思い立ったわけです。
その後、3人の出資者を得て出資金200円を元手にして、東京・品川(北品川北馬場)の目黒川のほとりに家賃月5円で借りた20坪ばかりの平屋に、かつて道具屋で見付けた綿繰り機をヒントに、あらかじめ製作した段繰り機(費用70円)、通称「なまこ紙」製造機を据え付け、製造を始めました。この事業所を「三盛舎」と称し、使用人を2人雇っての事業開始でした。時に井上貞治郎、28歳、1909年8月中旬のことです。
製作した段繰り機は、鋳物製の波型を刻んだ段付きロール(チクワ型ロール)一対と、左右に木製の支柱で組立てられている機械で、ハンドルでロールを回しながら、ボール紙をロールの間に通すと、しわ(段)が寄ったボール紙が出てくる仕組になっており、これを平らなボール紙に貼り付けて片面段ボールを作るというものです。
段繰り機(左写真)…紙の博物館保存
井上貞治郎製/明治42年(1909)/1,320×2,280×1,300mm
聯合紙器の創始者である井上貞治郎(1881〜1963)が綿繰りにヒントを得て考案・製作し、実際に使用していたものを改修・復元したもの。鉄製の一対の歯車の間に黄ボールを通して波形をつけ、これを平らな黄ボールに貼り付けて片面段ボールを作った。これが段ボールの国産化の始まりで、「段ボール」という名前も井上がつけた(紙の博物館「紙の博物館収蔵品」から引用)。 |
ところが苦労が続きます。ボール紙にしわ、つまり波形の段を作るにあたって、左右が不揃いとなり、出てくる紙が扇形になったり、段をつけても風に当ると伸びてしまうなど、うまく行きません。なかなか製品が出来上がらず、悪戦苦闘が続きますが、苦心の末、バネを使いロールの左右に均一に力が掛かるようにしたり、分銅型の重りを吊るしたりしました。また、あらかじめボール紙を湿らせることで、しばらくすると段が伸びてしまうのを解決し、ようやく2ヵ月も経て初めて国産化に成功しました。そのときの喜びを次のように表現されています。「そして秋の気配も迫ったある日の昼前『出来た』見事に段がそろった製品が出来上がったのである。私は飛上がって喜んだ。うっかりすると『こりゃ、こりゃ』と踊り出しそうだった。こんなに見事な製品を人に見せるのが惜しいと思ったほどである。おげんさんと私は、三合で四銭の「やなぎかげ」を茶わんにつぎ、ひえた焼芋を七輪であたため、それをさかなに祝杯をあげた。『出来た、出来たよォー』私はデタラメの節をつけ、茶わんをたたいて歌い出した。」(注)おげんさんとは、使用人のひとりで女工。(日本経済新聞「私の履歴書」井上貞治郎から)。こうして手作りとも言うべき日本初の「段付け紙」が完成したのです。
段ボールという名の由来は
井上貞治郎は、この日本で初めて生まれた「段付け紙」に名前をつけるにあたって、他に弾力紙、波型紙、波状紙、しぼりボール、なまこ紙、浪形紙、防衝紙、波型ボール、コ-ルゲーテッドボードなどが候補に挙がったようですが、いろいろ考えた末、素材として使用したのがボール紙で、これに段を付け加工して作った製品であり、覚え易くて言い易く、最もゴロがよい「段ボール」と名付けました。そしてそれを商品名として売り出しました。これが国産の始まりであり、わが国における段ボール産業の発祥です。後に、この商品名「段ボール」は広く知れわたり、そのまま一般的な固有名詞として使われるようになるわけです。
段ボール事業の開始から現在まで
1909(明治42)年に試作され、段ボールと命名されたこの国産品は、今で言う「片面段ボール」ですが、電球、化粧品や薬の瓶など「易損品(いそんひん)」の保護用緩衝材として使われ始めましたが、当初は赤字続きで、経営も順調ではありませんでした。赤字続きに業を煮やした出資者は次々と去っていってしまいますが、この年の暮、井上貞治郎は「独立自営」を決意して、事業所を京橋に移し、名称を「三盛舎」から「三成社」に改め、再起を図ります。ちょうどそのころ、苦心して組立てた機械とその製法を実用新案特許として出願していたが、翌年の1910(明治43)年に認可されたので、製品の名も「特許段ボール」として市場に出すことになり、見本帳を作って注文取りに走り回ります。
その後、小型だった製造機械は徐々に大型化し、より速く、より良質な製品を量産できるようになっていきます。注文が徐々に増え、生産が間に合わなくなってくると、井上貞治郎は思い切って3千円もするドイツ製の動力(モーター)付きの巻取り段ボール機を輸入・購入して、大量注文に対応、生産能力を上げます。品質も向上し安定していたので、大手ユーザーの評価が高かったということで、例えば用途の代表例が、東京電気(現東芝)のマツダランプ、平尾賛平商店の瓶入り化粧品(レート印)や、やがて輸出用陶磁器(ノリタケ)にも使われるようになりました。
しかし、この時はまだ段ボールのシートのみで、段ボール箱を初めて作るのは、「段ボール」を作り始めて5年後の1914(大正3)年のことです。香水瓶半ダースを入れる箱の注文を受けた時のことで、この時は手作りでしたが、その後ドイツ製の製箱機一式を輸入し、「段ボール箱」の量産態勢を整えます。翌年には大阪に子会社を2社を設け、名古屋には分工場を置き、東京の本社・工場は本所区の太平町(現JR錦糸町駅前)へ移し、東京電気の川崎工場の近くに三成社の川崎工場を建て、この「段ボール事業」は業績も順調に伸びていきました。
さらに1920(大正9)年5月には「三成社」と共同で事業を行っていた「栄立社」、「東紙器製作所」など5社が集まり、株式会社組織の「聯合紙器」(れんごうしき)とし、聯合紙器株式会社が設立される運びとなりました。なお、この「聯合」とは、諸説があるようですが、段ボールが表の紙(ライナという)と中の波状の中芯(中しん)と裏の紙(ライナ)を重ね、貼り合わせて作られており、すなわち「紙を聯(つら)ね合わせてできている段ボールから包装容器をつくる会社」の意を持つ「聯合紙器」になったということです。
そして1959(昭和34)年に創業50周年を迎えますが、これを機に井上貞治郎社長が自叙伝「生涯の一本杉」を発刊したところ、日本経済新聞が同紙の「私の履歴書」欄に執筆を依頼。青少年時代の波瀾万丈の人生は読者を魅了し、さらに朝日放送が半年間(毎週28回)の連続テレビドラマ「流転」を放映し、高い視聴率を上げることになります。また三浦洸一によるその主題歌は日本全国に愛唱され映画化、劇場化等相次ぐことになります。翌年、石浜恒夫が小説「流転」を発刊し、大阪・道頓堀の中座で芝居となり、松竹映画「流転」も人気を集めました。さらに毎日放送が森繁久彌主演でテレビドラマ化(3部作)されるなど、空前のヒットを放ち、「流転ブーム」をまき起こしました。こうした中、1963(昭和38)年に「日本の段ボールの父」井上貞治郎は大きな業績を残して、82歳の生涯を閉じることになります。
聯合紙器は、その後も段ボール以外の様々な加工紙や包装機械の製造などにも事業を拡大していきますが、総合的包装企業に成長したことや、「聯合」が読みづらいことなどから、「レンゴー」と親しみやすいカタカナ(片仮名)にして1972(昭和47)年1月に、社名を現在のレンゴー株式会社に変更しました。
さらに会社は発展します。1990年には海外にも進出し、現在マレーシアや中国など6カ国、25カ所に工場があります。また、1999年4月にはセッツ株式会社と合併しますが、同社は1947年攝津板紙として創立された大手板紙メーカーであり、1986年セッツに改称していたものです。新しくなったレンゴー株式会社は合併時点で生産シェア14.6%(1999年暦年、日本製紙連合会資料)の板紙トップメーカーとなりました。その後もトップの座を維持してきましたが、2002年10月に王子製紙の板紙製造部門と高崎三興製紙、中央板紙、北陽製紙の3社が合併し、板紙の生産・販売が王子板紙株式会社(2001年5月設立)に一元化されると、それ以降は王子板紙が首位となっています。しかし、段ボールの歴史はレンゴー株式会社の歴史でもあります。創業者である井上貞治郎が日本で初めて段ボールを製造されたのが1909年、レンゴー株式会社はまもなく誕生100年を迎える段ボール産業の創始企業であり、わが国の段ボール業界のみならず板紙の総合企業として板紙業界の中心勢力としてこれからも強い影響力を及ぼしていかれることでしょう。
戦後、大きく伸びた段ボールの生産
それでは、ここで第二次世界大戦後(1945年)における段ボールの動向を見ていきますが、その前に全体的な紙・板紙の動きを知るために、まず国民一人当たりの紙・板紙の年間消費量(以下、紙・板紙の年間消費量)と紙・板紙の生産量推移を掲げます。それと併せて段ボール原紙の生産量推移を表1に示します。比較のために新聞巻取紙(新聞用紙)と塗工紙(微塗工紙含む)[以下、塗工紙という]のデータも載せました(資料:日本製紙連合会「紙・板紙統計年報」)。[注]明治時代に初めて段ボールが作られたときの原紙はボール紙(黄ボール)が用いられましたが、今は段ボール原紙という専用紙です。なお、戦前の板紙の分類では段ボール原紙でなく、抄合(すきあわせ)包装紙という品種でした。
表1.国民一人当たりの紙・板紙の年間消費量と段ボール原紙などの生産量推移
(単位:紙・板紙の年間消費量…kg/人、その他生産量…千t、
下段の( )値は紙・板紙全体に対する構成比)
|
.
|
1945年
(昭和20) |
1950年
(昭和25)
|
1955年
(昭和30)
|
1960年
(昭和35) |
1965年
(昭和40) |
2006年
|
| 紙・板紙の年間消費量 |
3.6 |
10.2 |
23.8 |
46.5 |
73.6 |
246.8 |
| 紙・板紙 |
272 |
871 |
2,204 |
4,513 |
7,299 |
31,106 |
| 板紙 |
39
(14.2%) |
184
(21.2%) |
590
(26.8%) |
1,645
(36.5%) |
3,079
(42.2%) |
12,044
(38.7%)
|
| 段ボール原紙 |
6
(2.2%) |
21
(2.4%) |
181
(8.2%) |
827
(15.3%) |
1,795
(24.6%) |
9,324
(30.0%) |
|
新聞巻取紙
|
74 |
132
|
460
|
732 |
1,184 |
3,770
|
| 塗工紙(微塗工紙含む) |
(不明) |
13 |
34 |
119 |
232 |
6,842 |
以下説明します。わが国は1945(昭和20)年に終戦を迎えますが、その年の紙・板紙の年間消費量は3.6kgでした。翌年は戦後最低の2.8kgとなりますが、その後漸次、増加し、1953(昭和28)年には、生産量、消費量とも戦前のピークであった1940(昭和15)年の数量を超え、経済の復興を成し遂げていきます。このときの紙・板紙の年間消費量は20.2kgですが、その後もさらに経済の成長・発展とともに、ゆとりもでき世界へ羽ばたいていきます。ちなみに1940(昭和15)年の紙・板紙の生産量は1,545千t、紙・板紙の年間消費量は19.2kgで、戦前の最高ですが、太平洋戦争突入とともに漸減していきます。なお、終戦前の1944(昭和19)年の紙・板紙の生産量は626千t、紙・板紙の年間消費量は8.3kgとピーク時の4割ぐらいに減ってしまいます。
このような状況の中で終戦となった1945(昭和20)年の段ボール原紙の生産量は、およそ6千tで紙・板紙全体の2.2%と、現状(06年)の生産量9,324千t、30.0%の全体比率から比べると、ごく僅かなものでした。ただ、紙・板紙全体のなかで戦後直後の板紙の比重は低く、全体の15%足らずで、洋紙の新聞巻取紙と印刷用紙が主流であり、それだけで半分(50.1%)を占めていました。その後、紙・板紙の生産量は次第に増加していきますが、板紙のウエイトが高まっていきます。その大きなきっかけになったのは「朝鮮戦争」でした。1950(昭和25)年は、その6月に朝鮮動乱が勃発し「朝鮮特需」と言われるように、わが国では工業生産が急速に伸びて好景気となり、戦後の経済的復興に弾みがついた年で、板紙の生産量は紙以上に増加しました。段ボール原紙は紙・板紙全体の2.4%とまだまだ低いものの、量的には大きく伸び、その後も急速に伸びていくことになります。それとともに紙・板紙全体のなかでの位置付けも次第に高まっていきます。
それではそれを数値的に見ていきます。戦後の混乱が落ち着いてきた1950年を基準にした2006年の生産量の伸びは、紙・板紙全体が約36倍、また紙は28倍、ちなみに新聞巻取紙は29倍であるのに対して、塗工紙の伸びは1950年のおよそ520倍余という驚異的な成長をしております。これは本コラム65.「書く・拭く・包む」シリーズ(1)塗工紙(微塗工紙含む)で紹介したものですが、これを段ボール原紙に適用し、塗工紙・新聞巻取紙と対比して1950年を基準年とした段ボール原紙の生産量の伸び推移を表2に示します。
表2.段ボール原紙の生産量の伸び推移(基点:1950年)
| . |
1950年 |
55年 |
60年 |
70年 |
80年 |
90年 |
2000年 |
05年 |
06年 |
| 段ボール原紙 |
(基準年) |
9倍 |
39倍 |
179倍 |
241倍 |
394倍 |
460倍 |
443倍 |
444倍 |
| 塗工紙(微塗工紙含む) |
(基準年) |
3倍 |
9倍 |
63倍 |
117倍 |
247倍 |
406倍 |
518倍 |
526倍 |
| 新聞巻取紙 |
(基準年) |
3倍 |
6倍 |
15倍 |
20倍 |
26倍 |
26倍 |
28倍 |
29倍 |
新聞巻取紙も比較に載せていますが、新聞は早くから定着しており、終戦時(昭和20(1945)年)でも新聞巻取紙は紙・板紙のなかですでに大きなウエイト(構成比27.2%)を占めています。そのこともあり、表2のように1950年を基準にした現在までの新聞巻取紙の伸びは30倍くらいで、紙全体なみになっています。これに対して、歴史の新しい塗工紙は戦後順調に伸び、紙の中でも桁違いの06年で526倍という大きな伸びています。また、段ボール原紙も大きく伸び、2000年までは塗工紙に優る大きな成長をしています。ただ、両者ともにそれまでのピークであった2000年以降は動向が少し違いがあります。塗工紙は回復して、現在(06年)は2000年の生産量のピークを超えていますが、段ボール原紙は少しずつ回復しているものの、現在も2000年のピークに達していません。しかし段ボール原紙は今でも紙・板紙のなかでなくてはならない重要で、かつ主要な位置付けを占める品種といえます。
それにしても段ボール原紙は1955年9倍、60年が39倍、70年は179倍、80年241倍、90年394倍、そして2000年は460倍と驚くように大きな急成長していますが、これをもう少し事例を紹介しながら触れていきます。
段ボール拡大のきっかけは
わが国における段ボールの歴史は1世紀近くに及び、今ではなくてはならない包装資材になっていますが、広く普及しだしたのは戦後の今から50年足らずに過ぎません。すなわち日本の段ボール産業は、朝鮮戦争時に米軍によって調達物資として指定されたことによって需要が拡大し始め、高度成長期に入って木箱から段ボール箱への移行が急速に進んだことで、包装資材として重要な位置を占めるようになりました。もう少し説明します。
第二次世界大戦前は片面段ボールでの用途が最も多く、両段を使う段ボール箱は少ないものでした。段ボール箱がわが国で急速に普及したきっかけは、ひとつは朝鮮戦争であり、もうひとつは政府による木材資源保護対策であり、さらに段ボール原紙を供給する製紙会社による大幅な品質改善と量産化でした。これがその当時、全盛期であった木箱から段ボール箱への移行を促がす契機となり、木箱に替わって段ボール箱か全国に拡大していきました。
木箱から段ボールへ・・・包装革命
段ボール事業はアメリカが先行していましたが、戦後、アメリカの進駐軍とともに段ボール箱入りで多くの物資が日本に持ち込まれました。加えて1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争を契機としてアメリカから日本に送られてくる軍需物資のほとんどが段ボール箱で入ってきたと言われます。さらに米軍によって段ボール箱が調達物資として指定されたことによってわが国の段ボール需要が拡大し始めるようになります。しかもわが国の森林資源は、敗戦によって木材の宝庫であった樺太(からふと)を失い、加えて戦時中の乱伐によって森林面積は戦前の2分の1、備蓄量では70%に激減していました。それに対し逆に木材の需要は、戦後の復興のため建築用材、パルプ用材ともに急増したため、猛烈な原木争奪戦が展開されるようなりました。そのため1952(昭和27)年ごろからは木材価格は一般卸売物価と比較して格段の急上昇を見せることになります。これに対し当時紙パルプ産業は二つの対策を採りますが、そのひとつは木材資源利用合理化の推進であり、もうひとつはそれまで未利用であった広葉樹を高度に利用するパルプ生産技術を一段と進め、企業的にもこれを発展させようとするものでした。
なお木材資源利用合理化は、1955(昭和30)年1月に政府が木材の利用を節約しようという木材資源利用合理化方策を決定したものですが、この方策に沿ってその後の紙パルプ業界では、クラフトパルプ(KP)、セミケミカルパルプ(SCP)、ケミグランドパルプ(CGP)などパルプ製造技術の革新による針葉樹より割安な広葉樹の活用や、さらには廃材チップ利用による製紙原料への転換など多くの変化をもたらした。
このような戦後の状況下で、当時の日本では需要が伸びてきたとはいえ、段ボール原紙は板紙のなかでも10%余り(1950年)に過ぎず、また段ボールの比率は全包装資材の7%(1951年)と、その生産は少なくまだ木箱が最盛期でした。しかし、朝鮮動乱を契機とする特需景気によって、日本の経済が復興するとともに産業界も一気に活気付き、紙・板紙の需要も増加していきます。1951年ごろから政府は国家的見地で木材資源保護のため流通業界などに対し、当時輸送に使われていた木箱から段ボールへの切り替え運動を大々的に進め始めましたが、このときのキャッチフレーズは、「木箱でダンボール13個」だったそうです。つまり木箱1箱分に使われてる木材から13個の段ボール箱ができるので、貴重な木材を使わないで、その代わりに紙(主に古紙)でできている段ボール箱を使おうというものでした。当時、輸送包装資材としては木箱が一般的でしたので森林資源を乱伐から守るため、段ボール包装への切替を国が提唱したわけです。
この「包装革命」により、段ボール箱は次第に普及していくことになりますが、さらに上記、1955(昭和30)年の政府方策推進運動の中で木箱包装に替わる段ボール包装という問題も取り上げられたこともあり、段ボール箱需要は大きく拡大していくことになります。
段ボール箱の需要が拡大する中で、もうひとつ忘れてならないのは、段ボール原紙供給面での大幅な品質改善と量産化です。すなわち戦前の段ボールは、外装のライナ部分は古紙を原料に使い、中心部の芯も黄ボールや古紙を原料としていたために、品質はきわめて軟弱で、その用途は限定されていました。従って、戦前はもちろん戦後もしばらくの間は、この強度が弱い古紙入りの段ボールが主体であったため木箱の代替とはならなく、みかん箱・缶詰箱のような食品の容器をはじめ重量のある物品には、たいてい木製の箱が使用されていました。ところが、クラフトパルプ(KP)法やセミケミカルパルプ(SCP)法の開発によって大幅に変わることになります。
大きく伸びていた段ボール原紙の生産に対応するために、当時先駆的な大型抄紙機を導入した新鋭工場が北海道に建設されました。本州製紙釧路工場(現王子板紙釧路工場)です。現在、日本最大の段ボール原紙抄紙機(L-1、網幅7,110mm、製品取幅6,600mm、日産1,350t、年産能力45万t)を持つ工場ですが、1959(昭和34)年にわが国で初めてクラフトライナを生産するために、段ボール原紙の専抄工場として開設されました。このときのライナ抄紙機は、製品取幅4,800mm、年産10万tの大型設備で、当時としては驚くべき生産性を持つ抄紙機でした。これにより広葉樹を主原料とする強度の強い100%クラフトパルプを使用した段ボール原紙、クラフトライナ(Kライナ)を多量に、しかも廉価に供給し、生産面から包装革命を促進する旗手となりました。なお、そのころ豊富にあった北海道の広葉樹を原木とした段ボール用ライナを生産するこの釧路工場の新設も、国有林からある一定の原木が供給されることが前提になっていたということですが、これも木材資源の有効利用と木箱削減という国策的な側面があったようです。段ボール原紙は成長製品とみなされていたので、翌年秋ごろから、大昭和製紙、東海パルプ、天塩川製紙などが段ボール原紙の大型抄紙機を設置することなります。
また、前後してセミケミカルパルプ製のセミ中芯原紙の普及も、従来の中芯に比較して強度が強く、加速度的に木箱から段ボールへの切替が進むことになりました。すなわち新しく登場した段ボール箱は、木箱に代替しうる堅牢性を持ち、一般の重量物の包装容器として、かなりの程度まで使用に耐えうるまでの品質に改善されたわけです。しかも段ボールは木材の節約になるばかりか、木箱と比較した場合、軽便で折りたたみができ、組み立てが容易であること、しかも比較的狭い場所でも能率よく包装ができることなどの実用性が優れており、また価格においては、その用途によって木製品の数分の一以下というほど経済的でした。
こうした背景の中で、国策的勧奨「木箱から段ボールへ」により木箱から段ボール箱へと切り替わりが促進され拡大していきます。それとともに表2のように段ボール原紙の生産も増加していきます。
次に段ボール箱への切り替わり状況を簡単にまとめておきます。1954(昭和29)年からは段ボール製品の各分野への進出がめざましく、当初は、主に家電製品の重量物の包装用として切り替えが進められましたが、昭和30(1955)年代中ころから全国購買農業協同組合連合会(全購連、後に全国販売農業協同組合連合会(全販連)と合併して全国農業協同組合連合会(JA全農、全農)が誕生)や日本園芸農業協同組合連合会(日園連)が中心となって実施した段ボール箱を用いた青果物の大規模な輸送テストでした。これらの繰り返しテストで各種の青果物に対しても切替可能であることが逐次実証されていきました。
・1955(昭和30)年、段ボール箱の実用化機運が高まり、東北農試の指導で岩手りんごによる輸送試験がはじまり、引き続き青森、長野で実施されました。
・1956(昭和31)年、静岡のみかん、57年伊那の梨および愛知の柿、58年愛媛のみかん、岡山の桃、山梨のブドウなどで輸送テストを引き続き実施。
このなかで特記すべきは、「みかん」です。その推進母体は日園連でしたが、果物は俗に水菓子と呼ばれる"取扱要注意"の産物でしたから、段ボールという「紙」での包装・輸送には当然、拒否反応のような激しい反対の動きがあり、段ボールが安全であることの証明には、およそ3年間にわたって、手探りしながら、根気強く周到な計画のもとに実行された「輸送試験」による実証方法が採られました。その結果、下記のように成功していきます。
・1959(昭和34)年、広島みかんによる15キロ段ボール箱の輸送試験に成功。静岡、神奈川両県で実用化に踏切り、みかんの段ボール容器の標準サイズを決定します。またみかん、柿の品質、階級の全国統一規格が決まり、みかん、柿の容器が国鉄の標準荷造り包装貨物に指定されました。
このみかん包装の木箱からの転換成功が最大のインパクトとなり、青果実包装の段ボール化は、「青果物さえも段ボール包装に転換できる」ことを事実をもって証明されたために、その後は段ボール産業界は何のPRも必要なしに膨大な転換需要を手中におさめることができ、はかり知れない恩恵を受けることになったといわれます。そのためこの日園連の歴史は、果物包装の段ボール転換という一つのエポックを通じて後世まで永く記憶されるものがあろうとされています。
・1960(昭和35)年には、柿、二十世紀梨の段ボール箱の全国統一規格を決定。
・1961(昭和36)年、夏柑(夏蜜柑)の段ボール規格が決定されます。
ところでりんごの場合、「りんご木箱1箱分の木材から7箱分の段ボール」ができると言われていますが、りんご箱が木箱から段ボールに切り替わったのは、遅く1963(昭和38)〜1965年ごろのことです。その理由は、りんごの場合、木箱なら収穫にも使えるということや、長期間の野積みにも耐えられるということから、その切り替えには時間がかかったようです。また、昭和40(1965)年代後半から飲料用容器として主に使用されていたビンが、冷却や運搬に便利な缶へ移行していったことも段ボールの需要増加となりました。
さらに1965(昭和40)年代以降、高速道路の発達、舗装道路率の上昇、保管条件の向上などにより流通環境が非常に良くなり、段ボールに要求される強度は低下し、原紙のグレードの見直しが行なわれていきました。また石油危機により、最終需要家の包装費の節減や過剰包装の見直しのため、省包装が進んでいきます。昭和48年の第一次石油危機後の日本経済は、省資源化に向けて大きく進路を転換、それまでパルプライナ・パルプ中しんが主流で当然と考えられていた青果物用についても、古紙の再生利用によるジュートライナ・特しんへと積極転換が行われるようになりました。これに対して全農は、昭和50年12月から53年2月までの2年余りにわたって進めてきた「青果物用段ボールの適正包装に関する基礎試験」と、その結果を踏まえた「適正包装規格の設定」が、53年3月24日、全農から発表されました。この2年の歳月と、全組織をあげた膨大な基礎試験が実施されたことがあって、今では段ボール原紙の主要原材料は、段ボール古紙に置き換わり、それを誰も不思議とも思わなくなっていますが、その最初の第一歩を踏み出した全農の先駆的行動は、先の日園連とともに段ボールの歴史なかで大きく特記すべきことだと思います。
その後、昭和54年の第二次石油危機と同時に発生した輸入チップ価格の高騰が、もはや段ボールの古紙化への選択を許さない流れをつくることになりました。このような状況下でさらに外装ライナの軽量化が進められ、その中でも特に飲料缶用の段ボールの見直しで軽量化が急速に進むことになります。この段ボールの軽量化については前回触れました。
以来、段ボールは木材資源の節約、包装合理化、輸送合理化など、高度経済成長期を裏で支えた重要資材にまで発展し、現在に至っています。比較的安価で、国内のどこでも短い納期で大量に手配できることや、軽量であるにもかかわらず耐衝撃性、断熱性にすぐれて、組立てや開梱が容易にできることから、木箱に代わって包装資材の重要な地位を占めるようになりました。
そして今、実質GDPと連動性が薄れる段ボール
いろいろな用途に利用され役立っている段ボール。現在は少しずつ回復しているものの、昨今は包装資材を見直す風潮があり前記のように2000年をピークにその生産量は頭打ちになっています。右のグラフは日本経済新聞(2007年6月23日付)の「市況の法則」に掲載されたもので、
日本製紙連合会の調べによって作成された資料です。その本文に「段ボールの利用は国内総生産(GDP)の伸びに応じて拡大する。一時は段ボール業界の常識だったこの関係は、実は2001年ごろに薄れた」とあります。
右の実質GDPと段ボール原紙消費量との関係で、確かに2001年から両者は乖離しているのが浮き彫りになっています。しかも段ボール原紙の消費量が大きく低下して、その差が拡大しています。
実質国内総生産(GDP)との連動性が薄れた背景として、段ボール市場の成熟などに加えてコスト意識を強めている需要家・企業の軽量化ニーズの高まりによる原紙の軽量化という要因があり、さらに原紙価格の上昇で、段ボールそのものの使用量を削減を目指す動きも出ているとしています。実質GDPとの連動性が薄れた段ボール業界は、今や高付加価値品による顧客の取り込みや提携・再編などによって企業力・業界力を強める動きが出ています。
さらに多様化し身近に、世相を反映する段ボール
そのような状況下にある段ボールの世界も多様化しています。段ボール用途の多くは段ボール箱ですが、段ボールの家具もありますし、広くは公園や地下街、河原などでフレキシブルな簡易住居としてダンボールハウス(?)などもあり、いろいろなところで使用されてきています。特に昨年(2007年)は、それまで以上に話題も豊富でよく見かけましたが、次に新聞、テレビ、インターネットなどで目についた段ボール製品ないし段ボールに関する話題を幾つか拾ってみます。
@まず、地震国日本で昨年も大きな地震が発生しました。3月の能登半島地震と7月の新潟県中越沖地震ですが、ここで重宝がられたのが段ボール製の避難所用の簡易更衣室兼授乳室や、「プライバシーウォール」などいわれる段ボール製の間仕切りです。簡単に組み立てできる優れものです。軽くて持ち運びがたやすく、加工が簡単、使用後はリサイクルできることから利用が広がっているとのことです。
また、段ボール製の「すきま家具」、いわゆる地震などで家具が転倒しないように背の高いタンスなどの家具と天井の隙間に入れる家具転倒防止用の段ボール製の箱「耐震ボックス」です。段ボールの柔らかさが緩衝作用となって、震度7にも耐えられるとの実証試験も済んでいるとか。箱の中は収納ボックスにもなり、オプションで簡易トイレにもなるそうです。なお、防災用の食料などをその中に入れてもよさそうです。価格は4000円で、取り付けも簡単。
Aそういえば日曜日朝7時の教養番組「目がテン!」(日本テレビ系列)でも段ボール箱の強さを検証する場面がありました。「引っ越し(秘)荷造りテク」(第870回 2007年2月18日)ですが、「段ボールって紙なのに、なんで積み上げても潰れないのだろう?」という疑問に対して、最強といわれる3層構造の段ボール箱を8つ並べ、その上に板を乗せ、そこに1.6トンの重さの象が乗っても壊れなかったというものです(左写真参照…同ホームページ所さんの目がテン!から)。
Bさらに防水の特殊加工した段ボール紙製の仮設ハウスやベッド・椅子・机などの段ボール家具もあり、塗料や接着剤のほか、醤油などの食品にも使える段ボールのドラム缶(200リットル入り)もあります。他にも貯金箱やペン立て、子供用の遊具でキッチンセット(おままごと用)や動物などの模型などなど、段ボール製のさまざまな製品が豊富です。軽くて丈夫、加工もしやすく、使用後はリサイクルできるという段ボールの特性を活かした様々なアイデア製品が出てきています。
少し具体的に紹介します。
例えばダンディンドン有限会社(東京)の家具は強化段ボールを素材として使用しています。“トライウォール”という素材で、波状に加工された紙の層(フルート)を3段重ねになっています(左の段ボールの断面図参照)。
しかもその原紙であるフルート部分(中しん)は国産ですが、ライナはアメリカから輸入されたもので、繊維質の一番長いバージンパルプ(針葉樹パルプ)が使われているため、通常の段ボール箱に使われるような段ボールではなく、数倍堅牢で耐久性の高い、いわゆる強化段ボールができあがります。これを使用して作った洋服ダンスや机などの家具を写真で上に掲げましたが、もちろん実用的で普通の家具と比べても安いこともあり、またマスコミでも評判を呼び、注目もされて人気が高いとのことです(ダンディンドン有限会社参照)。
もうひとつ。先月、病院で目に付いたのですが、「医療廃棄物容器」(焼却処理)と印刷された段ボール製容器がありました。病院など医療機関等から排出される脱脂綿・ガーゼ・包帯・紙くずなど汚れて感染性のおそれのある廃棄物を入れて、それごと焼却処理するための専用容器(箱)ですが、こういう用途もあるかと感心しながら、その材質に無害で可燃性で、堅牢な段ボールが選ばれたのはもっともなことだと思ったものです。そのほとんどがリサイクルされ、環境にやさしい「優等生」であると言われている段ボールですが、このように自らは再生されなくても「安全・安心」のために使われるものもあるわけですね。
C
ところで皆さん、「空気砲」をご存知でしょうか。長方形の段ボール箱をガムテープで目張りして、一面だけに丸い穴を開け、両サイドを叩くと丸い穴から空気の塊が飛びでるもので、段ボールの中で線香を焚いて煙を入れてすれば空気の塊が目視できます。遠くからロウソクの火を消したりカーテンをゆらめかせたりするなどして、実験しながら面白く遊ぶことができる道具です(左写真参照…米村でんじろうサイエンスプロダクションから)。空気砲には強くてクッション性のある段ボールを使うのがぴったりです。
ちなみに、2007年11月28日放送の「トリビアの泉」で、10メートル四方の巨大空気砲を段ボールで製作し、その巨大空気砲を撃ったとき、ロウソクの火は何メートル先まで消せるのかを検証する画像が放映されました。かなりすごい映像でしたが、およそ900kgの段ボールを使って、貼り合わせて骨組みをして巨大な空気砲を作り、先にあるロウソクの火を消す実験でしたが、巨大な輪になった白いけむりが空気砲からゆっくりでて進んでいくさまは壮観でした。結局21メートル先までのロウソクの火を消すことができましたが、巨大な段ボール箱(空気砲)は本当に圧巻でした。ホームページ「YouTube - トリビアの泉 巨大空気砲…でんじろう先生監修」は、その貴重な動画ですが、みなさんも是非ご覧ください。
D7月に話題になった中国の「段ボール入り肉まん」事件、本コラム冒頭でも採り上げましたが、商品名「段ボール肉まん」を販売する肉まん屋「本物段ボール肉まん 毬琳(マリリン)」が先月(12月)12日日から東京・秋葉原にオープンしました。半年限定の発売だそうですが、これにもびっくりしました。調べてみますと肉まんの中に段ボールが入っているわけではなく、段ボール容器の中に1個420円の肉まんが入っているものでした(左写真参照)。社会問題に便乗した“おふざけ”に映りますが、販売したのは「晋ちゃんまんじゅう」など首相シリーズ商品で知られる菓子メーカー「大藤」で、当の社長本人はいたって真面目。中国の騒動を逆手に取った新作で、日本でも多発している「食品偽装問題を風化させてはならない」と、子会社を立ち上げて販売にこぎつけたもの。「段ボールに包まれた品質の良い肉まんを食べてもらうことで話題にもなる」とその真意を説明されているとか。なお、パッケージには「毬琳は偽装はしていません!」とか、「段ボールは食べられません」と印刷されているそうです。
E「ホームレス中学生」、これは人気のお笑いコンビ「麒麟」の田村 裕(28)が書いた貧乏自叙伝(ワニブックス刊)ですが、売れに売れて9月の発売からわずか2カ月でミリオンセラーとなり、175万部を超えて、なお増刷中で、昨年(07年)の年間ベストセラー2位(トーハン発表)になった出版界最大の話題作といわれています。このなかで今から15年前の13歳のときに突然住む家をなくし、大阪府吹田市にある近所の公園に一人住むようになった田村少年は、寝るところは巻貝のようなコンクリートの「うんこ型」滑り台。雨は天然のシャワー。毎日、自動販売機の下を覗き込んだり、鳩に餌をやるおじさんに頼んでパンの耳を分けてもらったり、空腹で何も食べるものがないときは草を食べたり、段ボールを水に浸して口にし、飢えをしのいだとか。食べた段ボールは美味しくなかったとのことですが、この本の表紙や帯を飾っているように、段ボールは鮮明な記憶に残るくらい大いに生活に役立ったようです。
これに関連して思い出されるのは、以前に韓国で発生したデパートの崩壊事故で10日以上も経ってから奇跡的に生還した人がいましたが、その人は段ボールを水に浸して食べていたということでした。そこで検索してみますと、ありました。「韓国・デパート崩壊事故 ガレキに埋もれた人々を救出せよ!」です。1995年6月29日、韓国・ソウル市。地上5階、地下4階の「三豊(サンプン)百貨店」が突如、轟音を立てて崩壊。原因は、後に構造上の欠陥と管理者側の安全意識の欠如にあったとされましたが、1400人以上(死者501名・負傷者937名・行方不明者6名)の死傷者を出す大惨事となりました。このなかに常識では考えられない、10日以上を経て奇跡の生還を遂げた3人の生還劇が載っていますが、その一人が段ボールを水に浸して食べていたということで、230時間ぶりの救出劇に、世界中が沸き立ったとあります(参照…F.E.R.C Research Data - 2003-11-16)。
F特に2007年は偽装や隠ぺい事件が多発しました。1月に発生した「不二家」に始まって、300年の暖簾のれんを誇る三重県の老舗、菓子舗「赤福」の34年間にわたる消費期限改ざんが明らかになり、秋田県の食肉加工製造会社は名産の比内地鶏と偽って他の鶏肉や卵を使った製品を出荷していた。この半年間だけでも、北海道の食肉加工販売会社ミートホープの食肉偽装、石屋製菓「白い恋人」の賞味期限改ざん、千葉県のコメ卸業者によるブレンド米の偽装など、食品表示の問題は枚挙にいとまがありまんでした。このほかにも、耐震偽装問題や人材派遣会社の偽装請負事件、英会話学校の偽装など多くの業界で偽りが見つかったほか、政治活動費や官庁省の裏金など政治関係でも、また相撲やボクシングなどスポーツ界でも相次いで偽りが発覚しました。
信頼できなくなった、これらの影響でしょうか、年末恒例の一般からの募集で決める「今年の漢字」(日本漢字能力検定協会主催)に先月12日、「偽」が決まりました。応募総数9万816通のうち、「偽」が1万6550通(18%)を集め、2位の「食」(2444通)、3位の「嘘」(1921通)など以下を大きく離してのダントツの1位でした。
左上の画像は11月16日、船場吉兆(大阪市中央区)による牛肉偽装表示事件で、船場吉兆本店の家宅捜索を終え、段ボールに入った押収物を運び出す大阪府警の捜査員らの写真(時事通信社配信)ですが、同社本店など12カ所から段ボール75箱分の資料を押収したということです。また年の瀬も迫った12月20日には2件の事件がありました。「和牛預託商法」と「霊感商法」の違反事件ですが、有限会社ふるさと牧場と有限会社「神世界」をそれぞれ、当局が家宅捜索しました。右の画像は有限会社「神世界」本社の家宅捜索に入る神奈川県警の捜査員の写真(産経ニュース提供)ですが、捜査員に抱えられた段ボールがあります。
このように多くの事件で家宅捜索が行われましたが、そのたびに折りたたまれた段ボール箱や押収資料の入った段ボール箱にお目にかかったものです。折りたたまれて一枚の平坦な板状になっているため、嵩ばらなくて軽く、運搬も組み立ても短時間に容易にでき、しかも物を入れた段ボール箱も持ち運びができるなどの利便性から、この種の用途にはなくてはならないものになっているようです。それにしても本当に「虚偽」の多い年でした。今年こそは「偽り」のない、あるいは少ない年になってほしいものです。
Gさらに忘れてならないのは「公的年金問題」です。昨年は5000万件を超える“宙に浮いた年金記録”と年金問題が大きくクローズアップし、その全容解明は越年していますが、去る12月17日テレビ放送の「年金記録は取りもどせるか」(NHKスペシャル)で、広い倉庫内に年金記録を記した書類が保管され、整然と並べられている数多くの段ボール箱と、その中からいくつかの台帳が映し出されました。本来ならばテレビにも映し出されることもなく、段ボール箱に保存状態よく、そのまま保管されていたのでしょうが、納めたはずの年金保険料の記録がないことが分かり、原本と照合作業を行うはめになったわけです。
以上いろいろと例示しましたが、さまざまなところで段ボールが使われています。多種多様で利用され役立っている段ボール。現在は少しずつ回復しているものの、昨今は包装資材を見直す風潮があり2000年をピークにその生産量は頭打ちになっていますが、その用途は広く、私たちにより身近になり、家庭内にも入り込んでいます。
他の紙にはない特殊な多層構造(トラス構造)を持ち、強力で吃驚するような威力を発揮する段ボール。しかもそのほとんどが「新しい命」を生み出すために、使用後は回収され、再び段ボールとして生まれ変わります。そしてその分身として誕生した段ボールは、「包む」素材としてはもちろんのこと、綺麗に印刷もでき広告媒体としての機能も持ち、オールマイティ的な存在として私たちの生活に欠かせないものとなっています。しかも、明治時代末の段ボールが誕生したころは、電球などの保護用緩衝材として使われたに過ぎなかったものが、今や段ボールは日常生活のあらゆる分野に入り、上記のようにいろんな場面に登場する段ボールは、世相を反映する代表的な紙になったとも言えます(2008年1月1日)。
(参考・引用文献)
・「トコトンやさしい紙の本」小宮英俊著(日刊工業新聞社、2001年12月発行)
・財団法人 紙の博物館「紙の博物館収蔵品」(平成12年6月発行)
・紙の博物館「百万塔」第108号 高橋弘治著「板紙戦後五十年の歩み」(平成13年2月発行)
・「紙パルプ2005 50年史と近未来」紙業タイムス社(2001年2月刊)
・成田潔英編「最新紙業提要」(新版)…昭和33(1958)年12月、丸善株式会社発行
・日本製紙連合会「紙・板紙統計年報」
・「紙の文化と産業 製紙業の100年」…王子製紙株式会社・十条製紙株式会社・本州製紙株式会社発行(凸版印刷株式会社 昭和48年6月1日発行)
・日本経済新聞(2007年6月23日付)「市況の法則」
・日本経済新聞(2007年8月4日付)「常識破る段ボール家具」(ライター 藤原仁美)
・世界大百科事典(第2版 CD-ROM版)…日立デジタル平凡社発行
・「広辞苑(第五版)…CD-ROM版」(発行所:株式会社岩波書店)
・ホームページDanz HomePage Contents、段ボールの歴史
・ホームページrengo home page、レンゴーの歴史、日本経済新聞「私の履歴書」井上貞治郎
・ホームページ戦国時代の南蛮文化紹介のコーナー
・ホームページ博物館見てある記、紙の博物館
・ホームページ全国段ボール工業組合連合会 トップページ
・ホームページ段ボール事報、段ボール事報 JIS規格表 - 用語
・ホームページ段ボール - Wikipedia
・ホームページ製紙産業の発展に大きな影響を与えた技術:外装用ライナーの軽量化
・ホームページ段ボール・紙器について
・ホームページ家具の転倒防止用の段ボール製の箱、耐震ボックス
・ホームページ段ボール製の仮設住宅キット、特殊加工段ボール紙製避難用仮設ハウス
・ホームページNHKニュース おはよう日本『まちかど情報室』
・ホームページ所さんの目がテン!
・ホームページダンディンドン有限会社 強化段ボール家具
・ホームページ米村でんじろうサイエンスプロダクション
・ホームページアキバ総研-「段ボール肉まん」が秋葉原に登場!
