栃木県大田原市荻野目

2001年12月訪問

 ここに来て最初に目に付くのは、やはりバス停だろう。市営バスの停留所がある。実際には、このバス停からだとかなり歩かないと荻野目には着かないのだが、……。

 その次に重要なのが、この集落の中心地=荻野目公民館である。なかなか風格のある文字である。建物の全景は……省略しておこう。

 「荻野目自治会」という名前で看板も二つほど出ていた。いずれも道端にあったものである。右側のは、ちょっと傾いていて、寂しさを漂わせるものである。

 この地域では、「通学班」というのがあるらしい。その集合所を見つけた。「荻野目地区4班」の子供たちはここに集合するのだろう。近くの親園小学校まで子供の足で徒歩10分くらいだろうか。

 車道に面して(株)大岩建設の資材置場があった。大きな字で「荻野目」と書いてあった。

 典型的な農村である。水田と畑が広がっている。荻野目とその他の境界がどこなのか、わからない。地図を参照しないと何もわからない感じである。

 昭和50年3月発行の『大田原市史 前編』の352ページに、大田原市内旗本領の一覧があるが、そこに荻野目村が登場する。64石とある。
 同書806ページには、荻野目村を含む村々の間の入会野争論が記されている。1649年から1874年(明治7年)まで続いた争論ということで、逆に言えば1649年には荻野目村が存在していたということになる。この争論に関連して808ページおよび810ページには「萩之目村」という表記が出てくるが、「萩」の字に「(ママ)」とあるため、これは荻野目村のことであることがわかるが、「之」と「野」の問題は残る。
 同書899ページには、別の争論が出てくるが、その節名には「荻の目村」というのが出てくる。本文中(899から901ページ)では「荻野目村」になっているが、気になる表記である。928ページにも荻野目村に関する境界争論が出てくる。
 昭和57年12月発行の『大田原市史 後編』の137ページには、明治22年に荻野目村を含む7か村が合併して親園村になったことが記され、これで「荻野目」は行政地名としては消えてしまい、大字として残ることになった。
 昭和31年3月発行の『栃木県町村合併史』(栃木県発行)というのがある。この401ページに、「荻野目」について、次のような記載がある。「明治維新まで大田原藩領であった。同地に豪族荻野目氏の居館址があるが、地名は「荻野間」が転じたものという。」地名と姓名のどちらが先なのか、わからない。また、なぜ「荻野間」が語源だと言えるのか、説明がないので、何とも分からない。
 栃木県立図書館蔵・荻野目公(著)(1988.10)『荻野目城誌年表略』という自費出版物(?)がある。その8ページから9ページにかけて、次のような記載がある。(一部略して引用する。)

 1363年 越後小木城主荻野遠江守は荻野(小木の)城主となり、性(ママ・姓のことか)を荻野に改める。
 1368年  荻野遠江守の子孫は祖先の地である、下野国那須の荘に逃れてきて余一宗隆の兄東福寺為隆の太郎信隆の築く荻野目村の竜崖の館にかくれていたのが荻野間であり、荻野間が訛って荻野目になり荻野目村である。

 ということで、この記述によれば、荻野の名前は人名が先、地名が後である。
 なお、竜崖というのは荻野目城のことであるが、そのあたりの事情は、大野信一(1988.7)「荻野目城址」下野史談第65号 にくわしい。

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