栃木県塩谷郡塩谷町原荻野目
2001年12月訪問
ここの地名は、「原」と「目」が余分だ。ま、そんなことをいってもしかたがないけれど、……。
さて、まず、現地へ行くと一番最初に目に付くのがバス停だ。
ところが、ごらんの通り「原荻の目」となっている。バス停としてこういう表記がされているということは、このような表記もかなり広く使われていることを象徴している。
近くにあった会社の看板の中に所在地が書かれていた。しかし、ここは「荻の目」とあり、「の」がひらがなであるだけでなく「原」がなくなっている。いやはや、地名の確定からむずかしくなるとは思ってもみなかった。
公民館も見つけた。神社の隣に立てられており、社務所兼用だという。
ここは正式名称をそのままうたっている。
また、道路際にあった看板でも、正式名称になっている。この道路は「農免農道」というのだそうだ。これについてさらに詳しく知りたい人は、HNKのよろずお好み相談所を参照してほしい。
上の写真でもわかるように、この地域は昔からの農村という感じである。屋敷林が家を取り巻いている。農家が点在している。典型的な水田地帯といえそうだ。ず〜っと水田が広がっているので、どこまでが原荻野目かわからない。
「県営圃場整備完成記念 拓心田」という碑があった。その裏には、次のように記されている。「山紫水明な石尊山を抱いて、その東裾に弧を描くように広がるこの塩谷中部地区は、塩谷町の中央部に位置し松川、荒川、鬼怒川の水系にあって、悠久の史実を有する芦場、飯岡、泉及び、道下、原荻野目、金枝並びに、風見山田、風見、大宮の区域に拓けた水田地帯である。【以下、略】」
「原荻野目」という名称が使われており、これが正式名称であることがわかる。
天然記念物サイカチがあった。2本の大きな木である。同時に、「とちぎ銘木百選」にも「荻野目のさいかち」としてあげられている。りっぱな見応えのある木の写真を掲載せずに、そのそばの看板だけを掲載するのは「荻野訪問記」ならではの主張である。
なお、Web のページを探すと、http://www.toukei.maff.go.jp/genti/1997_06/97_066_30.html
に原荻野目にある JA塩谷花き特産課 の話が出ている。
また、http://www.toukei.maff.go.jp/genti/1996_03/96_033_20.html
では、JAしおや・そ菜園芸課 の活動が紹介されている。いずれも「原荻野目」である。
中国から農業研修生(18〜29歳の女性13人)を受け入れているという話だが、その後の状況については、http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~tochitou/tiiki/jhou112.htm(長いページなので、「塩谷町」で検索すること)によると、研修生の二人が町民と結婚することになったとな。めでたい話である。
さて、平成9年3月発行の『塩谷町史 第4巻 通史編』を見てみよう。 390ページには原荻野目にある智慧神社(公民館の隣にあるもの)が806年に創建されたとある。そのころ、集落が形成されたわけで、「原荻野目」という名前が使われたかどうかはわからないけれども、この名前は非常に古い可能性がある。
同書の414ページには、天文14年(1545年)10月3日の宇都宮俊綱発給軍勢催促状の話が出てくるが、ここに「原荻野目」という地名が出てくる。今のところ、これが確認できる最古の例のようである。
同書519ページには、1685年から1697年ころの文書に「荻野目村」が出てくる。520ページには、1774年の文書で「原荻野目村」が登場し、1851年の文書で「荻ノ目村」が見える。この村にはいろいろな表記があったことがわかる。
同書818ページには、明治22年に原荻野目村その他合計12村が合併して玉生村ができあがったと記載されている。
村名の多様性には驚くが、これについては栃木県立文書館(編)の『栃木県史料所在目録 第16集』(昭和62年3月31日発行)に参考資料がある。この78ページから98ページまで、塩谷町大字原荻野目の川上家に伝わる文書の一覧がある。で、ここに現れる表記の多様性がすごい。文書番号で示すと、次の通りである。
荻野目村 49,58,67,74,78,79,84,97,100,218,381-383,385,392,421,457,466,470,665,708,710-711,747,840,870-871,888,908,933-934,966,974,1017,イ1-12,イ14-17,イ25-27,イ29-37,イ45-46,イ52,イ56-59,イ66-69,イ71,イ78イ,80,イ86-91イ
93-95 ,イ99,イ105-106,イ109-114,イ116,イ118,イ120-121,イ135-136,イ145-147,イ149,イ243
原荻野目村 124-126,288-290,312-314,316-317,319-343,347,350-354,356-376,380,384,389,444,541,612-613,616-617,619-620,622,630-632,635,638-639,644-645,647,662,670,,680,685-686,689-692,700-701,703-706,714,716-720,730,801,837,842,852,878,987,999,1013,1028,1030-1031,1050,1061-1062,1076-1077,1081,イ20-24,イ39-49,イ44,イ47-50,イ60-63,イ72-73,イ75-76,イ92,イ98,イ101-102,イ119,イ137-138,イ140,イ142,イ144,イ150-157
原荻ノ目村 223,530,583,740-746,763,864,イ246
原荻之目村 377-378
原荻目村 203,302-311,965,971,イ38
荻目村 201
荻之目村 473,イ129
荻ノ目村 81-85,イ130
明治以降は「原荻野目」の表記が多いようだが(正式な村名が決まったので、それにしたがったものと思われる)530のように、明治20年になっても「原荻ノ目」という表記が使われることもある。
このような表記の多様性を考慮すると、「原荻野目」の「野」は実質的な意味を担う名詞の「野」ではなく、格助詞の「ノ」であった可能性が高い。
なお、石下義一(1986)『ふる里 玉生の今昔』(自家版)という本がある。全部手書きの冊子であるが、その63ページに1690年の「玉生筋宗旨御改人数帳」17ヵ村という文書が転記してある。それには「萩野目村」として150人の人口があったことが記されている。65ページには1684年の「塩原筋」の村々の石高という文書が転記してあるがそこには「萩目村」とある。いずれも「おぎ」の漢字でなく「はぎ」の漢字が使われているが、手書きの筆写によるものであり、どこまで信頼できるかは不明である。さらに、同書71ページには、昭和3年の栃木県塩谷郡玉生村勢一覧という文書が引用されているが、その中に「厚荻野目」という大字が見える。「原荻野目」のミスプリであろう。その時点で24戸、166人の人口であったことが分かる。