山梨県上野原町荻野
2001年11月訪問
「荻野」に近づくと、まず見つかるのが「荻野入口」のバス停の表示である。いよいよ目的地が近づいたことがわかる。以下の写真は左がバス停の全景、右は拡大写真である。長年の風雪に耐えてきたようなバス停である。(ま、そんなに古いわけではないが。)1日に数本のバスがあることがわかる。
もう少し行くと、この集落のメインとなる「荻野」のバス停もあった。ポストと隣り合っているところがいかにも合理的だ。まさにこの集落の中心地という雰囲気だ。
とはいえ、実は、「荻野」は中央高速が中央をどーんと通っていて、南北に分断されているような感じになっている。この集落は、何を産業にしているのだろう。山間の山村という感じで、家が何十戸かあるけれど、……。
さて、上野原には一里塚がある。http://www.sannichi.co.jp/MAP/t-yuzuri.htm で見てみると、一里塚跡(大椚119など)として「江戸時代、甲州街道に約4k(1里)ごとに設けた塚跡。9m四方の小高い土盛りに、エノキ、松、モミなどが植えられ、道しるべとなっていた。大椚一里塚のほかに恋塚(大野1353)荻野(野田尻1028)塚場(上野原1013)の3カ所の一里塚がある。 」とあり、「荻野の一里塚」の存在がわかる。探してみると、程なく見つかった。教育委員会が丁寧な解説板を設置していた。以下に示すが、大変分かりやすい。ところが、この解説板の位置が実はわかりにくい。
解説板が設置してある全景を次に示す。一里塚といっても単なる茂みのように見え、そういわれないと気づかない。しかも、この写真の下の方に階段が見えるが、このような階段を十数段登った上に解説板があるので、道路のそばとはいえ、頭上に位置するわけで、なかなか探しにくい。
さらに集落の周辺を散策すると、いくつかの道案内の道標に「荻野」があった。
一つは「野田尻愛輪会」が設置したもので、このあたりをサイクリングで通るものであろう。
他には「上野原町観光協会」が設置したものが二つあった。そう、「荻野」は観光地なのであった。ここには、私のような物好き以外の観光客も来るということだろうか。
しかし、何が観光の対象なのか、残念ながら私にはわからなかった。
1975年7月発行の『上野原町誌(上)』の35ページには、上野原の地区・自治区・大字・字に関する説明が載っている。それによると、上野原町は八つの地区に分かれている。これは昭和30年の町村合併の時の旧町村に該当する。これが「地区」である。「荻野」は甲東地区の中の一つの自治区として名前が挙がっている。自治区はいわば町内会であり、行政区ではない。
上野原町の大字としては甲東地区には「野田尻」があがっており、「荻野」はない。「荻野」は小字である。現在、公式の地番表示は「上野原町」の次に「大字名」と「番地」をつけることになっているので、そのような意味では「荻野」は公式の住所・所在地などとしては使われていないことになる。(その代わり大字名の「野田尻」が使われる。)
同書の38ページに甲東地区の小字の境図が載っているが、ここには、「上荻野、中荻野、下荻野、荻野藪、原荻野、荻野南」の六つが載っている。現地では、確認できなかったが、「荻野」の中は実は細分されていたわけだ。それにしても「原荻野」や「荻野藪」という小字があるということは、この土地がいかにも山の中にあることを象徴している。
同書の329ページ付近には、上野原町のさまざまな地名に関する意味や由来が書いてあり、少々期待したのだったが、「荻野」は「不明の地名」の中に書かれてあり(329ページ、右の段、下から4行目)、残念ながらその種のことはわからない。
同書の340ページには、明治8年に甲東村ができたときの合併の前身の一つとして野田尻村があがっている。野田尻村は「野田尻宿・荻野・棚頭」からできていたようである。「荻野」はずっと前から村名としては使われず、小字の地位にとどまったようである。
同書の501ページには、「荻野(甲東)はやはり戦国期の戦場であり、江戸期街道設置後において街道沿いに集落したもの。」というような記述がある。つまり、集落の歴史をさかのぼれば、どうも江戸時代までさかのぼることができそうだ。
1975年7月発行の『上野原町誌(下)』の551ページには、町指定の文化財の一つとして「荻野の一里塚」が掲載されている。詳細は省略する。