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  八 幡 神 社

桧皮葺の優雅な姿である。この塔は当地の有力者であった鷲尾綱貞(義経を鵯越に手引きした鷲尾某の子孫か?)によって建てられた。神社境内に搭があるのは兵庫県で3基、全国で18基あるという。
(案内板:県内には当神社の他、名草神社・柏原八幡神社にある)このあたりは三重塔が多いが山陽道と違い裏道になるので戦火に遭わなかった為だろうか?荒木又衛門も鍵屋の辻の決闘の前、当地に家族共々身を隠していたという本を読んだ。
   塔高 18,2m
   石 峰 寺


この三重塔は室町時代の建築で嵯峨天皇の勅願によるものといわます。この時代に建立された三重塔の中では最も大きなものの一つだそうです。

三重の塔と中堂はともに大正4(1915)に国重要文化財に指定されています。


   塔高 
   大 滝 山
この塔は嘉吉元年(1441年)足利義教が建立したものと言われている。当寺縁起によれば、天平勝宝6年(754年)鑑真和尚によって創建されたと言う。後報恩大師が備前四十八ヶ寺を整備するにあたりその一に加えられた。
万寿元年(1024年)火災により全山焼失したが、観応年間(1350〜1351年)足利尊氏により再興され僧院三十三坊を数えた。この寺院は大滝山福生寺と言うが、何故重文指定では大滝山となるのでしょうか?
    塔高 19,7m
   国 分 寺

信濃国分寺は、創建当時の跡から北に数百mの位置に平安時代末期に再建されている。現存する三重塔は、源頼朝の発願という伝承があり、   
建久八年(1197年)の墨書があったともされるが、様式から室町時代中期の建立と推定されている

   塔高 20,1m
   真 光 寺


真光寺寺伝によると牛窓町の蓮華頂寺にあった塔を、慶長
18(1613)現在地に移築したと言う。
均整のとれた美しい容をしている。三重塔の屋根瓦の金色が印象的でした。

   塔高 18,2m
   南 法 華 寺
立派な基壇上に建つ、やや大型の三重塔。当初の塔は奈良時代といわれその礎石が今も用いられている。昭和2年に解体修理され、室町時代和様の代表的名塔といわれる。
当寺は大宝3年(703年)弁基上人の創建。西国三十三観音の第六番札所。「花の山壺坂霊験記」(盲人の沢市とその妻お里の夫婦愛の物語)で有名。

   塔高 23,1m
 新 海 三 社神社

三重塔(嘉祥二年=八四九年)東本殿(室町時代・信玄再興)は重要文化財、
御魂代石は重要文化財指定申請中である。さく地方最古(室町時代)の塔。

   塔高18,9m
   立 石 寺

岩屋内にあり、現在では格子とガラスで保護されている。、 
立石寺は、山寺」として有名な、天台宗の寺院である。
  
   塔高 2,05m
  名 草 神 社

大永7(1527)尼子経久が願主になり、出雲大社に建てられたこの搭は、寛文5(1665)当地に移築された。出雲大社の本殿が関西地方屈指の豪雪地帯であるこの土地の木材(妙見杉)
使用した為その返礼としてこの搭を贈ったといわれる。屋根を支える力士・蟇股の透かし彫り・四猿の彫刻など装飾の多い綺麗な搭である。
 それにしてもこんな遠い山の中によく運んだものだと思う。信仰の力は本当に凄い。
   塔高 24,1m
   三 明 寺 

本当に小さな塔であるが容姿は美しい。三層の屋根の反りの美しさは格別。一・二層が和様、三層が禅宗様で変化をつけている(那谷寺に次いで小さい三重塔)。相輪は明治時代中期には失われていたが 
解体修理に伴い復元した。 当寺は大宝2年(702年)の創建。平安末に焼失したが、のち後醍醐天皇の皇子無文元遷が遠州方広寺に行く途中当地に立ち寄りその荒廃を嘆いて再興したと伝えられている 

   塔高 14,5m
   西 明 

天文6西明寺城主益子家宗の建立。楼門(重文)の外側に建てられている珍しい塔。屋根の勾配は他に例を見ないほど急であり、異形である。屋根は
保存のため上を唯一の竪板型銅板シコロ葺で,銅板で覆っている。この急勾配を考慮すると当初は流し板葺であったと考えられる。当寺は天平9年(737年)行基の創建と伝えられる。
   塔高 18,2m
   斑 鳩  
大和斑鳩で聖徳太子のお経に感心された推古天皇が、太子に対し播磨国のこの地に水田360町歩を与えた。太子は斑鳩荘と名付け、606年寺を建立したのがこの斑鳩寺である
創立後900年を経た天文10(1541)赤松氏の兵火に罹り堂塔の殆どが焼失。その後、永禄8(1565)赤松政秀により再建されたのが現在の塔である。    
   塔高 24,9m
   前 山 寺 

この塔は二・三重に縁がなく、また初重脇間・二・三重は板壁のままで扉や窓がない。未完成に終わった塔である。
しかしながら簡素・素朴な造りはそのままでも美しく「未完成の完成塔」と呼ばれる。弘法大師の創建と伝えられている。鎌倉時代塩田北条氏の祈願寺。
   塔高 17,1m
   日 吉 神 社
弘仁8(817)最澄が当地に巡錫、日吉神社を創建し山王大権現の御分身を祀った。三重塔は元平安時代に建てられたと言われるが、現存の塔は
永正年間斎藤利綱(春日局の父斎藤利三の伯父)が再建し、後天正13(1585)稲葉一鉄(春日局の叔父)が修造したものである。
   塔高 24,7m
   金 剛 

天長6(829)平城天皇の第3皇子である高岳親王の創建。親王は、大同4(809)「薬子の乱」に連座し高野山に入る。天長2(825)当地の全海が高野山に登り、4年後親王に従い帰郷、当寺を創建した。快慶初期の作品である執金剛神立像・深沙大将立像が注目される。重源の記録で執金剛神・深沙大将の2像と
四天王を高野山に納めた記録があるが、高野山には現在四天王しかなく、後金剛院に移された可能性がある。鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子なりこ‐)が久安2(1146)当寺の三重塔等を整備された折、待賢門院(藤原璋子たまこ‐)の死を悼み、阿弥陀如来坐像を祀ったことから「美福門院の御願所」として知られるようになった。   
 
 塔高 24,0m
   長 命 寺

天長6(829)平城天皇の第3皇子である高岳親王の創建。親王は、大同4(809)「薬子の乱」に連座し高野山に入る。天長2(825)当地の全海が高野山に登り、4年後親王に従い帰郷、当寺を創建した。快慶初期の作品である執金剛神立像・深沙大将立像が注目される。重源の記録で執金剛神・深沙大将の2像と四天王
を高野山に納めた記録があるが、高野山には現在四天王しかなく、後金剛院に移された可能性がある。鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子なりこ‐)が久安2(1146)当寺の三重塔等を整備された折、待賢門院(藤原璋子たまこ‐)の死を悼み、阿弥陀如来坐像を祀ったことから「美福門院の御願所」として知られるようになった。
   塔高 24,4m
   宝 積 寺

傍らに「一夜之塔」とかかれた木札が立てられている。
  

宝積寺は真言宗智山派の寺院であり「宝寺」とも呼ばれる
  
塔高 19,57m
    油 山 寺

天正2年(1574年)に着工し、慶長16年完成。嘉永6年(1853年)白木造りを丹塗りにする。大正9年(1920年)柿葺から銅板葺に改める。
昭和42年(1967年)解体修理この塔は、滋賀の長命寺・山崎の宝積寺と並んでの三桃山時代名塔と呼ばれている

   塔高 23,9m
   乙 宝 寺




この塔は村上藩主村上周防守忠勝が願主となり、慶長
19(1614)起工、5年の歳月をかけ元和6(1619)完成
京都の大工藤原吉正の手になる塔で堂々とした古式和様の美しい塔である。乙法寺は天平8(736)創建の古刹。

   塔高 24,2m
   甚 目 寺

江戸時代に建てられた塔とは思えないほど重厚な三重塔である。名古屋の両替商吉田半次郎政次の寄進。当寺は大変古い寺で推古天皇の5年(597年)、伊勢甚目(はだめと読む)村の漁夫龍麿が江上庄の入江で漁をしていたところその網に黄金
の聖観音像が掛りその像を祀る為堂を建てたのが始まりといわれる。聖観音像は、百済から伝えられ、敏達天皇14年(585年)海に投じられた三尊仏の一と伝えられています。他の二仏、阿弥陀仏は信州善光寺に又勢至仏は筑前太宰府安楽寺に安置されているということです。
   塔高 28,0
   清 水 寺
承和14年(847年)当初の塔が建てられたと言う。現在の塔は寛永9年(1632年)徳川家光の再建。当寺は、宝亀9年(778年)延鎮上人が夢のお告げで音羽の滝を尋ね、
行叡居士に遇い霊木を授けられて音羽観音を彫造し祀ったのが始まりという。その後坂上田村麻呂が観音に帰依し本堂を建立し本尊十一面観音を安置した。
   塔高 31,0m
   金戒光明寺

伊丹重好が徳川秀忠追善供養のため寛永11年(1634年)建立。初層内部に獅子に乗っ像を安置する為、「文殊の塔」と呼ばれている。金戒光明寺は、

比叡山黒谷を出た法然上人がこの地に庵を結んだのが始まりとされる。右上の山門はテレビの時代劇で御馴染み。

   塔高 22,0m
   那 谷 寺

禅宗様を基調としており、初層が大きく安定した姿である。初重が独特、二・三重の大きさからみると四天柱が通常の側柱の位置に相当するほど。
初層の柱間の壁板には、唐獅子と牡丹の浮彫りがあり桟唐戸の浮彫りと共に華麗である。妙成寺にも彫刻があり加賀前田藩の特徴か。山上善右衛門の建造と伝えられる。

   塔高 11,6m
   真 禅 院
この三重塔は当初天平13(741)に建てられたが、関が原合戦で焼失。寛永19年徳川家光によって再建された。明治以前は近くの南宮社に建てられていたが、明治4(1871)秀覚法印と村人の努力によって
現在地に移された。当寺は天平11(739)行基自ら阿弥陀如来像を彫刻し象背山宮処寺と名付けたのが始まりという。時代が下り延暦年間伝教大師最澄が南宮神社と両部習合し神宮寺となった。

   塔高 26,4m
    清  水 寺
正面は三間とも戸がなく格子張りとなっている。初層の軒が高く2・3層は低くなっている。
  子 安 塔

千手子安観音を祀る。


   塔高 12,0m
   本 山 寺
津山藩主森長継が承応元年(1652年)に再建。当寺は大宝元年(701年)頼観の創建(役小角の創建とも伝えられる)。
法然の両親がまだ子供に恵まれなかった頃、毎日当寺の本尊である観音様に祈願して法然が誕生したと言う。
   塔高 24,0m
   輪 王 

朝廷の供養のために仁裕二年
(一二四一)に東照宮境内付近に建立その後この地に移された。貞亨元年(一六八四)の
大火で焼失、
翌年再建されたのが現在の塔である二間四方(約6m)最下層の蛙廊に十二支の彫刻がある

   塔高 15,0m
   新 勝 寺
この塔の周囲には十六羅漢像が彫られている。非常に装飾された姿は日光の陽明門の様。相輪頂から宝鈴付きの宝鎖を下げているのは大変珍しい。。
新勝寺は天慶3(940)寛朝大僧上の創建。朱雀天皇から平将門の乱平定の密勅を受け、弘法大師が敬刻開眼した不動明王を奉持し当地で祈願したのが始まりという。
  塔高 25,0m


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