摂政・関白一覧

歴代摂政・関白一覧
摂政は、天皇に代わり政務を見る職で、幼少・病気・事故などにより天皇の政務に支障がある場合に置かれた。皇族もしくは藤原北家出身の皇家外戚(後には外戚は関係なし)で、大臣の経験者であることが条件だった。そのため権力を掌握するために就き、天皇家の即位にまで影響を与えるようになる。しかし武家が台頭してからは実力を弱めていった。詔勅に関する文書、官位、朝廷の儀式などを受け持つ。明治維新時に一旦廃止され、憲法制定で天皇の代理職として置かれた。現行の皇室典範にも定められているが、女性を含めた成年皇族が就いて国事行為を代行する。
関白も政務を天皇に代わって行う職で、天皇の幼少時の摂政が天皇の成人後に就くこともあった。外戚は条件ではなかったが、藤原北家の出身で大臣経験者である必要があった。後には摂政は置かれず関白だけのことが多くなる。明治維新で廃止。
摂政・関白 在職期間 天皇代 備考
(神功皇后) 日本書紀に摂政に就いた事が記されているが、天皇の代理ではなく仲哀天皇の没後政務を見たとある。史料によっては即位したともあり、称制(天皇が在位していないときに、皇族が政務を見ること)といえる。
聖徳太子 593〜622 推古天皇 皇太子。
中大兄皇子 655〜661 斉明天皇 皇太子の時で、後の天智天皇。
草壁皇子 681〜686 天武天皇 皇太子。
藤原良房 866〜872 清和天皇 詔を得て人臣摂政の初例となる。しかしその前から実質上の摂政であった。太政大臣。実力を持って前例を覆すことの多かった人物。
藤原基経 876〜884 陽成天皇 右大臣。良房の養子となって藤原北家を継ぐ。
藤原基経 887〜890 宇多天皇 宇多天皇の詔に難癖を付けて実権を握り、関白の初例となる。太政大臣。
藤原忠平 930〜941 朱雀天皇 摂政。左大臣・太政大臣。宇多天皇の親任が強く天皇幼少により就任。
藤原忠平 941〜946 朱雀天皇 太政大臣。比較的穏健派で、天皇成人にともない辞職を望んだが、受け入れられず関白に移行した。
藤原忠平 946〜949 村上天皇 太政大臣。引き続き関白となる。故実に詳しかった人物。
藤原実頼 967〜969 冷泉天皇 左大臣・太政大臣。
藤原実頼 969〜970 円融天皇 太政大臣。
藤原伊尹 970〜972 円融天皇 右大臣・太政大臣。
藤原兼通 974〜977 円融天皇 太政大臣。弟兼家と内紛を繰り広げた。
藤原頼忠 977〜984 円融天皇 左大臣・太政大臣。外戚ではないが、関白兼通が弟との対立の兼ね合いで関白に推し就任した。
藤原頼忠 984〜986 花山天皇 太政大臣。一条天皇即位で関白を辞し太政大臣のみとなった。
藤原兼家 986〜990 一条天皇 右大臣(在任中に辞任)・太政大臣。兄兼通に阻止されて長く関白となれなかった。花山天皇退位を画策し、一条天皇の外戚として摂政の座に就いた。まもなく右大臣を辞して、准三宮の宣旨を受け、摂政関白を大臣の上に位置する地位にした。
藤原兼家 990 一条天皇 太政大臣。関白就任間もなく病気で辞職。
藤原道隆 990 一条天皇 内大臣。兼家の子で、父と伯父(兼通)が対立していたときは出世できずにいたが、兼家が摂政となると一気に権大納言まで昇進した。
藤原道隆 990〜993 一条天皇 内大臣(在任中に辞任)。
藤原道隆 993〜995 一条天皇 前内大臣。子に地位を譲ろうとしたがかなわず没する。
藤原道兼 995 一条天皇 右大臣。関白就任7日で没したため、弟道長の台頭を招く。
藤原道長 1016〜1017 後一条天皇 左大臣、太政大臣。兄一族と争い権力の座に就く。内覧の地位に就き関白に並ぶ権勢を得たので、後に「御堂関白」と呼ばれた(御堂は道長の別称)。自らの娘を皇后とし、皇后が2人いる状態となる。摂政は1年ほどで息子に譲ったが権力の座に居続けた。道長の子孫が藤原摂関家(五摂家)として摂政関白を輩出することになる。
藤原頼通 1017〜1019 後一条天皇 内大臣。道長の子。以降50年にわたり摂政関白の地位にあった。
藤原頼通 1019〜1036 後一条天皇 内大臣・左大臣。
藤原頼通 1036〜1045 後朱雀天皇 左大臣。
藤原頼通 1045〜1067 後冷泉天皇 左大臣・太政大臣。
藤原教通 1068 後冷泉天皇 左大臣。道長の子。兄から譲られた。
藤原教通 1068〜1072 後三条天皇 左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。外戚ではなかったため、天皇親政となり、権勢はなかったという。
藤原教通 1072〜1075 白河天皇 前太政大臣。
藤原師実 1075〜1086 白河天皇 左大臣(在任中に辞任)。
藤原師実 1086〜1090 堀河天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。
藤原師実 1094〜1099 堀河天皇 前太政大臣。
藤原師通 1094〜1099 堀河天皇 内大臣。白河院政を批判、天皇と協力して治世に当たった。
藤原忠実 1105〜1107 堀河天皇 右大臣。
藤原忠実 1107〜1113 鳥羽天皇 右大臣・太政大臣(在任中に辞任)。非外戚。
藤原忠実 1113〜1121 鳥羽天皇 前太政大臣。白河院と対立し辞任。鳥羽院で内覧の地位を得た。
藤原忠通 1121〜1123 鳥羽天皇 内大臣・左大臣。忠実の子で、その辞任を受け関白となる。父親とは不仲だったと言われる。
藤原忠通 1123〜1129 崇徳天皇 左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。
藤原忠通 1129〜1141 崇徳天皇 前太政大臣。
藤原忠通 1141〜1150 近衛天皇 前太政大臣。
藤原忠通 1150〜1155 近衛天皇 前太政大臣。
藤原忠通 1155〜1158 後白河天皇 前太政大臣。
藤原基実 1158 後白河天皇 右大臣。
藤原基実 1158〜1165 二条天皇 右大臣・左大臣(在任中に辞任)。
藤原基実 1165〜1166 六条天皇 前左大臣。
藤原基房 1166〜1168 六条天皇 左大臣(在任中に辞任)。平氏と対立。
藤原基房 1168〜1172 高倉天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。
藤原基房 1172〜1179 高倉天皇 前太政大臣。平清盛と対立して配流となる。
藤原基通 1179〜1180 高倉天皇 近衛元通。内大臣。平清盛の手で擁立された。しかし後白河法皇と親しく、その庇護を受けた。源義仲や叔父にあたる九条兼実と対立。
藤原基通 1180〜1183 安徳天皇 近衛元通。内大臣(在任中に辞任)。
藤原基通 1183 後鳥羽天皇 近衛元通。前内大臣。
藤原師家 1183〜1184 後鳥羽天皇 内大臣。
藤原基通 1184〜1186 後鳥羽天皇 近衛元通。前内大臣。叔父九条兼実と対立し、庇護者である後白河法皇の手で摂関家領を安堵された。
九条兼実 1186〜1191 後鳥羽天皇 右大臣(在任中に辞任)・太政大臣。藤原忠通の子。異母兄弟は近衛家。慈円は弟。九条の地を与えられ子孫は九条家を名乗る。同族や後白河院、平氏、源氏を巻き込んだ権力争いに乗らず、最後に残った源頼朝と手を組む。甥に代わり摂政の地位に就いた。
九条兼実 1191〜1196 後鳥羽天皇 太政大臣。後白河法皇の死後関白になるが、天皇の外戚源通親の手で失脚に追い込まれた。以降仏教信仰に専念する。当代随一の教養人。
藤原基通 1196〜1198 後鳥羽天皇 近衛元通。前内大臣。対立する九条兼実が失脚すると復帰。
藤原基通 1198〜1202 後鳥羽天皇 近衛元通。前内大臣。
九条良経 1202〜1206 土御門天皇 左大臣(在任中に辞任)・太政大臣。政敵だった源通親の死後権力の座に就くが、まもなく急死。暗殺されたという説もある。
近衛家実 1206 土御門天皇 左大臣。
近衛家実 1206〜1210 土御門天皇 左大臣(在任中に辞任)。
近衛家実 1210〜1221 順徳天皇 前左大臣。後鳥羽上皇の院政下にあり実権は低かった。後復帰。
九条道家 1221 仲恭天皇 左大臣。幕府と親しかったが、承久の乱を受け朝廷の責任者として一旦辞任する。まもなく復帰。
近衛家実 1221〜1223 後堀河天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。後高倉院政下にあった。
近衛家実 1223〜1228 後堀河天皇 前太政大臣。後高倉院の没により朝廷内の実権を得る。屋敷地名から「猪隈関白」と呼ばれる。
九条道家 1228〜1231 後堀河天皇 前左大臣。4男は幕府将軍藤原頼経。
九条教実 1231〜1232 後堀河天皇 左大臣。
九条教実 1232〜1235 四条天皇 左大臣。
九条道家 1235〜1237 四条天皇 前左大臣。将軍後継問題で幕府と対立し、政界を去った。
近衛兼経 1237〜1242 四条天皇 左大臣(在職中に辞任)・太政大臣(在職中に辞任)。九条道家より譲られて地位に就いた。
近衛兼経 1242 後嵯峨天皇 前太政大臣。「岡屋関白」と呼ばれる。
二条良実 1242〜1246 後嵯峨天皇 左大臣(在職中に辞任)。摂政九条道家の子。二条家の祖。父道家と不仲になり、天皇と父の推す弟一条実経に関白職を譲った。
一条実経 1246 後嵯峨天皇 左大臣。九条道家の子で一条家の祖。
一条実経 1246〜1247 後深草天皇 左大臣(在職中に辞任)。
近衛兼経 1247〜1252 後深草天皇 前太政大臣。
鷹司兼平 1252〜1254 後深草天皇 左大臣・太政大臣(在職中に辞任)。近衛家実の子で鷹司家の祖。たびたび摂政関白に任ぜられ、長期にわたって朝政を担当した。
鷹司兼平 1254〜1259 後深草天皇 前太政大臣。
鷹司兼平 1259〜1261 亀山天皇 前太政大臣。
二条良実 1261〜1265 亀山天皇 前太政大臣。摂家将軍藤原頼経が失脚した際に連座したが、父道家が没すると政界に復帰し関白に再任した。弟一条実経に譲った後も権力の座にあった。
一条実経 1265〜1267 亀山天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂家将軍藤原頼経が失脚した際に連座したが、後政界に復帰。兄から再度関白の座を譲られた。
近衛基平 1267〜1268 亀山天皇 左大臣。実権はほとんどなかった。
鷹司基忠 1268〜1273 亀山天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂政鷹司兼平の子。後太政大臣。
九条忠家 1273〜1274 亀山天皇 前右大臣。摂政九条教実の子。関白氏長者。
九条忠家 1274 後宇多天皇 前右大臣。半年で辞職。
一条家経 1274〜1275 後宇多天皇 左大臣。摂政関白一条実経の子。摂政氏長者。
鷹司兼平 1275〜1278 後宇多天皇 太政大臣(在任中に辞任)。
鷹司兼平 1278〜1287 後宇多天皇 前太政大臣。
二条師忠 1287 後宇多天皇 左大臣。関白二条良実の子。
二条師忠 1287〜1289 伏見天皇 左大臣(在任中に辞任)。幕府の意向で近衛家基に譲った。
近衛家基 1289〜1291 伏見天皇 右大臣(在任中に辞任)。関白近衛基平の子。幕府の意向で関白となる。
九条忠教 1291〜1293 伏見天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白九条忠家の子。85歳で没した。
近衛家基 1293〜1296 伏見天皇 前右大臣。
鷹司兼忠 1296〜1298 伏見天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂政鷹司兼平の子。氏長者。
鷹司兼忠 1298 後伏見天皇 前左大臣。
二条兼基 1298〜1300 後伏見天皇 左大臣(在任中に辞任)・太政大臣(在任中に辞任)。後伏見天皇元服後に太政大臣を辞して関白となる。
二条兼基 1300〜1301 後伏見天皇 前太政大臣。
二条兼基 1301〜1305 後二条天皇 前太政大臣。
九条師教 1305〜1308 後二条天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白九条忠教の子。
九条師教 1308 花園天皇 前左大臣。
鷹司冬平 1308〜1311 花園天皇 左大臣(在任中に辞任)。太政大臣。関白鷹司基忠の子。太政大臣。
鷹司冬平 1311〜1313 花園天皇 太政大臣(在任中に辞任)。以降、3たび関白となった。
近衛家平 1313〜1315 花園天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白近衛家基の子。「岡本関白」と呼ばれる。
鷹司冬平 1315〜1316 花園天皇 前太政大臣。
二条道平 1316〜1318 花園天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂政二条兼基の子。元弘の乱では幕府の手で閉居となる。
二条道平 1318 後醍醐天皇 前左大臣。
一条内経 1318〜1323 後醍醐天皇 内大臣(在任中に辞任)。内大臣一条内実の子。
九条房実 1323〜1324 後醍醐天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白九条忠教の子。
鷹司冬平 1324〜1327 後醍醐天皇 太政大臣。
二条道平 1327〜1330 後醍醐天皇 前左大臣。
近衛経忠 1330 後醍醐天皇 右大臣(在任中に辞任)。これ以降、北朝・南朝の間を行き来し、最後は吉野で没した。
鷹司冬教 1330〜1331 後醍醐天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂政鷹司冬平の養子。
鷹司冬教 1331〜1333 光厳天皇 前左大臣。隠岐から脱出した後醍醐天皇の手で解任。
近衛経忠 1336〜1337 光明天皇 左大臣。関白近衛家平の子。光明天皇の即位で関白となるが、まもなく南朝へ出奔した。
近衛基嗣 1337〜1338 光明天皇 前左大臣。左大臣近衛経平の子。左大臣となるが、光厳天皇の廃位で一旦辞職。その後復帰して関白。
一条経通 1338〜1342 光明天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白一条内経の子。
九条道教 1342 光明天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂政九条師教の子で、叔父房実の養子。歌人。
鷹司師平 1342〜1346 光明天皇 右大臣(在任中に辞任)。摂政鷹司冬平の子で、関白鷹司冬教の養子。
二条良基 1346〜1348 光明天皇 右大臣・左大臣。関白二条道平の子。北朝歴代の天皇に仕える。二条流の歌人でもある。
二条良基 1348〜1351 崇光天皇 左大臣(在任中に辞任)。
二条師基 1351〜???? 後村上天皇 前左大臣。南朝。大将軍として出兵している。
二条良基 1352〜1358 後光厳天皇 前左大臣。
九条経教 1358〜1361 後光厳天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白九条道教の子。
近衛道嗣 1361〜1363 後光厳天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白近衛基嗣の子。光厳天皇の親任を受けた。
二条良基 1363〜1367 後光厳天皇 前左大臣。
鷹司冬通 1367〜1369 後光厳天皇 左大臣。関白鷹司師平の子。
二条師良 1369〜1371 後光厳天皇 右大臣・左大臣。関白二条良基の子。「尊卑分脈」に狂気という注釈がついている。
二条師良 1371〜1375 後円融天皇 左大臣(在任中に辞任)。
九条忠基 1375〜1379 後円融天皇 左大臣(在任中に辞任)。
二条師嗣 1379〜1382 後円融天皇 左大臣(在任中に辞任)。3たびに渡り関白に任ぜられる。
二条良基 1382〜1387 後小松天皇 太政大臣(在任中に辞任)。
近衛兼嗣 1387〜1388 後小松天皇 右大臣。関白近衛道嗣の子。
二条良基 1388 後小松天皇 前太政大臣。
二条良基 1388 後小松天皇 前太政大臣。
二条師嗣 1388〜1394 後小松天皇  
一条経嗣 1394〜1398 後小松天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白二条良基の子。将軍義満とも親しく、学者公卿として知られる。
二条師嗣 1398〜1399 後小松天皇 前左大臣。
一条経嗣 1399〜1408 後小松天皇 前左大臣。
近衛忠嗣 1408〜1409 後小松天皇 左大臣(在任中に辞任)。摂政近衛兼嗣の子。
二条満基 1409〜1410 後小松天皇 内大臣・左大臣。関白二条師嗣の子。和歌・連歌を好んだ。
一条経嗣 1410〜1412 後小松天皇 前左大臣。
一条経嗣 1412〜1418 称光天皇 前左大臣。
九条満教 1418〜1424 称光天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白九条経教の子。のちに満家と称する。
二条持基 1424〜1428 称光天皇 左大臣(在任中に辞任)・左大臣(再)。
二条持基 1428〜1432 後花園天皇 左大臣(在任中に辞任)・太政大臣。
一条兼良 1432 後花園天皇 左大臣(在任中に辞任)。学者公卿として知られ、多くの書物を執筆、様々な文芸の会に出席した。しかし膨大な書籍を収めた桃華坊文庫は応仁の乱で焼失。自邸も失ったため奈良に疎開した。その後生活費用の確保に苦慮し、各地の大名を訪れて講義を行い収入を得たという。
二条持基 1432〜1433 後花園天皇 太政大臣(在任中に辞任)。
二条持基 1433〜1445 後花園天皇 前太政大臣。
近衛房嗣 1445〜1447 後花園天皇 左大臣(在任中に辞任)。
一条兼良 1447〜1453 後花園天皇 太政大臣(在任中に辞任)。
二条持通 1453〜1454 後花園天皇 右大臣(在任中に辞任)。関白二条持基の子。3たび関白となる。
鷹司房平 1454〜1455 後花園天皇 左大臣(在任中に辞任)。右大臣鷹司冬家の子。文人公卿で一条兼良と親しかった。
二条持通 1455〜1458 後花園天皇 前左大臣・太政大臣。
一条教房 1458〜1463 後花園天皇 左大臣。一条兼良の子。父譲りの文才があったが、応仁の乱で京を離れ、土佐に下向した。子孫は戦国大名となる。
二条持通 1463〜1464 後花園天皇 前太政大臣。
二条持通 1464〜1467 後土御門天皇 前太政大臣。
一条兼良 1467〜1470 後土御門天皇 前太政大臣。
二条政嗣 1470〜1476 後土御門天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白二条持通の子。
九条政基 1476〜1479 後土御門天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白辞任後、自家の領地経営をめぐる対立とみられる執事殺害事件を起こした。その後、領地経営のために自ら和泉国へ下った。
近衛政家 1479〜1483 後土御門天皇 右大臣・左大臣(在任中に辞任)。関白近衛房嗣の子。日記「後法興院記」を記した。
鷹司政平 1483〜1487 後土御門天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。関白鷹司房平の子。
九条政忠 1487〜1488 後土御門天皇 前内大臣。関白九条満教の子。内大臣の時、病気で一旦辞職。のち政界復帰して関白。
一条冬良 1488〜1493 後土御門天皇 内大臣(在任中に辞任)・太政大臣。一条兼良の年を取ってからの子で、自家領の土佐に帰国している一条家嗣子教房に代わり家督を継いだ。父親同様学問と文芸を行う。
近衛尚通 1493〜1497 後土御門天皇 右大臣・左大臣(在任中に辞任)。近衛政家の子。書家。
二条尚基 1497 後土御門天皇 右大臣。関白二条政嗣の子。
一条冬良 1497〜1500 後土御門天皇 前太政大臣。
一条冬良 1500〜1501 後柏原天皇 前太政大臣。
九条尚経 1501〜1513 後柏原天皇 右大臣・左大臣。
近衛尚通 1513〜1514 後柏原天皇 前左大臣・太政大臣。書家。
鷹司兼輔 1514〜1518 後柏原天皇 右大臣・左大臣。関白鷹司政平の子。
二条尹房 1518〜1525 後柏原天皇 内大臣・右大臣・左大臣(在任中に辞任)。関白二条尚基の子。関白辞職後たびたび備前に下向。
近衛稙家 1525〜1526 後柏原天皇 右大臣。
近衛稙家 1526〜1533 後奈良天皇 右大臣・左大臣。
九条稙通 1533〜1534 後奈良天皇 内大臣。関白就任後も貧窮して思うように活動できず、辞職して摂津へ下向した。一方で源氏物語の研究など学者として有名。
二条尹房 1534〜1536 後奈良天皇 前左大臣。関白還任。辞任後大内氏を頼って周防国に赴く。陶晴賢の政変に巻き込まれ没した。
近衛稙家 1536〜1542 後奈良天皇 前左大臣・太政大臣。足利将軍家と姻戚関係にあり、三好軍と対戦している。
鷹司忠冬 1542〜1545 後奈良天皇 左大臣(在任中に辞任)。鷹司兼輔の子。
一条房通 1545〜1548 後奈良天皇 左大臣(在任中に辞任)。権大納言一条房家の子で、関白一条冬良の養子となる。長期にわたって土佐に在住していた。帰京後関白。
二条晴良 1548〜1553 後奈良天皇 左大臣(在任中に辞任)。関白二条尹房の子。
一条兼冬 1553〜1554 後奈良天皇 右大臣・左大臣。内大臣一条通房の子。
近衛前久 1554〜1557 後奈良天皇 右大臣・左大臣(在任中に辞任)。
近衛前久 1557〜1568 正親町天皇 足利家と姻戚関係にあり、一時期上杉謙信の元へ下向して共に戦った。関白辞職後、畿内各地を転々とし、荘園関係で親しかった島津家のもとに下っていたこともある。織田政権下で各勢力との和睦斡旋を行う。豊臣政権下では不遇だった。有職故実家として知られる。
二条晴良 1568〜1578 正親町天皇 前左大臣。
九条兼孝 1578〜1581 正親町天皇 前左大臣。
一条内基 1581〜1584 正親町天皇 左大臣(在任中に辞任)。
二条昭実 1585 正親町天皇 左大臣(在任中に辞任)。
豊臣秀吉 1585〜1586 正親町天皇 内大臣。織田信長の将として頭角を現す。信長横死の後、対抗勢力を滅ぼして権力の座に就いた。近衛前久の養子となって姓を藤原に改め、関白の座に就いた。
豊臣秀吉 1589〜1591 後陽成天皇 内大臣・太政大臣。天皇を聚楽第に招き、朝廷を保護する姿勢を示した。国内を統一して種々の制度を定める。秀次に関白の座を譲り太閤として引き続き権力の座に就く。そのため太閤と言えば普通秀吉を指すようになった。晩年、大陸出兵や後継問題で内紛を起こし、豊臣家衰退の原因を作った。
豊臣秀次 1591〜1595 後陽成天皇 内大臣・左大臣。秀吉の姉の子で、秀吉の跡を継いで関白となる。しかし秀吉に後継者秀頼が誕生したことで不和となり、ついには謀反の疑いで高野山へ追放され自殺を命ぜられた。
九条兼孝 1600〜1604 後陽成天皇 左大臣(在任中に辞任)。
近衛信尹 1605〜1606 後陽成天皇 左大臣(在任中に辞任)。豊臣秀吉に朝鮮渡海を進め、後陽成天皇の怒りにふれて薩摩に流された。その後京の政界に復帰。書家で寛永の三筆の一人。
鷹司信房 1606〜1608 後陽成天皇 左大臣。
九条忠栄 1608〜1611 後陽成天皇 右大臣。
九条忠栄 1611〜1612 後水尾天皇 右大臣・左大臣。
鷹司信尚 1612〜1615 後水尾天皇 右大臣・左大臣。
二条昭実 1615〜1619 後水尾天皇 前左大臣。
九条忠栄 1619〜1623 後水尾天皇 前左大臣。
近衛信尋 1623〜1629 後水尾天皇 左大臣。
一条昭良 1629 後水尾天皇 右大臣・左大臣。
一条昭良 1629〜1635 明正天皇 左大臣(在任中に辞任)。
二条康道 1635〜1643 後光明天皇 左大臣(在任中に辞任)。
九条道房 1647 後光明天皇 左大臣。
一条昭良 1647 後光明天皇 前左大臣。
一条昭良 1647〜1651 後光明天皇 前左大臣。
近衛尚嗣 1651〜1653 後光明天皇 左大臣(在任中に辞任)。
二条光平 1653〜1654 後光明天皇 左大臣。
二条光平 1654〜1663 後西天皇 左大臣(在任中に辞任)。
二条光平 1663〜1664 霊元天皇 前左大臣。
鷹司房輔 1664〜1668 霊元天皇 左大臣(在任中に辞任)。
鷹司房輔 1668〜1682 霊元天皇 前左大臣。
一条冬経 1682〜1687 霊元天皇 右大臣(在任中に辞任)。のち兼輝と名乗る。学者として知られ、朝廷改革に尽力。
一条冬経 1687〜1689 東山天皇 前右大臣。
一条冬経 1689〜1690 東山天皇 前右大臣。
近衛基煕 1690〜1703 東山天皇 左大臣(在任中に辞任)。徳川家と関係が深かった。
鷹司兼煕 1703〜1707 東山天皇 左大臣(在任中に辞任)。
近衛家煕 1707〜1709 東山天皇 左大臣(在任中に辞任)。文人公卿。
近衛家煕 1709〜1712 中御門天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。
九条輔実 1712〜1716 中御門天皇 左大臣(在任中に辞任)。
九条輔実 1716〜1722 中御門天皇 前左大臣。
二条綱平 1722〜1726 中御門天皇 左大臣(在任中に辞任)。
近衛家久 1726〜1735 中御門天皇 左大臣(在任中に辞任)・太政大臣(在任中に辞任)。
近衛家久 1735〜1736 桜町天皇 前太政大臣。
二条吉忠 1736〜1737 桜町天皇 左大臣。
一条兼香 1737〜1746 桜町天皇 右大臣・左大臣(在任中に辞任)・太政大臣。関白鷹司房輔の子で関白一条兼輝の養子。朝廷神事の再興に尽力。
一条道香 1746〜1747 桜町天皇 左大臣。父兼香より関白の地位を譲られ朝事に当たる。
一条道香 1747〜1755 桃園天皇 左大臣(在任中に辞任)。
一条道香 1755〜1757 桃園天皇 前左大臣。
近衛内前 1757〜1762 桃園天皇 左大臣(在任中に辞任)。
近衛内前 1762〜1770 後桜町天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。
近衛内前 1770〜1772 後桃園天皇 前太政大臣・太政大臣(再)。
近衛内前 1772〜1778 後桃園天皇 太政大臣。
九条尚実 1778〜1779 後桃園天皇 左大臣(在任中に辞任)。
九条尚実 1779〜1785 光格天皇 前左大臣・太政大臣(在任中に辞任)。
九条尚実 1785〜1787 光格天皇 前太政大臣。
鷹司輔平 1787〜1791 光格天皇 左大臣(在任中に辞任)。
一条輝良 1791〜1795 光格天皇 左大臣(在任中に辞任)。
鷹司政煕 1795〜1814 光格天皇 左大臣(在任中に辞任)。
一条忠良 1814〜1817 光格天皇 左大臣(在任中に辞任)。
一条忠良 1817〜1823 仁孝天皇 前左大臣。
鷹司政通 1823〜1846 仁孝天皇 左大臣(在任中に辞任)・太政大臣。以降33年間関白の地位にある。
鷹司政通 1846〜1856 孝明天皇 太政大臣(在任中に辞任)。幕府との関係は良好で、条約問題で調印支持派だったが、若手公家ら165人の反発を買い、条約反対の立場に鞍替えした。そのため後に幕府の圧力を受け落飾した。太閤の称号を認められる。
九条尚忠 1856〜1862 孝明天皇 左大臣(在任中に辞任)。幕府側の代弁者として公武合体を推し進めた。近衛忠煕とは対立。井伊直弼と連携して活動したが、その結果朝廷内で孤立、さらに尊王攘夷派の批判を受け政界を引退することになった。
近衛忠煕 1862〜1863 孝明天皇 前左大臣。島津家と親しく、将軍後継問題では一橋派として活動。条約問題で幕府を批判し、安政の大獄で落飾・謹慎処分を受ける。後政界に復帰し公武合体を推し進めた。
鷹司輔煕 1863 孝明天皇 前右大臣。
二条斉敬 1863〜1866 孝明天皇 左大臣。
二条斉敬 1867 明治天皇 左大臣(在任中に辞任)。
裕仁親王 1921〜1926 大正天皇 皇太子。後の昭和天皇。

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